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【『レッド・メタル作戦発動』刊行記念・連続エッセイ/冒険・スパイ小説の時代】気品あふれるロマンティシズム(池上冬樹)

冒険アクション大作『レッド・メタル作戦発動』(マーク・グリーニー&H・リプリー・ローリングス四世、伏見威蕃訳)刊行を記念し、1970~80年代の冒険・スパイ小説ブームについて作家・書評家・翻訳家が語る連続エッセイ企画を行います。
最終回の第11回は文芸評論家・池上冬樹さんです

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 2月中旬、女性騎手の藤田菜七子が落馬して鎖骨を骨折したというニュースをきいたとき、きつくテーピングして、翌日から何もなかったのように騎乗するのだろうかと思った。少なくともディック・フランシスの〈競馬〉シリーズのヒーローたちは骨折したことを隠して騎乗して勝利を掴むわけだが(元騎手のフランシス自身がそうだったように)、さすがにそうはいかず、手術して1カ月で復帰した。それでも早いほうなのだろう。
 絶対に弱音をはかない不撓不屈のヒーローが、弱音をはかざるをえないような絶望的・危機的情況に投げ込まれ、邪悪極まりない悪役と対峙するというのが、〈競馬〉シリーズの初期のパターンだった。中期から悪役が弱まったけれど、それでも激しいドラマと血沸き肉躍る物語、それを裏側から支えるサイド・ストーリーなど読む者の心を震わせるものに事欠かなかった。『度胸』『大穴』『血統』がベスト3。とくに自殺願望のあるスパイを主人公にした『血統』が個人的ベスト1。大沢在昌さんにインタヴューする機会があり、『血統』を高く評価しているので、同好の士を見つけた気がして嬉しくなったものだ。
 ディック・フランシスとともに忘れられないのが、ギャビン・ライアル。冒険小説の代表格の作家で、とくに『深夜プラス1』と『もっとも危険なゲーム』が名高いが(「ハリーに捧げるはずだった」という意味深の献辞の『拳銃を持つヴィーナス』もいいが)、十年前に児玉清さんとの対談の仕事で再読したら、デビュー作『ちがった空』と『本番台本』が新鮮だった。ともに航空冒険小説で、空を翔る高揚感をひじょうにうまく筋に絡めて、ストーリーも二転三転する。先が読めない緊迫感がありながら、どこか洒脱でニヤリとさせる。年季の入ったミステリファンである児玉さんが付箋はりまくりのポケミス版(!)をもってきて、“文句なく面白い!”“冒険小説の醍醐味が凝縮されています”と物語の細部について熱弁をふるっていたのを思い出す。
 いまでは全く語られなくなったが、1970年代から80年代の冒険小説で忘れられない作家の一人が、フランク・パリッシュだろう。密猟者ダン・マレットの活躍を描くシリーズで、『優雅な密猟者』『蜜蜂の罠』『暗闇に落し穴』『罠に掛かった小鳥』と4作ポケミスから出ているが、これがみな充実していていい。自然描写が巧みで、サスペンスにみちていて、冒険心にあふれている。ヒーローは決して善人ではなく小悪党のところもあり、そこがまた人間臭く、読者の倫理観やカタルシスを微妙に揺さぶって、逆に魅力的だった。何よりもサスペンスの密度が濃くて、マレットが対峙する悪党も際立っていて、毎回かるい戦慄を覚えた。冒険小説系の作家志望者から、何か参考になる小説がありませんか? と聞かれたとき、僕は〈ダン・マレット〉シリーズを薦める。派手で大きな冒険小説よりも、イングランドの森を舞台にした緊密で小粋な作品に学ぶ点があると思ったからである。
 ブライアン・ガーフィールドの『砂漠のサバイバル・ゲーム』も忘れがたい。過酷な自然描写、極限まで追い詰められた人間群像の見事な活写。肌にあわだつようなサスペンス。サバイバルの情報を満載して、愛・憎悪・友情・神などのあらゆるテーマを提示しながらエンターテインメントの完成度を高めている。しかもガーフィールドらしく、全然血なまぐさくなくて後味もいい。
 日本の作家では船戸与一、志水辰夫、北方謙三、佐々木譲、藤田宜永、大沢在昌とぞくぞくと輩出して、なおかつ作品はみな傑作ぞろいで感心した。なかでも、鮮烈な印象を与えたのは、志水辰夫だろう。『飢えて狼』『背いて故郷』などのタイトルもそうだが、情念を刻み込み、謳いあげるエモーショナルな語り口に酔わされた。
 いま振り返ると、かつての冒険小説には気品があり、ロマンティシズムがあった。歴史や政治に翻弄されても、どんなに糾弾しても、人間性の信頼や希望が根底にあったと思う。それが近年の冒険・スパイ小説では薄れてきた感がある。ここ10年間(いや2000年代以降といってもいい)の最高の冒険小説の作家はマーク・グリーニーといえる。その〈暗殺者グレイマン〉シリーズは冷徹な現実認識に貫かれていて、徹底して個を捉えている。冒頭から最後まで切れ目なく戦いが続き、連続する負傷とその対処法も実に具体的で生々しい。フランシスも骨折の痛みを書いていたが、グリーニーは被弾や骨折の激痛を激しく喚起させながら昂奮の坩堝へと誘い込むのである。
 戦いもゲーム的であり、人物を追跡・監視するハイテクのシステムも詳細をきわめるが(H・リプリー・ローリングス四世との共著『レッド・メタル作戦発動』では最新鋭の軍事情報が横溢して臨場感を高めている)、ツイストのきいたストーリー、サスペンス、連続する活劇の迫力と独創性もよりレベルが高い。
 もちろんグリーニーほどの筆力をもつ作家はそれほどいないけれど、ヒーローの造形のみならず物語のすべての面で過激さ・緻密さ・新しさを求められているのが、冒険小説には限らないが現代の小説なのだろう。ただし、繰り返すけれど、10年前にライアルの初期作品を読んで新鮮な印象を覚えたように、いまもう一度ライアルをはじめとする過去の小説を読みかえすと、緻密さや新しさや過激さがなくても、気品あふれるロマンティシズムに心動かされるのではないかと思う。
(池上冬樹)

