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【9万部突破】努力できるのも運のうち? 「これからの社会のあり方を構想する上で必読の一冊」【マイケル・サンデル『実力も運のうち』書評:山口周】

2021年の人文書最大の話題作となった、マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』。12月9日にサンデル氏とオンラインで対話する著作家の山口周氏が、本書を読み解きます。

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マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』書評 山口周


世界的に拡大する格差の問題を解消するための手段としてユニバーサル・ベーシック・インカムに関する議論が盛り上がっている。評者も昨年に上梓した拙著『ビジネスの未来』において日本における導入に向けてポジティブな議論を展開した。しかし、この議論については根深い反対が存在することもまた確かだ。根っこにあるのは能力主義、つまり「地位や所得などの報いは能力や努力に応じて与えられるべきだ」という考え方である。これは評者自身も実際に経験したことだが、ある講演会において「自分は高額の報酬のために必死に努力している。そうやって稼いだお金を、努力もしないで無為に過ごしている人に対して与えろ、というのはどう考えてもおかしい」という反論をいただいたことがある。この、一見すると真っ当に思える主張に対して、どのような反論が可能なのか? 本書まるごとがその回答になっている、と評者は思う。
  
著者のサンデル氏は本書を通じて読者にある「問い」を突きつける。それは「自分が生まれた家によって社会での地位や報酬が決まる社会」と、「自分が生まれた家に関係なく、自分の才能と努力によって社会での地位や報酬が決まる社会」の、どちらが良い社会だと思うか?という問いである。おそらく、いまこの書評を読んでいる読者のほとんど全ては直感的に「後者に決まっているだろう」と思うのではないだろうか。そもそもからして、この問い自体がナンセンスだと感じられた方も少なくないだろう。しかし、あらためて考えてみると、この問いはこれからの社会のあり方を考える上で、重大な論点を提出していると思う。

さらに考えてみよう。なぜ「生まれた家によって地位と報酬が決まる社会」と「自分の才能と努力によって地位と報酬が決まる社会」で、多くの人々は後者の方が公正だと感じるのだろうか。おそらく返ってくる答えは「生まれた家は運によって決まる。運だけでその人の社会での地位や報酬が決まるのは不公正だ」というものだろう。

なるほど、しかしでは、次のようには考えられないだろうか。つまり、ある人が才能や努力できる性格特性に恵まれたとして、その才能や性格特性もまた運によるものではないだろうか? 社会的に高い身分の家格に生まれるという「運」と、所属する社会で高く評価される才能や努力できる性格特性に生まれたという「運」とで、前者によって得られる地位や報酬は不公正である一方、後者によって得られる地位や報酬は正当なものであると考えることは、それ自体が不公正ではないだろうか。この見解について、本書においてサンデル氏は次のように指摘している。

私があれこれの才能を持っているのは、私の手柄ではなく、幸運かどうかの問題であり、私は運から生じる恩恵(あるいは重荷)を受けるに値するわけではない。能力主義者は、私が裕福な家庭に生まれたおかげで浴する恩恵に値しないことは認める。だとすれば、ほかの形の幸運──たとえば特定の才能を持っていること──はどうして違うのだろうか。

能力主義の信奉者であっても「生まれた家」と「生まれつきの才能」が両方とも「運」に左右されることは渋々ながら認めざるを得ないだろう。しかし「努力」についてはどうだろうか?「努力」は自らの意思によって払われるものであり、これを運に帰することはできない、だからこそ、本人が払った努力に応じて地位や金銭的報酬が傾斜して与えられるのは公正だ、と能力主義者であれば反論するかもしれない。

この反論についてサンデル氏は米国の政治哲学者、ジョン・ロールズの論考を引いて再反論する。

能力主義者はこう応じるかもしれない。生来の才能が運の問題だとしても、努力するかどうかはわれわれ次第だ、と。したがって、われわれは、自らの努力と勤勉によって獲得するものに値するのだ。ロールズの意見は違う。「努力しよう、やってみよう、そして通常の意味で称賛に値する存在になろうという意欲さえ、それ自体が恵まれた家庭や社会環境に左右される」。

