小川楽喜『標本作家』第二章② ラダガスト・サフィールド 二十世紀のファンタジー作家
(第8節はこちらの記事に掲載しています。)
9
ラダガスト・サフィールド。二十世紀のファンタジー作家。
人類史でもっとも偉大な幻想文学をたちあげた作家です。現実には存在しない架空の世界を創造し、それにもとづく神秘的な物語を発表しました。かつては彼の個人的な夢想にすぎなかったものが、人類全体の巨大な夢へと変貌していったのです。
人は、事実にそったことのみを著述してきたわけではありません。古来からの神話、民話、伝承などで、神や悪魔という超常的な存在について語りもすれば、宇宙という概念がまだ無かったころから、それに近しい世界観をも構築し、どこまでも遠く高く、想像の翼をひろげてきました。幻想文学──それは、人間という生き物が現実と現実ではないものとのあいだで揺れ動き、その双方から美しいものや価値のあるもの、魅力的なものを取りだしてきた成果の別名なのではないでしょうか。そしてラダガストは、人間のこうした特性の申し子のような人物なのでした。
彼の創った、架空の世界──〈はざまにて沈まざりし地〉は、高度な科学文明が興っていないかわりに、さまざまな魔法や、妖精、神々、その末裔、また神に仇なす一族などが混沌として入りみだれる大陸です。人類もまたそこで複数の国家をきずきました。王国や騎士、魔法使い、英雄の運命をうたう吟遊詩人といった、中世から近世にかけての社会様式と、そこから想起される幻影のような──意図的な錯誤もふくむ──イメージが結びついて、不可思議な文化を形成しています。妖精との交流。海の上に浮かぶ古城。いずれかが刃こぼれすると、それ以外の切れ味が増す、十本でひとそろいの剣。天空を飛翔する竜。その竜を封じるために造られた神々の宮殿。呪われた書物によって舞姫以外の人間が消え失せた都。黄金をもたらす稲光。巨人がその身の一部を埋めることで、拡張・増設されていく地下迷宮。いつまでもおさまらぬ地震と、その上に建てられた硝子細工の礼拝堂。百人の王が同時に統治する小国。──その他、現実にはありえない自然環境や、街並、異郷、奇妙な光景がひろがっています。
こうした架空の世界を舞台にして物語を書きおろす小説家は、ラダガストより前にも存在しました。が、彼の場合、その作りこみかたが一線を画していました。たとえば言語。これまでの作家は、たとえ現実とは異なる世界を創造しても、そこで交わされている言葉がどういったものかにまでは気をつかいませんでした。ラダガストは作りました。英語でもフランス語でもなく、現実には存在しない架空の言語を〈はざまにて沈まざりし地〉のために、わざわざ用意したのです。それも一種類ではなく、四十二種類。
それらの読み書き、文法、発話方法、すべてしっかりと設定されています。言語学者の目からみても不自然なところはありません。人間のもちいる言語、妖精のもちいる言語、神のもちいる言語、それぞれが成立しており、それらを使用することでどういった文化が生じるのかまでラダガストは考察を深めていました。
〈はざまにて沈まざりし地〉のために用意されたものは、言語だけではありません。神話、歴史、風土、動植物、建築技術、魔法の体系、ほかにも諸々ありますが、それらはすべてラダガストの創作した、架空のものです。無論、何もかもをゼロから作ったわけではなく、参考にした資料はあったのでしょう。特に北欧神話やケルト神話の影響を強く受けているという指摘はたびたびされています。またキリスト教の世界観にも通じるところがあるという分析もされています。じっさい、ラダガストは敬虔なクリスチャンでした。
架空の世界を創るという行為において、彼はそれまでの作家とは次元が違いました。ラダガストの登場をもって近代以降の幻想小説の潮流が生まれたといっても過言ではありません。彼の代表作〈第一の音楽の物語〉は世界じゅうで絶賛され、その背景世界である〈はざまにて沈まざりし地〉の神秘性、そして物語の文学性は高く評価されましたが、それすらも彼の思い描いた壮大な歴史の一幕にすぎないのです。
〈終古の人籃〉にやってきてからも、ラダガストは〈はざまにて沈まざりし地〉にまつわる創作をつづけました。彼は玲伎種と取引することで、それまでは保留にしていた架空の事物の考案にも乗りだしました。そのなかでも彼に大きな転機をもたらしたのが、架空の病気の創作です。彼は、呪いにも似た病を考案するにあたって、自分自身でそれを体験しようとしました。リアリティを高めるためです。玲伎種に依頼し、おのれの想像したとおりの病を再現してもらい、結果、記憶と聴覚に深刻なダメージを受けました。
