反自然の呼び声が聞こえる 木澤佐登志『闇の精神史』書評:永田希
ロシア宇宙主義、アフロフューチャリズム、サイバースペースを領域横断的に俯瞰することで現代思想の最先端を剔抉する話題の新刊、『闇の精神史』(木澤佐登志、ハヤカワ新書)。この記事では、書評家で『積読こそが完全な読書術である』著者の永田希さんによる書評を公開します。「反自然」をキーワードに、サイボーグ宣言、地政学、『エンダーのゲーム』、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』まで縦横無尽・四方八方に拡散し収斂していくさまは、本書の読み方の優れた一例を示しています。
反自然の呼び声が聞こえる
『闇の精神史』書評:永田希
宇宙という日本語は、空間の広がりを示す「宇」と、時間の広がりを示す「宙」を組み合わせたものです。宇宙と言われたとき、多くの人は「地球の外側」にある寂寞の領域を思い浮かべるようですが、このことはとても不思議なことではないでしょうか。地球は、宇宙のなかのいち天体であり、宇宙の一部なのですから。「地球の外側に宇宙があってかつ宇宙の外側に地球がある」のではなく、宇宙の広がりの「なかに」地球があるのは、言ってしまえば当たり前のはずのことです。もっとも、「世界」や「アジア」というときに自国を除外して考えるように、ある総体を考える場合に自分を特殊として切り出して考えてしまうのは、むしろ自然なことなのかもしれません。
もしも、宇宙のなかから地球を切り離すことが自然な考え方であり、そして世界のなかから自国を切り離すことが自然な考え方であり、さらには世界のなかから自分を切り離すことが自然な考え方なのだとしたら、その切り離されたものを再び関連づけ、位置づけ直す行為は、不自然な、あるいは反自然的なものということになるでしょう。
この反自然的な行為を、現代のわたし達は当たり前のように活用しています。たとえばそれは、スマートフォンです。
スマートフォンでGoogle Mapsのアプリを起動し、地図の上に自分の居場所を表示させてみてください。わざわざ実際に起動する必要はないかもしれません。アプリを起動することを想像してみてください。それは、地図という仮想の全体のなかに、「自分の居場所」というさらに仮想的な浮動点をかりそめに穿つことです。アプリを起動してそこに地図を表示させるまでは、Google Mapsの総体はユーザーとは無関係に存在しています。ユーザーの知らないどこかのサーバーに、膨大な、そして常に更新されながら、ただ存在している情報の塊でしかないものです。この、どこかで蠢いている情報の塊はだいたいの場合、ずっと忘れられています。
いうまでもなく、Google MapsはGPSを利用しています。GPSとは、グローバル・ポジショニング・システムもしくはグローバル・ポジショニング・サテライトの略で、もとはアメリカ国防総省のプロジェクトとしてはじまったもの。セシウムなどの原子の周期を使った原子時計を内蔵した複数の位置測位衛星からの情報を組み合わせて、ユーザーの位置を測ります。GPSの構想が始まったのは、いまから半世紀前の1970年代。1980年代には、ロナルド・レーガン大統領が冷戦への強力な打ち手として戦略防衛構想(SDI)を提唱します。SDIには宇宙という語は含まれていませんが、この構想は通称「スターウォーズ計画」と呼ばれており、実際には軍事衛星を活用した「宇宙の軍事利用」を主眼に据えたものでした。
1985年、ダナ・ハラウェイは有名な「サイボーグ宣言」を発表します。この「宣言」はよく「サイボーグになる」ことを推薦するものだと誤解されていますが、実際にはわたし達が「すでにサイボーグである」ことを宣言するものです。サイボーグ「になる」と考えることは、それ以前には自分がサイボーグではないと考えることですが、「すでにサイボーグである」ならば、サイボーグ「になる」必要はありません。ハラウェイはこのキメラ的な考え方を展開し、のちに「人間はコンポストである」と主張するようになります。コンポストとは、有機物が微生物によって発酵、分解されることを利用した堆肥のことです。ただそこにあるだけで、微生物のような無数の共棲する他者によって分解される別のものへと変化していくというコンポストの概念は、複数の要素によって構成されてあること、というサイボーグ概念から継承している考え方に基づいています。
ハラウェイのサイボーグおよびコンポスト観は、わたし達が複数の要素の組み合わせによって成り立っており、この複数の要素が自然界をともに構成していることを前提にしています。わたし達は、たとえばGoogle Mapsを日常的に利用することで、多かれ少なかれGPSを含んでいます。わたし達の無意識はスマートフォンを通して、複数の測位衛星と日常的に接続されているのです。機械的なものと生体的なものが共存するサイボーグのように、わたし達は腸内細菌叢(腸内フローラ)によってほかの有機物を分解し、また自分達も排泄をしたり、死んで灰や土に還ることで、自然環境のなかへと分解されていく堆肥(コンポスト)なのです。
サイボーグ概念は反自然的で、コンポスト概念の方は自然的、だと感じられるかもしれません。しかしハラウェイはサイボーグからコンポストにいたるまで一貫して、反自然と自然とが入り混じってあることを指し示しています。本稿の冒頭で示した「反自然的な考え方」は、宇宙や世界から切り離された自分を、宇宙や世界のなかへと結びつけ直すことでした。この意味でいうならば、ハラウェイの考え方は反自然的なのかもしれません。いわば、自然と反自然との、反自然的な融合が志向されているのです。
