『無情の月』発売記念! 『火星へ』試し読み(ヒューゴー賞/ネビュラ賞/ローカス賞受賞シリーズ)
ヒューゴー賞/ネビュラ賞/ローカス賞受賞『宇宙へ』シリーズの最新作、メアリ・ロビネット・コワル『無情の月』(大谷真弓 訳)が2022年9月14日に発売となります。それを記念して、シリーズ第2作『火星へ』の冒頭を公開します!
本シリーズは、宇宙開発が順調に進み、1958年に人類初の月着陸に成功したタイムラインでの宇宙開発SFです。『宇宙へ』では、巨大隕石の落下による環境悪化のため人類が宇宙進出を余儀なくされる経緯と、人類初の月着陸までを、〈レディ・アストロノート〉エルマの視点から描きました。続く本書『火星へ』は、1961年、すでに月面基地が建設が進んでいて、初の火星探査機が火星に到着しようとしているところから物語が始まります。
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IAC本部長、予算削減に警告
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ジョン・W・フィニー
ザ・ナショナル・タイムズ特電
[1961年8月16日] 国際航空宇宙機構のノーマン・クレマンス本部長は本日、国際連合に対し、“最低限必要な”宇宙計画予算をわずかでも削減するならば、60年代中の有人火星着陸は実現できなくなると警告した。本部長はさらに、火星計画のタイムテーブルをすこしでも先延ばしにすれば、現時点で200億ドルと推定される第1次火星探険のコストがますます増大するとも警告している。合衆国議会が今年度予算を6億ドル削減した結果、IACは“不測の、または対処不可能な技術的問題を回避する目的”で計画に組みこんだ“保険”と、キュクノス宇宙船による一連の重要な実験飛行を犠牲にしなければならなかったという。これが本部長の見解である。
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〈友情〉探査機の着陸機が火星に到達したときどこにいたのか、あなたは憶えているだろうか。わたしは月面から地球に帰る準備をしているところだった。それまでわたしは、3カ月の当直任務で月の女神アルテミスの名を冠した月面基地に赴任し、小型連絡艇を操縦して、このささやかな基地から月面の各調査地点へ地質学者を送りとどける仕事についていた。
宇宙飛行士と呼ばれてはいても、パイロットの資格を持つ者はひとにぎりしかいない。わたしはていよくバスの運転手をやらされていたわけである。200人の“市民”のうち、多くはそれぞれの専門分野に特化した“お客さん”であり、やってきてはまた去っていく。わたしたちが家と呼ぶ地下居住施設の“永住者”は、せいぜい50人ほどしかいない。
いま、わたしは基地居住者の半数といっしょに、軽い重力のもと、スキップに似た歩法を用いて、地中に埋設された“アレチネズミ・チューブ”──通称〈ベーカー街〉を通り、〈ミッドタウン〉に向かっていた。月には降りそそぐ宇宙線から人体を守ってくれる大気がない。そのため、IACは月面を掘って地下通路を設置し、月面特有の石粉状表土を埋めもどした。審美的な面から形容すれば、月面基地の外見は崩れかけた砂の城にちかい。しかしその構内は、大半がなめらかなゴムの被膜でおおわれており、ところどころ、採光のための光井や、アルミニウムの支柱、気密ハッチなどが点在している。
地下通路を進んでいると、側面に設けられた気密ハッチのひとつがシュッと音を立てて開き、そこからニコールが飛びだしてきた。ハッチのハンドルはまだ握ったままでいる。そのハッチを閉じ、しっかりとロックした。
スキップしながら宙に浮かんでいたわたしは、運動量を殺すため、大きく両脚を広げて床に足をつけた。ニコールは宇宙飛行士であり、上院議員夫人でもある。彼女が期間限定の当直任務でふたたび月面に赴任してきたのは、先ごろ着いた往還船でのことだ。ひさしぶりに会えたのがうれしくて、わたしは声をかけた。
「おはよう」
「あらまあ、あなた、往還船に乗ってるはずじゃなかったの? 地球に帰るんでしょ?」
わたしと同じく、ニコールも軽量の与圧服を着用し、腰にはテザーでゴム引きの安全ヘルメットをつないでいる。見た目は戦時中のガスマスクのようだ。本格的なものではないが、万が一地下チューブのどれかに亀裂が生じても、これをつければ10分間は酸素を吸えるため、そのあいだに安全な場所へ逃げこめる。
「そうなんだけど、でもね、ランダーがはじめて火星に着陸するのよ。これを見逃すわけにはいかないでしょう?」
