三つ編み

完売店続出! 次々重版!! 圧倒的共感を集める小説『三つ編み』(レティシア・コロンバニ)試し読み

三つ編み』レティシア・コロンバニ/齋藤可津子訳/
早川書房/2019年4月18日発売

理不尽な人生と闘う3人の女性を描き、フランスで100万部突破、日本でも圧倒的共感を集めている小説『三つ編み』。その一部を無料公開中です。

◎著者インタビューが大反響!
フランスで100万部「女の生き辛さ」わかる小説 『三つ編み』が描いた女性の葛藤と強さ」(東洋経済オンライン2019年6月7日)
「人間が好きならフェミニストなはず」フランスで100万部突破「三つ編み」の著者、日本を思う。」(ハフポスト2019年4月24日)

◎TV紹介
NHK「ひるまえほっと」内「中江有里のブックレビュー」(2019年6月12日放送)

◎書評
文藝(2019年秋季号)対談(斎藤真理子氏×鴻巣友季子氏)
波(2019年7月号)書評(瀧井朝世氏・ライター)
ふらんす(2019年7月号)書評(倉本さおり氏・書評家)
PEN(2019年7月1日号)書評(斎藤真理子氏・翻訳家)
日経新聞(2019年6月22日付)書評
フィガロ・ジャポン(2019年8月号)書評(山崎まどか氏・コラムニスト)
バイラ(2019年7月号)書評(江南亜美子氏・書評家)
ダ・ヴィンチニュース(2019年6月5日)書評(トキタリコ氏・ライター)
朝日新聞(2019年6月1日付)書評(斎藤美奈子氏・文芸評論家)
AERA(2019年6月3日号)書評(新井見枝香氏・HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE)
GINGERweb(2019年5月25日)書評(温水ゆかり氏・フリーライター)
小説宝石(2019年6月号)書評( 三浦天紗子氏・ライター、ブックカウンセラー)
共同通信(2019年5月17日配信)書評(田村文氏・記者)
週刊新潮(2019年5月16日号)書評(鴻巣友季子氏・翻訳家)
他多数!

インド、イタリア、カナダ……3つの大陸、3人の女性、3通りの人生。唯一重なるのは、自分の意志を貫く勇気。この怒りと祈りが私たちをつなぐ。

***

プロローグ

物語のはじまりだ。
そのつど新しい物語。
物語が私の指先でうごきだす。

まずは枠がある。
すべてを支えるしっかりした土台が要る。
絹にするか木綿にするかは町やシーンによる。
木綿は耐久性があり、
絹は繊細で目立たない。
ハンマーと釘も要る。
何よりも、そっと進めていくのが肝心。

それから編みにかかる。
私の好きな工程。
目のまえの編み機には
ナイロンの糸が三本張られている。
繊維をたばから三本ずつ取りだし、
切らないように結びあわせる。
これを何度もくりかえす、
数え切れないほどくりかえす。

私が好きなこの孤独な時間、指だけが踊っている。
指がくりひろげる不思議なバレエ。
指が綴る編みと絡みの物語。
これは私の物語。

なのに、私のものではない。


スミタ

インド、ウッタル・プラデーシュ州、バドラプールの村

スミタは不思議な気持ちで目が覚める。甘やかな逸(はや)る気持ち、腹のなかに新奇な蝶がいる感覚。今日は生涯忘れられない1日になる。今日は娘が学校に入る。

スミタは学校に足を踏み入れたことがない。ここバドラプールの村で彼女のような人間は学校へ行かない。スミタはダリット。不可触民。ガンジーが神の子と呼んだ民。カーストの外、制度の外、あらゆるものの枠外にいる。ほかの者に混じるにはあまりに不浄で、毒麦が良い麦から選り分けられるように、忌避される穢(けが)れたごみ。村の外、社会の外、人間界の外側で生きるスミタのような者は何百万もいる。

朝はいつも同じ。傷ついたディスクがえんえんと地獄の交響曲をくりかえすように、スミタは、ジャート族の畑のそばのあばら家で目を覚ます。まえの晩、自分たちの井戸から汲んできた水で顔と足を洗う。別の井戸、上のカーストの井戸がもっと近くて使いやすくとも、触れてはいけない。それより些細なことで命を落とす者もいる。着替えて、ラリータの髪をとかし、ナガラジャンにキスをする。そして籐籠を持つ。まえは母が使っていたこの籠、見ただけで吐き気がする籠、鼻をつくしつこい悪臭を放つこの籠を、重く恥ずかしい罪でも背負うように、1日中、持ち運ぶ。この籠は彼女の苦難。呪い。罰。前世で犯したにちがいない何かを償い、贖(あがな)わなければならない。所詮、この一生は前世や来世より大事なわけではなく、何度でもくりかえされる生のひとつにすぎない、と母が言っていた。彼女の人生とは、そういうもの。

それが彼女のダルマ、義務、この世の居場所。代々母から娘へ受け継がれる生業(なりわい)。英語ではスカヴェンジャー、すなわち「廃品回収者」。現実はそんな生易しいものではない。スミタがしていることを表現する言葉はない。1日中、他人の糞便を素手で拾い集める。初めて母の仕事に連れて行かれたのは6歳、いまのラリータの年だった。よく見なさい、おまえもすることになるんだ。そのとき襲われたにおい、スズメバチの大群のごとく猛烈に襲ってきた、鼻の曲がるような非人間的なにおいは、いまでも忘れられない。道ばたで吐いた。じき慣れる、と母に言われた。嘘だった。慣れるものではない。スミタは息をとめること、無呼吸で生きることを覚えた。息を吸わなければいけない、そんなに咳をして、と村医者に言われた。食べなければいけない。食欲はとうのむかしに失った。空腹がどんなものか、もう憶えていない。ほとんど何も、最低限のものしか食べない。毎日、わずかばかりの薄い粥を仕方なく流し込む。

国にトイレを、と政府は約束したのだが。残念なことに、トイレはここまで来ていない。バドラプールでもよそでも、人は野外で用を足す。どこもかしこも土壌は汚れ、川も畑も排泄物で汚染されている。病気は燎原の火のごとく、またたくまに蔓延する。政治家は知っている──国民がもとめるもの、それは改革、社会的平等、雇用よりも、まずはトイレだ。まっとうに排泄する権利。村の女たちは日が暮れるのを待ってから畑へ行き、さまざまな攻撃にさらされる。恵まれた者は自宅の片隅や庭に専用の場所をしつらえる。ひかえめに「水洗式でないトイレ」と呼ばれるただの穴、それを素手で毎日汲みだすのはダリットの女。スミタのような女だ。

巡回は七時に始まる。スミタは籠とほうきを持つ。毎日20軒の汲みとりがあるから、ぼやぼやしている暇はない。目を伏せ、スカーフで顔を隠し、車道のはしを歩く。村によっては、ダリットだとわかるようにカラスの羽根を身につけねばならない。そうでなくとも裸足で歩かねばならない──サンダルを履いていただけで、石で打ち殺された不可触民の話は、みんな知っている。スミタは専用の裏口から家々に入り、住人とすれちがってはいけないし、言葉を交わすなどもってのほか。不可触というだけでなく、不可視でなければならない。給料として残飯や、ときには古着がゆかに投げられ、あたえられる。触っても、見てもいけない。

たまに、何ももらえない。ジャート族のある一家は、何か月もまえから何もくれない。スミタはやめたい。あの家には行きたくない、自分たちで糞便の始末をしたらいいんだ、と、ある晩夫のナガラジャンに言った。だが、ナガラジャンは震えあがった──スミタが行かなくなったら、追い出される。自分たちの土地ではないのだ。ジャート族からこのあばら家に火をつけられるだろう。彼らがどんなことでもやりかねないのは、彼女だって知っている。ジャート族に「両足を切ってやる」と言われた同輩がいる。その男は近くの畑
でばらばらに切断され、酸で焼かれて見つかった。

そう、ジャート族が何をやりかねないか、スミタはわかっている。

だから次の日も、彼らの家へ行く。

だが今朝は、いつもと違う。スミタは決めたのだ。当然のこととして決断は下った──娘は学校へ行く。ナガラジャンを説得するのはひと苦労だった。それが何になる? と言われた。読み書きが出来たところで、誰も仕事をくれないだろう。トイレの汲みとりに生まれつき、汲みとりとして死ぬ。それは代々受け継がれるもの、抜けだせない円環。カルマだ。

スミタは譲らなかった。翌日も、翌々日も話をした。ラリータを巡回には連れて行かない──自分がトイレを汲みとる姿は見せないし、かつての自分のように、娘がどぶに吐く姿は見ない、いいや、そんなこと、スミタはしない。ラリータは学校へ行くのだ。妻の決意の固さに、結局ナガラジャンは折れた。妻のことはよく知っている。おそろしく意志がつよい。10年まえに娶った小柄で褐色の肌をしたダリットの女にはかなわないと承知している。だから結局は折れる。いいだろう。村の学校へ行って、バラモンに話をしてこよう。

スミタはこの勝利にひっそり微笑んだ。母が自分のために奮闘してくれたらどんなによかったか、学校の門をくぐり、ほかの子供と机を並べられたらどんなによかったか。読み書きと計算ができたら。だが、それはありえなかった。スミタの父はナガラジャンのような善人ではなく、怒りっぽく乱暴だった。母を殴った。ここではみんなそうするように。

よく言っていたものだ──妻は夫と対等ではない、夫の持ち物だ。夫の所有物、奴隷だ。夫の言うことに従わなければならない。父は間違いなく、母より先に牛を助けただろう。

スミタは運がいい──ナガラジャンに怒鳴られたことも、殴られたこともない。ラリータが生まれたときも、家におくことに賛成してくれた。このあたりでは、生まれた子が女だと殺される。ラジャスタンの村々では、生後まもない赤ん坊を生きたまま箱に入れ、砂に埋める。ちいさな娘たちは一晩かけて死んでいく。

だけど、うちはそうではない。スミタはラリータを見つめる。娘はあばら家の土間にしゃがんで、ひとつだけ持っている人形の髪をとかしている。美しい娘。品のいい顔立ちで、腰まである長い髪は、スミタが毎朝とかして編む。

わたしの娘は読み書きができるようになる、そう思うと嬉しくなる。

そう、今日は生涯忘れられない日になるだろう。


ジュリア

シチリア、パレルモ 

ジュリア!

ジュリアは、やっとのことで目を開ける。母の声が下から響く。

ジュリア!

チェンディ!(おりといで!】

スビート!(早く!)

ジュリアは枕の下に頭をうずめたい。寝足りない──また読書で夜ふかししてしまった。起きなければいけないのはわかっている。呼ばれたらすぐ駆けつける──相手はシチリアの母なのだ。

ジュリア!

若い彼女はしぶしぶ起きあがりベッドを抜けだし、いそいで服を着て、マンマがじりじりしている台所へおりて行く。妹のアデラはもう起きていて、朝食のテーブルに足をのせ、ペディキュア塗りに余念がない。溶剤のにおいにジュリアは顔をしかめる。母がコーヒーを持ってきてくれる。

父さんはもう出かけたよ。

今朝はあんたが開けるのよ。

ジュリアは作業場の鍵を取って、そそくさと家を出る。

何も食べてないじゃないの。

何か持って行きなさい!