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2020年、早川書房では、セシル・スコット・フォレスター『駆逐艦キーリング〔新訳版〕』、夏に巨匠ジョン・ル・カレの最新作『Agent Running in the Field(原題)』、潜水艦の乗組員の闘いを描く人気作『ハンターキラー』の前日譚『Final Bearing(原題)』、冬には『暗殺者グレイマン』シリーズ新作など、優れた冒険小説・スパイ小説の刊行を予定しています。どうぞお楽しみに。

レッド・メタル作戦発動(上下)』
マーク・グリーニー&H・リプリー・ローリングス四世
伏見威蕃訳
ハヤカワ文庫NVより4月16日発売
本体価格各980円

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『レッド・メタル作戦発動』刊行記念・連続エッセイ 一覧

【第1回】「あのころは愉しかった・80年代回顧」(北上次郎)

【第2回】「回顧と展望、そして我が情熱」(荒山徹)

【第3回】「冒険小説ブームとわたし」(香山二三郎)

【第4回】「冒険・スパイ小説とともに50年」(伏見威蕃)

【第5回】「冒険小説、この不滅のエクスペリエンス」(霜月蒼)

【第6回】「燃える男の時代」(月村了衛)

【第7回】「宴の後に来た男」(古山裕樹)

【第8回】「冒険小説は人生の指南書です」(福田和代)

【第9回】「蜜月の果て、次へ」(川出正樹)

【第10回】「人生最良の1990年」(塩澤快浩)

【第11回】「気品あふれるロマンティシズム」(池上冬樹)