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長男に統合失調症の徴候が…反響続出の『統合失調症の一族』試し読み

12人の子供を抱える大家族、そのうち6人までもが統合失調症を発症した。病気は遺伝か? それとも環境によるものなのか? 数奇な運命を辿った大家族の生活に肉薄し衝撃の実話を綴った『統合失調症の一族 遺伝か、環境か』(ロバート・コルカー、柴田裕之訳、早川書房)が好評発売中です。
ベビーブームを背景に12人の子宝に恵まれた一家で、容姿端麗で運動能力の高い子供たちは、なぜ次々と精神疾患に見舞われたのか? 精神疾患という大きな魔物に苛まれた家族と研究者たちを描いた衝撃のノンフィクションから、大反響にお応えして本文試し読み(一部)を公開します。

『統合失調症の一族』早川書房

12人の子供のうち6人が「統合失調症」と診断されたギャルヴィン家。最初に統合失調症と診断されたのは、長男のドナルドだった。その徴候はいったいどのように表れたのか――過程をつぶさに記録した本書第7章(前半)を掲載します。【プロローグ文は▶こちら

『統合失調症の一族』第7章

1964年9月11日、フォートコリンズにあるコロラド州立大学での2年目の開始と同時に、ドナルド・ギャルヴィン〔ギャルヴィン家の長男〕はキャンパスの保健センターを初めて訪れた。猫に嚙まれてできた左手の親指の軽い傷を治療してもらうためだった。説明は何もしなかった。猫が、ただ引っ掻くのではなく嚙みつくほど怒った理由は言わなかった。

翌年春にドナルドは、再び保健センターを訪れた。今度は、問題はもっと個人的なものだったが、やはり変わっていた。ルームメートが梅毒にかかったのを知ったので、自分も彼から偶然、感染してしまうのを恐れている、とドナルドは言った。いつか医学を学びたいと親に語っていたにもかかわらず、性交以外で梅毒が感染しうると誤って思い込み、それを正してもらう羽目になった。

数週間後の1965年4月、ドナルドはまたしても保健センターに足を運んだ。ヒドゥンヴァレー・ロードの自宅に戻っていたときに、弟の一人(誰とは言わなかった)が彼を出し抜いて、後ろから襲い掛かってきた、と言う。腰椎捻挫という診断を受け、彼はその晩をセンターで過ごした。

次がやけどだった。
1965年秋のある晩、ドナルドはやけどを負って、よろよろと保健センターのドアから入って来た。激励会のときにセーターに火がついた、と彼は言った。その後のやり取りでわかったのだが、ドナルドは焚き火の中にまともに飛び込んだのだった。注意を惹くためだったのか、友人を感心させるためだったのか、あるいは、助けを求める訴えだったのかもしれない。自分でも説明できなかった。

センターの職員はドナルドに休学させ、精神鑑定を受けさせた。その後の2か月間に空軍士官学校病院の臨床心理士のリード・ラーセン少佐はドナルドを4回診た。精神保健の専門家がドナルドを診察するのはこれが初めてで、ドナルドの両親が、長男が万事順調ではない可能性に直面せざるをえなくなったのも、これが最初だった。

だが、ドン〔ドナルドの父〕とミミ〔ドナルドの母〕がドナルドについてどんな恐れを抱いていたにせよ、ラーセン少佐の報告書を読むと、その恐れは収まった。「深刻な思考障害の証拠も、精神病的過程の症状の証拠も、検査結果からは見られなかった」と、少佐は1966年1月5日に書いている。

ドンとミミはほっとした。ただし、この報告は断固たるものではなかった。まず、ドナルドの診察の一回は、自白剤の一種のアモバルビタール塩の助けを借りて行なわれたことを少佐は記している。心理療法の場でのアモバルビタール塩の使用は、まったく前例がないわけではないが、通常は、意思疎通が難しい――そして、ことによると、緊張型統合失調症の症状を示している――患者に限られる。

それでもなお、少佐はドナルドが復学を許されるように求めた。ただし、引き続き精神科の助けを受け続けるという条件付きだった。「ミスター・ガルヴィンの心を乱し、大学での逸脱行動の原因となると思われる情緒的葛藤が、たしかに多く見つかった」と少佐は書いている。そのような治療の費用は、被扶養者のための軍の新しい医療保険制度によって支給してもらえる、と彼は言った。

