【特別掲載】櫛木理宇『氷の致死量』連載第4回【増量試し読み】
映画『死刑にいたる病』の大ヒットを記念して、原作者の櫛木理宇さんによる最新傑作『氷の致死量』の本noteでの試し読みを特別に増量し、10回に分けて掲載いたします。読みだしたら止まらないノンストップ・シリアルキラー・サスペンス。毎日更新していきますので、お付き合いいただければ嬉しいです!(編集部)
『氷の致死量』
櫛木理宇
第3回「第一章 2」の続き
第一章
3
ベッドに横たわったまま、十和子(とわこ)はびくりと身を硬くした。
玄関の扉がひらく気配がしたからだ。
どうやら夫の茂樹(しげき)が帰ってきたらしい。静かに扉が閉まる音。ドアロックをかける音。靴を脱ぎ、框(かまち)に足を乗せる音──すべての動作が、手にとるようにわかる。
目を上げて、時計を確認した。午後十一時四十二分。
茂樹が浴室に向かったらしい足音を聞き、十和子はほっと息を吐いた。フランス料理と高いワインの余韻は、とうに消えていた。
夫と寝室をべつにしてから、一年以上が経つ。
この3LDKのマンションはいま、各室をリヴィングダイニング、十和子の寝室、茂樹の寝室、客間兼物置といったふうに分けて使っている。未来の子供部屋として空けていた六帖間に、茂樹がベッドを運びこんだかたちだ。
──そしてわたしは心の底で、それを歓迎している。
目を閉じたまま、十和子は眉間(みけん)に皺を寄せた。そんな自分がいやだった。
夫が浮気していることは、おぼろげに察していた。
嫉妬はない。だが不安はあった。離婚して、親を悲しませることへの懸念であった。
聖ヨアキム学院でまた教鞭を執るつもりだ──と十和子が告げたとき、茂樹は反対しなかった。
「いいんじゃないか」
短くそう彼は言った。
「専業主婦より、やっぱりきみは教師が似合うよ」とも。
夫の茂樹とは見合い結婚だ。出会った当時、十和子は二十七歳だった。教師になって三年目の初夏、ホテルのロビーで彼とはじめて会ったのだ。
三歳上の茂樹は世慣れて見えた。やさしそうで、誠実に思えた。
なにより母親が、一目で彼を気に入った。十和子にとって、結婚の条件はそれで十二分だった。
──わたしの人生の岐路には、いつだって母がいた。
浜本夕希(はまもと・ゆうき)にはああ語った。しかし十和子が院まで進みながら公立中学校の教師になった理由は、じつのところ「母親がそうだったから」だ。そして当の母親が望み、母親が勧めたからである。
十和子の母親は、市職の教員だった。
四十六歳で学校管理職選考試験に受かって教頭に、そして五十一歳で校長になった。二年前に定年退職し、現在はカルチャーセンターの館長をつとめている。堅実かつ、きわめて順調な人生であった。
──だから娘であるわたしにも、そうあれかしと望んだ。
母のような人にしてみれば、当然のことだ。
十和子はずっと、母の望むとおりに生きてきた。母が希望する高校に進み、私立の名門大学に現役合格し、さらに院へと進んだ。
卒業後は母と同じ公立中学校の教師となり、母の好む相手と結婚した。他人から見れば、なにひとつ瑕疵(かし)のない人生だろう。順風満帆とさえ映るはずだ。
──けれど、夫に恋したことはない。
薄闇の中、十和子はため息をついた。
彼に抱かれて嬉しいと感じたことも、みずから望んで触れたこともない。胸をときめかせたことも、独占欲や嫉妬に身を焦がしたこともない。
なぜ結婚したのかと問われれば、
「母がいいと言ったから。それに適齢期になれば、結婚するのが”普通”だと思っていたから」
としか言えない。
三十歳までに結婚と出産を済ませ、働きながら子供を育てる。そして子供を送りだしたら、夫とともに老いて死んでいく──。女と生まれたからには、それが当然だと思ってきた。なぜって母が、そうしてきたから。
夫の茂樹に、情はある。愛着もある。なぜって家族だからだ。
八年間、夫婦として家族として暮らしてきた。寝食をともにしてきた。だからこその情だ。しかしそこに、恋着はかけらもなかった。
──だから、夫が浮気したって当たりまえだ。責められない。
彼が”妻”に求めているものを、わたしは与えてあげられない。
寝室を分けると同時に、夫とは会話すらなくなった。その前後、いろいろなことが起こった。起こったのに、そのすべてに蓋(ふた)をした。なにもなかったようにふるまおうとしてきた。
戸川更紗(とがわ・さらさ)のことだってそうだ。
夫には話していない。いや、話せない。
──わたしを「氷を抱いているようだ」と評した夫には。
十和子は寝がえりを打った。
閉じていたまぶたを、薄くひらく。カーテンの隙間から、街灯の白い光が細く洩れていた。闇に慣れた目に、やけにまぶしく映る。
ふたたび、まぶたをきつく閉じた。
心が飛んでいく。逃避していく。
耳の奥に、かつての担当教授の声がよみがえる。
──きみ、トガワサラサくんの妹かね?