母の言葉を聞き流し、自転車にまたがると、ぐいぐいペダルをこいで遠ざかる。朝の爽やかな空気で、すこし目が覚める。大通りの風が顔と目に吹きつける。市場にさしかかると柑橘類やオリーヴの香りが鼻につんとくる。ジュリアは、捕れたてのイワシやウナギが盛大に並べられた魚屋の屋台のまえをとおる。加速して歩道にのり、早くも大きな売り声が響くバラーロ広場をあとにする。

ローマ通りから離れた袋小路に着く。そこが作業場。映画館だった建物を父が買い取ってここを開いたのは20年まえ──いまのジュリアの年だった。それまでの作業場が手狭になり、移転が必要になったのだ。ファサードにはいまも映画のポスターが貼られていた場所が見てとれる。アルベルト・ソルディ、ヴィットーリオ・ガスマン、ニーノ・マンフレッディ、ウーゴ・トニャッツィ、マルチェロ・マストロヤンニ……のコメディーを観にパレルモ市民が映画館につめかけた時代はむかしのこと。いまでは大半の映画館が閉館し、このちいさな映画館も作業場になった。映写室は事務室に改装され、大きなホールには窓がうがたれ、従業員たちが作業するのに必要な光が採り込まれた。工事はぜんぶパッパが自分でした。この場所は父に似てる、とジュリアは思う──乱雑で温かなところが父みたい。語り草になるほど短気な性格にもかかわらず、ピエトロ・ランフレッディは従業員から慕われ尊敬されている。頑固一徹だが子煩悩で、娘たちは厳しくしつけられたし、丹念な仕事にこだわるところは父親譲りだ。

ジュリアは鍵を握り、ドアを開ける。ふだんは父がいちばん先に着く。自分で従業員を迎えることにこだわっている──それでこそ、主(パドローネ)ってもんだ、が口癖だ。いつも誰かれとなくひと声かけ、気遣い、世話を焼く。だが今日は、パレルモと近郊の美容院へ外回りに出かけた。昼まで帰ってこない。午前中は、ジュリアがここの主だ。

この時間、作業場はひっそりしている。じきに、喧しいおしゃべりや歌声、ときおり起こる大声でざわめくこの空間は、静寂に支配され、ジュリアの足音だけが響く。従業員更衣室まで歩き、自分の名札のついたロッカーに荷物を入れる。仕事着を取りだし、いつものように、この第二の肌の下に体をすべり込ませる。髪をまとめ、きついシニョンにし、器用にピンを刺していく。そして三角巾で頭を覆う。ここでは不可欠の用心だ──自分の髪の毛を、作業場で加工される髪に混ぜてはいけない。こうして身支度をととのえると、もはや社長の娘ではない。従業員のひとり、ランフレッディ社の一員だ。そこにこだわっている。いつも特別あつかいは拒否してきた。

入口のドアが軋みながら開き、陽気な一団が空間を満たす。作業場は一瞬で活気づき、ジュリアが大好きな騒々しい場所に一変する。がやがやと会話がいりまじる喧騒のなか、従業員たちは更衣室へいそぎ、仕事着やエプロンをつけ、おしゃべりしながら持ち場につく。ジュリアもそこにくわわる。アニェーゼはやつれた顔をしている──下の子の歯が生えはじめて、夜むずかったんだ。フェデリカは泣きそうな顔、恋人にふられたのだ。また?! アルダが大声をあげる。明日もどってくるよ、とパオラが元気づける。ここの女たちがともにするのは仕事だけではない。せわしなく手を動かし加工用の毛髪をあつかいながら、男や人生、恋愛について日がな一日話している。ジーナの夫の酒癖が悪いことも、アルダの息子があの欲深な蛸(ピオッヴラ)とつきあっていることも、アレッシアがリーナの元夫とつかのま関係を持っていたことも、そのことでリーナが彼女を絶対に許していないことも、みんな知っている。

ジュリアはここの女たちと一緒にいるのが好きだ。なかには子供のころから知っている者もいる。彼女はここで生まれたも同然だ。母は作業場で毛髪を選り分けている最中、いきなり陣痛に襲われた話をよく語る──母はもう作業場で働いていない、目が悪くなり、もっと目の鋭い従業員に持ち場を譲らなければならなかった。ジュリアはここで、ときほぐすべき毛髪、洗浄すべき髪のたば、発送すべき注文品にかこまれて育った。バカンスや水曜日には従業員に混じって、その仕事を眺めてすごしたのを憶えている。うごめく蟻の
ように、せわしなく動く手を観察するのが好きだった。毛髪をほぐす四角い大櫛がついた梳毛機に、毛髪を投げいれるところ、そのあと架台に固定された洗浄槽──従業員が腰をいためるのを見るに忍びなかった父が発案した自作品──で洗うところを見ていた。ジュリアは窓辺に吊るし干しされる毛髪のたばを見ては面白がった──まるでインディアンの異様な戦利品、頭皮がひけらかされているみたい。

ときどき、ここでは時間がとまっていると感じる。外では時間が流れていても、作業場のなかでは守られていると感じる。それはやさしく安らかな感覚、物事は不変だという奇妙な確信だった。

一家が毛髪(カスカトゥーラ)を生業にして1世紀近くになる。抜け毛や切り髪を保存するのはシチリア古来の伝統で、それからヘアピースやかつらをつくる。1926年にジュリアの曾祖父が創業したランフレッディ工房は、パレルモではこの業種の最後の生き残りだ。10名いる従業員はみな女性で、毛髪のほぐし、洗浄、加工に熟練し、加工品はイタリア国内はもとよりヨーロッパ全域に発送される。16歳になった日、ジュリアは高校をやめて父の作業場を手伝うことを決めた。学業をつづけるよう勧めたイタリア語教師をはじめ、教師たちから優秀な生徒とみなされていた彼女には、そのまま大学に入ることもできただろう。だが進路を変えることは考えられなかった。伝統というだけでなく、毛髪はランフレッディ家に代々受け継がれてきた情熱だった。どういうわけか、ほかの姉妹はこの仕事に興味をしめさず、ジュリアだけが家業に打ち込んでいる。フランチェスカは若くして結婚し、仕事はしていない──いまでは4人の子持ちだ。末っ子のアデラはまだ高校生、ファッション業界かモデル業──とにかく家業とは別の道──をめざしている。

特注品の微妙な色味を実現するため、パッパには秘伝の技術があった──父から、そのまえは祖父から受け継いだもので、絶対に名が明かされない天然素材から調合される。父はその秘伝をジュリアに教えた。父が実験室(ラボラットリオ)と呼ぶ屋上に、ジュリアはよく連れて行かれた。そこからは海が見え、反対側にはペレグリーノ山が見える。化学教師みたいな白衣を着たピエトロは、微調整をほどこすため、大きなたらいの中身を沸騰させる──毛髪を脱色し、そのあと色が流れ落ちないように着色できる。ジュリアは父の作業を、どんな些細なしぐさも見落とさず何時間でも観察する。毛髪を注意深く見守る父は、パスタを見守るマンマのよう。木製のスプーンでかきまぜてはしばらくおき、それを飽きもせずくりかえす。父の毛髪のあつかいには忍耐と厳密さ、そして愛がある。この髪はいずれ誰かが身につけるんだ、敬意をもってあつかわなければ、と父が言ったことがある。ときどきジュリアはかつらをつけることになる女性を夢想する──ここの男たちは自信満々、ある種の男らしさにこだわっていて、かつらなどつけそうにない。

なぜか、ランフレッディ家秘伝の技術でも言うことをきかない毛髪がある。たらいに浸けられた毛髪は、乳白色になって引きあげられ、着色できるようになるが、ごくわずかの個体はもとの色を保っている。そんな跳ねっ返りは頭痛の種だ──美しく着色された髪に、頑なな黒や茶色が混入しているのに客が気づくなど、あってはならない。目がいいジュリアは、この厄介な作業をまかされている──毛髪のなかから、頑固者を一本いっぽん取りのぞく。毎日、たえず細心の注意で追いつめる、まさに魔女狩りだ。

パオラの声で夢想から引きもどされる。

ミーア・カーラ(あんた)、疲れた顔して。

また一晩中、読んでたね。

ジュリアは否定しない。パオラには隠し事ができない。作業場の女たちのなかでは最年長だ。ここでは、みんなからノンナ(おばあちゃん)と呼ばれている。ジュリアの父を子供のころから知っている──靴紐を結んであげていたそうだ。75歳はなんでもお見とおし。手はすりきれ、皺だらけの肌は羊皮紙のようだが、目はあいかわらず鋭い。25歳で寡婦になり、4人の子供は女手ひとつで育て、生涯、再婚話はしりぞけとおした。理由を尋ねられると、自由が惜しくて手放せないからだと答える。女は結婚すると、いろいろ言い訳しなくちゃならない。なんでも好きなことしたらいい、だけど、ミーア・カーラ(あんた)、結婚だけはするんじゃないよ、といつもジュリアに言う。父親が決めた男との婚約のことはよろこんで話す。将来の夫の家はレモン園を営んでいた。ノンナはレモンを収穫するため、結婚式当日も働かなければならなかった。田舎では休んでいる暇はなかった。夫の服や手に、いつも漂うレモンのにおいを憶えている。数年後、夫は肺炎で死に、4人の子供をかかえて残された彼女は、町へ出て仕事を探さなければならなかった。ジュリアの祖父に出会い、雇い入れられた。こうして50年間ここで働いている。

本のなかにお婿さんはいないわよ! アルダが大声で言う。

そんなことで、かまうんじゃないよ、とノンナがたしなめる。

お婿さんを、ジュリアは探していない。同じ年ごろの若者が熱心にかようカフェにも、夜の盛り場にも行かない。マンマは「うちの娘は人みしりで」とよく言う。ジュリアはディスコの喧騒より市立図書館(ビブリオテカ・コミュナーレ)の静寂が好きだ。毎日、昼休みに行く。飽くことを知らない読書家で、壁が本で覆われた大きな閲覧室の、ページをくる音だけが空気を乱す静けさが好きだ。どこか宗教的で、ほとんど神秘的な内省の雰囲気がしっくりくる。本を読むと時間がたつのも忘れる。子供のころ、作業場の女たちの足もとにすわって、エミリオ・サルガーリをむさぼり読んだ。その後、詩に出会った。ウンガレッティよりカプローニが好きで、モラヴィアの散文詩を好み、とりわけパヴェーゼは愛読書だ。本さえあれば一生、誰もいらないかもしれないと思う。食べるのを忘れることもある。昼休みからすきっ腹でもどることも珍しくない。そんなわけで、人がカンノーリ〔リコッタチーズや砂糖漬け果物の入った、シチリアの筒状菓子〕をむさぼるように、ジュリアは本をむさぼる。

その日の午後、作業場にもどると、いつもと違う沈黙が支配している。ジュリアが入っていくと、みんながいっせいに視線を向ける。

ミーア・カーラ(あんた)、ノンナが別人みたいな声で言う。お母さんから電話があったの。

パッパが大変なことになった。


サラ

カナダ、モントリオール 

アラームが鳴って、カウントダウンが始まる。起床の瞬間から就寝まで、サラの生活は時間との戦いだ。目を開くや、頭脳は瞬時にコンピュータのプロセッサーのように機能を開始する。

毎朝、5時起床。それ以上は眠れない。1秒も無駄にできない。1日は分刻み、ミリ単位、数学の授業で使うため子供に買ってあげるミリ方眼紙のように、細かく正確に決められている。法律事務所以前、子育てまえ、責任あるポストのまえの気楽な時代は遠いむかしのこと。あのころは電話1本で1日の流れを変えられた。「ねえ今晩……しない?」「……へ行こうか?」。いまはすべてが、まえもって準備、計画されている。もう即興はなし、毎日、毎週、毎月、1年中、役どころを覚え込み、リハーサルして演じる。一家の母、上級管理職、ワーキングガール、イット・ガール、ワンダーウーマン……、自分のような女たちの背中に女性誌が貼りつけるレッテルは、肩にくいこむバッグほど重い。

サラは起きてシャワーを浴び、服を着る。しぐさは無駄がなく効率的で、軍楽隊のように統制されている。台所へおり、朝食のテーブルをいつもと同じ順序でととのえる──牛乳/ボウル/オレンジジュース/ココア/アンナとシモンのためにパンケーキ/エタンにはシリアル/自分の2杯分のコーヒー。それから子供たちのところへ行き、まずはアンナ、次に双子を起こす。服はまえの晩にロンが用意しておくから、子供たちは顔を洗ってそれを着ればいい。その間、アンナはお弁当を詰め、これらが展開する目まぐるしいスピードで、サラのセダンは町を疾走し、シモンとエタンを小学校、アンナを中学校で降ろす。

キスと「忘れ物ないわね」「それじゃ風邪引くでしょ」「数学のテストがんばってね」「後ろで騒がないの」「だめ、ジムには行きなさい」、そして最後の決まり文句「こんどの週末はそれぞれのパパの家に行くわよ」のあと、ようやくサラは法律事務所へ向かう。

8時20分きっかり、駐車場に入り、自分の名が記された「ジョンソン&ロックウッド法律事務所 サラ・コーエン」のプレートまえに車をとめる。毎朝、誇らしく眺めるこのプレートは専用の駐車スペースをしめすだけではない──彼女には地位が、役職が、世界に居場所がある。一生をかける、やりがいのある仕事。勝ちとった成功とテリトリー。

