そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第8章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

その刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第8章を公開。

佐伯のマンションで男の遺体を発見した沢崎。男は一体、何者なのか。

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そして夜は甦る』(原尞)

8

 私は弁護士が到着するまでの三十分間に、佐伯名緒子に手伝ってもらって、彼女の夫の仕事部屋をできるだけ丹念に調べた。佐伯が最近──とくに、久我山から足が遠のいたという九月以降に──どんなことに関係していたのかを知りたかった。デスクの上、引き出しの中、ファイル・キャビネットなどに、原稿や資料の類いがかなりの量あった。しかし、佐伯の行動を左右していたものを特定するには、どれもいま一つという印象を受けた。卓上カレンダーも九月までさかのぼって眼を通したが、人名、地名、企業名に電話番号や約束の時間が羅列されているばかりで、これといった目星はつかなかった。
 私は名緒子を残して再び隣室へおもむいた。ベッドの脇の洋服ダンスを開けて佐伯の衣類を探ってみたが、何の収穫もなかった。テレビやステレオを納めたラックを調べてみたが、やはり空しい結果に終わった。レコード・プレイヤーの上に、ソフト帽にコートの後ろ姿の男のレコードが一枚のっていた。〈ASKMENOW〉というタイトルだった。
「一体、この部屋で何が起こったんだ?」と、私は訊いた。レコードの後ろ姿の男も転がっている死体も、何も答えなかった。レコードの下から何かがはみ出しているのが見えた。分厚い岩波文庫の『悪の華』だった。それにしても、レコードの傾き具合がおかしかった。レコードを持ち上げると、下になっていた円筒形の小さいものが転がり落ち、床に落ちる前に受け止めた。撮影済みのフィルムの入ったケースだった。
 仕事部屋に戻り、佐伯名緒子にフィルムを現像に出す許可を取っていると、入口のブザーが低く短く一度鳴った。
 私はフィルムをポケットに入れて、マンションの入口へ急いだ。殺人者が舞い戻った可能性もあるし、新聞や保険や新興宗教の勧誘員と鉢合わせしたくもなかったので、念のためにのぞき穴から確認した。魚眼レンズのせいで馬面に見えない韮塚弁護士の顔がそこにあった。私はドアを開けた。
 私の戸惑った顔を見て、相手が先手を打った。「おれは弟じゃないよ。双子の兄貴の仰木弁護士だ。よろしく。じゃ、通してもらうよ」
 彼は古ぼけた書類鞄を胸に抱き、雨に濡れた湿っぽい臭いをさせて、私の脇をすり抜けて行った。てっぺんが薄くなったゴマ塩の頭髪、度の強い黒縁の眼鏡、型くずれのしたグレーの背広、実用一点張りの模造皮の短靴──中身以外はわざと意図したように弟の韮塚と違っていた。私は仰木弁護士のあとを追って、佐伯の仕事部屋に戻った。
「やァ、名緒子さん」と、彼は大きな声で言った。「何年ぶりかな? 大きくなって、ずいぶんときれいになった。おれが田園調布に出入りしたのは、二代目の神谷会長がごたごたを起こしていた時分で、きみはまだ女学生だったかな。刑事弁護士なんて疫病神みたいなもので、きみはおれなんかには一生縁のない幸福な世界に住んでいるものだとばかり思っていたのに、残念だな」
「すみません。こんなところへ来ていただいて」
「なに、構わない。名緒子さんのためなら。それに仕事だからね。報酬はご両親からたっぷりいただくさ。仕事といえば、一体どうなっているんだ?」彼は私を振り返った。「沢崎さん、だったな?」
