メアリ・ロビネット・コワル『無情の月』のモデルになった現実の宇宙開発は? サイエンスライター秋山文野氏による解説
メアリ・ロビネット・コワル『無情の月』(大谷真弓 訳)は、ヒューゴー賞/ネビュラ賞/ローカス賞受賞の宇宙開発・歴史改変SF『宇宙へ』シリーズの最新作。『宇宙へ』の作品世界を、現実の宇宙開発をふまえて、サイエンスライターで翻訳者の秋山文野氏に解説していただきました。
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解説
サイエンスライター/翻訳者
秋山文野
本書はメアリ・ロビネット・コワルの改変歴史宇宙開発ストーリー『宇宙へ』『火星へ』に続く長篇第3作である。作品世界は1952年にアメリカ東海岸に〈巨大隕石〉が落下して現実の歴史と分岐し、人類は地球環境の激変に備えて宇宙進出を始める。2作目の『火星へ』では主人公のエルマ・ヨーク達が初の火星有人探査に向かっている。一方、地球では「地球ファースト主義者」という原理主義的グループが人類の宇宙進出を止めようと妨害活動を続けていた。火星探査の時点で地球と月では何が起きていたのか、本作ではレディ・アストロノートの1人ニコール・ウォーギンの視点から描いている。
ニコールは、月有人探査と月面基地の建設にも参加したベテラン宇宙飛行士として宇宙飛行への参加の機会を切望している。同時にカンザス州知事の妻という立場から夫を支える立場に専念せよという社会からのプレッシャーを受け続けている。皮肉にもニコールに新たな月面滞在の機会を提供したのは、地球ファースト主義者の工作による月補給船の爆発事故だった。人的被害はなかったものの、アルテミス月基地との往復ミッションは大幅なスケジュール変更を余儀なくされ、宇宙飛行士以外にもある技能を持つニコールがアーテミス基地の滞在と調査を任されることになる。
本書は冒頭から宇宙船の爆発事故という不吉なエピソードで始まる。〈巨大隕石〉の衝突と人類滅亡の危機で始まる『宇宙へ』に比べれば穏やかともいえそうだが、ニコールは宇宙飛行士として「自分が乗っていたかもしれない」という視点で見ていると思えば、切迫感が増す。コワルはシリーズ随所の打ち上げシークエンスに現実のロケット・衛星打ち上げのシーンを盛り込んでいることから、重要な事故のエピソードにもモデルがあるのでは? と思うところだ。
記憶に新しい例では、2015年6月に起きた米スペースXの「ドラゴン補給船(カーゴドラゴン)」の爆発事故がある。国際宇宙ステーションに物資を補給する無人補給船カーゴドラゴンが打ち上げから約2分後にロケットごと爆発して失われたというもので、晴れた日の朝、順調に飛行を続けていたロケットに異変、爆発四散という光景は筆者も含め中継映像を注視していた人々の目に衝撃と共に焼き付いている。原因は同社のファルコン9ロケット第2段の液体酸素タンクを固定していた部材のひとつが、航空宇宙グレードのステンレス材ではなく一般的な産業用だったことによる。100万点ともいわれるロケットの部品の1つが強度不足だったために起きた事故は、小さな不具合がカスケード的に大惨事につながるという航空宇宙分野の恐怖を体現している。本書では、ニコールが月面基地滞在中に遭遇する地球ファースト主義者の破壊工作にも、こうした小さな不具合から基地の機能不全を引き起こすテクニックがいくつも含まれている。テクノスリラーとしての臨場感を盛り上げる意味でも、カーゴドラゴン事故の映像視聴をおすすめしたい。現在でも、「SpaceX CRS-7 Liftoff」のタイトルでYouTubeで視聴できる。
事故のモデルに続いて、次は人物のモデルについて触れたい。コワルはシリーズ巻末の「歴史ノート」で、現実の歴史とのリンクについて解説している。エルマとニコールはパイロットの立場に強い誇りと生きがいを感じており、現実の歴史では米国初の女性宇宙飛行士候補として組織されながら、社会の無理解によってプログラムを中断されてしまった女性たちにヒントを得ていると『宇宙へ』で触れられている。『マーキュリー13 ──宇宙開発を支えた女性たち』のタイトルでドキュメンタリー映画となっている女性たちのエピソードだ。
そしてもう1つ重要なのが、〈巨大隕石〉の影響を衝突直後に弾き出してみせたエルマの「計算者(ヒューマン・コンピューター)」の能力とそのモデルになった人々だ。科学技術史の中で実際に存在した、ミサイルの弾道から人工衛星の軌道、ロケット燃料の性能まで手計算によって算出した女性のヒューマン・コンピューターたちの存在がシリーズの中核にある。『宇宙へ』でエルマがコンピューターとして管制室に詰めているときのエピソードは、1958年1月に米国初の人工衛星「エクスプローラー1号」が打ち上げられた際のジェット推進研究所(JPL、NASAの中核拠点のひとつ)管制室にいた女性コンピューター、バーバラ・ルイス氏のエピソードをほとんど踏襲している。物語では人類存続をかけた初の宇宙船打ち上げの際、ステットスン・パーカーが搭乗する宇宙船の軌道を算出し、打ち上げの成否を明らかにする重要な役割だ。コワル自身が参考図書として挙げている『ロケットガールの誕生──コンピューターになった女性たち』では、ソヴィエト連邦に世界初の人工衛星打ち上げで先を越され、管制室に訪れていたリチャード・ファインマンを始め全米が注視するプレッシャーの中で最初に衛星の軌道を算出して打ち上げ成功を確認したのがルイス氏だ。
