そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第7章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第7章を公開。

佐伯のマンションを訪れた沢崎と名緒子は、思わぬものを目にする……。

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そして夜は甦る』(原尞)

7

 エレベーターは二秒ごとに神経を逆撫でするような不気味な音を立てて上昇した。三階で降りると、エレベーターに一番近い右側の三〇三号が佐伯直樹のマンションだった。佐伯名緒子が合鍵を使ってドアを開けようとしているとき、私は彼女の足下の床にできた小さな赤黒いしみを見ていた。
「おかしいわ」と、彼女は鍵を抜き取って言った。「鍵がかかってません。きのうは間違いなくかけておいたのに。でも、主人がいるんでしたらブザーを押したときに返事があるはずですわね」彼女がドアの把手をまわして引くと、スチールのドアは抵抗なく開いた。
 玄関の靴脱ぎには、聞いていた通り数日分の新聞が溜まっていた。丸くて赤黒いしみはその新聞の上にも一つ落ちていた。しかも、ドア口から見た様子では、マンションの中はこんな時間に明かりがついたままになっている。雨の午後とは言え、それほどの暗さではなかった。
 私は中へ入ろうとする名緒子の腕を取って引き止めた。
「待って下さい。私が先に調べてみます。あなたはエレベーターの前のベンチのところで待っていてくれませんか」
「どうして……?」と、彼女は不審そうに訊いた。私の顔つきを見て、彼女の顔から血の気が退いていった。
「まさか──」彼女はうわずった声をあげて、マンションの中へ無理に入ろうとした。私は彼女の腕を放さなかった。
「言う通りにしなさい」と、私は言った。「たぶん心配するようなことはないと思う。いずれ、すぐに分かることだから」
 彼女の腕に入っていた力が次第に抜けていった。彼女は落ち着きを取り戻し、分かったと言うようにうなずいた。私は彼女の身体の向きをエレベーターのほうへ変えて、押しやるように腕を放した。彼女は不安な面持ちで私を振り返りながら遠ざかった。
 私は佐伯のマンションに入り、ドアを閉めた。靴を脱ぎ、新聞の山をまたいで、奥へ進んだ。間取りは2DKと称されるものだった。玄関から伸びている板敷きの廊下にそって、右側はトイレ、洗面所、浴室、台所兼食堂の順に並び、緑色のカーテンをかけたガラス戸の向こうはベランダと思われた。食堂の食卓の上のオレンジ色のカサのついた電灯がつけっぱなしになっていた。左側の手前はパネル・ドアのついた部屋で、奥は一間半の間口に三枚の板戸をたてた部屋だった。手前の部屋のドアを開けると、一見して佐伯の仕事部屋だと分かった。右側の壁に向かって大きなデスクがあり、伸縮自在の照明器具がたった今まで誰かが書きものをしていたように、デスクの上を照らしていた。残りの三方の壁はすべて本棚に占領され、そこから溢れた本や雑誌が床の上にも積み重ねられていた。その部屋はそのままにして、奥の部屋を見ることにした。
 三枚の板戸のうちの一つが半開きになっていたので、そこから中に入った。部屋の中は薄暗かったが、左手の奥に置いてあるセミダブルのベッドの枕元のランプがついていたので、見通しはきいた。天井の真ん中から、和風なカサつきの蛍光灯がまるでバットで一撲りされたように垂れさがっていて、粉々になったガラスの破片が床の絨緞に散らばっていた。暴力的な痕跡を見て、私の体内に急激にアドレナリンが分泌されたようだった。ベランダに面したガラス戸のカーテンを開ければもっと明るくなるが、私はそうしたい衝動を抑えた。
 ざっと見まわして、ベッドの脇の洋服ダンス、ソファ二個、その中間に低いテーブル、右手の奥にテレビやステレオ装置やレコードを収納したラック、最後に部屋の隅に立てかけたアイスホッケー用の数本のスティックが眼に入った。それから順に視線を戻すと、向こうのソファの肘掛けに黒い靴下が片方引っかかっているのが見えた。私は蛍光灯の破片を踏まないように気をつけながらソファに近づいた。靴下には中身があって、茶色のズボンにつながっていた。私は懸念していたものを見つけた。
 ソファの蔭をのぞき込むと、片足を肘掛けに乗せた男が仰向けのぶざまな恰好で倒れていた。ベージュ色のコートと茶色の上衣の前が大きく開いて、ワイシャツの胸が一面に赤黒く染まっていた。シャツのポケットの真ん中に黒い小さな孔が、Oで始まるイニシャルの刺繍のように開いていた。そこから、何かが焼け焦げたような匂いがかすかに漂っていた。男の伸ばした右手に銃身の短い拳銃が握られていた。銃把の部分にSとWの組み合せ文字を刻んだ丸い金属がはめ込まれているのが見えた。私は男のあごの下に指先で触れてみたが、頸動脈を探り当てるまでもなく生きるに必要なだけの体温がなかった。