エントランスホールで、まずは守衛、次に受付係から、いつものようにあいさつされる。ここでは、みんなから一目おかれている。サラはエレベータに乗り、9階のボタンを押し、足ばやに廊下をぬけてオフィスへ向かう。閑散としている。彼女はしばしば、いちばん先に到着し、最後に帰る。キャリアを築くにはそれだけの対価を払うもの、町で評判の権威ある法律事務所ジョンソン&ロックウッドの、衡平法〔イギリスのコモン・ローの不備を道徳律に従って補正する法律〕専門アソシエイト弁護士、サラ・コーエンとなるにはそれだけの対価を払うのだ。なるほど過半数は女性でも、男性優位と噂されるこの法律事務所で、アソシエイト弁護士の地位にのぼりつめた女性は彼女が最初だ。ロースクールの女友達はガラスの天井にぶちあたった。長く厳しい学業にもかかわらず、あきらめて転職した者もいる。だが、彼女は違う。サラ・コーエンは違う。超過勤務と週末出勤、徹夜の口頭弁論リハーサルで武装し、天井など爆破、粉砕した。10年まえ、大理石のエントランスホールに初めて入ったときのことを憶えている。採用面接を受けに来た彼女のまえには男性面接官が8人、そのなかに、創設者にしてマネージング・パートナーのジョンソン御自らが、じきじきにオフィスから会議室に降臨していた。無言のまま厳しい目で見据えられ、履歴書をくまなく読みながら、なんのコメントもされなかった。サラは動揺していたが、そんなそぶりは微塵も見せなかった。仮面をつけるのはお手のもので、年季がはいっている。面接を終えた彼女は漠然と気落ちしていた。ジョンソンからは興味をしめされず、質問もされず、終始ポーカーの達人さながらの無表情で、やっと口を開けば厳しい口調の「さようなら」では、とても見込みがないと思われた。サラは所属弁護士の志願者が多いのを知っていた。ちいさな無名の法律事務所
から応募した彼女には、なんの保証もない。ほかの志願者はもっと経験があって積極的で、たぶん運もあるだろう。

あとになって知ったのは、候補者のなかから彼女を選び、推したのはジョンソンその人、これに反対したのがガリー・クルストだった──彼女が嫌いなのか、愛しすぎるのか、ひょっとして嫉妬か、でなければ欲情か、理由はどうあれ、何かにつけて、やみくもに敵意をむきだしにするガリー・クルストには慣れなければならなかった。女性に脅威をおぼえ、毛嫌いする野心家の男は、彼が初めてではなく、サラはそんな男たちと接して歯牙にもかけずにきた。彼らを路肩に寄らせて、自分の道をきりひらいてきたのだ。ジョンソン&ロックウッドに入ると、馬が疾駆する勢いで階級をかけのぼり、法廷でも名声を確固たるものにしていった。裁判所は闘争の場、縄張り、闘技場だった。そこに入ると女戦士、情け容赦のない女闘士となった。口頭弁論では、ふだんの声と微妙に異なる、低い厳かな声をつかった。表現は簡潔で鋭く、切れ味抜群のアッパーカットのようだった。敵の論点のわずかな隙や弱みをすかさず突いて、ノックアウトした。担当案件はすべて頭に入っていた。虚を突かれたり、恥をかかされたことはない。弁護士免許取得後に勤めたウィンストン通りのちいさな弁護士事務所にいたときも含めて、たいがいは勝訴してきた。称賛され、恐れられた。40歳まぢかにして、同世代の弁護士のサクセスモデルとなっていた。

法律事務所では、彼女が次期マネージング・パートナーと噂されていた。ジョンソンは高齢で後継者が必要だ。すべてのアソシエイト弁護士が羨望するポスト。すでに自分がその地位についたところを、みな想像していた。カリフの地位をねらうカリフたち。それは神格化されること、弁護士界の最高峰だった。サラには選ばれる理由がすべてそろっていた。模範的な経歴、強固な意志、仕事をこなす能力はほかの追随を許さない──病的な飢餓状態のようにつねに駆りたてられ、動かずにはいられないのだ。体育会系で、ひとつの山頂を制したら、次の山頂をめざす登山家だった。彼女にとって人生とはそういうもの、頂点に登りつめてどうするかはわからなくても、それは長い登攀のようなものだった。その日、楽観こそしていないものの、彼女は頂点をまえにしていた。

もちろん、キャリアのためには多くを犠牲にしてきた。徹夜はざらだったし、2回の結婚も破綻した。男は自分をたててくれる女が好きなのよ、とサラはよく言ったが、弁護士がふたりいたら、ひとりはよけいだと認めざるをえなかった。弁護士カップルが長つづきしないという統計を──めったに読まない──雑誌で読んだことがある。当時の夫に記事を見せて一緒に笑った──翌年、ふたりは別れた。

法律事務所の仕事に忙殺され、サラは子供たちとすごす機会の多くを断念せざるをえなかった。遠足、年度末のお楽しみ会、ダンスの発表会、誕生会、バカンスを見合わせるのは、自分でも認めたくないほど気が重かった。そんな機会はあとから取りもどせない、そう思うとよけい心が痛んだ。働く母親の罪悪感を身にしみて感じていた。アンナが生まれたときから、生後五日の赤ん坊をベビーシッターにあずけ、当時の勤務先事務所の緊急の用事を片づけに行ったあの散々な日以来、罪悪感にさいなまれている。彼女が生きる世界に、おろおろと涙にくれる母親の居場所がないことは、すぐ理解した。厚いファンデーションで涙を隠して出勤した。引き裂かれる思いがしても、誰にも打ち明けられなかった。同時に、夫の軽さを羨んだ。不思議なことに、こんな感情とは無縁に見える男たちのあの驚くべき身軽さはどうだろう。憎らしいほど気楽に家を出ていく。毎朝、彼らが書類だけ持って家を出るのにひきかえ、彼女にはどこへ行くにも罪悪感が亀の甲羅のようについてまわる。はじめはそんな感情にあらがい、拒絶し、否定しようとしたが、だめだった。結局、折り合いをつけて生活していくことにした。罪悪感は呼んでもいないのに、どこにでも顔を出す旧友だった。畑に立つ看板、顔の真ん中のいぼ、いくら不恰好で役立たずでも、そこにある。一緒にやっていくしかなかった。

ほかのアソシエイト弁護士や同僚に、サラはなんのそぶりも見せなかった。子供の話をすることは自分に禁じていた。話にも出さなければ、オフィスに子供の写真もおかない。小児科の受診や学校からの呼び出しで、どうしても席をはずさなければならないときは、「外でミーティングがある」と言った。早退するのにベビーシッターの問題をもちだすより、「一杯やりにいくから」と言ったほうが、とおりがいいのを知っていた。嘘、作り話、粉飾のほうが、子供がいると白状するよりまだましだ──子供とは別の言い方をすれば、縛り、しがらみ、制約。それは、仕事への歯止めであり、キャリアアップの妨げだった。まえの勤務先で、アソシエイト弁護士に昇進したのもつかのま、妊娠が発覚し、ヒラの弁護士に降格された女性のことを憶えている。ひっそりとした不可視の侵害、誰も非難しないありふれた侵害だった。サラはそこから教訓を得た。2回の妊娠は上司に知らせなかった。驚いたことに、長いこと腹はふくらまなかった──妊娠7か月まで、双子の妊娠ですら外見からわからず、まるで胎内の子供たちは出しゃばらないほうがいいと察したかのようだった。彼女と胎児が共有するちいさな秘密、暗黙の盟約だった。産休は最低限にとどめ、帝王切開から2週間後にはもとどおりの体型で、疲れた顔は念入りに化粧し、完璧な微笑を浮かべて職場に復帰した。毎朝、法律事務所の駐車場に入るまえに、近くのスーパーで車をとめ、後部座席からふたつのチャイルドシートをはずし、トランクに隠した。もちろん同僚は子持ちなのを知っていたが、けっして思い出させないように気をつけていた。おまるや歯が生えはじめた話は、秘書にはできても、アソシエイト弁護士には許されない。

こんなふうに、サラは仕事と家庭のあいだに機密性の高い壁を築き、ふたつの生活は、平行線がけっして交わらないように、別々に流れた。壁はもろく不安定で、ときにひびが入り、ひょっとしたら、いずれ倒壊するかもしれない。そんなことはかまわない。自分の生き方とこれまで築きあげたものを、子供たちは誇りに思ってくれるはず、と考えたがった。子供たちとすごす機会は、量より質でうめあわせようと努力した。子供たちと一緒のとき、サラはやさしく思いやり深い母親だった。それに、残りはすべてロン、子供たちの命名によれば「マジック・ロン」にまかせられる。本人はこのニックネームに笑ったが、それは肩書きとして定着した。

サラがロンを雇い入れたのは、双子が生まれて数か月後、それまでのベビーシッターとひと悶着あったからだ。ただでさえ遅刻魔でやる気のないリンダが重大なミスを犯し、即刻クビになった──サラが忘れた書類をとりに予告なしに帰宅すると、当時、生後9か月のエタンがベッドにいて、家はからっぽだった。リンダは1時間後、何食わぬ顔でシモンと帰ってきた。問いただすと、双子を一緒に散歩に連れ出すのは大変で、1日おきに交代で散歩させていたと自己弁護した。サラはその日のうちに解雇を言い渡した。法律事務所
には重度の坐骨神経痛を口実に、つづく数日はベビーシッターの面接をし、数多くいた応募者のひとりがロンだった。この手の職に男性が応募してきたのは意外で、はじめは除外しようとした──新聞を読むといろいろ取り沙汰されているし……。それに、元夫たちはおむつ交換や授乳がうまかったとはお世辞にも言えず、男はこのような仕事に向いていないのではないかと疑っていた。同時に、ジョンソン&ロックウッドの採用試験を思い出し、この業界で地位をつかむため、女の自分がどれだけ犠牲を払ってきたかを思った。結局、考えなおした。ロンにだって、ほかの応募者と同じ資格があるはずだ。彼の履歴書は文句のつけようがなく、人物紹介状も確かだった。自身が2児の父だった。住まいが近かった。このポストにもとめられる条件はすべてそろっていた。サラが設けた2週間の試用期間で、ロンの完璧さが明らかになった──子供たちと何時間でも遊び、料理の腕は見事で、そうじ洗濯に買い物、と日常生活についてまわる雑用から彼女を解放してくれた。双子も当時
五歳のアンナも彼になついた。サラは双子の父親である2番目の夫と別れた直後で、自分たちのような母子家庭で、男性が重要な役割を演じるのは悪くないと考えた。無意識に、男を雇えば母親の地位を奪われずにすむという安心感があったのかもしれない。こうしてロンは、彼女の生活にも子供たちにも、なくてはならないマジック・ロンとなった。

鏡を見れば、すべてにおいて成功した40歳の女性がいた──3人のすこやかな子供、高級住宅地にある手入れの行きとどいた家、誰もが羨むキャリア。雑誌でよく見る、充実して微笑む女性そのものだ。彼女の傷は見えない、完璧な化粧と高級ブランドのスーツに隠されて、外からはほとんどわからない。

だが、それはあった。

国じゅうに何千もいる女性と同じく、サラ・コーエンはまっぷたつに引き裂かれていた。爆発寸前の爆弾だった。


スミタ


インド、ウッタル・プラデーシュ州、バドラプールの村

おいで。

顔を洗って。

ぐずぐずしないの。

今日だ。遅れてはいけない。

あばら家の裏庭で、スミタはラリータが顔を洗うのを手伝う。少女は柔順にされるがま ま、水が目に入っても文句を言わない。スミタは娘の髪のからまりをほどく。腰まである髪は切ったことがない。ここの伝統で、女たちは生まれてからずっと髪を切らず、なかに は一生切らない者もいる。髪を三つのたばに分け、器用な手つきで三つ編みにしていく。それから、幾晩もかけて娘のために縫ったサリーをさしだす。布は近所の女からもらった。 ここの小学生が着る制服を買う金はないが、そんなことはかまわない。学校に入るわたし の娘は美しい、と思う。

夜明けに起きだし、娘の弁当をつくった──給食はなく、子供たちは弁当を持参する。 米を炊き、大事な日のためにとっておいたカリーをすこしくわえた。学校の初日、ラリー タにはたくさん食べてほしい。読み書きを覚えるには力がいる。料理はありあわせの弁当 箱に詰めた──念入りに洗った鉄の箱で、飾りもつけた。ほかの子供のまえでラリータに 恥をかかせたくない。ほかの子供のように、娘は読めるようになる。ジャート族の子供のように。

