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「自分がポール・マッカートニーだと思い込んでいないときには、自分の気分が天気を決めていると信じていた」『統合失調症の一族』プロローグ試し読み

発売前からSNSで大きな話題を集めている『統合失調症の一族 遺伝か、環境か』(ロバート・コルカー、柴田裕之訳、早川書房)。
第二次大戦後、ギャルヴィン一家は空軍に籍を置く父親の都合でコロラド州に移り住むことになった。ベビーブームを背景に12人の子宝に恵まれた一家であったが、1970年代半ばには、ギャルヴィン家の子供のうち6人が統合失調症と診断された。厳格な父母によって育てられた容姿端麗で運動能力の高い息子たちは、なぜ次々に精神疾患に見舞われたのか――各メディアの年間ベストブックを総なめにしたノンフィクション!
この記事では「プロローグ 1972年、コロラド州コロラドスプリングズ」を特別公開します。

『統合失調症の一族 遺伝か、環境か』ロバート・コルカー、柴田裕之訳、早川書房
『統合失調症の一族』早川書房

プロローグ

1972年、コロラド州コロラドスプリングズ 

兄と妹が、キッチンのガラスドアを開けてテラスを抜け、裏庭に出る。妙な取り合わせだ。ドナルド・ギャルヴィンは27歳。顔は彫りが深く、頭はすっかりり上げてあり、あごには聖書の登場人物を思わせるひげをこれ見よがしにやし始めている。メアリー・ギャルヴィンは7歳で、兄の半分ほどの背丈しかなく、髪はホワイトブロンドで、鼻は丸く小ぶりだ。

ギャルヴィン一家はウッドメンヴァレーに暮らしている。そこは、コロラド州中央部の急な丘や砂岩のメサ(卓状台地)の間の広々とした森と農地だ。一家の庭には、スイートパインの木の新鮮な香りと、大地から立ち昇る土の匂いが漂う。テラスの近くでは、ユキヒメドリやアオカケスがロックガーデンを飛び回り、兄妹の父親が何年も前に建てた小屋の中で、アソルという名のペットのオオタカが番をしている〔現在はタカ科とハヤブサ科の鳥は別個のもくに属すが、以前は共にタカ目に分類されていた。原文ではタカ科とハヤブサ科の鳥が同類のものとして扱われているので、それに倣い、話をわかりやすくするために、訳文でも両方に、猛禽類もうきんるい全般を指すこともある「タカ/たか」という名称を使っている箇所がある〕。妹が先に立ち、2人は小屋の前を通り過ぎ、小さな丘を登って行く。踏み越える岩々はこけに覆われ、その一つひとつを、2人は共に知り尽くしている。末娘のメアリーと長男のドナルド、そしてその間の10人を合わせて、ギャルヴィン家には12人の子供がいた。フットボールのチームができる、と父親は楽しそうに冗談を言う。他の子供たちは、口実を見つけてなるべくドナルドから遠ざかっていようとした。まだ親元を離れるほどの年齢に達していない弟妹は、ホッケーかサッカーか野球をしている。メアリーの姉のマーガレット(メアリー以外、女の子はマーガレットだけで、年もメアリーにいちばん近かった)は、隣のスカーク家の娘たちといっしょか、通りの先のショップトー家に行っているのかもしれない。だが、まだ小学2年生のメアリーは、放課後は家にいるしかないことがよくあり、面倒を見てくれるのはドナルドだけだった。

メアリーにしてみれば、ドナルドという兄は何から何までわけがわからなかった。まず、剃り上げた頭。次がいつも好んで身につけているもの。赤みがかった茶色のシーツで、それを修道士のようにまとっている。弟たちが幼かったころ遊んでいたプラスティックの弓矢まで携えていることもある。どんな天気でも、彼はこのいで立ちで一日中、そして夜になっても、近所を延々と歩き回る。家の前の、ヒドゥンヴァレー・ロードという舗装されていない道を行き、ウッドメンヴァレーの修道院と酪農場を過ぎ、幹線道路の路肩や中央分離帯を歩く。合衆国空軍士官学校の敷地によく立ち寄る。かつて父親が勤務していた場所で、今では多くの人が彼には気づかないふりをする。また、家の近くにいるときには、地元の小学校で遊んでいる子供たちの脇で立ち番をし、優しく軽やかな声で、みんなの新しい先生だよ、と告げる。校長に、近寄らないようにと強い調子で言われると、ようやくやめる。そんなとき、2年生のメアリーはいたたまれなくなる。自分の世界があまりに狭くて、自分がドナルドの妹であることを誰もが知っているからだ。