地球へ帰るのは事実だ。今回は輪番で、アーテミス基地と国際航空宇宙機構の地球周回プラットフォーム〈ルネッタ〉、この両者を結ぶ小型往還船の副パイロットを務めることになっている。往還船といっても、せいぜいが宇宙バスでしかない。もっと大型の往還船、たとえば〈ルネッタ〉から地球へ向かうソラリス級などは、例外なく男性パイロットが操縦している。しかし、そんなことでいちいち目くじらを立ててもしかたがない。わたしは肩にかけたショルダーバッグ──大型で旅行用のものをぽんぽんとたたいてみせた。
「着陸を見とどけしだい、〈ルネッタ〉行きの往還船に直行するわ」
「地球に帰ったら、わたしに代わって熱いシャワーを浴びておいて」ニコールも〈ベーカー街〉ぞいに、わたしとならんでスキップ・ウォークをはじめた。「ところで、火星人、いると思う?」
「いるわけないでしょ。月面と同じくらい荒涼としたところだもの。すくなくとも、軌道上からの写真を見るかぎりではね」わたしたちはやがて、〈ベーカー街〉のはずれにたどりついた。正面の気密ハッチには横にパネルがあり、そこに設置された差圧計は、ハッチの向こうの気圧が月面基地の標準である338ミリバールであることを示している。地球の標準気圧に換算すれば約0.3気圧だ。わたしは安心してラチェット式のハンドルを動かした。「ナサニエルがね、もし火星人がいたら、犬歯を抜いてもいいってさ」
「それは……見ものだわね。ナサニエルといえば、どうしてるの、彼?」
「元気、元気」ハッチを手前に開く。「口を開けば、いつも……その、ね……ロケット打ち上げの文句ばっかりよ」
ニコールは笑いながら、〈ベーカー街〉と〈ミッドタウン〉を結ぶエアロックにすべりこんだ。
「正直いって、あなたたち、いつまでも新婚みたいよね」
「家にいつかない新妻?」
「またナサニエルを月まで連れてくればいいのよ」そういって、ウインクしてみせた。
「だって、ほら、もうプライベート区画が選べるようになったんでしょ?」
「そうだけど……あなたも上院議員も、エアダクトがどれだけはっきり音を伝えるのかを、もうすこし考えたほうがいいわね」
エアロックに入ったわたしは、そういいながらハッチを手前に引いて閉めかけた。
「ちょーっと待った!」〈ベーカー街〉側から声が飛んできた。ふりかえると、ユージーン・リンドホルムが大股で大きくはずみながら向かってくる。低重力下で動く人間を見たことがない人のために形容すれば、幼児がぎごちなくスキップしながら、チーター並みの猛烈な速さで迫ってくる図、と思えばいいだろう。
閉めかけたハッチを、いったん大きく押し開いた。ユージーンは軌道修正に失敗して、戸口を通りぬけるさい、フレームに頭をぶつけてしまった。
「だいじょうぶ?」ニコールがユージーンの腕をとり、姿勢を安定させた。
「おかげさんで」
ユージーンは左手を天井にあててバランスをとった。右手には紙の束を持っている。
ニコールは〈ミッドタウン〉側へ通じる気密ハッチに歩みよったが、そのまぎわ、わたしに目配せをした。わたしはうなずき、〈ベーカー街〉側のハッチをしっかりと閉めた。それでも、ニコールはまだ〈ミッドタウン〉側のハッチをあけようとしない。
「さて……ユージーン。あなたはパーカーといっしょに飛ぶ人間だから……」ニコールはユージーンが手にした紙の束を指さして、「その何枚かを“うっかり”落としたりしないわよね?」
ユージーンはにっと笑った。
「こいつが勤務当番表だと思ってるんだとしたら、はずれだね。これはみんな、マートルのために集めた料理レシピの切り抜きなんだ」
「うそばっかり」
ここでニコールがハッチを開いた。この先はもう〈ミッドタウン〉だ。
微妙な気圧差で流れこんできたのは、月面基地では稀少な土壌と植物のにおい、そして水の心地よいにおいだった。月面コロニーの中心部は巨大で開放的なドーム構造になっており、太陽光がフィルターごしに射しこむ造りになっているため、植物を育成できるのだ。恒久的な建築物として最初に建てられたのがこの巨大ドームである。
壁面ぞいの外周部分はこまかく分割されて、居住区画に割りあてられている。ときどき、もっとここに住んでいたかったなと思うことはあるけれど、利便性のため、パイロット用の居住区画は宇宙港のそばに新設されたのだからしかたがない。ドーム内にはいくつもの小個室がオフィス用として設けられているほか、レストランも1軒ある。ほかには理髪店が1軒、リサイクル・ショップが1軒、“美術館”が1棟。
ドームの中心にあるのはささやかな“公園”だ。“公園”といっても、キングサイズのベッド1対と大差ない広さしかなく、中央には道が貫いている。それでも、ここには緑の植栽があった。