「後悔はしておらんよ」
いつか、私がこの件に関して訊ねたとき、彼はそう答えました。「物語の登場人物だけ病に罹らせて、書き手の私がその苦しみを知らんなぞ、フェアではなかろう。これで良かったと思っている。おかげで、どのように苦しいかを正確に著述できるのだからな」
ラダガスト・サフィールドは、車椅子に坐った老人の姿をしています。〈終古の人籃〉では、その作家の全盛期か、もしくはその作家自身がそうありたいと願った当時の姿で収容されます。彼の全盛期は〈第一の音楽の物語〉を執筆した五十代のころかもしれませんが、かといって創作活動の質も量も晩年まで衰えず、むしろ、ますます冴えわたっていたので、八十歳をすぎた老人としての彼の姿にも違和感はありませんでした。
バーバラ・バートンよりも外見的には年上で、この館でもっとも肉体が老いています。車椅子なのは、生前に事故に遭って以来、うまく歩行できないからで、それは不死固定化処置によっても(本人の意思で)回復しませんでした。彼にとっては創作にさしつかえるものではないらしく、架空の病による後遺症も、ちょっとしたペナルティ程度に捉えているふしがあります。
「〈はざまにて沈まざりし地〉に関する膨大な設定の数々をお忘れになってしまったと聞きましたが……」
「まさしく。思い出すか、誰かに教えてもらうか、新たに作りなおさねばならなくなった。以前より良いものにする機会ができたと、そう考えておるよ。やりがいすら感じる」
「あなたのご子息は、あなたが亡くなられてから、その遺稿をまとめて本になされましたよね。その本の内容から補完することはできませんか」
「うむ。だが、それだけでは足りん」
〈はざまにて沈まざりし地〉のために書かれた草稿はおびただしいものでした。生涯をかけて執筆していったため、どうしても過去のそれとは辻褄があわなかったり、矛盾が生じていたりします。くわえて、ラダガストの頭のなかでのみ構想されていた設定も存在し、それらを完全な形で世に出すことは、ついぞ達成できなかったのです。
それでも文書化されているものについては、それを読み返すことで、ある程度は再編することが見込めました。しかし、文書化されていないものについては、何をどうしたところで取りもどすことはできません。架空の病がもたらした記憶障害によって、永久に失われてしまいました。
そこで〈異才混淆〉に協力する見返りとして彼が求めたのが、後世のファンタジー作家との対話でした。
バーバラは夫との再会を望みましたが、ラダガストは、面識のない、けれど同じ分野で活躍した作家たちとの邂逅を望んだのです。目的はふたつ。ひとつは、文書のみでなく、自分のことを知っている同業者から、生の声を聞くこと。それによって、かつての自作の情報を思い出そうとしていました。もうひとつは、幻想文学を愛する者同士で語りあい、互いの創作に有益な意見交換をなすこと。失ったものを取りもどすよりは、新たな着想をえて作りなおしたほうが効率的だとラダガストは判断したようでした。無論、ひとつめの目的にあるように、思い出せるならそれに越したことはなく、その両面を期待してのことでしょう。
玲伎種は、ラダガストのこの願いに応じました。バーバラのときには復元という方式をとっておきながら、本件では、過去の歴史から本物の人間を招きよせました。ラダガストとの会談が終了したあと、また元の時代へ送り返され、もう二度と逢うことはできません。歴史をねじ曲げることにならないかとコンスタンスに問いかけたところ、「問題ない」という思念が返ってきただけでした。彼ら玲伎種の考えていることは、私にはまったく理解できません。本質的に知能の階梯が異なっているような印象さえあります。
なぜバーバラとラダガストとで、このような対応の差が生じたのか。コンスタンスは答えてくれなかったので、推察するしかありません。バーバラの場合は呼びよせたのが創作とは無縁の一般人で、ラダガストの場合は同業の小説家だったからでしょうか。〈終古の人籃〉に収容されるほどではなくとも、ごく短時間の逗留なら許された……という解釈は、できなくもありません。存外、深い意味はなく、そうしたほうが面白いからという、気まぐれのような理由で決められたと知っても、私は驚きません。答えは不明のままです。