メアリーの母親は慣れたもので、そんな瞬間は笑い飛ばし、妙なところなど何一つないかのように振る舞う。そうでもしなければ、自分にはどうしようもないこと──自宅で起こっていることが理解できず、まして、それに終止符を打つ手立てなど見当もつかないこと──を認めるのも同然だからだ。メアリーはといえば、ドナルドにいっさい反応しないでいるよりほかにない。今では父も母も、何か前兆がないかと、子供たち全員をどれだけ注意深く見守っているかに、メアリーは気づいている。ピーターは反抗的だ。ブライアンは薬物の問題を抱えている。リチャードは学校から追い出された。ジムは喧嘩けんかばかりしている。マイケルは完全に心ここにあらず、だ。文句を言ったり、泣いたり、少しでも感情を表に出したりしたら、自分もどこかおかしいかもしれないというメッセージを発してしまうことを、メアリーは承知していた。

それに、じつのところ、ドナルドが例のシーツをまとっているのを目にする日は、まだましなほうだった。学校から帰ってみると、ドナルドが何か本人にしか意味のわからないことをやっている最中のときがある。たとえば、家中の家具という家具を裏庭に運び出していたり、水槽に塩を注ぎ込んで魚たちをみんな死なせてしまっていたり、という具合だ。服用した薬(ステラジン、ソラジン、ハルドル、プロリキシン、アーテン)をトイレで吐いていることもある。リビングルームの真ん中に素っ裸で静かに座っていることもある。ドナルドが弟の一人あるいは何人かと争って、母親が呼んだ警察官が来ていることもある。

だがドナルドは、たいていは宗教的なことに没頭している。聖イグナチオに「霊操と神学」の学位を授けられた、と言って、毎日、日中の大半と、多くの日は夜も、使徒信条と主の祈り、そして、彼が「聖職者たちの聖なる修道会」と呼ぶ独自のリスト(その理屈は本人にしかわからない)を朗々と暗唱する。「至善至高なる天主、ベネディクト会修道士、イエズス会士、聖心会、無原罪懐胎、聖母マリア、けがれなきマリア、オブレート会、メイ・ファミリー、ドミニコ会修道士、聖霊、修道院のフランシスコ会修道士、一つの聖なる普遍、使徒、トラピスト会修道士……」メアリーにとって、その祈りは水が止まらずぽたぽた滴り続ける蛇口のようなものだ。「やめて!」と金切り声を上げても、ドナルドはけっしてやめず、わずかに中断するのは、息継ぎのときだけだ。メアリーは兄が、家族全員、特に信心深いカトリック信徒の父親を叱責するためにやっているように思える。メアリーは父を崇拝している。ギャルヴィン家の他の子供たちも一人残らずそうしている。ドナルドでさえ、そうだった。病気になる前は。メアリーは、父親が好きなときに家を出入りするのを見ると、うらやましくなる。四六時中あれほど一生懸命に働くことで、父は万事思いどおりという感覚を抱いているに違いない。ここから抜け出せるほど一生懸命に働くことで。

メアリーにとっていちばん我慢ならないのは、ドナルドが彼女ばかりかまうことだ。なにも、意地悪でそうしているわけではない。むしろ兄は優しく、思いやりに満ちてさえいる。メアリーのミドルネームはクリスティーンなので、ドナルドは彼女が聖処女でキリストの母のマリア(メアリー)だと思い込んでいる。「違うわ!」とメアリーは何度叫んだことだろう。彼女は、からかわれているのだと思っている。兄の誰かが彼女を笑い物にしようとするのは、これが初めてではなかった。だが、ドナルドはまがいようもないほど真剣で、本当に熱心で、うやうやしいので、それでメアリーはなおさら腹が立つ。ドナルドはメアリーを自分の祈りの対象に祭り上げ、自分の世界へと引きずり込んでいたが、そんな世界には、メアリーは金輪際、身を置きたくなかった。

そこで、ドナルドという問題の解決策としてメアリーが思いついたアイデアは、自分が感じている激しい怒りに直接応えるものだった。ヒントは、母親がときどきテレビで観ている、古代文化の歴史や神話に基づく叙事詩的映画作品から得た。まず、「丘に行きましょう」と声を掛ける。ドナルドは同意する。聖処女のためなら、何でも断りはしない。次に、木の枝から下がるブランコを作ることを提案する。「ロープを持っていきましょう」とメアリーが言うと、ドナルドはそのとおりにする。そして最後に丘の上で、たくさん生えている高い松の木を1本選び、それにドナルドを縛りつけたい、と言う。ドナルドは、いいよ、と答え、ロープを妹に渡す。