粉をつけて。

祭壇のお世話をして。早く。

ひと間だけのあばら家は台所であり寝室であり、神殿でもあり、ちいさな祭壇をきれい にするのはラリータの仕事だ。ろうそくに火をともし、神々の絵姿のそばにおく。お祈り のあとに鈴を鳴らすのも彼女の役目だ。スミタは娘と一緒に、ヴィシュヌ神に祈りを唱え る。生と創造の神、全人類の守護神ヴィシュヌは世界の秩序が乱れると、それを鎮めに化 身となって地上に降臨する。魚、亀、猪、獅子男、そして人間にすら姿を変える。ラリー タは夕食後、ちいさな祭壇のそばにすわり、母が語るヴィシュヌの十化身の話を聴くのが 好きだ。初めて人間に姿を変えたとき、ヴィシュヌはバラモン階級を擁護するため、クシ ャトリヤ階級の血で五つの池を満たした。この話を聴くとラリータはいつも身震いした。 ちっぽけな生き物が、ひょっとしてヴィシュヌ神の化身だったら……、そう考えて、蟻一 匹、蜘蛛一匹踏まないように気をつけてひそかに遊ぶ。指先にのるほどちっぽけな神……。 そう考えるのは楽しくもあり、恐ろしくもある。ナガラジャンも晩に祭壇のそばでスミタ の話を聴くのが好きだ。妻は字が読めないのに、すばらしい語り部だ。

今朝はお話をしている暇はない。ナガラジャンはいつものように日の出とともに家を出 た。まえは父親がそうだったように、彼はネズミ捕りだ。ジャート族の畑で働いている。 それは、先祖代々受け継がれる伝統の技──素手でネズミを捕まえる技。ネズミは農作物 を食べ、穴を掘って土壌をもろくする。ナガラジャンは地面のごくちいさなネズミ穴を、特徴から見分けることを覚えた。大切なのは注意深さだ、と父に言われた。それと忍耐。怖がるな。最初は噛まれる。そうやって覚えていくんだ。八歳のとき、初めて穴に手をさ し入れて噛まれたのを憶えている。猛烈な痛みがはしって、親指と人差し指のあいだの、 皮膚が薄く柔らかい部分をネズミに噛まれていた。ナガラジャンは悲鳴をあげ、血まみれ の手を引きぬいた。父は笑った。やり方がまずい。もっとすばやく、不意を突くんだ。も ういちどやれ。ナガラジャンは怖くて涙をこらえた。もういちど! 六回やって六回噛ま れたあと、巨大なネズミを引きぬいた。父は尻尾をつかんで、石に頭を打ちつけて砕いて から、息子に手渡した。父は「そうだ」とだけ言った。ナガラジャンは死んだネズミを戦利品のようにたずさえて、家へ帰った。

母はまっ先に息子の手を気遣った。そのあとネズミを炙った。それは家族の夕食になった。

ナガラジャンのようなダリットには給料が支払われず、自分で捕まえたものだけがもらえた。それは恵まれたこと──畑の上にあるものも下にあるものもジャート族のものなら ば、ネズミだってジャート族のものなのだ。

炙ればまずくない。鶏肉に似ているとも言われる。貧乏人の鶏、ダリットの鶏だ。一家 が口にできる唯一の肉。父はネズミを丸ごと、皮も毛も、こなれの悪い尻尾をのぞいてぜ んぶ食べた、とナガラジャンは語る。父はネズミを棒に突き刺し、火にかざして炙ってかはらぺろりと平らげた。その話をするとラリータは笑った。スミタは皮を剥いだほうがいいと思う。一家は毎晩、その日捕れたネズミをありあわせの飯のおかずにする。ときには、 スミタがトイレの汲みとりをした家庭であたえられ、持ち帰って隣人と分けあう残飯もあ る。

おまえのビンディ。 忘れないで。

ラリータは身のまわり品のなかからマニキュアの小瓶を取りだす。道ばたで遊んでいた とき見つけた──通行人の女のバッグから落ちたところを拾った、とは母に言えなかった。 小瓶は転がって溝に落ち、少女が拾って宝物のように握りしめて隠した。その晩、拾い物 を家に持ち帰り、道ばたで見つけたと言いながら、よろこびと恥ずかしさで胸を一杯にし ていた。もし、ヴィシュヌ神が知っていたら……。

スミタは娘の手から小瓶を受け取り、その額に緋色の円を描く。きれいな円にするのは 難しく、経験が必要だ。指先でそっとたたいてから、粉で定着させる。ここでは「第三の目」とも呼ばれるビンディは、エネルギーをため集中力を高める。今日のラリータには必 要だ、と母は思う。少女の額のきれいな円を眺めて微笑む。ラリータは可愛らしい。繊細 な顔立ちで、瞳は黒く、唇は反りかえった花びらのふちのよう。緑色のサリーを着た少女 は美しい。これから登校する娘をまえに、スミタは誇らしい気持ちで胸が一杯になる。た とえネズミを食べてはいても、娘は読めるようになる、と自分に言いきかせながら、その 手を取って大通りへ向かう。道路を渡るまではついていてあげよう。ここは朝からトラックのラッシュで、すごいスピードだし、交通標識も横断歩道もない。

一緒に歩きながら、ラリータは不安げに母を見あげる──少女が怯えているのはトラッ クではなく、新しい世界、両親にとっても未知の世界、そこへひとりで足を踏み入れなけ ればならないこと。スミタは娘の哀願する視線を感じる──引き返し、籠を持って、娘を 一緒に連れて行くほうがどんなにたやすいか……。いいや、ラリータがどぶに吐くところは見ない。娘は学校へ行く。読み書きと計算ができるようになるのだ。

まじめにね。

言われたとおりにするんだよ。 

先生の話をよくお聴き。

少女はふいに途方にくれた顔をし、それがあまりに頼りなげで、スミタはできるものな ら娘をいつまででも抱きしめていたい。そんな衝動を必死に抑える。ナガラジャンが話し に行ったとき、教師は「よろしい」と言った。スミタが一家の貯えすべて──このときの ために、何か月もまえから大事に貯めてきた小銭──をしのばせた箱を教師は見つめた。 それをつかんで「よろしい」と言った。すべてがこのように運ぶのを、スミタは知ってい る。ここでは金がものを言う。帰宅したナガラジャンは妻に朗報をつたえ、一緒によろこんだ。

母娘は道を渡る。渡りきったら、もうそこで娘の手を放し、送りだす。言いたいことは たくさんある──よろこぶのよ、おまえはわたしみたいな人生は送らない、健康に暮らせ る、わたしみたいな咳はしない、もっといい暮らしをして、もっと長生きする、尊敬もさ れるだろう。しつこくおぞましいこんな悪臭をさせないで、堂々と生きるんだ。誰からも、 犬みたいに残飯を投げあたえられない。もう目を伏せたり、頭を下げたりしなくていいん だ。このようなことすべてを娘につたえたい。だが、どんな言葉で言えばいいのか、願望、途方もない夢、腹のなかで羽ばたくこの蝶のことを、娘にどう言いあらわしてよいかわからない。

だから娘のほうにかがみ込み、ただこう言う。行きなさい。


ジュリア

シチリア、パレルモ

ジュリアは、はっとして目覚める。

父の夢を見ていた。子供のころ、父の外回りについて行くのが好きだった。早朝、一緒 にヴェスパに乗る。後ろではなく、まえ、父の膝に乗った。髪をなびかせる風、スピード が生むあの果てしなさと自由の酔うような感覚が何よりも好きだった。怖くはなかった。 父の腕にかこまれ、危ないことなど何もない。下り坂では快感と興奮に歓声をあげた。シ チリアの浜に日が昇るのを眺め、下町が目覚め、伸びをするように活気づいてくるのを眺めた。

ドアの呼び鈴を鳴らすのが、とりわけ好きだった。おはようございます。カスカトゥーラの回収です、と誇らかに告げた。ときに女たちは髪の袋をさしだしながら、菓子や絵をくれた。受け取った袋を誇らしくパッパに渡した。父はかばんから鉄製のちいさな秤を取りだした。どこにでも持ち歩くこの秤は父から、そのまえは祖父から譲り受けたものだ。 髪の重さをはかって値をつけ、いくらかの小銭を渡した。かつて髪の毛はマッチと交換されていたが、ライターが普及し物々交換の伝統は消えた。いまは現金払いだ。

部屋からおりるのが億劫な老人たちは、自分の髪の毛を入れた籠をロープの先につけて おろした、と父はよく笑いながら話してくれた。父は身ぶりであいさつし、髪の毛を取り、 金をのせると、籠はまたロープで引きあげられた。

話してくれた父の笑いを、ジュリアは思い出す。

ではまた! ふたりは次の家へ向かう。美容院では大量の毛髪が手に入り、希少で高価 な長い三つ編みを受け取るときの父の表情が好きだった。重さと長さをはかり、その手触 りや密度を確かめた。金を払って礼を言い、その場をあとにした。早くしなければ、パレルモだけでランフレッディ工房の契約納入者は百を下らないのだ。いそげば昼食に帰宅できる。

つかのまの残影。ヴェスパに乗る九歳のジュリア。

イメージはそのあと数秒間、模糊として、現実がぐずぐずと終わったばかりの夢に紛れ ているかのようだった。

やはり本当なのだ。昨日パッパが外回り中、事故にあった。理由はわからないが、ヴェスパが道をそれたのだ。かよい慣れているはずの道なのに。きっと動物が道を横切ったん だろう、でなきゃ失神か、と救急隊員は言っていた。皆目わからない。いま父はフランチ ェスコ・サヴェリオ病院で生と死の境をさまよっている。医者は明言を避ける。マンマは 最悪の場合にそなえるようにと言われた。

最悪の場合なんて、ジュリアには考えられない。父親とは死なないもの、永遠のもの、 岩であり、大黒柱、自分の父はなおさらだ。ピエトロ・ランフレッディは頑丈で、百まで だって生きる、と友人の医者、シニョレ先生は父とグラッパを飲みながら言ったものだ。陽気な楽天家ピエトロ、人生を楽しみ、上等のワインが大好きなあのパッパ、一家の主に して経営者、怒りっぽくも情熱家、そんな大好きな父がいなくなるなんて、ありえない。 いまはだめ。こんなかたちではだめ。

今日は聖ロザリアの祭礼だ。なんて残酷な皮肉、とジュリアは思う。この日は、パレルモ市民が嬉々として守護聖女をおまつりして練り歩く。例年のように、祭礼は大賑わいとなるだろう。しきたりどおり、父は従業員に一日暇を出し、祭りに参加できるようにした──ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを練り歩き、夜にはイタリコ競技場で花火が打ち上げられる。

ジュリアはお祭り気分ではない。通りで歓喜にわく群衆をよそに、母と姉妹と一緒に、 父の見舞いに行く。病床の父は苦しそうではない──そう思うと、すこし慰められる。た くましかった体が、いまは頼りなげで子供のよう。ちぢんだみたいにちいさく見える。魂 が抜けると、そうなるのか ? 縁起でもない考えをいそいでふり払う。父はここにいる。 まだ生きている。そのことだけ考えよう。医者によれば脳挫傷。つまり、どうなるかわか らないということ。助かるのか死ぬのか、誰にもわからない。本人だって、どっちつかずに見える。

お祈りしなくては、とマンマは言う。その朝、聖ロザリアの行列に一緒に来るように、 ジュリアと姉妹に頼む。バラの聖女は奇跡を起こす、その証拠に、むかしこの町をペスト から救ってくれたのだから、お願いに行かなければ、と母は言う。ジュリアは宗教的な熱狂は嫌いだし、何が起こるかわからない人ごみも好きではない。それに、何も信じていな い。もちろん洗礼は受けたし、聖体拝領もした──伝統的な白い衣装を着て、家族一同が 敬虔な面持ちで見守るなか、初めて聖体の秘跡を授かった日のことを憶えている。それは、 人生で最もすばらしい思い出のひとつだ。だが、今日は祈る気がしない。パッパのそばについていたい。

母は譲らない。医者がお手上げなら神様に頼るしかない。母があまりに自信ありげで、 ジュリアはふいに、母の信心、疑うことを知らない素朴な信心が羨ましくなる。母ほど信 心深い人はいない。毎週、教会に行き、ろくに理解できないラテン語のミサに参列する──神様を讃えるのに、理解する必要はない、と言っている。結局、ジュリアは折れる。

母たちと連れだって、大聖堂と四辻のあいだで聖ロザリア崇拝者がひしめく行列にくわわる。通りにはバラの聖女の巨大な像が担ぎだされ、祈りを捧げる人でごった返している。七月のパレルモは暑く、耐えがたい熱気が町や通りに充満している。人ごみのな かでジュリアは息がつまる。耳鳴りがし、目がかすむ。

パッパの具合を尋ねてきた隣人──ニュースはあっというまに近隣に広まった──と話すため、母が立ちどまったのを幸い、ジュリアは行列を抜けだす。日陰の路地に避難し、 水飲み場で涼をとる。ひと息つく。気をとりなおすと、そう遠くないところで大声があがる。制服の憲兵隊がふたり、褐色の肌の男を怒鳴りつけている。がっしりしたその男は、黒いターバンをしていて、警官からそれをとるように命じられている。男は異国風のアク セントがついた完璧なイタリア語で抗議する──正規のヴィザは持っている、と身分証をしめすが、警官は耳を貸さない。どうしても従わないなら連行するといきりたつ──かぶり物の下に武器を隠しているかもしれない。人出の多い今日のような日に油断は禁物だ。 男は態度を変えない。ターバンは宗教的なもので、公の場ではずすのは禁じられている。 それに、身元確認に支障はないはず、身分証の写真もターバン姿なのだから──イタリア 政府がシク教徒に認める例外措置だ。ジュリアは当惑しながらやりとりを見守る。男は美しい。ひきしまった体つきに品のある顔立ち、肌は褐色で瞳は不思議なくらい色が薄い。 年は三十になるかならないか。憲兵隊は声を荒らげ、ひとりが男に手をかける。男はふた りに拘束され、警察署のほうへ連れて行かれる。

見知らぬ男は抵抗しない。威厳はあるがあきらめたふうで、警官にはさまれてジュリア のまえをとおっていく。一瞬、ふたりの目が合う。ジュリアは目を伏せない──知らない 男もだ。曲がり角に姿が消えるまで男を見送る。

何してんの?!