とまれ、後世の作家たちとの対談は実現しました。ラダガストが招待したファンタジー作家は、一晩かぎり〈終古の人籃〉にとどまることを許されます。そして、夜を明かしてラダガストと語りあうのです。はじめのうちは誰もがラダガスト・サフィールドという名に委縮しますが、もとより気さくな彼の人柄に惹きつけられ、話は盛りあがり、深夜にさしかかるころには互いの作品について話しこんでいるという流れになるのが常でした。
「メアリよ。ありがたいことに、数世紀がすぎてからも私の作品を読んでくれておる者らがいる。〈はざまにて沈まざりし地〉を知ってくれておる。そして、その上で、新たなる架空の世界と、その物語をつむごうとしている作家たちと話しているとな──、そんな彼らの力になってやりたいという気持ちが先に立つ。まあ、私自身も、彼らから刺激を受けるところは大きいのだが、それ以上のものを彼らに分け与えてやれれば……と、そう思わずにはおられんのだよ」
そうなのでした。当初、〈はざまにて沈まざりし地〉の再編をめざしてはじめたはずのこの対談は、いつしかラダガストにとって別の意味をもつようになっていました。後進の作家に対し、架空の世界を創る上でのノウハウを惜しみなく伝授し、その作家の考えた世界についての改善案や新設定などを一緒に考えたり助言を送ったりするのが、たまらなく愉しいようでした。とはいえ、たった一晩のことですから、それにも限界はあるのですが。
朝がくると、招待された作家は元の時代へと帰っていきます。玲伎種の取り計らいで、その作家がその後どのような人生を歩んだか、それをスクリーンに映して鑑賞することができます。ラダガストという大作家から知見をえたのですから、私は、さぞ元の歴史をゆがめてしまうだろうと危惧していたのですが、そんなことはありませんでした。いっさい変化がないのです。ラダガストと対談したことで間違いなくその人の作品の質は向上したというのに、それを社会は理解してくれませんでした。曰く、設定を凝りすぎている。こんなにも重厚なものは求めていない。奇抜すぎて読者がついていけない。……二十一世紀よりも二十二世紀、二十三世紀と、のちの世紀になっていくほど、そういった批判が強くなり、出版にこぎつけることすらできなくなっていきました。また、出版できたとしても話題になることはなく、あっというまに埋もれていきました。
なぜなのか、理由はわかりません。内容的には〈第一の音楽の物語〉を上回るものもあったはずです。玲伎種が干渉しているのでなければ、歴史そのものがそれを打ち消そうと働きかけているのではないかと、オカルトじみた考えに取りつかれそうになるほどの事態でした。ラダガストと対談したすべての作家で同じことが起こりました。
現在、ラダガストは〈はざまにて沈まざりし地〉の創作をつづけてはいますが、その仕事ぶりにはどこか虚無的なものがただよってくるようになりました。生前に絶賛された〈第一の音楽の物語〉の正統なる続篇、〈第二の音楽の物語〉は、いつまで経っても完成しません。架空の世界について著述する時間よりも、かつて自分と対談した作家たちのその後をスクリーンで鑑賞する時間のほうが増えました。何を思っているのでしょうか。助言が裏目に出たのかもしれないことを後悔しているのでしょうか。数百年、数千年と同じ映像をくりかえし観ている彼の背中は、精神の荒廃を体現しているようでもありました。最近では、対談も、めっきりとしなくなりました。
記憶障害はなおっていません。また彼は聴覚にも後遺症があり、はっきりとものが聴こえるときと、そうではない──なにか別のものが聴こえる──ときがあるのだそうです。〈はざまにて沈まざりし地〉は、その創造神が音楽を奏でることで生まれてきた世界です。ラダガストは音楽というものに聖性をみいだしているらしく、創世神話にも、小説の主題にも、音楽という概念をとりいれてきました。ゆえに〈第一の音楽の物語〉は、創世のころからはじまった音楽が鳴りやんだところで幕を閉じたのです。次なる新たな音楽が鳴りひびくとき、〈第二の音楽の物語〉ははじまります。
しかし作者たるラダガストの記憶障害と聴覚障害は、その創作に致命的な瑕疵を与えているように、私には思えてなりません。また、これまでの対談の経緯が、彼の精神にいかなる影響をもたらしたかを思うと、やりきれないものがあります。はじめに彼が想定していた〈音楽〉は、いまも彼の耳に聴こえているのでしょうか。〈第二の音楽の物語〉が、完成する日はくるのでしょうか。
(以下、第10節に続く)
—————