 私は状況を説明した。相手はその道のプロなので話は早かった。仰木と私は隣りの部屋に移動した。彼は死体を見たが、手を触れるような真似はしなかった。
「よりによって刑事とはまずいな」と、彼は法廷の壁のしみでも見ているような眼つきで言った。
「警察手帳にあった名刺によれば、八王子署の捜査課の刑事らしい」
「そんな田舎じゃ、おれの顔も利きゃしない。警官でさえなければ手の打ちようもあるが……くそッ」
「弟の噂話なんかで、佐伯氏の最近の行動について何か聞いていないか。思い当たるようなことはないのか」
「いや。くだらん中傷ならしょっちゅう聞かされるが、この際役に立ちそうなことは何も知らんね」
「立場上、更科・神谷両家のトラブルは未然に防ぐべく注意していたはずだ。佐伯氏に眼を光らせてはいなかったのか」
 仰木は首を横に振った。薄暗い部屋の中で、私たちはお互いに見えない眼の色を探り合った。
「あんたは弟とはあんまり似ていないな」と、私は言った。
「生まれてこの方その逆の感想しか聞いたことがないが、どういう意味だ? 褒めているのか。そうじゃないな」
 私たちは佐伯の仕事部屋に戻った。仰木弁護士は名緒子と私を見較べるようにして言った。「で、これからどうするつもりかね」
「一一〇番するだけだ」と、私は言った。「だが、その前に一つだけ確かめておきたいことがある。あんたの依頼人は誰ということになる?」
「それは、まァ、更科・神谷両家のために最善を尽くすのがおれの役目だから──」
「あんたに来てもらったのは、そんな間抜けな返事を聞くためじゃない。更科家と神谷家の利害が対立することになったらどうする?」
「そんなことはありえない。しかし、万一そうなるようなことがあれば、更科家の弁護士ということだな」
「父親と彼女が対立したら?」と、私は重ねて訊いた。
「分かったよ」と、仰木は観念して言った。「名緒子さんが、おれの依頼人だ。それでいいか」
 私は首を横に振った。「証拠が要るね」
「あんたもしつこい男だな」と、仰木は言った。しかし、怒った様子はなかった。「仕方がない。名緒子さん、いくらでもいいからお金を出しなさい。その受け取りを書けば、おれはきみに拘束されることになる」彼は書類鞄から領収書の綴りを取り出して書きはじめた。
「こんなことが必要なんですの?」と、名緒子はハンドバッグから財布を出しながら、私に訊いた。
 私が答える前に仰木が言った。「いいんだ、名緒子さん。さァ、千円でも二千円でもいいから渡しなさい。おれが彼の立場だったら同じことをしたさ。もっとも、この受け取りを渡しても抜け道がないわけじゃないが、弁護士としてはえらく評判を落とすことになる」
 二人は領収書とお金を交換した。私が電話に手を伸ばすのを見て、仰木が言った。「ちょっと待った。あんたばかりに点数を稼がれちゃ、おれが出て来た甲斐がない。この場合の最善の処置をさっきから考えているんだが……実は、あんたにはいますぐにここから出て行ってもらったほうがいいと思うんだがね」
「ほう……?」私は電話から手を引いた。
 名緒子が仰木の真意をはかりかねて言った。「だって、沢崎さんはわたしがお願いしてここまで来ていただいたんですのよ。どうして、そんなことをおっしゃるの?」
「理由はいくつかある」と、仰木は答えた。「その第一は、探偵を雇って佐伯君を捜そうとした以上、彼にはその探偵の仕事に専念してもらうべきだね。ここへ警察が踏み込んで来たら、この探偵さんはまず二、三日は動きが取れなくなるよ。おれは弁護士として、名緒子さんだけなら遅くとも今夜の八時には警察から解放して自宅へ帰れるようにする自信がある。しかし、こちらの探偵さんは何とも保証できないね。警察にあんまり覚えのめでたくない経歴があったりすると、今夜は向こうで泊まりということもありうる。探偵さん、おれの依頼人は彼女で、あんたはおれの依頼人じゃないからね。無理をする義理はない」彼は含み笑いをもらした。「それに、今のところ佐伯君を捜し出すための手掛りは、あんたの事務所に佐伯君のことを訊きに来たという男だけだろう? その男と接触する機会を逃さないためにも、あんたには警察なんかでまごまごしていてほしくないんだよ」