燃え上がる炎の中に飛び込むほどドナルドを悩ませていたのは何か? 誰もその答えを見つけられないうちに、ドナルドは後れを取り戻す決意を固めて、1966年の初めからキャンパス生活に戻った。今度は人、特に女性とつながりを持ちたいと必死に願っていたが、どうやってガールフレンドを見つけるか、まったくわかっていないようだった。以前から感じていた他者との距離は、ますます目立つようだった。だが彼は、依然として運動が得意で、ハンサムだったし、彼ならなれると親が思っているような人間になるチャンスは相変わらずたっぷりあることを願っていた。

彼はマリリーという名のクラスメートとつき合い始めた。数か月のうちに、二人は結婚さえ話題にするまでになった。急な話に見えたが、ドナルドのような場合には違った――正常な生活を送りたい、罪と見なされずにセックスをしたい、自分自身の家族と同じような家族を持ちたい、申し分なく生きたいと熱心に望んでいる場合には。

だが、ギャルヴィン一家がマリリーを知る機会は訪れなかった。二人は別れ、ドナルドは打ちひしがれ、この結末を自分一人の胸にしまい込んで、なんとかよりを戻そうとした。その後、マリリーへの長距離電話が重なり、通話料は150ドルに達した。そして、家賃が払えなくなったが、親に打ち明けるのも耐えられなかった。ただで暮らせる場所、次にどうするかを思いつくまで身を隠していられる場所を探すというのが、彼の解決策だった。

1966年の秋、ドナルドはキャンパスの近くに、打ち捨てられた果物の貯蔵所を見つけた。一部屋で、電気が使え、古い暖房機があったが、水はなかった。夜は独りでそこのマットレスで寝た。自ら招いた窮地からどうすれば抜け出せるか、見当もつかなかった。何日か過ぎ、それが数週間に、やがて数か月にもなり、やがて11月17日、ドナルドは保健センターに戻り、またしても、猫に嚙まれた、と告げた。

医師たちは、これが2年のうちに2度目のことだと知ると、その日のうちに彼を精神科医に回し、徹底的に調べてもらった。そこでようやく、ドナルドの問題の程度が明らかになった。彼はそこの医師たちに心を開いたようだった。ひょっとすると、それまで誰に対してもしなかったような形で。受理(インテーク)面接の記録は、ドナルドが行なったと申告した、さらなる「突飛な自己破壊的行為」に触れている。

「焚き火を走り抜けた、コードを首に巻いた、ガス栓を開いた、棺の値段を調べに葬儀場に行きさえした、と言うが、そのどれ一つをとっても、適切な動機を挙げられなかった」

首吊り縄、ガス栓、葬儀場。ドナルドは、死や、自分の命を終えることに執着していた。彼がずっと感じてきた断絶は、大学に入っても消えなかった。むしろ悪化し、新しい、ぞっとするような形で現れ出て来ていた。

観察下に置かれている間も、ドナルドの歯止めのない落下は続いた。彼は、自分が教授を一人殺害したと思う、と医師の一人に語った。数日後、別の空想を打ち明けた。今度は、フットボールの試合で別の人を殺したという話だった。過去についてももっと語り、医師たちがとりわけ不穏に感じることも、新たに告白した。病院の記録は簡潔だった。「12歳のときに二度、自殺未遂」

この未遂というのが、いったいどのようなものだったのかは、誰にもわからない。それについてドナルドが誰かに話したことがあるかどうかも、知りようがない。そして、ドナルドが現に自殺を試みたのだとしても、両親がそれに気づいたかどうかも、同様だった。だが、ドナルドを診ている医師は、それだけ聞けば十分だった。特に、本当は猫に何があったかを知った後では。


自らの行動を告白し「統合失調症の可能性あり」と診断されたドナルド。両親は周囲の風聞を心配して特別施設への入院を避けようとするが、当のドナルドは唐突な婚約を発表し両親を困惑させる。一方、兄から2歳年下の二男ジムは、常軌を逸した暴力性を見せるようになるが、ジムの診察結果は――

▶この続きは本書でご覧ください

※本書には、家庭内暴力、性的虐待、動物虐待、自殺未遂、ドラッグ等に関わる描写を一部含みます。お読みになられる際はご留意ください。

本書プロローグはこちらで公開中

訳者・柴田裕之さんの「あとがき」公開中


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