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「能力主義」弱毒化への長い道――マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』文庫版解説:本田由紀

あなたの成功は努力の賜物か、それとも運か?
努力して高い能力を身につけた人が社会的成功と報酬を手にする――こうした「能力主義(メリトクラシー)」は一見、平等に思えますが、本当にそうでしょうか?
現代社会の「正義」と「人間の尊厳」を問い、日本中で議論を生んだベストセラー、『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房)がついに文庫化。文庫版にあたっての解説(本田由紀/東京大学大学院教育学研究科教授)を公開します。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫、早川書房
『実力も運のうち 能力主義は正義か?』
ハヤカワ・ノンフィクション文庫

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』文庫版のための解説(本田由紀/東京大学大学院教育学研究科教授)

単行本への解説を私が執筆したのは2021年の初頭であった。それから約2年半が経った2023年7月のいま、新たに文庫版への解説をしたためている。この2年半の間に世界はどうなったのか。限られた紙幅ではあるが、サンデルが投げかけた問いがアメリカや日本の社会にどのように着地しつつあるのかを概観してみたい。

アメリカでは2021年1月20日にトランプに代わってバイデンが大統領に就任し、サンデルが危惧していた「置き去りにされた人々」によるトランプ支持には一応の区切りがついた。バイデンは2021年4月26日に労働者の組織化と権限強化に関する大統領令に署名し、ウォール街や巨大テック企業への規制強化や、賃金格差の是正に取り組む姿勢を見せている。2022年4月にはAmazon の物流倉庫で初の労働組合が結成され、バイデンも演説で賞賛の言葉を述べた。このような姿勢は、高学歴エリートが一般の労働者を見下す状況を厳しく批判したサンデルの見方に沿うものである。むろんバイデン後のアメリカも相次ぐ銃犯罪や人種差別などを含む多くの問題をいまだ抱え続けている。

日本では2021年10月に菅義偉から岸田文雄へと首相が交代した。岸田は当初は「成長と分配の好循環」や「令和版所得倍増」などの方針を掲げていたが、2022年2月に勃発したロシア‐ウクライナ戦争を一因とする急激な物価上昇とコロナ禍の負の影響の長期化により、日本の人々の中での格差や困窮はむしろ悪化している。2023年の第211回通常国会では、防衛費のみ急増した予算が通過し、難民申請者を出身国に送還することを可能にする入管法の修正や、性的少数者への差別を正当化しかねない「LGBT理解増進法」の成立など、総じて弱者やマイノリティに対する迫害や排除が強化される方向にある。

2022年7月8日に元首相の安倍晋三が手製の銃により殺害された事件は、容疑者が旧統一教会の被害者であったことから、日本という国の深部や骨格に対する根底的な疑問や批判を喚起する結果になった。信者に多額の献金を要求し生活も家庭も破壊するカルト宗教と政治家──特に自民党の──が癒着し、選挙支援や信者の投票動員により当選を得ていたことが明るみに出た。日本は「能力主義」どころか、利害と思惑で結びついた組織や人の裏取引により政治権力を手にすることができる国であり続けているのである。

経済の低迷、急激に進行する少子高齢化、世界に取り残されたようなジェンダー不平等など、様々なデータが示す日本の凋落は否定しようもない。この社会で生きる一般の人々は、「学力」と「人間力」により人間を序列化する仕組みのもとで、たまたま生まれた家にどれほどの資源があるかに応じ、一方では潤沢な投資を注がれて「勝ち組」の座を占める者がおり、他方にはどうしようもない困窮から「闇バイト」や売春でかろうじて生きる者がいる。コロナ以降、富裕層が子どもの教育にかける費用は急増し、貧窮層では減少している。ただし恵まれた「勝ち組」ですら、親からの「教育虐待」による鬱屈を抱え、「ぼっち」という侮蔑に怯えて人を殺す場合さえある。

出口が見えない中で、「能力主義」をめぐる議論を通じて何らかの解を探ろうとする議論がいくらか現れている。たとえば小説家の平野啓一郎は、サンデルとの対談の中で、「一人の人間をトータルに肯定する時に、その労働者としての比率をむしろ低下させて、もっとその人を多面的に見て評価する社会になった方が、実は能力主義の弊害を弱められるんじゃないかと思うんです」と述べている(注1)。サンデルはこれに対して「価値を分配するのに、純粋に経済的な方法から、より広く市民的で人間的な方法へとシフトすることが重要でしょう」と賛意を示している。平野の言う「多面的に見て評価する社会」、サンデルの言う「市民的で人間的な方法」がそれぞれ具体的に何を意味するのかは詳細に述べられていないが、何らかの美点を労働以外の面でも示さなければ存在を承認されない社会であるとすれば、出口となりうるかは不明である。(参考:対談の概要はこちら

また社会心理学者の小坂井敏晶は、「能力」も「人格」も外因によるものであるため「自己責任」にはならないとし、「能力主義」は隠蔽とごまかしに他ならないことからすべてをくじ引きで決めることを提唱している(注2)。またどのようにしても格差はなくならないとする。サンデルも、一定の学力水準が確保されていることを条件とした上で、入学試験をくじ引きにすることを提案しており、両者の発想には共通点がある。ただしこれについても、くじに外れたことの怨嗟が社会に総量として蓄積されてゆく危険を軽視すべきではないのではないかという危惧が残る。(参考:小坂井氏が取材に答えた朝日新聞記事〔有料会員限定〕はこちら

簡単な解は無い。しかし、よりすがる原理がもしあるとすれば、使い古された言葉ではあるが「人権」ということになると考える。誰もが生きていけるようにすること。その基本を保障した上で、各人が望む人生の道を実現できる多様なルートを可能な限り整備するための教育や労働の設計が、喫緊に必要だ。いずれも日本では圧倒的に欠落している。「能力主義」(メリトクラシー)の弱毒化(注3)への道は、日本でも世界でも、今後長く続くことになるだろう。

注1.「東大やハーバードの入試には「くじ」が必要だ。マイケル・サンデル教授が「運の存在」に気づかせようとする理由(対談全文・後編)」(2021年10月14日The Huffington Post記事
注2.「能力不足は自己責任ではない 社会心理学者が暴く学校教育のごまかし」(2023年7月1日朝日新聞記事
注3.本田由紀「メリトクラシーを「弱毒化」するために」宮本太郎編『自助社会を終わらせる』(岩波書店、2022年)


記事で紹介した本の詳細

書誌概要

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』
著者:マイケル・サンデル
訳者:鬼澤 忍
出版社:早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
発売日:2023年9月11日(月)
税込価格:1320円

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