フランチェスカが後ろから来て、ぎょっとする。

探し回ったのよ!

行くわよ! ほら!

ジュリアはしぶしぶ姉のあとについて行列にもどる。

夜、なかなか寝つけない。褐色の肌をした男が目に浮かぶ。彼がどうなったか、警官に 何をされたか、気になって仕方がない。嫌がらせをされたり、暴力をふるわれたりしなかっただろうか? 強制送還されていないだろうか?  いくら憶測しても堂々巡り。何より悩ましい問題は──自分が割って入るべきだったか? だが何ができたろう?  ただ傍観 していたことに罪悪感をおぼえる。見知らぬ男の身の上が、どうしてこんなに気になるの かわからない。見つめられたとき、不思議な感情にとらわれた──初めての感情。これは 好奇心?  それとも感情移入?

でなければ、彼女には名づけようのない感情。


サラ

カナダ、モントリオール

サラは倒れた。法廷で口頭弁論の最中だった。まず口をつぐみ、まるでどこにいるのか、 ふいにわからなくなったかのように、まわりを見回し、あえいだ。青白い顔で、唯一、不 調をしめす手の震えにもかかわらず、弁論をつづけようとした。すると視界がかすんで、 暗くなり、息がきれた。心拍が遅くなり、まるで河の水が引くように、顔から血の気が引 いた。揺るがないと言われていた世界貿易センターのツインタワーのように、その場にく ずおれた。静寂のうちに倒れた。うめきもしなければ、助けももとめなかった。音もなく、 トランプの城のように、ほとんど優雅に倒れた。

再び目を開けると、制服の救急隊員にのぞき込まれている。

気を失ったんですよ、奥さん。これから病院に搬送します。

マダム、と言われた。サラは完全に意識を取りもどしていなかったが、細かい点を聞き 逃さなかった。マダム呼ばわりされるのは嫌いだ、それは平手打ちを食らうようなもの。 法律事務所では誰もが知っている。彼女を呼ぶときは先生かマドモアゼルをつけ、けっし てマダムと呼んではならない。二度結婚し、二度とも離婚し、未婚も同然だ。それにサラ はこの言葉を忌み嫌う。それはつまり、あなたはもう若い女性でもお嬢さんでもない、そのあとのカテゴリーだ、ということ。アンケートにある年代チェックを唾棄していた。三十から三十九歳という誘惑的な年代をあきらめ、やや魅力に欠ける四十から四十九歳へ移 行しなければならなかった。気づけば四十代になっていた。たしかに、かつて三十八歳だ ったし、三十九歳ですらあったが、四十なんて、そんな年は本気にできなかった。こんな に早く来るとは思っていなかった。「誰でも四十を過ぎたら若くない」というココ・シャ ネルの言葉を雑誌で読んだのを憶えている。雑誌はすぐ閉じた。つづきを読む暇はなかっ た──「だけど、何歳だってたまらなく魅力的でいられる」

マドモアゼルよ、とサラは身を起こし、そくざに訂正する。立ちあがろうとするが、救急隊員がやさしくも有無を言わせぬしぐさで制止する。さっきまで弁論していた訴訟をも ちだし抗議する。緊急で最重要の訴訟なのだ──訴訟はどれも緊急で最重要であるように。

倒れて怪我をしてます。縫合しなくちゃいけません。

傍らには、自分がスカウトし、担当訴訟のアシスタントをしてもらっている若手弁護士 のイネスがいる。若い彼女が、法廷は延期になったと告げる。さっき法律事務所に電話し、 サラのこのあとの予定はすべてずらしたところだ──いつものように、イネスは臨機応変 で効率的、一言にして完璧。心配そうに、病院への付き添いを申し出るが、事務所にもど ってもらう。翌日の召喚の準備を進めてもらうほうが、ずっと役に立つ。

モントリオール大学病院(CHUM)の緊急外来で待ちながらサラは思う。仲良しとか恋人を意味す る略称とは裏腹に、なんて味気ない場所なんだろう。しびれを切らして帰ろうと立ちあが る。額を三針縫うだけのために二時間も待っていられない。絆創膏を貼れば十分、仕事に もどらなければ。医師が追いついて、すわらせられる──検査を受けるために待たなけれ ばならないと言う。サラは抗議するが、仕方なく従う。

ようやくとおされた診察室で、彼女に聴診器をあてるインターンの手は、長くほっそり している。真剣な面持ちだ。たたみかけられる質問に、サラは手短に答える。こんなこと をしていったい何になるのかわからない、自分は元気だと何度も言うが、インターンは診 察をつづける。しまいに自白を迫られた容疑者のように、しぶしぶ認める──たしかに、 このところ疲れている。子供が三人いて、家庭を維持し、冷蔵庫に食料を切らさないよう にしなければならないうえ、フルタイムで働いているのだから無理もないではないか?

一か月前から、朝起きると疲れきっている、とは言わない。毎晩、帰宅し、ロンから子 供たちの一日の様子を聴いたあと、子供たちと夕食をとり、双子を寝かしつけ、アンナに 習ったことを暗唱させると、ソファに倒れ込んで眠ってしまい、買ったばかりの大画面テ レビのリモコンを手に取る暇もなく、結局テレビは見たことがない、ともサラは言わない。

しばらくまえから感じている左胸の痛みについても言わない。たぶん、なんでもない……。いまここで、冷たい顔でのぞき込んでくる見知らぬ白衣の男に、そんな話をする気に はなれない。いまは、そのときではない。

とはいえインターンは懸念する──血圧が低いし、血の気がない。サラはそれを軽くあしらい、はぐらかす。得意技だ。所詮、それが仕事なのだ。法律事務所で誰もが知る冗談 がある──いつ弁護士が嘘をついているとわかる ? それは、弁護士の唇が動くとき。町 で最も狡猾な役人たちを打ち負かしている彼女が、若いインターンなどに倒されはしない。 ちょっと疲れが出ただけ。燃え尽き症候群 ? その言葉に彼女は笑う。ちょっとした疲れ を大仰に言いたて、濫用されぎみの流行語。今朝はあまり食べなかったし、睡眠も足りな かったかもしれない……。セックスも足りてない、とたわむれに言おうとしたが、インタ ーンの厳しい表情にはとっつきにくいものがあり、思いとどまる。残念、顔は悪くないし、 ちいさいメガネで髪がカールしていて、ほとんど好みのタイプと言ってもいいのだが……。 なんならビタミン剤を摂る ? 微笑みながら、特製エネルギードリンクの話をする──コ ーヒー、コニャックにコカイン。効果は抜群、是非お試しになって。

インターンは軽口に乗ってこない。休暇を取って、ゆっくり「骨休み」してはどうかと 言う。サラは声を出して笑う。つまり医者にも冗談が言えるのね……。骨休み? どうや って?  子供たちはeBayで売り払う?  今夜から何も食べない?  クライアントには ストライキを告げる?  彼女がかかえる訴訟には重大な問題がかかっていて、誰かに肩代 わりはさせられない。やめる、という選択肢はない。休暇を取るなんて、どういうことか もわからない、最後に取ったバカンスもよく思い出せない──まえの年か、そのまえの年 ? インターンはわざわざ指摘する気も起こらない空疎な言葉を吐く──誰だって仕事を代わってもらうことはできます。どうやら彼にはジョンソン&ロックウッドのアソシエ イト弁護士のなんたるかがわかっていない。サラ・コーエンの立場がどういうものか、ま ったくわかっていない。

もう行かなければ。インターンは別の検査も受けるように引きとめるが、ふりきる。

とはいえ、彼女は物事を先のばしするタイプではない。学校では優等生で、教師たちか らは「勤勉」と評判だった。直前のつめ込み勉強が嫌いで、彼女自身の言葉をつかえば「先どり」するのが好きだった。週末や長期休暇のはじめはいつも宿題にあて、そのあと 初めて解放された気がした。法律事務所でもつねにほかの者を大きくリードし、だからこれほどのスピード出世を果たしたのだ。何事もぬかりなく、先どりする。

だが、いまはだめ。ここではだめ。 いまは、そのときではない。

だからサラは自分の世界にまいもどる。ミーティングに電話会議、リスト、訴訟記録、 口頭弁論、会議、メモと報告、ビジネスランチ、参考人召喚、行政処分、三人の子供たちの世界に。いつもつけてしっくりしている仮面、何をやっても成功し微笑む女性の仮面をつけて、よき兵士のように前線にもどる。仮面は傷んでいないし、ひびも入っていない。 法律事務所にもどると、イネスとほかの同僚を安心させる──たいしたことではなかった。 そして、すべてがもとどおり動きだす。

数週間後、婦人科定期健診でサラを診察する女医は、たしかに、ここに何かありますね、 と懸念に顔を曇らせることになる。マンモグラフィー、MRI、スキャン、生検、口にするのも憚られる一連の精密検査を受けるよう指示されることになる。検査だけでも診断が出たようなもの。宣告が下ったようなもの。

だがまだそのときではない。サラはインターンの意見をきかず、病院をあとにする。 いまのところ、すべて順調。

話さないかぎり問題は存在しない。

***


仕事場は寝室ほどの広さもない、ベッド一台おくのがやっと。

しかも子供用ベッド。

ここで、私はひとり働く、

くる日もくる日も静けさのなかで。

もちろん機械もあるが仕上がりは厚ぼったい。ここで流れ作業の量産はない。

どれも一点もの。

その一つひとつが私の誇り。

年月とともに、手は私の身体から独立し、勝手に動くようになった。所作は習い覚えても、

速さは長年の経験がものをいう。

もう長く働いている、編み機にかがみ込み 目はかすみ、

身体は疲れ、

リウマチで動かない、それなのに、

指だけは敏捷さを失わない。

時々、心は仕事場を離れ、遠い国へ

見知らぬ人の人生へいざなわれるその人の声が

くぐもった木霊のように届き、私の声と入り混じる。

***

スミタ

インド、ウッタル・プラデーシュ州、バドラプールの村

あばら家に帰ったスミタは、娘の表情にすぐ気がついた。そそくさと巡回を終わらせ、 いつものようにジャート族の残飯を分けに、隣人の家に寄らなかった。井戸へ走り、水を 汲み、籐籠をおいて体を洗った──バケツ一杯だけ、それ以上の水は使えない。ラリータ とナガラジャンに残しておかなければ。毎夕、家に入るまえにスミタは石鹸で体を三回洗 う。このおぞましい悪臭は家に持ち込まない。娘と夫に、この悪臭を自分のにおいだと思 われたくない。このにおい、他人の糞便のにおい、これと同化するところまでは落ちない。 だから手も足も体も顔も、皮がむけるほど力一杯ごしごし洗う。ウッタル・プラデーシュ 州辺境のバドラプールの村はずれにある空き地の片隅で、カーテン代わりのちいさな布切れの陰で体を洗う。

スミタは体を拭き、清潔な服に着替えてあばら家に入る。ラリータは片隅で膝をかかえ てすわっている。じっと地面を見つめている。その顔には母親が見たことのない、なんと もいえない怒りと悲しみの混じった表情が浮かんでいる。

どうしたの ?

少女は答えない。頑なに口をつぐんでいる。 言ってごらん。

話して。

言いなさい!

ラリータは黙ったまま宙の一点を見据えている。まるで彼女にしか見えない想像上の点、 あばら家からも村からもはるか彼方の、誰にも、母親にすら立ち入れないところをじっと 見据えているかのようだ。スミタはいらだつ。

言いなさい!

