未来を人質にとる? イーロン・マスクを駆り立てる「長期主義」という特異な倫理観――木澤佐登志『闇の精神史』まえがき全文公開
『闇の自己啓発』『ニック・ランドと新反動主義』などで注目の著者が、ロシア宇宙主義からサイバースペース、そしてイーロン・マスクまで、現代社会の背後にひそむ〈宇宙〉をめぐる思想を抉り出す待望の新刊『闇の精神史』(木澤佐登志、ハヤカワ新書)。果てなき頭上の漆黒に、人は何を見るのか。本書のテーマと問題提起を語る「まえがき」を全文公開します。
『闇の精神史』まえがき
2023年8月27日、日本人1名を含む宇宙飛行士4名を乗せたスペースXの宇宙船クルードラゴンが、国際宇宙ステーション(ISS)とのドッキングに成功した。クルーは約半年間滞在し、人類の宇宙飛行によって病原菌が拡散する潜在的リスクを調べるなど、数々の実験が行われる【2】。
2011年にNASAのスペースシャトルが引退して以来、ISSへの宇宙飛行士の輸送はロシアの宇宙船ソユーズが独占していた。2020年、その状況に終止符を打ったのが、クルードラゴンの登場だった。
スペースXのCEO――そしてX(旧ツイッター)のオーナーでもある――イーロン・マスク当人に言わせれば、これはほんの序の口ということになるだろうか。なにせマスクは、2050年までに100万人を火星に移住させることを目標に掲げているのだから。
ウォルター・アイザックソンによる評伝『イーロン・マスク』によれば、マスクは次のように語ったという。「宇宙に出ていく以上に壮大な冒険はちょっと思いつきません。火星に基地を作るのはものすごく難しいでしょうし、おそらくは途中で死ぬ人だって出てしまうでしょう。米国に移民してきた時代と同じように、です。それでも、火星に行くと想像しただけで元気になれますし、いま、世界はそういうことを必要としているのです」【3】
*
この世界の外側に、まったく別の新しい世界が存在する、という主題に近代以降の人間は遍く取り憑かれてきた。それこそ無意識的な強迫観念のように。17世紀に登場した、地球から遠く飛翔した天空界への旅物語の一群を、『月世界への旅』の著者M・H・ニコルソンは「宇宙旅行」と呼んだ。同時に、そうした地球外の世界を幻視したトリップ譚は、(当時最先端のテクノロジーであった)望遠鏡を覗き込んだ先、漆黒の闇の向こう側に未知の空間を見出したガリレオに象徴される、同時代に勃興しつつあった新たな科学や人文学と複雑に絡み合いながら相互に規定し合っていることをもニコルソンは指摘してみせていた【4】。
私たちの外側には様々な形で想像=創造された「宇宙=空間」が存在する。だが、その表象やイメージは時代や制度によって絶えず変遷していく。現実世界の外に位置する空間はまた、ギリシア語で「どこにもない場所」を意味する「ユートピア」とも呼ばれてきた。それでも、そうしたユートピアであってさえ、(ハンガリーの社会学者カール・マンハイムが『イデオロギーとユートピア』の中で指摘したように)現実社会における所与のイデオロギーやテクノロジーを少なからず反映したものにならざるをえない。空想の内側だけならまだしも、現実空間にユートピアを実際に打ち立てようとすれば、なおさらであろう。その意味では、あらゆるユートピアの試みは、ほぼ不可避的に現実世界との抜き差しならない相克や葛藤をもたらすといえる。
ところで、アメリカの哲学者ヘルベルト・マルクーゼによれば、ユートピアの理念は「単に旧い諸可能性の継続として想定されたり、同質の歴史的連続の延長線上に考えられたりしてはならず、歴史的連続を断絶せしめること」を意志しなければならない【5】。しかし、ソビエトの崩壊以後、言い換えれば「歴史の終焉」以後の現代、ユートピアへの意志は既にその命脈を絶たれたとされる。いみじくも、マルクーゼは「ユートピアの終焉」を1967年の時点で予告してみせていた。
