ヒューゴ賞/ネビュラ賞/ローカス賞受賞作メアリ・ロビネット・コワル『宇宙【そら】へ』 このシーンを読んでもらいたい!
ヒューゴー賞/ネビュラ賞/ローカス賞受賞のメアリ・ロビネット・コワル『宇宙【そら】へ』(酒井昭伸 訳)、おかげさまで話題になっております。
あらすじ
1952年、巨大隕石が突如、ワシントンD.C.近海に落下した。衝撃波と津波によりアメリカ東海岸は壊滅する。第二次大戦に従軍した元パイロットで数学の博士号を持つエルマは、夫ナサニエルとともにこの厄災を生き延びた。だが、エルマの計算により、隕石落下に起因する温暖化で、地球は近い将来灼熱の世界になると判明する。人類は生き残りをかけて宇宙開発に乗りだすが――ヒューゴー・ネビュラ・ローカス三賞受賞の傑作!
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この記事では、訳者・酒井昭伸さんと担当編集者のお気に入りの場面を紹介します。
訳者の酒井さんのお気に入りの場面は、下巻p.192で、主人公のエルマ・ヨークが老齢のエスターおばさんとともにロケット打ち上げを見学するシーン。「『秒速5センチメートル』の名場面を思いだした」とのことでした。エスターおばさんはかなりのお齢で、昔の人なので、女性が働くということ自体あまりよく思っていません。エルマが宇宙飛行士の試験を受けると聞かされても、「(略)正直いって、宇宙飛行士がなんなのか、よくわからないのよ。ニュースではよく耳にするけれど、なにかのお話みたいに思えて」なんて言っていました。そのエスターおぼさんが、ロケット打ち上げを見て……。
「……2、1、0。第一段の全エンジンが噴射されました……」
はるか遠く、ロケットの基部の下から、鮮烈な黄白色の炎が噴きだした。点火がうまくいった証拠だ。静寂の中、炎のクッションに乗り、ロケットが宙に浮かびあがっていく。周囲の夜が真昼のように煌々(こうこう)と染めあげられた。
「離昇。離昇しました」
わたしのとなりで、エスターおばさんがふらりと立ちあがった。両手を胸の上で組んでいる。ロケットの放つ光がその双眸(そうぼう)に明るく反射するさまを見ていると、まるで魂の炎が外に噴きだし、ロケットを宇宙へ押しだそうとしているかのようだ。
そのとき──音が屋上にまで到達した。耳で聞こえるというよりも、肌で感じられる、ゴゴゴゴという轟き。強烈な音の荒浪が胸を打ちすえている。このすさまじい音に乗って昇っていくのは、いったいどんな気分だろう? わたしは息を殺し、ロケットがあのまま昇りつづけますようにと祈った。すさまじい炎の柱に乗って、ロケットはしだいに速さを増しながら空の高みへ押しあげられていき──とうとう雲のとばりに呑みこまれた。雲に埋もれてくすんだ輝きはそのまま遠ざかっていき、ついに夜暗の彼方へと消えた。
エスターおばさんはわたしに向きなおり、しっかりとわたしの両手を握りしめた。
「ありがとうね」
「ありがとう? どうして?」
「こんなにも荘厳なものだなんて、思いもよりませんでしたよ。あなたがどうして宇宙飛行士になりたいのかは知らなかったわ。それどころか、宇宙飛行士がどういうものかさえ知らなかった。でも、いまは……」エスターおばさんは雲をふりあおいだ。そこにはもう、ロケットが飛び去ったかすかな名残(なごり)も残っていなかった。「いきなさい。なにがなんでも、宇宙(そら)へ」
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担当編集者Tのお気に入りは、上巻の第一部の最後、p.166で、エルマが元農務長官のブラナン大統領代行やその補佐官、閣僚たちに〈巨大隕石〉落下に起因する地球の気候の大幅な変化について説明したあとの場面です。出席者の大半は見当ちがいな議論にかまけていましたが、エルマの解説により地球は人類が居住できなくなる危機に直面していることを知って、愕然とします。そのとき、大統領代行は……。
ジェット・エンジンが噴射され、室内の空気を一気に排出されたような衝撃が訪れた。だれかがいった。
「まさか、冗談だろう。そんなことが──」
ブラナン大統領が、片手でバシン! とテーブルをたたいた。
「諸君にお願いする。認識しておいてくれ。わたしはこの惑星とそのふるまいについて、それなりの知識を持っている。この会議を召集したのは、すでにヨーク博士の予測値に目を通し、問題の深刻さを考慮したからにほかならない。ここに集まってもらった理由は、諸君、本件の是非について議論するためではない。どのような対策をとるべきかを議論するためなのだ」
すばらしい。ブラナンは大統領代行でしかなく、正式に大統領になるためには議会の承認が必要で、そのためには議会を開催する必要がある。だが、議員の多くが死亡したいま、この国は選挙で議員を選ぶところからはじめなくてはならない。それでも……一時的ながら、代行には大統領の全権限が付与されている。このひとが代行でよかった。
ブラナン大統領は室内をじろりと見わたしてから、ムッシュ・シェルツィンガーに手ぶりでうながした。
「議論の進行をおねがいできるだろうか」
「謹んで」シェルツィンガーは立ちあがり、ナサニエルのとなりに立った。「紳士諸兄。ミセス・ヨーク。スイスにはこのようなことわざがあります。〝ヌ・パ・メトル・トゥ・セ・ズー・ダン・ル・メム・パニエ〟。英語でもおなじみでしょう、〝ひとつの籠(かご)にすべての卵を盛るな〟というやつですな。国際連合もそのような考えかたを是(ぜ)とするものです。地球がこうむる被害を抑制することはもちろんですが、われわれとしては、この惑星の外にも目配りする必要があります。いまこそ、紳士諸兄、地球外への入植を検討すべきときなのです」
読者のみなさまにもお気に入りのシーンがありますでしょうか。
『宇宙【そら】へ』(上・下)
メアリ・ロビネット・コワル 酒井 昭伸 訳
カバーイラスト/加藤直之 カバーデザイン/岩郷重力
ハヤカワ文庫SF
各1,020円+税
2020年8月20日発売
※書影等はAmazonにリンクしています。