子供は身をちぢめ、殻に引っ込むカタツムリのよう。肩を揺さぶって怒鳴りつけ、無理 やり話を聞きだせたら苦労はない。だが、スミタは娘を知っている──そんなことをした って何も聞きだせないだろう。腹のなかで蝶がカニに変身した。つよい不安に胸が締めつ けられる。いったい学校で何があったのか ? 知らない世界なのに大事な娘を送り込んだ。 間違いだったのか ? 娘は何をされたのか ?

子供を見る。すると、サリーの背中が破れているようだ。かぎ裂き、そう、かぎ裂きだ!

何をしたの ?

汚れてるじゃないか!

どこをほっつき歩いてたんだ?!

スミタは娘の手を引っぱり壁からはがす。すると、間にあうように寝る暇も惜しんで、何時間もかけて縫った新調のサリー、自慢のサリーが破れ、傷み、汚れている! 破ったのね! 見てごらん!

スミタはかっとして怒鳴り、それから身を硬くした。恐ろしい疑念にとらわれた。ラリ ータを外の日のあたるところに引っぱりだす──あばら家のなかは日がささず薄暗い。サ リーをつかんで脱がせにかかる。ラリータは抵抗せず、少女に大きめの服は簡単に脱げる。 子供の背中を見てぞっとする。赤い縞になっている。打たれた痕。ところどころ皮がむけ て血がにじんでいる。ビンディのように鮮やかな緋色。

誰にやられたの言ってごらん!

誰にぶたれたんだい?!

少女は目を伏せ一言つぶやく。たった一言。 

せんせい。

スミタの顔が紅潮する。首の静脈が怒りで膨張する──浮きあがる青すじにラリータは ぎょっとして怯える。ふだんはとても穏やかな母なのに。スミタは子供をつかんで揺さぶ り、ちいさな裸の体が小枝のように震える。

どうして?

何をしたんだ?!

言うことをきかなかったのかい?!

スミタは怒りを爆発させる。入学したその日に、先生にさからうなんて! きっと、先 生はもう娘を受けいれてくれない、すべての希望は消え、苦労も無駄になった! 彼女は 知っている──それは、便所、はきだめ、他人の糞便への逆もどり。あの籠、娘にはなん としても持たせたくなかった呪われた籠を持たせること……。スミタは乱暴だったことが なく、誰にも手をあげたことがなかったが、にわかに抑えようのない怒りがこみあげる。理性の堰を切って押しよせる未知の感情にのみこまれる。子供をぶつ。ラリータはたたか
れながら身をちぢめ、必死に両手で顔を守ろうとする。

ナガラジャンは畑から帰ってくるところで、庭に悲鳴が聞こえる。いそぐ。妻と娘のあ いだに割って入る。やめろ! スミタ! 妻を押しやって娘を抱く。娘は肩を震わせて泣 いている。その背中の生々しい縞の打ち傷が目にはいる。子供を抱きしめる。

バラモンにさからったんだ、とスミタがわめく。ナガラジャンは腕のなかの娘の顔を見 る。

本当か ?

一瞬の沈黙のあと、口を開いたラリータの言葉に両親は耳を疑う。

教室をそうじしろって言われた。

スミタは身を硬くする。ラリータの声がちいさくて、聞き間違えたのかもしれない。訊き返す。

なんだって?!

みんなのまえで教室をそうじしろって言われた。 

いやです、って言った。

また、たたかれるのを恐れて子供は身をすくめる。まるで恐怖で体がちぢんだように、 ふいにちいさくなる。スミタは息をのむ。娘を引きよせ、きゃしゃな腕で精一杯つよく抱 きしめて泣きはじめる。ラリータはほっと脱力したように母の胸に顔をうずめる。長いあいだ、そうしている母娘を、ナガラジャンは当惑して見つめる。妻が泣くのを見るのは初 めてだ。人生のどんな試練にも、けっしてたじろがず譲歩しない、意志の固いつよい女。 だが今日は違う。痛めつけられ、侮辱された娘を抱きしめ、一緒に子供のように泣いてい る。娘には別の人生を、あれほどつよく願っていたのに、彼女たちの身分を思い知らせる ジャート族やバラモンのせいで、それが叶わない、はかなく消えた希望に涙を流している。

夜、ラリータをなだめてようやく寝かしつけたあと、スミタは怒りを爆発させる。なぜ バラモンの先生はあんなことをしたのか。ラリータがほかの子供、ジャート族の子供と机 を並べることに同意したのに、金を受けとって「よろしい」と言ったのに! 先生もその 家族も、村の中心にある家も、スミタは知っている。毎日、便所のそうじに行くし、奥さんはときどき米をくれる。いったいなぜ ?

ふいにスミタは血の池を思い浮かべる。バラモン階級を擁護するため、ヴィシュヌ神が クシャトリヤの血で満たした五つの池。学者も神官も、人間のいちばん上の階級にあるの がバラモンだ。ラリータなどいじめてどうするのか? 娘は無害で、彼らの知識も地位も脅かしはしないのに、なぜ、こんなふうにわざわざ恥をかかせるのか? なぜ、ほかの子供と同じように読み書きを教えてくれないのか ?

教室のそうじをさせる、その意味は──おまえにはここにいる資格はない。おまえはダ リット、スカヴェンジャー、そのように生まれ、そのように生き、母や祖母のように糞便 にまみれて死ぬ。おまえの子も孫も、子孫もみな同じ。未来永劫、おまえたち不可触民、 人間の屑には、忌まわしい悪臭と他人の糞便、世界中の糞便を集めるよりほかの生き方は 許されない。

ラリータは言いなりにならなかった。いやです、と言った。そう考えるとスミタは娘が 誇らしい。腰掛けほどの背丈もないのに、あの六歳の子供がバラモンの目を見据えて言っ た──いやです。バラモンは子供をつかみ、教室の真ん中で、ほかの子供のまえで籐の鞭で打った。ラリータは泣きも叫びもせず黙っていた。昼食の時間には、スミタが娘のため に支度した鉄の弁当箱をとりあげ、食事をさせなかった。すわることも許されず、ほかの 子供が食べるのを見ているしかなかった。彼女は欲しがりもねだりもしなかった。ひとり 立っていた。毅然として。そう、スミタは娘が誇らしい。たしかにネズミを食べているか もしれないが、娘はバラモンとジャート族が寄ってたかっても、手なずけられず、押しつ ぶされない力がある。打ちのめされ傷だらけになっても、娘の内側は変わらずそこにある。 無傷のまま。

ナガラジャンは妻のようには考えない。ラリータは言われたとおり、そうじをすべきだ った。所詮たいしたことではない。籐の鞭で打たれるより、ましじゃないか……。スミタは爆発する。どうしてそんなことが言えるの 学校は勉強するところで、子供を奴隷のように働かせるところではない。バラモンに話をつけにいく。どこに住んでいるかは知っ ているし、裏口だって知っている、毎日、籠を持って汚物のそうじにかよっているのだか ら……。ナガラジャンは思いとどまらせる。バラモンに歯向かったところで、どうにもな らない。ずっと力があるのだ。みんな彼女より力がある。学校に行きたかったら、ラリー タは嫌なことも我慢しなくちゃならない。読み書きを習うには、それだけの対価を払わな くては。この世界で身の丈以上のことをするには、それなりの罰を受ける。ここでは何もただでは手に入らない。

スミタは怒りに震え、夫の顔をまじまじと見つめる。娘をバラモンの生け贄にはしない。なんてことを考えるの? どうしてそんなことを思いつけるの 全世界を敵にまわしても娘を守ってやるべきなのに──それが父のつとめではないか ? スミタは娘を学校にや るくらいなら死んだほうがましだ。ラリータはもう学校へは行かない。弱い者、女、子供、 庇護すべき者すべてを押しつぶしにかかるこの社会を、スミタは呪う。

いいだろう、ナガラジャンは答える。ラリータは学校へ行かない。スミタは明日から娘 を連れて巡回に行く。母から、祖母から受け継いだ仕事を教えるんだ。娘に籠を譲り渡す。 所詮、何世紀もまえから一族の女たちがしてきた仕事。それが娘のダルマ。スミタが娘に 別の人生を望んだのは間違いだった。定められた道をはずれようとして、バラモンに鞭で 打たれ追いもどされた。もう話すことはない。

その晩、スミタはヴィシュヌ神をまつるちいさな祭壇のまえで祈る。眠れないことはわ かっている。五つの血の池を思い、幾世紀にもわたるくびきから逃れるために、自分たち 不可触民の血で、いったいいくつの池を満たせばよいのだろう、と考える。自分のような者は何百万もいる。あきらめて死を待つ大勢の人々。来世では何もかも良くなる、輪廻が終わるに越したことはないけれど、と母は言っていた。涅槃(ニルヴァナ)、それが母の望んでいた究極の目的地。聖なる河、ガンジス河の畔で死ぬのが夢だった。そうすれば輪廻から解放され るという。もはや生まれ変わることなく絶対の宇宙にとけ込む、それが至上の目標だ。そ んなチャンスに恵まれる者はめったにいない、と母は言っていた。たいていは何度でも生 まれ変わる運命にある。神の摂理は受けいれるしかない。そういうものだ──来世で報わ れる。

来世を待ちながら、ダリットは黙って服従する。

だが、スミタは違う。今日は違う。

自分のことなら酷薄な宿命として受けいれた。だが、娘はそうはさせない。夫がすでに 寝息をたてる暗いあばら家の真ん中の、ヴィシュヌ神をまつる祭壇のまえで、そう誓う。 いいや、ラリータはそうはさせない。スミタのひっそりした反逆心は見えも聞こえもしな い。

だが、そこにある。


ジュリア

シチリア、パレルモ

まるで『眠れる森の美女』、父を見ながらジュリアは思う。

父が病院の白いベッドに寝かされて一週間になる。容体は変わらない。王子が眠りを覚 ましに来るのを待つ姫のように、すやすや眠り込んでいる。ジュリアは子供のとき、夜に父が読んでくれた『眠れる森の美女』の物語を思い浮かべる。父は野太い声で──姫に呪いをかける──魔女のせりふを読んだものだ。数えきれないほど読んでもらったけれど、 最後に姫が目覚めるくだりでは、いつもほっとしたものだ。日が暮れたあとの家に響く、 父の声が大好きだった。

その声はとだえた。

いまパッパのまわりにあるのは静寂ばかり。

作業場を再開しなければならなかった。従業員全員がジュリアを支え、それを行動でしめしてくれた。ジーナはジュリアの大好物カッサータをつくってくれた。アニェーゼはマンマにチョコレートを買って来た。ノンナは病院の父の付き添いを交代しようと申し出てくれた。アレッシアは教会参事会員の兄に頼んで、聖カテリナに祈願しても らった。ジュリアをとりまくちいさなコミュニティーの全員が、悲嘆にしずむのを拒み、 そばで支えてくれる。彼女たちのまえで、若いジュリアは父がいつもそうだったように前 向きでいたい。父はそのうち昏睡から覚めると確信している。ここの主に復帰する。いま は括弧でくくられた、しばしの宙吊り状態にすぎない、と自分に言いきかせる。

毎夕、作業場を閉めたあと、父の枕もとを訪れる。父に読み聴かせするのが習慣になっ た──医者によれば、昏睡状態の患者にはまわりで話していることが聞こえているという。 だからジュリアは詩や散文、小説を何時間も声に出して読む。今度はわたしが読んであげ る番、と思う。父にはずいぶん読んでもらった。パッパの意識がどこにあろうと、聞いていてくれるはず。

その日、ジュリアは父に読む本を借りようと、昼休みに図書館へ行く。静寂につつまれ た閲覧室に入ると不思議なことが起こる。最初は本棚に隠れていてわからない。ふいに、 目に入る。

彼だ。

ターバン男。

聖ロザリア祭の日、通りにいたターバンの男。

ジュリアは呆然とする。見知らぬ男はこちらに背を向けている──顔が見えない。男は 別の棚へ移動する。ジュリアは気になって、あとをつける。男が本を取りだしたとき、ようやく顔が見える──たしかに彼、通りで憲兵隊に捕まったあのひと……。探し物が見つからないようだ。偶然のことに動揺し、ジュリアはしばらく見つめている。向こうは気づ かない。

思いきって近づく。どう話しかけていいかわからない──ふだん男に声をかけたりしない。たいてい、話しかけてくるのは男たちだ。ジュリアは美人、とよく言われる。立ち居 ふるまいは男の子っぽいが、あどけなさと色っぽさを同時に漂わせる彼女を、典型的な男 族は放っておけない。女の子がとおると目を輝かせるおなじみのタイプ。甘い言葉、くり かえされる決まり文句、イタリア男にはその天性がある──行きつく先はわかっている。 それなのに、自分でも思いがけず大胆になる。

こんにちは。

見知らぬ男は、はっとふり向く。彼女を憶えていないようだ。ジュリアは気おくれし、 一瞬、間をおく。

このまえ、お祭りで見かけたんです。あの警官たち……。

急に気まずくなって口ごもる。あの一件の話で、ばつの悪い思いをさせてしまったら…… ? 自分の大胆さを、もう後悔している。消えてしまいたい、声なんてかけるんじゃな かった。だが、男がうなずく。彼女のことを思い出したようだ。

ジュリアは言葉をつづける。

心配したんです……刑務所に入れられるんじゃないかって。

男は微笑む。その表情には純真さと面白がっている様子がある──心配してくれたらし いけど、この女の子はいったい誰 ?