 仰木の提案には一理あった。それに、この食えない弁護士がついていれば、名緒子が警察で面倒な事態になることもあるまい。警察で私にできることは、担当官の心証を悪くすることぐらいだった。
「それは第二の理由さ」と、私は言った。「第一は、更科家の周辺にスキャンダルの気配があるので、顧問弁護士としては、探偵などという怪しげなものまで登場させたくないという、涙ぐましい配慮だろう」
「それは理由の第三だ」と、仰木が言った。「第二は、この魅力的なご婦人をエスコートして、警官どもから彼女を守るという願ってもない役目を、あんたなんかと分け合いたくないからさ。それに、万一警察で問題が生じた場合、彼女と二人だけなら弁護士の権利を行使して口裏を合わせることもできるが、あんたまではとても手がまわらん」
 私は名緒子に言った。「私がいなかったことにするのは、話の辻褄を合わせるのに大変だと思うが、大丈夫ですか」
「ええ、何とかやってみますわ。ですから、あなたは主人を捜すことに専念して下さい。お願いします」
「いいでしょう。しかし、一つだけ問題がある」私は佐伯の卓上カレンダーを指差して、仰木に言った。「このメモをそのままにしておいては、いずれ警察は私を拘束することになる」
 仰木はしばらく考えていたが、私の名前や事務所の電話番号が書かれている木曜日のページを破り取った。「こんなものは、初めからなかったことにするさ」
 私は彼がそのメモを丸める前に、彼の腕を掴んだ。「それは、私が預かろう」
 彼はにやりと笑って、その紙きれを私に渡した。「どうぞ、ご自由に」
 私は仰木弁護士と名緒子の連絡先を訊き、手帳に控えた。二人に名刺を渡した。事務所の電話番号の下に、留守の場合の電話応答サービスの番号が印刷してあるからだ。
 私は、彼女が出口まで送ろうとするのを断わった。「あとで電話します。明朝、探偵料の振り込みを忘れないように」
 彼女はそうしますと言った。私は部屋を出たところで、仰木弁護士に訊いた。「弟とはどうして名前が違うんだ?」
「韮塚というのはお袋の姓でね。おれの親父は養子なんだが、五度司法試験を受けて一度もパスしなかった。それで、まァ、おれが親父の旧姓を名乗って、仰木弁護士を誕生させたって次第さ」
「本人の口から聞かされるとゾッとしないものは多いが、親孝行の話はその最たるものだな」
 私は仰木の笑い声を背後にして出口へ向かった。一階までの下りのエレベーターは閉所恐怖症の人間ならさしずめ拷問なみの不気味な騒音を立てた。エレベーターを出たとき、バイクに乗った郵便配達がマンションの表を走り去るのが見えた。私は足を止めて、玄関のロビーを見渡した。入口近くの左側の壁に、郵便用のロッカーが並んでいるのを見つけた。三〇三号のロッカーは幸いにも鍵がかかっていなかった。開けてみると、新規開店した〈ナルシス〉という男子専用の美容室のチラシと一緒に、佐伯直樹宛ての手紙が一通入っていた。私は手紙をポケットに入れて、マンションを出た。
 駐車場でブルーバードに乗り込むと、そばにいたときは意識しなかった佐伯名緒子のほのかな香水の匂いがした。さすがに女の武器と言われるだけあって、不思議な作用をするものだ。青梅街道に出て、小止みになった雨の中を新宿へ向かって走り出したとき、遠くかすかにパトカーのサイレンが聞こえたような気がした。サイレンは私の頭の中で鳴っていたのかも知れない。

次章へつづく

次回は2月14日(水)午前0時更新

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