ユートピア的な想像力は、この所与の現実を相対化し、変革するための支点として作用しうる。この閉塞した現実の彼方に措定された非在の未来像が、現実変革の実践のための不可欠の契機となる。ところが、「歴史の終焉」に伴うユートピア的な想像力の退化は、もはや現にあるものの乗り越えを意志せず、規定の現実の単なる惰性的な延長の追認に堕する。結果、歴史を断絶する「未知の未来」はどこまでも貧困化され、予測可能で惰性的に流れていく「過去の延長としての未来」に取って代わられる【6】。作家のアーシュラ・K・ル・グィンはかつて次のように述べた。「ユートピア的想像力は資本主義や産業主義や人口と同様、ただ成長のみから成り立つ一方通行の未来に閉じ込められてしまっているように思われます」(「カリフォルニアを非ユークリッド的に見れば」【7】)。
もっぱら、いかにして現行の社会を「持続可能」なものにするか、といった観点からしか未来を思い描くことができない現代の闇の中にあって、それでも時間に断絶をもたらすユートピアを、言い換えれば私たちの「既知」の外部に広がる様々な空間=スペースを構想し切り拓くことは、果たしてどのようにすれば可能になるのだろうか。
たとえば、イーロン・マスクによる宇宙開拓の試み、民間航空宇宙企業のスペースXを立ち上げた背景には、そうした「持続可能」な未来は幻想でしかなく、実のところ「持続可能」ではないのではないか、という問題認識が深く関わっているように見える。マスクは、さほど遠くない未来、人類は存亡の危機に瀕するであろうと主張する。最終的には何らかの「終末的な出来事」(疫病、超巨大火山、小惑星、戦争、技術的特異点の暴走)が地球上で起きるので、人類は別の場所を目指すべきなのだ、と。火星は、その最良の選択肢のひとつにすぎない(この点、資源獲得を主要な目的として宇宙開発を推し進めるジェフ・ベゾスとは対照的といえる)。人類を多惑星種化することで人類の絶滅を防ぐこと、これこそマスクの遠大な「目標」に他ならない。
マスクのSF的ヴィジョンの根幹に「長期主義」(longtermism)と呼ばれる倫理観が潜んでいることを指摘するのは、アメリカの環境学者タイラー・オースティン・ハーパーである【8】。彼が『デイリー・ビースト』に寄稿した記事によれば、長期主義者は、現在や近い未来よりも遠い未来を道徳的に重要視する。したがって意思決定の際にも、数千年後、あるいは数百万年後に生きるであろう遠い未来の人間を優先させなければならない、と彼らは主張する。
長期主義者らは、人類絶滅のリスクを軽減するという名目で、極端な「解決策」を人々に受け入れさせようとするかもしれない、とハーパーは指摘する。たとえば、一部の長期主義者の主張するところによれば、さほど遠くない未来、テクノロジーの加速度的な進歩によって、ひとりの人間が新型生物兵器などの文明を終わらせるリスクのある終末装置をますます簡単に作れるようになる。長期主義的な観点からすれば、このような事態を防ぐ唯一の方法は集団監視に他ならない。すなわち、地球上のすべての男性、女性、子どもに監視デバイスを身につけることを強制すること。これ以外に、人類の存亡の危機を救う方法はない、というわけだ。その一方で、人類滅亡の危機にまでは至らないにしても深刻なことに変わりない、現在における様々な社会的問題(たとえば貧困や諸々の差別)はいたずらに軽視される可能性がある。
マスクら長期主義者の構想は結局のところ、「持続不可能」な現行の社会を合理主義的なテクノロジーやトップダウンによる監視技術の権力によって無理やり「延命」=「持続可能」なものにせんとする試みに過ぎないのではないか。とどのつまり、それは程度の差こそあれ、未だに「過去の延長としての未来」に属しているのである。
未来を人質に現代社会における抑圧を正当化するのであれば、それは本末転倒でしかない。未来は他ならぬ現在の私たちのために存在しなければならないのであって、逆ではない。未来のために現在を犠牲に捧げ、過去を忘却していくのではなく、むしろ過去から回帰してきた未来を現在の只中に埋め込まなければならないのではないか。しかし、どのようにして?