夕方まで引きとめられた。それから帰らせてくれた。

ジュリアは男の顔をまぢかで見つめる。肌の色は濃いが、瞳の色が信じられないくらい 薄いのが、いまはっきりわかる。緑がかった青──でなきゃ、青みがかった緑。不思議な 色合いだ。彼女は気が大きくなる。

お手伝いしましょうか ?

このコーナーはよく知っているんです。 

 探している本があるの ?

男はイタリア語の本を探していると言う──何か、あまり難しくないもの。イタリア語はふつうに話せても、読み書きがまだおぼつかない。上達したい。ジュリアはうなずく。 イタリア文学の棚へ連れて行く。彼女は迷う──現代作家はとっつきにくいかもしれない。結局、子供のころよく読んだサルガーリの小説を薦める──お気に入りの『空の息子たち』。男は本を受け取り礼を言う。ここの男なら誰だって、彼女を引きとめ会話を始める ところだ。これを好機と口説きにかかるところだ。彼は違う。ただ、さようならを言って 遠ざかる。

借りたばかりの本をたずさえ、図書館を出る男を見送りながら、ジュリアは胸が締めつ けられる。追いかける勇気がないのがもどかしい。ここでは、そんなことはするものでは ない。会ったばかりの男を追いかけ回すものではない。いつも頬杖ついて傍観するだけで、 自分から行動を起こさない女の子なのが恨めしい。この瞬間、度胸がない受け身の自分を 呪う。

もちろん、すくなからぬ男友達、恋のたわむれ、いくつかの恋愛沙汰はあった。人目を 忍んでの口づけや愛撫もあった。ジュリアは受け身で相手の熱意に応じるだけ。気に入ら れようと努力したことはない。

作業場への帰路、男のことを思い浮かべる。男に現代離れした雰囲気をあたえる、あの ターバンを。ターバンの下に隠された髪を。皺くちゃのシャツの下の体も。そこまで考え、 顔を赤らめる。

翌日、ひそかな期待に胸をときめかせ、また図書館に来る。とはいえ、その日は別に本 が必要ではない。パッパに読んでいる本はまだ終わっていない。閲覧室を進み、突然、硬 直する──あのひとがいる。昨日と同じ場所に。待っていたかのようにこちらを見る。そ の瞬間、ジュリアは心臓がとび出すかと思う。

こちらに歩み寄り、温かく甘い息が感じられるくらいそばに来る。薦めてもらった本の お礼をしたかった。何を贈ればいいかわからなくて、勤めている農協でつくっているオリ ーヴオイルの小瓶を持ってきた。ジュリアは感動して相手を見あげる──彼には柔和さと 威厳が同居していて、動揺させられる。男にこんなに心を乱されるのは初めてだ。

驚いた顔で小瓶を受け取る。自分でオリーヴの実を収穫し、搾ったのだと言う。彼が行 きかけたとき、ジュリアは勇気を奮い起こす。頬をほてらせ、一緒に歩かないかと誘う。 どこか、防波堤でも……。海がそばで、天気もいいし……。

男は間をおいたあと、誘いを受ける。

カマルジット・シン──それが彼の名前──は口数がすくない。そんな些細なことに、 ジュリアは驚く。というのも、ここの男たちはおしゃべりで、自分の話をして悦に入って いる。それを聴くのが女の役目。母が言うように、男の顔をたててやらなければ。カマル は違う。気軽に打ち明け話をしない。とはいえ、ジュリアには身の上を話してくれる。

シク教徒の彼は、迫害を逃れて二十歳でカシミール地方を離れた。インド軍が分離独立 派を弾圧し、黄金寺院にたてこもったシク教徒を虐殺した一九八四年の事件以降、彼らは 脅威にさらされる。カマルは凍てつく夜に、ひとりでシチリアに到着した──成年に達し た子供を西側に送る親は多い。シチリア島にある大きなシク教徒コミュニティーに受けい れられた。イタリアは、イギリスに次ぐ最大のシク教徒受入国だという。安価な労働者を斡旋する組 織の仲介で働きはじめる。手配師がどのように不法滞在者をかりだし、現場
まで移動させるか語って聴かせる。移動にかかる費用や、支給される水や質素なパニーニ の代金は給料から差し引かれ、ときには半分しか残らない。カマルは時給一、二ユーロで 働いたのを憶えている。ここの土が産み出すあらゆるものを収穫した──レモン、オリーヴ、ミニトマト、オレンジ、アーティチョーク、ズッキーニ、アーモンド……。労働条件 は交渉の余地がなかった。手配師の出す条件をのまなければ仕事はない。

ついに忍耐は報われた──不法滞在者として三年すごしたあと、カマルは難民と認定さ れ、永住許可証を取得した。オリーヴオイルを生産する農協の夜勤の口を見つけた。仕事 は気に入っている。熊手のような道具でオリーヴの枝をすき、実を傷めずに収穫するのだ と話してくれる。樹齢千年を超えることもあるオリーヴの木にかこまれているのが好きだ。 老木に圧倒される、と言う。オリーヴは高貴な食べ物、平和のシンボル、と微笑みながら 話をしめくくる。

役所から正規滞在者と認められたからといって、この土地からもまた受けいれられたわ けではない。シチリア社会は移民を遠巻きに眺め、ふたつの世界は言葉を交わさず共存す る。カマルは故郷に帰りたいと認める。そう話すとき、大きなコートをまとったように悲 しみのヴェールにつつまれる。

ジュリアはその日、作業場に二時間遅刻する。心配したノンナを安心させるため、自転車のタイヤがパンクしたと嘯く。

真実は言わない──自転車は無傷でも、心は千々に乱れている。


サラ

カナダ、モントリオール

爆弾が投下された。それがたったいま爆発したのは、ニュースをどう伝えてよいかわか らないやや不器用な医師の診察室。とはいえ医師は新米ではなく、何年も経験を積んでい るが、それでも慣れない。患者に同情しすぎるのかもしれない。若い患者もそうでない患者も、恐ろしい言葉を告げられ、数分にして人生がぐらりと大きく傾くのを目のあたりに する。

BRCA2。その後、サラは突然変異遺伝子の名を知ることになる。アシュケナージの女性にかけられた呪い。まだ足りなかったとでもいうのか、とサラは思う。ポグロムがあり、ショアーがあった。なぜ、また自分たちばかり? その後、医療関係の記事にはっきり書いてある のを読む──アシュケナージのユダヤ人女性は四十人に一人の確率で乳癌を発病するが、 世界全体の発病率は五百人に一人。科学的に証明された事実。確率を高める要因がある──血縁の罹患者、双子の出産……。兆候はすべて、あまりに歴然としていた、とサラは考 える。それを見なかった。あるいは見ようとしなかった。

目のまえの医師は眉毛が黒く毛むくじゃらだ。サラはつい見入ってしまう──奇妙だ、 よく知らないこの男が、レントゲン写真上のミカン大だという腫瘍について話しているの に、言われていることが頭に入ってこない。はっきりわかるのはただ色濃くもじゃもじゃ の眉毛、野生動物がうごめく領域のような眉毛、耳から出ている毛もある。数か月後、サ ラがこの日をふりかえるとき、まず最初に思い浮かぶのが眉毛──その持ち主の医師から 癌を告知されている。

もちろん医師はその言葉は口にしない。誰も口に出さない言葉。まわりくどい言い回しや、よくのみ込めない医学用語の裏に察すべき言葉。まるで汚い言葉、禁忌、呪いのよう。 とはいえそれが問題なのだ。

ミカン大、と医師は言った。ここです。ここにあります。サラは期限を先にのばすため、 ずきずきする痛み、極端な疲労を認めないように、できるだけのことをした。予感がした とき、口にできた──すべきだった ? ──ときは、いつも考えを頭から追い払ったが、今 日は正面から向き合わなければならない。ここに、たしかにある。

ミカンなんて、サラにはもの凄く大きく、また、ちっぽけにも思える。それにしても、 病には卑劣にも、いちばん来てほしくないときに捕まってしまったと思わずにはいられな い。腫瘍は悪性で、ひそかに陰で進行し、この機にそなえていた。

サラは医師の話に耳を傾け、唇が動くのを見つめるが、ぶ厚い防音ガラス越しのように、 所詮、自分には関係ないことのように、言葉が届いてこない。これが親しい人のことなら 心配し、取り乱し、泣き崩れているところだ。奇妙にも、自分のことだとなんでもない。 医師の話を、まるでほかの誰か、赤の他人のことのように話半分に聴いている。

面談の終わりに、質問はないか尋ねられる。サラは首をふって微笑む。おなじみの微笑 み、どんな場面でも浮かべる微笑の意味は──「ご心配なく、大丈夫」。それはもちろん見せかけで、仮面の裏には悲しみ、疑念、不安をため込んでいる──まったくのところ、 内側は滅茶苦茶に散らかっている。外からは何も見えない。サラの微笑はすべすべしてい て優雅で完璧だ。

残された可能性は、医師に尋ねない。自分の未来を統計データに還元したくない。知り たがる人もいる。彼女はそうではない。意識や想像のなかに数字を不当に介入させはしない。それは腫瘍それじたいと同じように増殖し、気力、自信、快復を蝕みかねない。

法律事務所にもどるタクシーのなかで、現状整理のリストをつくる。彼女は女戦士。こ れから戦うことになる。サラ・コーエンはこの件を、ほかのすべての案件と同じように処 理する。訴訟でけっして負けない(負けても、ごく稀な)彼女が、いかに悪性とはいえ、 ミカンごときに動じはしない。この「サラ・コーエン対M」訴訟では、というのもこれが コードネームとなるからだが、攻撃あり、反撃あり、おそらく卑劣な手も使われるだろう。 ミカンは性悪で、そう簡単に降参する敵ではなく、これまで対決してきたなかで、間違い なく最も手ごわい相手となるだろう。それは持久戦、神経戦であり、希望の瞬間、疑い、 そして負けたと思う瞬間が入れかわり立ちかわりするだろう。なんとしてももちこたえな ければ。この手の戦いでは持久力がものをいうのを、サラは知っている。

訴訟の対策を練るように、病を攻撃するおおまかな戦略を立てていく。何も言うまい。 誰にも。法律事務所には、何も知られてはいけない。事が発覚すれば、スタッフばかりか クライアントにもショックをあたえる。いらぬ心配をさせかねない。サラは法律事務所の 土台の一部、大黒柱のひとつ、組織全体がぐらつかないよう、しっかりしていなくては。 それに、他人の憐れみや同情はいらない。病気ではあるが生活が一変するわけではない。 疑いを起こさせないように、用意周到に動かねば、スケジュールに記入する病院での治療 にかわる暗号を考えなければ、不在を正当化する理由を見つけなければ。創造性と周到さ、 相手の裏をかく巧妙さの見せどころ。スパイ小説のヒロインのように、サラは地下で戦い をリードする。どこかしら婚姻外の関係を隠すのに似て、サラは病気の匿名性を注意深く 守ることになる。生活を小分けにするすべは、何年も実践してきてお手のものだ。ますま す高い壁の建設をつづけるまでのこと。結局、妊娠は隠しおおせたのだから、癌を隠すこ ともできるだろう。これは秘密の子供、誰にも存在を気取られてはいけない隠し子。秘め られた不可視の子供。

法律事務所にもどると、サラはふだんの業務を再開する。同僚の反応、視線、声の抑揚 をこっそりうかがう。誰も何も気づいていないと確認し、安堵する。額に「癌」とは書かれていないし、病気だとは誰にもわからない。