たとえメアリーがドナルドに、自分の計画(映画の中の異端者のように、火あぶりにすること)を打ち明けたとしても、彼が逆らうとは思えなかった。祈りに夢中になっているからだ。木の幹にぴったりと背中をつけて立ち、次々に自分の口をついて出て来る言葉に完全に気を取られている兄の周りを、メアリーは手にしたロープをぐいぐい引っ張りながら、これで逃げられないだろうと思うまで回って縛りつける。ドナルドはいっさい抵抗しない。

兄さんがいなくなってもがっかりする人はいない、それに、絶対に誰も私のことは疑わないだろう、とメアリーは心の中で思う。彼女はき付けを探しに行き、大小の枝を抱えて戻ると、裸足の兄の足元に放り出す。

ドナルドは覚悟ができている。もしメアリーが、兄の言い張っているとおりの人ならば、兄は嫌だと言えるはずがない。彼は落ち着いていて、辛抱強く、優しい。

彼はメアリーをあがめている。

だがこの日、メアリーは完全に本気ではなかった。マッチを持って来ていないので、火のつけようがない。そして、なおさら決定的だったのは、彼女が兄と同じではない点だ。彼女は地に足の着いた子供で、心は現実の世界に根差していた。何はともあれ、メアリーは母親にだけではなく自分自身にもそれを証明して見せるつもりだった。

そこで、計画を放棄する。ドナルドを丘の上に置き去りにする。彼はハエとオキナグサに取り巻かれたまま、長い間、その場に立って祈っている。メアリーがしばらく独りで過ごせるほど長く、ただし、二度と下りて来ないほどまで長くではないが。メアリーは今そのことを思い返すと、なんとか笑みを浮かべることができる。「マーガレットと私は笑ってしまいます」と彼女は言う。「他の人は、そんなに面白いと思うかどうか、怪しいですけれど」

あの丘の上の日から45年という、ほとんど一生とも思えるような長い年月が過ぎた2017年のすがすがしい冬の午後、以前はメアリー・ギャルヴィンという名だった女性が、コロラドスプリングズにあるポイント・オブ・ザ・パインズという介護付き施設の駐車場に自分のSUVを停め、かつて生きたまま焼き殺すことを空想した兄に会いに、中に入る。もう50代で、相変わらずきらきら輝く目をしているが、大人になってからは、リンジーという、別のファーストネームを選んで使ってきた。家を出るとすぐに選んだ名前であり、その改名は、過去と訣別けつべつして新しい人間になると心に決めた若い女性の試みだった。

リンジーは、そこから車で6時間の所にある、コロラド州テルユライドの町のすぐ外に住んでいる。企業のイベントを実施する会社を自ら経営し、イベントのほとんどが行なわれるデンヴァーと自宅を往復しながら、かつて父親がしていたように目一杯働くと共に、ドナルドや他の家族の世話をするために、コロラドスプリングズにも通っている。夫のリックはテルユライドのスキー学校のために、インストラクター研修をしており、ティーンエイジャーの子供が2人いて、1人は高校、1人は大学に行っている。今では誰であろうとリンジーに会った人はたいてい、彼女の落ち着いた自信や、穏やかな笑みの裏まで見通すことができない。長年努力を重ねたおかげで、何もかも完全に正常であるかのように巧みに振る舞うすべが身についているからだが、じつは、その正反対だ。ときおり発する、辛辣しんらつ剃刀かみそりのように鋭い言葉からだけ、何か見掛けとは違うものがうかがわれる──裏で今にも爆発しそうな、何か憂鬱ゆううつで、変えようのないものが。