 その死体はこの部屋の住人にしては、年を取り過ぎていた。男は少なくとも五十才位で、短く刈った頭髪にはかなり白いものが混じっていた。私は手早く男のポケットを探ってみた。上衣の内ポケットから、身許を知るにはこの上ないが、あまり歓迎できない代物が出て来た。黒い警察手帳だった。
 人を知るには、口から出る言葉よりもポケットの中身のほうが信用できることもある。黙して語らぬ死者から調べられることは調べつくして、元の状態に戻した。拳銃の銃口の匂いを嗅ぐと硝煙の匂いが鼻をついた。弾倉を調べたかったが、拳銃にさわるのはやめておいた。その部屋の絨緞と廊下でも、一カ所ずつ同じような赤黒いしみが見つかった。さらに数分間を費やして、少なくともこのマンションには二つめの死体は存在しないことを確認した。
 エレベーターの前で落ち着かなげにタバコを喫っていた佐伯名緒子を、私はとりあえず佐伯の仕事部屋に入れた。すぐに佐伯直樹の写真を探してもらった。デスクの引き出しの一つから、彼女が三カ月ほど前に久我山の自宅の庭で撮ったというスナップが十枚ばかり出て来た。優しさと逞しさが同居した、意志の強そうな風貌の青年が写っていた。身体つきは中肉中背としても、腕や肩のあたりは隣室で見たアイスホッケーの用具を思い出させるようにがっしりしていた。くせのある長めの髪の下には、カメラを向けている妻に注ぐ温和なまなざしがあった。いずれにしても、佐伯直樹は隣室の死体とは似ても似つかない青年だった。私はスナップ写真の中から適当なものを二枚選ぶと、撮影者の諒解を取ってポケットにしまった。
「八王子警察署の刑事で伊原勇吉という男を知っていますか」と、私は彼女に訊いた。
「いいえ……存じませんけど」
 隣室に転がっている死体の外見の特徴を詳しく話してみたが、彼女の答えは同じだった。
「では、八王子の警察と聞いて何か思い当たるようなことはありませんか」
「いいえ……水曜日の夜、佐伯はその警察署へ出かけたのでしょうか」
「それはまだ分からない」と、私は答えた。「ところで、あなたが昨日ここへ来たのは何時頃でしたか」
「朝の八時頃だったと思いますわ。彼は夜型の人間ですから、もし帰っているとすれば、朝早い時間のほうがつかまえやすいのです」
「ここを出たのは?」
「九時には出ています。遅くとも十時までに渋谷の出版社に着いていなければなりませんでしたから」
 これ以上彼女を質問攻めにしても、大した収穫は得られないだろう。彼女にも状況を説明すべきときだった。
「驚くなと言っても無理でしょうが、心を落ち着けてよく聞いて下さい。隣りの部屋に、その伊原という刑事の死体が転がっているのです」
「何ですって? 死体が……! でも、それは佐伯ではないのですね? 主人は大丈夫なんですね?」
「ええ、おそらく──」と、私は曖昧に答えた。隣室の暴力的な痕跡や数カ所で見つけた血痕のことを考えると、楽観的な返事はしかねる状況だった。しかし、彼女にはできるだけ平静でいてもらいたかった。彼女は予想以上に平静だった。一つには夫の死に直面したわけではなかったし、一つには夫の住居に刑事の死体があるということの意味がまだ解っていなかった。
 私はデスクの上の電話を引き寄せた。「父上はどこでつかまえられますか」
「田園調布だと思いますわ。午後は〈西洋美術館〉の館長がおみえになると言っておりましたから」
「電話番号を」と、私は受話器を取って言った。彼女の言う通りにダイヤルをまわした。すぐに女の声が出た。
「更科氏を至急お願いしたい」
「どなたさまでしょうか」たぶん、例の和服の女性だろう。
「さきほどお邪魔した、探偵の沢崎です」
「大変恐れ入りますが、ただいま旦那様は来客中ですので、お差し支えなければ──」
「差し支えるね。来客は分かっている。西洋美術館の館長。客なんか糞喰らえだ。大事な一人娘が殺人事件に捲き込まれる恐れがあると伝えてもらいたい。くれぐれも言っておくが、あの馬面の弁護士を電話に出したら直ちに電話を切る。あの男の結構はもう結構だ。必ず更科氏本人が電話に出るように。以上だ」
 大事な一人娘は、私の電話を聞いて苦笑していた。彼女は私が懸念しているほど脆弱な神経の持ち主ではないらしい。私は受話器を耳に当てたままで、佐伯のデスクの上を調べた。更科氏の話にあった卓上カレンダーは、電話のそばですぐに見つかった。十一月二十一日、木曜日のページが出ていた。私を更科邸に引っぱり出すことになった佐伯のメモがそこにあった。