『ロケットガールの誕生』は、1940年代から1970年代までJPLに存在した女性だけのコンピューター部門と米国の宇宙開発史を並行させて描いたドキュメンタリー。戦時中にたまたまコンピューター職を女性だけが担っていたことをきっかけに、女性たちは計算者から機械式コンピューターのプログラマーへ、そして学位を持ったエンジニアへとスキル、地位を向上させていく。このコンピューター部門で1960年代に部門長となったのが香港出身のアジア系女性計算者ヘレン・リン氏だ。『無情の月』でニコールの頼もしい仲間として、そして友人として活躍する台湾出身のヘレン・カルムーシュのモデルがこのヘレン・リン氏であることは、コワル自身が特記している。チェスプレーヤーである点は、同じ趣味を持つJPLのマギー・ベーレンス氏の要素が入っていると思われる。
ヘレンは計算者としてトップクラスの能力を持ち、本来の飛行ミッションに加えて月面基地で起きる地球ファースト主義者の工作を解明し、チェスのチャンピオンである立場を活かして諜報活動まで行う。歴史上のリン氏は、数学を専攻した女性ばかりのコンピューター部門の中で「計算コンテスト」チャンピオンであり続け、能力面でもトップを独走したリーダーだった。当時の社会状況を反映し、妊娠出産で退職を余儀なくされたルイス氏をJPLに呼び戻したり、JPLの女性コンピューターが大学院で学位を取得し、エンジニアの職位に進める道を切り開くなど利他的で力強い人物像が印象に残る。コワルは登場人物のモデルは複数の実在の人物を合成したもので一対一の関係ではないとしているが、ヘレン・リン氏の名前をそのまま取ったヘレン・カルムーシュにはモデルが色濃く反映されているのではないだろうか。後半でニコールと同じ悲劇を分かち合うヘレンの存在は今後のレディ・アストロノート・ユニバース(LAU)でも活躍を期待させる。
コワルは、主人公ニコール・ウォーギンをはじめ登場人物の名前を実在の人物から取っていることを明かしている。随所に歴史上の人物名がカメオ出演的にあり、宇宙飛行士として「アームストロング」「オルドリン」が活躍していることにみなさんお気づきだろう。加えて、ニコール達と共に月面基地にいるメンバーの中に、ポピー・ノースカットという女性がいる。
フランシス・〝ポピー〟・ノースカット氏は、現実の歴史でアポロ計画時の女性エンジニアとして活躍した人物だ。アポロ8号の軌道計画の設計に参加し、月へ向かう途中に事故で帰還を余儀なくされたアポロ13号のミッションでは、宇宙船を帰還させるための軌道計算を担った。後に「成功した失敗」と評価されたアポロ13号の管制センターのチームの一員として大統領自由勲章を受賞している。LAUの時代がこれから火星有人探査(そして移住)という巨大ミッションの時代に入っていくことを思えば、アポロ時代のエピソードをストーリーに見つける楽しみも増えてくるのではないかとも思える名前だ。
そして本稿を執筆している2022年夏、NASAの超大型ロケットSLSとオライオン宇宙船による「アルテミスⅠ」ミッションの初打ち上げが迫っている。『無情の月』では月面有人探査と月面基地の名前として登場するアルテミスが、アポロ計画を継いで女性と有色人種の月面着陸を目指す現代の宇宙計画と同じであることは決して偶然ではないだろう。
アルテミスⅠミッションは無人の計画だが、2024年に月周回探査、2025年以降には再び月面着陸というミッションが待っている。しかし本来のSLS/オライオンの打ち上げは2017年に計画されていたもので、遅れに遅れているのだ。巨額の予算、アポロ時代から続く宇宙産業の雇用を維持せよという政治的プレッシャーなどが巨大計画の足かせとなっている。〈巨大隕石〉や米ソ宇宙競争といった推進力を欠く現代の宇宙計画はどう実現されていくのか、LAUの今後と共に現実という世界線からも目が離せない。
『無情の月』(上・下)
The Relentless Moon
メアリ・ロビネット・コワル 大谷真弓 訳
装画:加藤直之 装幀:岩郷重力
ハヤカワ文庫SF/電子書籍版
各1,606円(税込)
2022年9月14日発売
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