ドナルドは、1階のラウンジで彼女を待っている。今や70代になった彼女の長兄は、しわの寄ったオックスフォードシャツの裾を、長めのカーゴショーツから出したカジュアルな格好をしているが、それとは不釣り合いな威厳を漂わせている。こめかみに掛かる白髪の房や割れ顎、濃く黒い眉のせいだろう。声がこれほど静かで、足取りがこれほど強張っていなければ、ギャング映画で役がもらえそうなほどだ。「まだソラジンの影響が少しだけ残っているのです、あの歩き方には」と施設の管理者のクリス・プラドが説明する。ドナルドは今はクロザピンを服用している。言わば最後の手段となる向精神薬で、非常に効果が高いのと同時に、心筋炎や白血球の減少、さらには痙攣けいれん発作といった、極端な副作用の危険も大きい。統合失調症〔原語「schizophrenia」はかつては「精神分裂病」と訳されていたが、2002年に「統合失調症」に呼称が変更された。本書では一部の例外を除き、この変更以前についての記述でも「統合失調症」という呼称を使うことにする。また、精神疾患のある人などの診断や治療に当たる病院にも、過去にはさまざまな呼称があったが、現在広く使われている「精神科病院」という呼称をほぼ全般的に使うことにする〕を50年生き抜いた結果の一つがこれで、遅かれ早かれ、治療は病気と同じぐらい有害になるのだ。

ドナルドは妹に気づくと、出掛けるつもりで立ち上がった。リンジーが訪ねて来るときはたいてい、他の家族に会いに連れて行ってくれるからだ。リンジーはにっこりと微笑みながら、今日はどこにも行かない、と伝えた。どんな様子かを見に来た、お医者さんたちと話しに来た、と。ドナルドもかすかに微笑んで、また腰を下ろした。ここに会いに来てくれる家族はリンジーだけだった。

自分の子供時代は何だったのかと、リンジーが頭を整理するのには何十年もかかったし、多くの意味で、その作業は今も続いている。これまでのところ、彼女が統合失調症を理解するカギとして学んだのは、一世紀にわたって研究が行なわれてきたにもかかわらず、そのようなカギが依然として捉え所のないままであるということだった。この病気がさまざまな形で呈する症状の一覧はある。幻視、幻聴、妄想、昏睡こんすい状態に似た無感覚状態などだ。ごく基本的な比喩が理解できないといった、具体的な手掛かりもある。精神科医は、「連合弛緩しかん」や「思考解体」といった言葉を使う。だが、今日のような日に、ドナルドが陽気で、満足してさえいるのに、別の日にはいら立だち、プエブロにある州立の精神科病院に車で連れて行ってくれと言って聞かない理由を、リンジーに説明するのは誰にとっても難しい(ドナルドはその病院に、過去50年間で10回余り入院しており、そこで暮らしたい、としばしば言っている)。ドナルドをスーパーマーケットに連れて行くと、いつも「オール」というブランドの洗濯洗剤のボトルを2本買い、「このボディーソープは最高だ!」と朗らかに言い切る理由を、リンジーは想像するしかない。あるいは、50年近くたっても、「ベネディクト会修道士、イエズス会士、聖心会……」という例の宗教的な文言もんごんを相変わらず暗唱する理由も、そうだ。はたまた、それとほとんど同じぐらい長い間、ドナルドが自分はじつはタコの子だと、一貫して揺らぐことなく主張し続けてきた理由にしてもしかり、だ。

ひょっとすると、統合失調症に関して最も恐ろしいのは──そして、いかにも本人らしい性格特性が薄れたり消えたりしがちな自閉症やアルツハイマー病といった他の脳の病気と統合失調症をいちばんはっきりと隔てるのは──この疾患がひどく露骨に感情的なものになりうることかもしれない。症状は、何一つ抑え込んだりせず、何もかも増幅する。本人にとっては耳をつんざくような圧倒的なものであり、患者を愛する人にとってはぞっとするようなものであって、身近な人はみな理性的に処理することができない。家族にとって統合失調症は、何よりもまず、感覚的な経験であり、一家の土台が、病を抱えた家族の一員の方に向かって永久に傾いてしまったかのように感じられる。たとえ子供の一人が統合失調症になっただけでも、家族内のロジックにまつわるものがすべて変わってしまう。

だが、ギャルヴィン家は、けっして普通の家族ではなかった。ドナルドが最初の、最も目立つ症例だった年月にも、弟のうち5人がひっそりと、精神に変調をきたしつつあった。

その1人が末弟で一家の叛逆児はんぎゃくじのピーターであり、躁病そうびょうで乱暴で、長年にわたってあらゆる支援を拒んだ。

才能のある陶芸家のマシューもそうで、彼は自分がポール・マッカートニーだと思い込んでいないときには、自分の気分が天気を決めていると信じていた。

病気になった兄弟のうちで最も物腰が柔らかく、痛いほど自意識が強いジョセフは、異なる時や場所の人の声を、はっきりと聞いた。

そして、一匹狼の二男のジムは、ドナルドと激しく争い、一家でも特にか弱い者たちに襲いかかった。妹のメアリーとマーガレットが、とりわけひどい目に遭わされた。

最後がブライアン、申し分のないブライアン、一家のアイドルで、深刻そのものの恐怖心を家族の誰からも隠していた──が、たった一度の不可解な暴力の爆発で、家族全員の人生を永久に変えることになる。