丹念に改善されたこの土壌でなにを育てているかって? まずは、タンポポ。きちんと下ごしらえさえすれば、これは美味しいし、栄養もあることがわかっている。もう1種、これも人気のヒラウチワサボテンは、美しい花が咲いたあとに甘い果実を実らせるほか、平たい茎はローストしてもオーブンで焼いても美味しい。地球の自然界には、養分にとぼしい土壌で育てるのに適した“雑草”がたくさんあるのだ。
「いいねえ」ユージーンがぴしゃりと自分の太腿をたたいた。「タンポポが満開じゃないか。そういやマートルが、“タンポポのお酒”造りに挑戦してみようかって物騒なことをいってたな」
「“みようか”じゃなくて、“造る”っていいきったんでしょ?」ニコールは一段高くなった花壇の上をふわりと飛び越えた。「ねえ、エルマ、地球に帰ったら、わたしに代わってドライ・マーティーニも味わっておいてね」
「ダブルでいただきます」
ナサニエルもわたしも、てっきり自分たちが月面最初の入植者に加わるものだとばかり思っていた。ところが、ひとたびアーテミス基地が建設されると、IACの関心は火星への入植に向かい、ナサニエルは入植計画を練るため、地球に残らざるをえなくなってしまったのである。
IACではもう、寄るとさわると火星の話ばかり。計算者たちはひたすら火星への軌道計算に追われている。パンチカード・ガールたちも、はてしなくつづくコードのキー入力にかかりきりだ。カフェテリアの賄いレディたちも、火星のことで頭がいっぱいの職員にマッシュポテトとグリーンピースをよそうのに忙しい。ナサニエルも計算仕事で忙殺されていて……だれもかれもが火星の話しかしない。
事情は月面でも同じだった。〈ミッドタウン〉の向こう端には、発射センターから持ちだしてきた50インチの大型テレビが、演壇のような高い台の上に載せてある。テレビのまわりには、コロニー居住者の半数が群がっているように見えた。
ヒリヤード夫妻は敷物を敷き、ピクニック・ランチとしゃれこんでいた。この機会を社会的行事にしてしまった夫婦は、なにもこのふたりだけではない。チャン夫妻、バートラーム夫妻、ラミレス夫妻もテレビの付近に敷物を広げている。どの夫婦にも子供はまだいないが、子供の姿がないことを除けば、まるっきり本物の町だ。
マートルもすでに敷物を敷いていて、ユージーンに手をふってきた。ユージーンがほほえみ、手をふりかえした。
「あそこだ。いっしょにどうかな、ご婦人がた? 敷物には充分に余裕があるよ」
「ありがとう! すてきね」
ユージーンにくっついて敷物のところへいき──この敷物は古いユニフォームの生地を接ぎあわせ、キルティングにしたものだった──リンドホルム夫妻の横に腰をおろした。
マートルは以前のふっくらした髪形をやめて、月面にふさわしいショートヘアにしている。そのおもな理由は、宇宙ではヘアスプレーのあつかいがやっかいだからだ。マートルとユージーンは志願して月面永住者になった。そのため、地球にいるあいだはふたりに会えないのがさみしくてしかたない。
「ヘイ!」テレビの近くから、あたりのざわめきを圧してだれかの声が響いた。「始まるぞ!」
前にすわる人々の頭ごしにテレビが見られるよう、わたしはひざ立ちになった。テレビに映っているのはミッション管制センターのようすだった。カンザスから放送されてくる、粒子の粗いモノクロ映像だ。月面に電波が届くまでには1.3秒の遅延がある。わたしはナサニエルの姿を探し、画面が切り替わるたびに、隅々まで目で探った。自分の仕事を愛してはいる。とはいえ、夫と何カ月も別れ別れでいるのはそうとうにつらい。ときどき、宇宙飛行士の仕事はやめて、また計算者に戻るのもいいかもしれないと思うことさえある。
テレビにバシーラが映った。テレタイプがつぎつぎにページを吐きだすそばで、せっせと数式を計算している。そこで、ある数字列の下に太い線を引き、頭をあげて報告した。
「ドップラー効果の計測値を確認。2段分離が行なわれたことを示しています」
わたしの心臓が早鐘のように鳴りだした。いまの報告は、ランダーが火星大気圏に突入しようとしていることを示しているからだ。いや、というより、すでにもう突入している。なにしろ、感覚的に理解しづらいことだが、バシーラのもとに火星からの計測値が届くのは、事象から20分後のことなのである。成功したにせよ、失敗したにせよ、ミッションの結果はすでに出ている。
20分遅れ──わたしは腕時計を見た。格納庫に戻っていなければならない時刻まで、時間の余裕はどれくらいある?