──以前のゼミ生が、きみによく似ていたものでね。すまない。
十和子がトガワサラサの論文について調べはじめたのは、その言葉がきっかけだ。そのときの教授の表情に、興味を抱いたせいだった。
不思議な表情だった。戸惑いと色濃い後悔。そして、ほんのわずかな恐怖。
戸川更紗については、院の図書館にある教育用端末で検索できた。
旧姓江藤(えとう)。二十三歳で結婚して以後は、戸川姓で論文を発表している。
次いで、モニタにずらりと論文のタイトルが表示された。思わず十和子は目を見張った。
『性の多様化を受け入れざる社会と、偏見および差別のメカニズム』
『ジェンダーをめぐる法。少子化国家における性の多様化と司法』
『セクシュアルマイノリティ、または性的差異への考察』──。すべて、十和子自身がいつか書こうと目論んでいた主題だった。
おまけに経歴も十和子と似ていた。清耀(せいよう)女子大学教育心理学科に現役入学。その後は同大学院に進み、同じ教授のもとで発達心理学コースを専攻。さらに十和子も更紗も、クリスチャンであった。
学生課に頼みこんで、十和子は過去の卒業写真を閲覧した。
そこには、微笑む美しい更紗が写っていた。十和子はその写真を、こっそり携帯電話で撮って保存した。
顔立ちそのものはあまり似ていない。しかし友人たちに画像を見せると、
「これ誰? 親戚? 十和子と雰囲気そっくりじゃん」
と誰もが口を揃えた。
「へえ。他人なんだ。でも同じ大学の同じ学部、同じ学科で学んで、同じ教授に師事して、おまけにクリスチャン。雰囲気が似るのも当たりまえじゃない?」
と言う者もいた。
そうかもしれない、と十和子はいったん納得した。
だが異なる部分もある。戸川更紗は成人してからカトリックに帰依(きえ)したようだ。一方、十和子は生まれてすぐに洗礼を受けたプロテスタントである。噂を聞くだに、更紗のほうが熱心な信徒だったらしい。
それに更紗は学生結婚だ。在院中に入籍し、卒業後は聖ヨアキム学院中等部で教鞭を執った。英語教師として三年あまり働いて、そして──。
十四年前の夜、戸川更紗は聖ヨアキム学院の校内で殺された。
更紗の最後の論文は『無性愛を生きる人びと──アセクシュアルと、現代社会の”恋愛信仰”について』である。
十和子がその論文を読めたのは、療養中だった去年のことだ。熟読した。文字どおり、貪(むさぼ)り読んだ。そして読み終えた瞬間、こう思った。
──もしかして、彼女もわたしと同じだったのではないか。
だからこそ彼女も清耀女子大学院で発達心理学を専攻し、あの教授に師事し、カトリックに帰依したのではないか。同じ経歴をたどったのではなく、わたしと彼女はもともと似た者同士だったのではないか。だからこそ、まとう空気が似かよっていたとは考えられまいか。
アセクシュアル。無性を生きる人びと。
誰にも性的魅力を感じず、性愛行為を望まず、他者に触れたい、抱きあいたいという欲求を持たない者たち。
いえ、”わたしたち”。
──氷を抱いているようだ。
夫の言葉が、記憶の底でリフレインする。
そしてもうひとつの言葉もよみがえる。
こちらは声ではなく、文字だった。パソコンのテキストソフトで打たれ、印刷された無機質な明朝体。
──”おまえは、女じゃない”
ふたたび寝がえりを打ち、十和子は枕に深く顔を埋めた。
──第5回へ続く
〈書誌情報〉
『氷の致死量』
櫛木理宇
早川書房 四六判並製単行本
定価:2090円(税込)
ページ数:416ページ
〈内容紹介〉
聖ヨアキム学院中等部に赴任した英語教師の鹿原十和子(かばら・とわこ)は、自分に似ていたという教師・戸川更紗(とがわ・さらさ)が14年前、学院で何者かに殺害された事件に興味をもつ。更紗は自分と同じアセクシュアル(無性愛者)かもしれないと。一方、街では殺人鬼・八木沼武史(やぎぬま・たけし)が、また一人犠牲者を解体していた。八木沼は亡くなった更紗にいまだ異常な執着を持っている。そして彼の5番目の獲物は、十和子が担任する生徒の母親だった……十和子と八木沼、二人の運命が交錯するとき、驚愕の真実が! 映画「死刑にいたる病」の原作者が放つ傑作シリアルキラー・サスペンス。
〈プロフィール〉
櫛木理宇(くしき・りう)
1972年新潟県生まれ。2012年『ホーンテッド・キャンパス』で第19回日本ホラー小説大賞・読者賞を受賞。同年、『赤と白』で第25回小説すばる新人賞を受賞する。著書に〈ホーンテッド・キャンパス〉シリーズ、『死刑にいたる病』(『チェインドッグ』改題)『死んでもいい』(以上2作ハヤカワ文庫刊)『鵜頭川村事件』『虜囚の犬』『老い蜂』『残酷依存症』などがある。2016年に『ホーンテッド・キャンパス』が映画化、2022年に『死刑にいたる病』が白石和彌監督映画化。『鵜頭川村事件』は入江悠監督でドラマ化が決まっている。