ギャルヴィン家の12人の子供たちの誕生は、ベビーブーム時代と見事に重なっている。ドナルドは1945年に、メアリーは1965年に生まれた。彼らの世紀はアメリカの世紀だった。親のミミとドンは、第一次世界大戦の直後に生まれ、世界恐慌のときに出会い、第二次世界大戦中に結婚し、冷戦時代に子供を育てた。幸福の絶頂期には、ミミとドンは彼らの世代の偉大なところや良いところをすべて体現しているように見えた。冒険心、勤勉さ、責任感、そして楽観(子供を12人も、しかも最後の数人は医師たちの助言に逆らってまでもうける人は、楽観主義者以外の何者でもない)。しだいに大きくなっていく家族と共に、2人はさまざまな文化運動が興っては消えるのを見届けた。そしてその後、ギャルヴィン家の全員が、文化に対して独自の貢献をした。人類の最も理解しがたい疾患における、壮大な症例研究の対象として。

ギャルヴィン家の10人の息子のうち6人が、統合失調症についてほとんど何もわかっていなかった時代──そして、じつに多くの異なる説がぶつかり合っていたとき──に発症したので、それを説明するための探求が、彼らの人生全般に影を落とした。彼らは、施設への収容とショック療法や、サイコセラピー(精神療法)か薬物療法かという議論、とうてい見つかりそうにないこの疾患の遺伝子マーカーの探索、疾患自体の原因や起源をめぐる深刻な意見の相違などに代表される、さまざまな時代を生き抜いた。兄弟がそれぞれこの疾患をどのように経験したかについては、遺伝的なところはまったくなかった。ドナルド、ジム、ブライアン、ジョセフ、マシュー、ピーターは、一人ひとり異なる形で患い、異なる治療を必要とし、次から次へと診断が変わり、統合失調症の本質についての、相容れない説の対象とされた。そうした説のうちには、親のドンとミミにとりわけ残酷なものもあり、2人は自分たちがしたことやしなかったことのせいでこの疾患を引き起こしたかのように責められることがしばしばあった。家族全体の苦闘は、薄皮を一枚いでしまえば、じつは、統合失調症の科学の歴史──何十年にもわたって、何がこの疾患を引き起こすのかばかりでなく、この疾患はいったい何なのかをもめぐる、長い論争という形を取ってきた歴史──でもある。

精神に異常を来さなかった子供たちも多くの面で、精神疾患になった兄弟に劣らぬほどの影響を受けた。どんな家族であれ、12人も兄弟姉妹がいれば、それぞれが個性を形成するのは難しいが、ギャルヴィン家の場合には、他に例のないたぐいの動的な人間関係を特徴としており、そこでは精神を患っている状態が家庭の標準であり、それ以外の事柄は万事それを出発点とせざるをえなかった。リンジーと姉のマーガレット、兄のジョン、リチャード、マイケル、マークにとって、ギャルヴィン家の一員であるというのは、自分も精神に異常を来すか、家族が精神に異常を来すのを目の当たりにするかのどちらかで、いずれにしても、永続的な精神疾患の風土で育つことだった。たまたま妄想や幻覚やパラノイア(偏執症)を起こさなかった──自宅が攻撃を受けているとか、CIAが彼らを捜しているとか、悪魔がベッドの下に潜んでいるとか信じるようにならなかった──としても、自分の中に不安定な要素を抱えているかのように感じていた。あとどれだけしたら、それに自分も乗っ取られてしまうのかと、彼らは不安に思った。

リンジーは末っ子だったので、起こったことのうちでも最悪のものを耐え忍んだ。彼女は危険な状態に置かれ続け、自分を愛してくれていると思っている人々に、直接傷つけられた。幼いころは、誰か別の人になりたいとばかり思っていた。コロラド州を離れ、本当に名前を変え、別人になり、自分が経験したことの記憶のいっさいを上書きすることもできただろう。リンジー以外の人だったら、できるかぎり早く家を飛び出し、二度と戻って来なかっただろう。

