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【特別掲載】櫛木理宇『氷の致死量』連載第5回【増量試し読み】

映画『死刑にいたる病』の大ヒットを記念して、原作者の櫛木理宇さんによる最新傑作『氷の致死量』の本noteでの試し読みを特別に増量し、10回に分けて掲載いたします。読みだしたら止まらないノンストップ・シリアルキラー・サスペンス。毎日更新していきますので、お付き合いいただければ嬉しいです!(編集部)

『氷の致死量』
櫛木理宇
早川書房/46判並製/定価2090円(税込)


『氷の致死量』

櫛木理宇


第4回「第一章 3」の続き

   

第一章  


 

     4

 

     *      *

 

 二〇〇五年六月七日、戸川更紗(とがわ・さらさ)は聖ヨアキム学院中等部の職員室で殺された。

 死亡推定時刻は午後九時から十一時の間。死因は失血死である。

 致命傷は頸部への深い切創だった。鋭利な刃物によるもので、切り口にためらいがなかった。右腕と右掌に防御創が見られたものの、抵抗した様子は薄く、顔見知りの犯行だろうと目された。

 着衣に乱れなし。顔面の鬱血や打撲傷なし。唾液や体液の残留など、性的暴行未遂の痕跡もなし。

 その夜、更紗はテストの採点作業のため、校内に一人で居残っていたという。当時、夜間警備員は雇っていなかった。

 防犯カメラは出入り口、昇降口、各階の窓際に一台ずつ。また警報センサーは出入り口、職員室前、情報処理ルーム前に設置されていた。

 しかし捜査の結果、センサーは前もって切られていたと判明した。また出入り口と職員室前の防犯カメラは壊された上、SDカードを抜き取られていた。

 警察は「内部の事情に明るい人物」と見て捜査を開始。だが容疑者を絞れぬまま行きづまり、十四年経ったいまも犯人は捕まっていない。

 

     *      *

 

 十和子(とわこ)は頬杖をつき、テーブルにペンを置いた。

 愛用のペンだ。今朝、夫宛てのメモに「話し合いましょう」と走り書いたのも、やはりこのペンであった。

 時刻は朝の六時二十五分。場所は二十四時間営業のコーヒーショップ『Y'sコーヒー』である。

 十和子は窓際の席に座っていた。

 テーブルにはペンと、先ほどの事件概要をまとめたノート。そしてトールサイズのブレンドコーヒーが置いてある。コーヒーはいつもの”砂糖なし、ミルクのみ”だ。

 十和子は今朝、夫より二時間早く起きた。

 彼の朝食を用意し、あとはパンを焼くだけの状態にととのえて、静かに家を出た。

 どうせ十和子は朝食を摂らない。以前は夫が食べている間、食卓の向かいに座ってコーヒーを楽しんだものだ。でも夫婦の会話が途絶え、夫の帰宅が二日に一度、三日に一度と遠のくにつれ、ともに食卓を囲むこともなくなってしまった。

 頬杖をついたまま、十和子は窓の外へ視線を流した。

 この『Y'sコーヒー』は、雑居ビルの二階にテナントとして入っている。聖ヨアキム学院学生寮の、ななめ向かいに建つビルだ。

 この位置からは、とくに学生寮の正門がよく見えた。この時刻に登校していく生徒たちは、きっとスポーツ特待生だろう。高等部の野球部にいたっては、四時から朝練をはじめていると聞く。

 義務教育のうちから寮? と驚く人もいるが、私立の中高一貫校ならばめずらしい話ではない。学生寮があれば、他県や外国からでも生徒を受け入れられる。特待生や留学生は優先的に入寮できるため、部屋はつねに八割以上埋まっているらしい。

