そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第6章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を上梓します。

その刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第6章を公開。

更科邸を去ろうとする沢崎のブルーバードに乗り込んだ名緒子。2人は佐伯が暮らしていたマンションに向かう。

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そして夜は甦る』(原尞)

6

 田園調布の住宅地を抜け、玉川浄水場を迂回し、環八通りに入って運転のペースが落ち着くと、ようやく佐伯名緒子が話をきりだした。
「佐伯を──夫を捜し出して下さい」
 私はたっぷり一分間無言で運転を続けた。その間彼女は私の横顔を見つめて辛抱強く待っていた。この依頼は彼女自身の意志に基づくものだと思われた。私は調査料や経費のことをざっと説明した。彼女は一週間分の費用を明日銀行振込にすると言った。車は上野毛、用賀を過ぎて小田急の高架の下をくぐった。予報より遅れているが、前方に灰色の雨雲が広がっていた。
「ご主人のマンションに同行しても構いませんか」と、私は訊いた。「少し調べてみたいことがあります」
「ええ、お願いしますわ。わたしでは見過ごしていることがあるかも知れません」
 私は佐伯のマンションの場所を訊いた。中野といっても、青梅街道に沿った丸ノ内線新中野駅の近くだった。
「ご主人はおいくつですか」
「わたしより三つ年上で、三十才になったばかりです」
「ご主人の写真が必要なのですが、お持ちですか」
「うっかりしていましたわ。でも、佐伯のマンションに行けばあるはずです」
 私は運転席のウィンドーを閉めた。陽が翳って気温が下がり、風が冷たくなっていた。
「警察への届けはどうするつもりですか」
「中野のマンションから弁護士の韮塚さんに連絡を取り、中野警察署でおちあって届け出ることにしています。もちろん、佐伯がまだ帰っていない場合のことですけど」
 甲州街道との交差点、井の頭線の高架を過ぎ、私は右折して五日市街道に入った。空模様は一段と怪しくなって、いまにも降り出しそうな気配だった。
「佐伯さんの知人で、右手を隠して見せたがらない男に心当たりはありませんか」と、私は訊いた。
「いいえ、そういう人はいないと思いますけど──」彼女は私のほうを振り返り怪訝そうな顔をした。私はそれを無視して、昨日私の事務所に現われた男の特徴を話した。
「わたしの知っている人には、そんな感じの方はありませんわ」と、彼女は言った。「主人とわたしの共通の友達はもともとあまり多くないんです。それに、彼が中野のマンションを借りたのは、今年の一月のことでした。それからは半ば別居のような状態ですので、近頃はお互いに相手がほかでどういう生活をしているのか、知らないことも少なくありません」
「では、海部という名前に心当たりはありませんか。たぶん、海山の海に部品の部という字を書くのだと思うが」
 彼女は首を横に振った。佐伯直樹を捜し出すのは面倒な仕事になりそうだった。少なくとも、彼の妻から得られるだろうと期待していた手掛りはあまり当てにできなくなった。
「でも、ひょっとしたら──」と、彼女は言った。「最後に主人に会ったとき、彼のマークⅡの助手席に坐っていた男の人がその方だったような気もしますわ。わたしは主人と話すことに夢中でしたから、確かなことは言えませんけど」
「それはいつのことですか」
「主人が田園調布に来ることになっていた前日ですから、水曜日の夜ですわ」
「そのときのことを少し詳しく話してくれませんか」
「水曜日の夜の十時頃だったと思います。わたしはどうしてもその日のうちに彼をつかまえたくて、中野まで出かけたのです。翌日には、彼が五千万円の慰謝料と引き換えに離婚届に印鑑を押しに来ると聞かされて、それをやめさせるつもりでしたの」
「五千万円をですか」と、私は訊いた。
「それもですけど、離婚を、ですわ」
「ほう……すると、あなたは離婚には反対なのですか」
「わたしには佐伯と別れなければならない理由も、別れたい理由もありません」