   一時 ニシゴリ TEL
   六時 新宿 西口広場 交番前
   夜 八時 デンエンチョウフ
   サワザキ
   ワタナベ探偵事ム所 368‐8156

 六時の新宿のメモはきちんとした字だったが、それ以外は走り書きで読みにくかった。佐伯が一時に電話をしたと思われる〝ニシゴリ〟という人物が、私の知っている〝錦織〟なら、ここに私の名前や事務所の電話番号がメモされた経緯も推測がつく。少なくとも、職業別電話帳をひろげて偶然に私の事務所を選んだと考えるよりは筋が通っている。卓上カレンダーのページを繰っていると、電話口に更科修蔵が出た。
「沢崎さんですか。名緒子のことでおっしゃったことは、まさか本当ではないでしょうね?」
 私は本当だと答えて、手短かに事情を話した。更科氏が直ちにそちらへ向かうと言うのを、私は押し止めた。「いや、はっきり申し上げますが、あなたでは役に立たない。警察に小突きまわされる人間がもう一人増えるだけです。それより腕のいい弁護士を手配できますか。韮塚弁護士ではなく、刑事専門の弁護士です」
「分かりました。心当たりのある弁護士がいますので、そのまま待っていて下さい」電話を切り換える音がした。三分間待たされ、再び更科氏の声が戻ってきた。「仰木という弁護士が遅くとも三十分以内にそちらへ着きます。新宿の事務所からなのでもう少し早く着けるかも知れません。それでよろしいですか」
「どうも面倒をかけました」
「ほかに何か私にできることがありますか」
「いや。ご自分の仕事に戻って下さい。お嬢さんは大変しっかりしていらっしゃる。時間が惜しいので、これで切ります。以後はその弁護士の指示に従って下さい」
「娘を電話口に──」と言う更科氏の声を無視して、私は受話器を置いた。私の請求する探偵料には、依頼人の父親に命令される料金は含まれていない。依頼人の父親を慰める料金も含まれていない。

次章へつづく

次回は2月13日(火)午前0時更新

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