 窓の外を眺めながら、十和子はなかば無意識にペンを手にした。

 手の中でくるりとまわす。コーヒーを一口啜(すす)り、ノートにふたたび目を落とす。

 ──べつに、犯人探しをするつもりはない。

 口の中でそうつぶやいた。

 わたしが興味を抱いているのは、あくまで生前の戸川更紗だ。とはいえ、彼女がなぜ殺されたか──いや、殺されねばならなかったかは、知りたい。

 なぜって、わが身に置きかえれば明白だ。もし十和子自身が殺されたなら、それは自分の・性質・とけっして無縁ではあるまいと思うからだ。

 殺人の動機は、おもに六つに大別されるという。金銭、怨恨、痴情、嫉妬、復讐、思想である。

 どれも十和子には関係がない。ないと思ってきた。

 しかし現実には、一年前、傷害事件に巻きこまれた。刑事事件として立件はされなかったものの、警察から事情を聞かれ、心身ともに傷を負った。

 例の明朝体が、またも眼裏(まなうら)によみがえる。

 ──”おまえは、女じゃない”

 十和子はかぶりを振った。

 まぶたを閉じ、ペンの尻でこめかみを押す。

 ゆっくりと十数えて、目をひらく。ノートに書きつけた己の文字を目で追う。

”二〇〇五年六月七日、戸川更紗は……”

”十四年経ったいまも犯人は捕まっていない”

 これが、十和子がいまのところ得ている『聖ヨアキム学院女性教師殺人事件』の情報のほぼすべてだ。十四年前の新聞記事を図書館で探し、縮刷版をコピーしてもらい、国会図書館で週刊誌の記事をあさった結果である。

 大衆向け週刊誌は『美人女教師、夜の校舎で惨殺される』などと、ずいぶん煽情的な見出しで騒いでくれたらしい。愉快な話ではなかった。だがそのおかげで、月日を経てもこうして事件概要を掴むことができる。

 十四年前、更紗は二年B組の副担任をつとめていたようだ。当時、二十九歳。

 前年は三年生の担任を受けもっていたが、本人の希望により副担任に退いていたという。理由は「家庭の事情」だそうだ。

 警察は夫と同僚を中心に人間関係を調べたが、痴情のもつれなど、動機になりそうなトラブルはとくに見つからなかったという。犯人が捕まっていないため公判も当然ひらかれておらず、残念ながらこれ以上の情報は得られていない。

 冷めかけたコーヒーを、十和子は一気に飲みほした。

──第6回へ続く


〈書誌情報〉
氷の致死量
櫛木理宇
早川書房 四六判並製単行本
定価:2090円(税込)
ページ数:416ページ

内容紹介
聖ヨアキム学院中等部に赴任した英語教師の鹿原十和子(かばら・とわこ)は、自分に似ていたという教師・戸川更紗(とがわ・さらさ)が14年前、学院で何者かに殺害された事件に興味をもつ。更紗は自分と同じアセクシュアル(無性愛者)かもしれないと。一方、街では殺人鬼・八木沼武史(やぎぬま・たけし)が、また一人犠牲者を解体していた。八木沼は亡くなった更紗にいまだ異常な執着を持っている。そして彼の5番目の獲物は、十和子が担任する生徒の母親だった……十和子と八木沼、二人の運命が交錯するとき、驚愕の真実が! 映画「死刑にいたる病」の原作者が放つ傑作シリアルキラー・サスペンス。

〈プロフィール〉
櫛木理宇(くしき・りう)
1972年新潟県生まれ。2012年『ホーンテッド・キャンパス』で第19回日本ホラー小説大賞・読者賞を受賞。同年、『赤と白』で第25回小説すばる新人賞を受賞する。著書に〈ホーンテッド・キャンパス〉シリーズ、『死刑にいたる病』(『チェインドッグ』改題)『死んでもいい』(以上2作ハヤカワ文庫刊)『鵜頭川村事件』『虜囚の犬』『老い蜂』『残酷依存症』などがある。2016年に『ホーンテッド・キャンパス』が映画化、2022年に『死刑にいたる病』が白石和彌監督映画化『鵜頭川村事件』は入江悠監督でドラマ化が決まっている。


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