勉強の習慣や努力が報われるという信条もまた、その人が育った家庭や社会という環境によって育まれる、ということだ。ここは本書の中で、おそらく読者をもっともモヤモヤさせる箇所だと思う。評者としてもサンデル氏の主張に全面的に与するものではない。しかし努力が、一般に考えられているほど、本人の自覚によって発動される行為ではないという指摘は、これまで他の多くの論者によって指摘されてきたことも確かだ。

たとえば社会学者のピエール・ブルデューは環境との相互作用によって育まれる思考や行動の様式をハビトゥスと名づけ、このハビトゥスは自覚することなく身体化されてしまう、と指摘している。ここで重要なのは「自覚的でない」という点だ。つまり、本人の自発的な意思によって身についたものではなく、環境との相互作用の中で無自覚的に身につけてしまうものなのだ。

おそらく「努力は報われるべきか?」と質問すれば、ほとんどの人はこれをポジティブに支持するだろう。しかしブルデューのいうように「努力は報われるという信条自体」が、育った家庭や学校や社会という環境によって育まれるものであるとすれば、努力の多寡もまた「生まれた家の家格」や「生まれつきの才能」と同じように、運によって与えられたものだということになる。このように考えていくと「能力と努力によって地位と報酬が決まる」という考え方には、なんの公正性もないということになってしまうのだ。

ではどうすればいいのか? このような問題への対処について議論すると結論は往々にして「社会システムの改変が必要だ」ということになる。才能と努力がそもそも運によるのだとすれば、才能と努力によって得られる経済的報酬の格差を再分配・是正する仕組み、つまりは本書評冒頭に掲げたようなユニバーサル・ベーシック・インカムのような仕組みが必要だということである。本書においてサンデル氏は、もちろんそのようなシステムの改変の必要性についても触れながら、それ以前の問題として、私たちの「能力主義に関する傲慢さ」をあらため、共感と謙虚さを社会に回復することが必要だと述べている。このサンデル氏の主張に触れて、評者は新約聖書の一節を思い起こした。

いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
――コリントの信徒への手紙一 4.7(新共同訳)

これはパウロが弟子に向けてしたためた手紙だが、このパウロのメッセージは、現在の社会を生きる私たち全員が重く受け止めなければならないものだと感じる。社会的な断絶が深層化している今だからこそ、私たちは能力主義による傲慢と暴走に歯止めをかけなければならない時期が来ている、というサンデル氏の主張に、評者は強い共感を覚えた。

最後に一言。洋書のタイトル翻訳は首を傾げたくなるものが多いが、本書のタイトル翻訳は例外的に秀れたものだと思う。本書の原書タイトルは「The Tyranny of Merit」である。直訳すれば「能力による専制」とでもなるだろうか。これはこれで本書の内容に即したものだとは思うが、いかにも硬い。著者であるサンデル氏が本書を通じて訴えている内容を踏まえれば、採用された翻訳タイトル「実力も運のうち」の方がずっとコンパクトに本書のメッセージを表現できていると思う。私たちは「運によって得られたもの」と「実力によって得られたもの」とを峻別し、後者を前者より正当な報酬であると考える。しかし「実力もまた運による」ものであるとすれば、この両者を峻別すること自体がナンセンスであろう。このタイトルを考案した編集者のセンスに敬意を表したい。

これからの社会のあり方を構想する上で必読の一冊だと思う。一読を強く勧めたい。

山口周(やまぐち・しゅう)
1970 年生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修士課程修了。独立研究者、著作家、パブリックスピーカー。電通、ボストン・コンサルティング・グループ、コーン・フェリーヘイグループ等で企業戦略策定、文化政策立案、組織開発に従事。現在、株式会社ライプニッツ代表、株式会社中川政七商店、株式会社モバイルファクトリー社外取締役。『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 』(光文社新書)でビジネス書大賞 2018 準大賞、HRアワード2018 最優秀賞(書籍部門)を受賞。その他の著書に、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来』(プレジデント社)、『自由になるための技術 リベラルアーツ』(講談社)などがある。

★山口周氏、マイケル・サンデル氏登壇イベント、参加受付中!(無料)

「マイケル・サンデル氏と語る、分断を超えた先にある共生未来」

<開催日時>
・ 2021年12月9日(木)9:30~11:00(予定)

<開催方法>
・ Zoomによるウェビナー・オンラインシンポジウム(定員:5,000名)

詳細・お申し込みはこちら↓



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