前述のル・グィンは、「後ずさりして、向きを変えて、もとに戻る」ことを提唱している。また別の箇所では、「私たちはもう前進することでユートピアに到達することはないと思います。遠回りするかわき道にそれるかが唯一の方法でしょう」とも述べている【9】。
言うまでもないが、ル・グィンは中世や石器時代への回帰を素朴に説くナイーブな反動主義者などではない。もちろん、アルケオフューチャリズム(archeofuturism)のような、過去の伝統や文化を保持しつつ、未来のテクノロジーや社会的な進歩を取り入れようと試みるアプローチとも異なる。結局、それらもまた多かれ少なかれ「過去の延長としての未来」を前提にしているからである。そうした復古的な言辞とは根本から異なることを彼女は語ろうとしているのだ。彼女は言う。ユートピアはこれまでずっと「陽」であった、と。プラトンの太陽の比喩以来、ユートピアは明るく、澄んだ、安定した、行動的で、攻撃的で、直線的で、連続的で、拡張し、前進する、熱いものとして表象されてきた。だからこそ、極度に「陽」である現在の文明にあっては、文明の不正を改善したり、自己破壊を回避しようと想像するには、逆戻りし、「陰」に向かうことが必要であるという。すなわち、私たちは「陰」のユートピアを志向しなければならない。
ほの暗い過去の深淵の中にこそ、時間を切断し見果てぬ未来を到来させる革命的な潜勢力を求めること。もちろん筆者とル・グィンのアプローチはまったく同じというわけではない。しかし、筆者は他ならぬル・グィンから大切な霊感を得たと思っている。
黎明。それは夜の闇と朝の光が微睡むように融け合う薄明の時間であり、眠りと覚醒の狭間の時間である。「覚醒した夢」としてのユートピアは、闇と光が混濁しながら一致する薄明の向こう側から立ち現れるだろう。
*
本書に収められた試論は、雑誌『SFマガジン』において2021年から2023年にかけて、およそ2年間にわたって書き継がれてきた連載「さようなら、世界――〈外部〉への遁走論」が元になっている。書名は(図々しくも)「精神史」と銘打っているものの、記述は通史的でもなければ包括的でもない。連載時における筆者の興味関心に従うままに、主題は様々な方向へ散乱&拡散していく様相を呈した。一般的な新書とは明らかに様子が異なる、面妖で胡乱な代物ではあるが、あらかじめご容赦願いたい。
読書のための簡単な見取り図を加えておく。第1章では主にロシア宇宙主義――19世紀末から20世紀初頭にかけて帝国ロシアに興った、宇宙と人類の進化をめぐる思想潮流が主題となる。大気中に散らばった遺骸の分子を回収し全祖先を復活させるために宇宙への進出を説くニコライ・フョードロフの思想を瞥見しながら、ロシア宇宙主義がソビエト崩壊後の現代に与えるインパクトと射程の広がり――一方ではロシアによるウクライナ侵攻の思想的背景と目される新ユーラシア主義への、他方では不死やマインドアップローディングを目指すシリコンバレー的なトランスヒューマニズムへの影響――を検討する。第2章ではアフロフューチャリズムを取り上げる。サン・ラーら黒人アーティストが、奪われたルーツを自ら仮構しながら、抑圧的な現実の〈外部〉としての宇宙を志向する姿勢に、「過去の延長としての未来」とは異なる別様の未来の可能性を探る。第3章では、情報技術が生んだもうひとつのフロンティア──サイバー空間、それとメタバースが主題となる。物理世界の制約からの解放を言祝ぐユートピアとしてサイバースペースは表象されてきた。しかしここでは、サイバースペース/メタバースのユートピアすらも無意識のうちに忘却の彼方に捨て去っていたユートピア的可能性の数々をいかに救い出すかが問われる。そして、「私」の身体を未知の「他」なるものとして、つまりはユートピアとして捉えようとしたフーコーを手がかりに、身体という内宇宙に辿り着く。終章では再び精神史のジャンクヤードへと立ち戻り、「リフレクティヴ・ノスタルジー」という概念を参照しつつ失われた未来を解き放つ方途を示すことで、本書の締めくくりとしたい。
残念ながら、本書中では紙幅の都合上書き切れなかったことも数多くある。しかしこの小著が、忘却された過去に別様の「生」を生きさせるための、そしてまだ見ぬ未知なる未来を到来させるためのささやかな触媒となることができれば筆者にとってこれ以上幸いなことはない。
『闇の精神史』目次
記事で紹介した書籍の概要
『闇の精神史』
著者:木澤佐登志
出版社:早川書房(ハヤカワ新書)
発売日:2023年10月17日
著者プロフィール
木澤佐登志 (きざわ・さとし)
1988年生まれ。文筆家。思想、ポップカルチャー、アングラカルチャーの諸相を領域横断的に分析、執筆する。著書に『ダークウェブ・アンダーグラウンド』、『ニック・ランドと新反動主義』、『失われた未来を求めて』、共著に『闇の自己啓発』(早川書房)、『異常論文』(ハヤカワ文庫JA)がある。