 私は話がよく解らなくなって来た。上衣のポケットからタバコを取り出して、一本くわえた。紙マッチにてこずっていると、彼女がワイン色のハンドバッグから細身の電子ライターを出して、私のタバコに火をつけてくれた。
「すると、別れたいのは佐伯さんのほうなのですか。しかし、それでは五千万円の意味がよく解らない」
 彼女はハンドバッグから外国産のいかにも軽そうな感じのタバコを取り出して、火をつけた。「主人の気持がどうなのか、確かなことは分かりません。でも、彼が自分から望んでわたしと別れたがっているとは思えません。わたしを嫌っているとか、ほかに好きな女性がいるとか、そんなことではないと思います。彼には子供っぽい固定観念のようなものがありましたの。自分は名緒子を幸せにできないのではないか、自分がそばにいないほうが名緒子のためにはいいのではないか──そういう意味のことを何度彼の口から聞いたか分かりません。そのことで、何度彼と口論したか分かりませんわ……でも、わたしたちは学生時代、卒業後の交際、三年前からの結婚生活とそのあいだにいろんな危機もありましたけど、それを乗り越えて今日までやって来ました。そういう夫婦もあっていいはずですし、わたしたちがとくに不幸だったとは思いません」
 雨が落ちて来たので、私はワイパーのスイッチを入れた。三人連れの傘のない中学生が、声を上げながら歩道を駈けて行くのと擦れ違った。車は善福寺川を越えて成田東付近を走っていた。
 彼女は二、三度喫っただけのタバコをダッシュボードの灰皿でもみ消して、話を続けた。「結婚して半年ぐらいのときに、佐伯は勤めていた新聞社を辞職することになったんです。彼はある建築会社の違法行為を暴く記事を書いたのですが、その証拠となる書類に少し微妙な点があって、その会社は逆に彼の新聞社を名誉毀損で告訴する構えを見せたのです。初めは新聞社も裁判には勝てるという判断で主人を支持していたのですが、ある日突然その建築会社に対する謝罪文を掲載してしまいました。主人はその日に新聞社を辞めましたわ」
 夫の辞職は当然だという口調だった。信ずるところに従って潔く辞職しようとする夫、それを引き止めようとはしない理解ある妻──あるいは、単に世間との付き合い方が下手なだけの若い世代なのだろうか。決定打を放つ前にジャブの応酬がないのだ。だから、摩擦が生じるといきなり破局を迎える。
「その頃から、わたしたち二人の気持の問題にすぎなかったことが、周囲の影響を受けて表面化して行ったようですわ。新聞社を辞めた佐伯は田園調布へはあまり足を運ばなくなりました。彼は退社後はフリーのルポ・ライターになると言っていたのですが、実際にはそれらしい記事を発表した様子もありません。自分の仕事部屋を持ちたいと言って中野のマンションを借りた頃から、忙しくとびまわって何か調査を続けているようですが、具体的に何をしているのかわたしにも分からないのです。当然、父をはじめわたしの周囲では、佐伯が将来についてどう考えているのか、気にしはじめていますわ……でも、わたしたちのあいだは多少不安定ですけど、決定的な破綻をきたすようなこともなく、夫婦としての生活を維持して来ましたの。わたしは、大学を卒業してすぐに入った出版社で女性雑誌の編集の仕事をしていますから、彼の収入がなくても生活には困りません。主人も定期的に久我山のわたしたちの家へ帰って来ましたから、ある意味ではこれがわたしたち夫婦の理想的な状態かも知れない──わたしはそんなふうに考えはじめていたところでしたの」
 青梅街道に入り、前方に環七通りの陸橋が見えてきた頃には、雨脚はかなり強くなっていた。
 彼女の声から、感傷的な響きが消えた。「九月頃から、主人が久我山に帰って来るまでの間隔が少しずつ長くなって来ましたの。彼は新しい仕事に手をつけたので忙しくなったと言っていました。それを聞いて、わたしは彼のためにむしろ喜んでいたのです。今月になってから、まだ一度も帰って来ないので少し心配になりかけていたところに、いきなり父から佐伯の一方的な通告を聞かされたのですわ」
 そのときのショックが戻って来たように、彼女は膝の上で両手を強く握りしめた。「佐伯が弁護士の韮塚さんを通して、慰謝料五千万円でわたしと離婚したいと言って来たことは、もうご存知ですわね。その日、わたしは一日中彼に電話をかけ続けましたが、どうしても連絡が取れません。それで、どうしてもその夜のうちに彼をつかまえたくて、中野まで出かけて行ったんです。佐伯が一体何を考えているのか、父や韮塚さんを交えずに二人だけで話したかったからですわ」