そのとき、ナサニエルの声がテレビから聞こえてきて、思わず息を呑んだ。ああ、早く会いたくてたまらない。
「大気圏突入まで3、2、1……時速1万9500キロで突入。着陸地点までの飛行距離、703キロ。5秒後にパラシュート展開の予定。4。3。2。1。ゼロ。展開結果を確認中……」
ドームじゅうの人間が固唾を呑んで見まもっていた。聞こえるのは、空気を撹拌する、何基ものファンの低いうなりだけだ。わたしはテレビのほうへ身を乗りだした。そうすれば、テレタイプから吐きだされる数値が見えるかのように、そして、バシーラの計算を手伝えるかのように。もっとも、計算室から異動してすでに4年がたつ。いまはもう、基本的な軌道力学より複雑な計算はしていない。
「展開を確認。パラシュートが検知されました」
ドーム内でだれかが歓声をあげた。ランダーはまだ着陸していない。しかし、ああ──もうじきだ。思わずキルティングの角をつかみ、スティックのように握りしめた。ここからランダーを操作できるわけでもないのに。
「まもなく逆噴射の成否確認を軌道上の探査機が送ってきます。それまで待機中」
ナサニエルが報告しているできごとは20分前に起こったものだ。わたしはその報告を、さらに1.3秒遅れで聞いている。宇宙暮らしにつきものの、これは奇妙な要素だった。
「現時点でランダーは着陸しているはずです」
どうか、ああ、どうか、そのとおりでありますように。なぜなら、もしランダーが着陸に失敗していたら、火星ミッションは問答無用で打ち切りとなってしまうからだ。もういちど腕時計を見た。まもなくナサニエルが着陸確認を報告してくれる。だが、時間はもどかしいほどゆっくりと過ぎていく。
「そのまま待機をおねがいします。現在、深宇宙ネットワークと〈ルネッタ〉中継ステーションを通じて確認を待っているところです」
ナサニエルはもう画面に映ってはいない。が、デスクの前に立ち、シャープペンシルをいまにも折れそうなほど強く握りしめている姿が目に浮かぶ。
報知音が鳴った。
「あれはなに?」わたしのそばでニコールが鋭く息を吸った。
報知音がくりかえされ、ミッション管制センターに歓声が沸きあがった。喧噪の中、ナサニエルの声がひときわ高く響きわたった。放送で伝わるよう、声を張りあげている。
「ただいまの音は、レディス・アンド・ジェントルメン、火星探査機からの確認音です。いまの音が他の惑星からの最初の送信となります。確認されました。〈友情〉のランダーは火星に着陸し、われらが有人火星ミッションへの道を切り拓きました」
わたしは飛びあがった。いや、わたしたちみんながだ。そのさい、重力が小さいことを忘れていた。声をあげて笑い、不格好に宙へ舞いあがりながら、わたしは〈友情〉のランダーとミッションを計画したチームの成功を心から祝った。
(つづきは書籍でお楽しみください)
『火星へ』(上・下)
The Fated Sky
メアリ・ロビネット・コワル 酒井昭伸 訳
装画:加藤直之 装幀:岩郷重力
ハヤカワ文庫SF/電子書籍版
各1,144円(税込)
2021年7月14日発売
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