内側は細切れになっているが、知る者はいない。


スミタ

インド、ウッタル・プラデーシュ州、バドラプールの村

出て行く。

考えは天命のようにスミタに下る。村を出るしかない。

ラリータは学校へ行かない。クラスメートのまえでそうじを拒否し、先生に鞭で打たれ た。将来、クラスメートは農夫となり、娘がその便所を汲みとる。そんなことは、もって のほかだ。スミタには受けいれられない。隣り村の診療所で会った医者によれば、ガンジ ーが言ったそうだ──「誰であれ人間の排泄物を手でさわるべきではない」。どうやらマハトマは、不可触民のあり方が憲法違反で人権侵害だと断言したようだが、当時から何も 変わっていない。ほとんどのダリットは黙って運命を受けいれている。ダリットの精神的 指導者ババサヘブにならって仏教徒になり、カースト制度を逃れる者もいる。何千人も参 加する集団改宗の儀式の話を聞いたことがある。当局の権力を弱体化させるこうした改宗 の動きを阻止するため、反改宗の法律さえつくられた──改宗希望者は、許可を取らなけ ればならず、そのために罪に問われる。なんという皮肉──獄吏に脱獄の許可を乞うよう なものだ。

スミタは改宗する気にはなれない。両親が崇拝していた神々に愛着がある。何より、生 まれたときから朝晩祈りを捧げている、ヴィシュヌ神のご加護を信じている。夢も疑念も 希望もヴィシュヌ神に託している。捨てるのはあまりにつらく、ヴィシュヌ神がいなくな れば、心にぽっかり埋めようのない穴があくだろう。両親が死んだときより、もっと寄るべない孤児のような気持ちになるだろう。一方、生まれ育ったこの村にはなんの愛着もない。くる日もくる日もそうじしなければならないこの汚れた土地は、ナガラジャンが晩に 持ち帰るしけた獲物、飢えたネズミのほか、何ももたらしてくれない。

この場所を逃れ、出て行く。それが唯一の道だ。

朝、ナガラジャンを起こす。彼女はちっとも休まらなかったのに、彼はぐっすり眠った。 夫の安らかな眠りが羨ましい──夜は何があっても水面を波立たせない湖のよう。一方、 彼女は何時間も寝返りをうちつづける。暗闇は苦悩から解放してくれるどころか、それを 増幅させ、恐ろしい木霊を響かせる。闇のなかでは何もかも劇的で取りかえしがつかない ように見える。胸を騒がす不穏な思考の渦がとまるよう、しばしば祈る。ときには一晩中、 目が冴えている。人間は眠りのまえでは平等ではない。人間はなんのまえでも平等ではない。

ナガラジャンはぶつぶつ言いながら目を覚ます。スミタは夫を布団から引きはがす。考 えたんだ──村を出るしかない。奪われるばかりのこんな生活には見込みがない。ラリー タの人生は始まったばかり、まだ遅くない。娘にはすべてあるが、そのうちほかの者たち に奪われる。スミタはそんなことはさせない。

妻はたわごとを言っている、また眠れなかったんだ、とナガラジャンは思う。スミタは せっつく──都会に出なくては。向こうには、学校や大学にもダリットの枠があるらしい。 自分たちのような者のための枠。向こうならラリータにもチャンスがある。ナガラジャン は首をふる。都会なんて幻想、くだらない夢だ。ダリットは都会で浮浪者になって、歩道 にたむろするか、町はずれに、足のいぼのように増殖する貧民街にかたまっているんだ。 ここなら、住む場所も食べる物もある。スミタは逆上する──ネズミを食べ、糞便を集め ているじゃないか。向こうなら、仕事を見つけて人間らしく暮らせる。どんな困難もはね のけてみせる、勇気はあるし、へこたれないし、もらえる仕事はなんだってしよう、なん だって、こんな生活よりはましだ。彼女は懇願する。自分のため。家族のため。ラリータ のために。

ナガラジャンはすっかり目が覚めた。妻は正気を失ったんだろうか 人生を思いどおりにできると思っているのだろうか? しばらくまえに村を騒がせた事件の話をもちだす。 近所のダリットの娘が、勉強するため都会へ出る決心をした。田園地帯を逃げる娘はジャ ート族に捕らえられた。人里離れた畑へ連れて行かれ、八人がかりで二日にわたって強姦された。両親のもとに帰ったときは満足に歩けなかった。両親はこのあたりの権威である 村の委員会、パンチャヤットに訴え出た。もちろん、委員会はジャート族が仕切っている。 本来いるべき女性もダリットも入っていない。委員会の決定は、たとえそれがインド憲法 に反していても、法の力をもつ。この非公式の法廷が問題にされたことはない。委員会は 娘の家族に、訴えを撤回すれば賠償金として幾ばくかの金をあたえようと提案したが、娘 は金を受けとるのは恥だ、と拒絶した。はじめ娘の肩をもとうとした父親は、しまいに村 の圧力に屈して自殺し、あとに遺された家族は生計を失い、妻は恐ろしい寡婦の境遇に陥った。母親と子供たちは村のつまはじきとなり、家を追われた。道路わきの溝で赤貧状態 で朽ち果てた。

その事件ならスミタも知っている。わざわざ思い出させてくれるにはおよばない。ここ では、この国では、強姦は被害者の罪になる。女に敬意は払われず、これが不可触民なら なおさらのこと。触れても見てもいけないはずの者を、恥ずかしげもなく強姦する。借金 を返せない男を罰するのに、妻を強姦する。人妻に手を出した男を罰するときは、姉妹を 強姦する。強姦は強力な武器、大量破壊兵器だ。伝染病だとも言われる。最近、近くの村 の委員会が下した決定が噂の種になった──若い女ふたりが村の広場で全裸にされ、強姦 されるという宣告で、それは彼女らの兄が人妻、しかも自分より上のカーストの人妻と駆 け落ちした罪を贖うためだった。宣告は実行された。

ナガラジャンはスミタを諭そうとする──逃げれば、必ず恐ろしい報復が待っている。 ラリータだってひどい目にあう。子供だからといって容赦はされない。ふたりとも強姦さ れ、木に吊るされるだろう。先月、隣り村でダリットの娘ふたりがされたように。スミタは数字を聞いてぞっとしたことがある──この国では、毎年二百万人の女性が殺される。 二百万人の女たちが男の蛮行の犠牲となり、世間の無関心のなかで死んでいく。全世界は 気にもかけない。世界から見捨てられている。

そんな暴虐と凄まじい憎悪をまえに、自分を誰だと思っているんだ ? 身をかわせると思っているのか ? そんなに自分がつよいと思っているのか ?

恐ろしい話をだされてもスミタは頑として考えを変えない。夜なか、みんなで出発しよ う。こっそり手はずはととのえておく。ここから百キロ離れた聖都ヴァラナシへ行き、そ こから列車でインドを縦断しチェンナイへ行こう──向こうには母のいとこが住んでいて、 助けてくれるだろう。町は海辺にあって、聞いた話では、彼女のようなスカヴェンジャー のために、漁師のコミュニティーを創った人がいるそうだ。ダリットの子供の学校もある。 ラリータは読み書きできるようになる。仕事も見つかるだろう。もうネズミを食べなくて もよくなる。

ナガラジャンは信じられない顔でスミタをまじまじと見る──移動にかかる金はどうするんだ?! 列車の切符は全財産積んだって買えない。なけなしの貯金はラリータを学校に入れるため、バラモンにあげてしまったから、もう何も残っていない。スミタは声をひそめる──幾晩も眠らず憔悴しているが、あばら家の薄暗がりで奇妙にも、かつてないほど つよく見える。あのお金は取りもどす。どこにあるかはわかっている。便所を汲みとりに 行ったとき、バラモンの妻が金を台所にしまうのを、いちど見たことがある。あの家には 毎日行っているんだ、ちょっとの隙さえあれば……。ナガラジャンは爆発する──いったいどんなアシュラにとり憑かれたんだ?!? そんな大それた計画は彼女だけでなく家族全員の命取りになる! そんないかれた計画にのるより、一生ネズミを捕って熱病になるほうが、よほどましだ! スミタが捕まれば、家族全員が最悪のかたちで命を 落とす。そんな危険な賭けは考えるだけ無駄。チェンナイに行っても希望はない、どこへ行っても同じこと。希望はこの世にはなく来世にある。善いおこないをしていれば、次に生まれ変わるとき、寛大なおはからいがあるかもしれない──ひそかに、ナガラジャンは ネズミに生まれ変わることを夢見ている。畑で素手で捕まえ、毎晩炙る野暮な飢えたネズ ミではなく、デシュノクの寺院にいる聖なるネズミだ。パキスタンとの国境に近いその寺 院に、子供のころ父に連れられていちど行ったことがある──寺院のドブネズミはその数 二万。神とみなされ大事に保護され、人々は乳をお供えする。神官はネズミたちの見守り 役である──各地から人々がお供え物を奉納しに訪れる。ナガラジャンは父が話してくれた、女神カルミナタの話を憶えている──喪ったわが子を返してほしいと懇願したが、子 供はネズミに生まれ変わった。寺院は喪った息子をまつるために建立された。くる日もく る日も畑でネズミを追うあまり、ナガラジャンはこれを憎からず思うようになり、奇妙に も親近感をいだくようになった。それは、正義の味方が一生追いつづけた悪党に一目おく ようになるのとどこか似ていた。つまるところ、この生き物は自分に似ている──腹をす かせ、必死に生きのびようとしている。そう、デシュノクの寺院のネズミに生まれ変わり、 乳を飲んで暮らせたら、なんと安穏だろう。一日の労働のあと、そう夢想して心地よく眠 りにつくこともある。子守唄にしては奇妙だが、かまわない、彼にはそれが子守唄なのだ。

スミタは来世まで待つ気など毛頭なく、大事なのはいまのこの人生、自分とラリータの 人生だ。ダリット出身で国家の頂点にのぼりつめた女クマリ・マヤワティ、いまでは国い ちばんの女資産家の話をだす。知事になった不可触民! ヘリコプターで移動するという。 彼女は黙って服従などしなかった。死んでこの世から解放されることなど待たず、自分の ため、同輩のために戦った。ナガラジャンはいらだちをつのらせる。スミタだって、何も 変わっていないのを知っているはず、あの女はダリット擁護を説いて高い地位までのぼり つめたら、あとは知らん顔。見捨てられたんだ。あの女は空を飛び、ダリットは糞便のな かを這いずり回る、それが事実だ! マヤワティもほかの者も、誰もここから、この人生 から、カルマから引きあげてはくれず、死だけが解放してくれる。それまでは、ここに、 生まれ育ったこの村にいるんだ。鉈のように言葉をたたきつけると、ナガラジャンはあばら家を出て行く。

いいだろう、とスミタはひとりごちる。行きたくないなら、あんたはおいて出て行く。

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三つ編み』は早川書房より好評発売中です。

◎著者インタビュー
フランスで100万部「女の生き辛さ」わかる小説 『三つ編み』が描いた女性の葛藤と強さ」(東洋経済オンライン2019年6月7日)
「人間が好きならフェミニストなはず」フランスで100万部突破「三つ編み」の著者、日本を思う。」(ハフポスト2019年4月24日)

◎本書の紹介・抜粋記事
黙らなかった女性たちをつなぐ物語(あらすじ紹介)」
フランスで100万部、女性たちにエールを送る小説『三つ編み』(レティシア・コロンバニ、齋藤可津子訳)訳者あとがき
抵抗する者たちの物語――『三つ編み』レビュー(河出真美〔梅田 蔦屋書店 洋書コンシェルジュ〕)

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■著者紹介

写真:(C) Celine Nieszawer

レティシア・コロンバニ Laetitia Colombani
フランス・ボルドー生まれ。映画監督、脚本家、女優。監督作品に、オドレイ・トトゥ主演『愛してる、愛してない…』(日本公開2003年)などがある。初の小説である本書は、刊行前から16言語で翻訳権が売れて話題をあつめ、
2017年春の刊行後にはまたたく間にベストセラーとなり、フランスで85万部を突破、32言語で翻訳が決まった。著者自身の脚本・監督による映画化が進められている。

■訳者略歴
齋藤可津子(さいとう・かつこ)
翻訳家。一橋大学大学院言語社会研究科博士課程中退。訳書に、ジャン=イヴ・ベルトー編『マドモアゼルSの恋文』、タハール・ベン=ジェルーン『アラブの春は終わらない』、サルワ・アル・ネイミ『蜜の証拠』がある。


◎著者インタビュー
「人間が好きならフェミニストなはず」フランスで100万部突破「三つ編み」の著者、日本を思う。」(ハフポスト2019年4月24日)

◎レビュー
佐々涼子「日本では、強い女の子は圧倒的に損なのだ。なぜか?
河出真美「抵抗する者たちの物語

◎本書の紹介・抜粋記事
黙らなかった女性たちをつなぐ物語(あらすじ紹介)」
怒りと祈りが私たちをつなぐ(冒頭の試し読み)」
フランスで100万部、女性たちにエールを送る小説『三つ編み』(レティシア・コロンバニ、齋藤可津子訳)訳者あとがき」

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