ところが今、リンジーはポイント・オブ・ザ・パインズにいて、かつて自分が恐れていた兄が心臓検診を必要としているかや、必要な書類にすべてサインしたかや、主治医がきちんと診察してくれているかを確かめている。彼女は、存命中の他の病んだ兄たちのためにも、同じことをする。ドナルドには、今日の訪問の間中、細かく注意を払い、兄が廊下を歩く様子を見守る。兄が体に十分気をつけていないことを心配する。兄にできるかぎりのことをしてやりたいと願っている。

あれこれあったが、それでも彼女は兄を愛しているのだ。この変化は、どうして起こったのか?ギャルヴィン一家のような家族がそもそも存在する確率を計算するのは不可能に見える。まして、あれほど長く崩壊せず、ついに見出される確率は、想像を絶する。統合失調症の厳密な遺伝子のパターンは、まだどうしても突き止められていない。その存在は窺われるのだが、洞窟の壁に揺らめく影のように、つかみ所がない。研究者たちは1世紀以上前から、統合失調症のとりわけ大きな危険因子の一つが遺伝であることを理解している。だが不思議にも、統合失調症は親から子へとは直接受け継がれないらしい。精神科医も神経生物学者も遺伝学者もみな、どこかに統合失調症の遺伝暗号があるに違いないと信じていたが、いまだにその在りかを突き止められていない。そこへギャルヴィン家の人々が登場し、これだけ大勢の患者がいたおかげで、この疾患の遺伝的プロセスについて、誰も願ってもみなかったほど深い見識が得られた。一家族で統合失調症を抱えた6人の兄弟──同じ2人の親から生まれ、同じ遺伝系列に連なる、正真正銘の兄弟──に出会った研究者はかつてないことは確実だ。

ギャルヴィン家は1980年代から、統合失調症を理解するカギを探し求める研究者たちの調査の対象となった。一家の遺伝物質は、コロラド大学健康科学センターや国立精神保健研究所や複数の大手製薬会社によって解析されてきた。そのような調査の対象者はすべてそうなのだが、彼らの参加も常に秘密にされてきた。だが、今や40年近くに及ぶ研究の後、ギャルヴィン一家の貢献は、ついにはっきりと目にすることができるようになった。彼らの遺伝物質のサンプルは、統合失調症の理解を進めるのを助ける研究の基礎を成している。研究者は、一家のDNAを解析し、一般大衆の遺伝子サンプルと比較することで、統合失調症の治療や予測、さらには予防においてさえ、大きな前進を遂げようとしている。

ギャルヴィン一家は最近まで、他人の役に立っていることをまったく知らなかった。自らの境遇が、一部の研究者の間に、前途に対する大きな期待を生み出したことに気づいていなかった。だが、一家から科学が学んだことは、彼らの物語の、ほんの一部でしかない。その物語は、子供たちの親のミミとドンから始まる。二人の生活は、無限の希望と自信にあふれて幕を開けたものの、頓挫し、悲劇と混乱と絶望に陥る羽目になった。

一方、子供たち──リンジーとマーガレットと10人の兄──の物語は、もとから常にそれとは違うものについての物語だった。彼らの子供時代がアメリカンドリームをゆがんだ鏡に映したものだったなら、彼らの物語は、その鏡に映った像が打ち砕かれた後に現れたものにまつわる物語だった。

その物語は、今は大人になって自分たちの子供時代の謎を調べ、親たちの夢の断片を継ぎ合わせ、何か新しいものにまとめ上げようとしている子供たちについてのものだ。

それは自分の兄弟たち、すなわち世間の大半が無価値に等しいと判断した人々の中に、人間性を再発見することについての物語だ。

それは、想像しうる事実上すべての形で最悪の出来事が起こった後でさえ、家族であるとは何を意味するかを理解する新しい方法を見つけることについての物語なのだ。


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著者紹介

ロバート・コルカー Robert Kolker
ジャーナリスト・作家。アメリカ・メリーランド州出身、1991年コロンビア大学卒。「ニューヨークマガジン」「ブルームバーグ ビジネスウィーク」「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」「ワイアード」など各誌に記事を執筆。作家としての第1作の犯罪ノンフィクションLost Girlsは「ニューヨーク・タイムズ」紙のベストセラーとなり、2020年に映画化。

訳者略歴

柴田裕之 しばた・やすし
翻訳家。早稲田大学・Earlham College卒。訳書にローゼンタール『それはあくまで偶然です』、ミシェル『マシュマロ・テスト』(以上早川書房刊)、エストライク『あなたが消された未来』、ハラリ『緊急提言 パンデミック』、コーク『身体はトラウマを記録する』、マックス『眠れない一族』ほか多数。

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