「で、ご主人にお会いになったのですね」私は指を焦がしそうに短くなったタバコを灰皿で消した。
「ええ。タクシーを使って彼のマンションに着くと、ちょうど駐車場であの人がマークⅡに乗り込もうとしているところでしたの。わたしは駈け寄って、あの人を呼び止めました。わたしたちは車のドアを挟んで向き合ったんです。それから何をどう喋ったか憶えていませんが、とにかくわたしは、彼が韮塚さんを通してあんな通告をしてきたことを、激しく非難していたと思います。そのとき、助手席にわたしの知らない人が坐っているのに気がついたんです。わたしは驚いて急に黙ってしまったはずですわ。そして、佐伯が離婚のことはよく考えた上でのことだから、何も言わずに自分の言う通りにしてもらいたいと言ったのです」
「そのときの助手席の男の様子はどんなでした?」
「まるで自分はそこにいない人間だというように、無言でじっと坐ったままでしたわ」
 私は事務所に現われた男の特徴をもう一度詳しく話した。
「よく似ています」と、彼女は言った。「断言はできませんが、たぶんその方のようですわ。でも、右手のことまでは思い出せません」
「そうですか。その男のことは分かりました。ご主人との話はそれだけだったのですか」
「いいえ。わたしは、ちゃんと納得できるように話してもらいたいから、あなたの部屋で待っていると言ったんです。すると、あの人はこれから八王子方面へ出かけるので、帰りは何時になるか分からないと答えましたわ。それから、お互いに二言三言感情的なことを言い合ったと思います。わたしは自分の気持を抑えられなくなり、彼に背を向けてその場を去ろうとしました。知らない人の前で、泣き出しそうになってしまいましたの。うしろでエンジンをかける音がして、マークⅡがわたしを追い越して行くとき、彼が明日電話をすると言ったのが聞こえました。車はそのまま走り去って、それがあの人を見た最後なんですの」
「八王子方面とは、どこへ何をしに行ったのか判りますか」
「いいえ」彼女は情ない顔で、首を横に振った。
「翌日の電話もなし、ですか」
「ええ……翌日の午後は仕事の都合でオフィスを離れていなければなりませんでしたの。留守中に電話がいくつか入っていたのですが、そのうちの一つが佐伯だったかも知れませんわ」彼女は肩を落とし、震えそうになる唇をきつく噛んだ。
「ご主人の親類へは問い合わせてみましたか」と、私は訊いた。彼女はうなずいた。佐伯直樹には、あまり連絡のない再婚した父と、外国で結婚生活をしている姉がいたが、どちらからも逆に佐伯の近況を聞かれる羽目になったそうだ。彼女はほかにも思いつく限りの知人に夫のことを問い合わせていたが、彼の行方を知っている者は誰もいなかった。
 私は話題を変えて、海部と名乗る男が事務所に現われたときのことを彼女に話した。その男が正確には依頼人ではなかったことも説明した。彼がもう一度私の事務所に姿を現わせば、何か手掛りが得られるかも知れないと言った。彼女は雨の流れるフロントガラス越しに前方を見つめたまま、私の話を聞いていた。
 無言のうちにしばらく走って、杉山公園の交差点を過ぎた。私は次ぎの角を左折し、あとは彼女の教える道順に従って走った。数分後、佐伯直樹のマンションに着いた。それは六〇年代の後半に建てられた五階建の古ぼけたマンションで、コンクリートの壁にはブドウの房の食べカスのような黒いひび割れが縦横に走っていた。駐車場の佐伯のスペースに、彼の赤いマークⅡの姿はなかった。代わりに、私のブルーバードを駐車した。長針が半分に折れているダッシュボードの時計を見ると、二時半だった。外の雨は相変わらず強く降っていたので、彼女が赤いコートに袖を通すのを待った。私たちはブルーバードを降りて、雨の中をマンションの玄関まで走った。

次章へつづく

次回は2月9日(金)午前0時更新

※書影はアマゾンにリンクしています。以下の書影は2月下旬から展開予定の、新装版文庫の装幀。

新作『それまでの明日』は2018年3月1日発売!


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