宇宙、地図、そして自然と反自然。このキーワード群に関連して挙げておくべきなのは、2001年に『Astropolitik』を発表したエヴァレット・カール・ドルマンの思想です。ウクライナ侵攻やイスラエル・ハマス戦争、または東シナ海の情勢によって近年あらためて「地政学」に注目が集まりつつあります。地政学は地理的条件と政治の関連を主に軍事的、外交的側面から議論する分野です。ドルマンは、SDIのような宇宙戦略の重要性を地球上の地理学にプロットして古典的な地政学を読み直してみせています。ドルマンはアメリカ地政学の理論家ですが、ヨーロッパの地政学者として近年もっとも注目されているのはロシアで新ユーラシア主義を提唱しているアレクサンドル・ドゥーギンでしょう(ロシアがヨーロッパに含まれるかどうか、これはこれでまた議論を避けられないテーマですが)。ドルマンもドゥーギンも、身の丈のスケールで考える常人にとっては不自然なスケールで思考し、生活レベルを大きく超えて包括する戦略を展開している反自然的な思想家です。しかしドルマンとドゥーギンは、政治的な立場は異なれど、巨視的な構想のなかで現実のリアルな世界に足場を見出そうとしているという意味では同じなのです。
アメリカの地政学者でもう1人、ジェラルド・トールという人物がいます。古典的な地政学を読み直し、そこで利用されている言葉、その思想を駆動させているイメージを分析するという「批判地政学」を代表する理論家です。ミシェル・フーコーやジャック・デリダ、ウルリッヒ・ベックの用語を地政学に取り入れて展開されるトールの議論は定性的で根拠に乏しいとされることもあります。しかし地政学を含む広義の「地理学」にはもともと、土地の形を扱う地形学(トポグラフィーTopography)のほかに、そこの土地の特色や住民を記録する地誌学(コログラフィーChorography)、そしてそれらを統合して地図的な平面にプロットする狭義の地理学(ジオグラフィーGeography)が含まれています。トールの批判地政学は、地政学のコログラフィー(地誌学)的側面の捉え直しとして考えることができます。
なお木澤佐登志『失われた未来を求めて』には次のようなくだりがあります。フーコーやデリダと並ぶフランス出身の現代思想家ジャン・ボードリヤールを引いた部分です。
ここでディズニフィケーションと呼ばれている現象は、やはりアメリカの社会学者であるジョージ・リッツアの提唱している「マクドナルド化」とともに、世界のアメリカ化を促していると言えるでしょう。トールの批判地政学は、虚構が現実に先行しているこの状況にまで切り込む必要があります。
木澤は『失われた未来を求めて』で、さらに拡張現実(AR)を使ったゲームを引き合いに出しつつ、日常生活をゲーム化する「ゲーミフィケーション」を紹介しています。ゲームが現実に影響する仕組みは、SDI以前の1977年に発表されたオースン・スコット・カードのSF小説『エンダーのゲーム』を彷彿とさせます。
『エンダーのゲーム』の作中の地球は、「バガー」という異星人による脅威にさらされて(いることになって)います。主人公の少年エンダーは10歳にも満たない子供のうちにその才能を見込まれて、家族から引き離されて、バガーの侵攻を迎え討つべくバトル・スクールと呼ばれる機構で訓練に明け暮れることになります。その訓練がほぼゲームであり、『エンダーのゲーム』という長編の記述は、そのほぼ全てが、ゲームに侵食された幼い主人公の日々の描写で占められています。いま「訓練がほぼゲームであり」と書いたのは、主人公が受ける訓練が「まるでゲームのようだ」、という意味ではありません。そうではなく、訓練とされている時間がほぼ全てゲームをすることに割かれている、という意味です。
1970年代に書かれた作品ならではの、地球における東西冷戦の緊張も描かれているのですが、そんな人類全体にとってのリアルな冷戦と、「単なるゲームなのか異星人との戦争にむけた『本当の』訓練なのか」と自問する暇すら許されない主人公の没頭と。この両者があきらかに乖離したものとして本作では描かれています。
この作品でバガーはアリやハチのような社会性のある昆虫型の生命体とされており、指導者の意思がグループのひとりひとりに時差なしで浸透する理想的な全体主義の社会を構成しているとされています。したがって、乖離したものとして描かれている、地球と宇宙のそれぞれで並行して、自由主義陣営と全体主義陣営は対峙しているのです。
地球で繰り広げられる冷戦と、バトル・スクールで主人公がプレイを強要されるゲームと、そのどちらに優位性があるかといえば、それは主人公のゲームの方です。主人公のゲームは宇宙戦争の訓練であり、その究極の目標は人類を脅威から救うということだからです。宇宙と地球が乖離させられつつ、宇宙的でゲーム的なものが、地球的でいわばリアルなものに優先するという世界観がここにあります。地政学的な世界観はまさにこのような解離と並行とを前提としているのです。
この宇宙的でゲーム的な地政学的世界観はいわゆる「鳥の目」にあたり、地球的でリアルな生活者の日常スケールの世界観は「虫の目」にあたります。地政学は、その開祖であるマッキンダーが重視した大陸の勢力(ランドパワー)と海洋の勢力(シーパワー)の拮抗を目指す世界観のように、複数の力(パワー)をバランスさせようとするものです。『エンダーのゲーム』の主人公が、地球の人類を守るために戦わされたように、地政学は破局的な戦争の勃発や、悲惨な敗北による損害を回避するために、大きな力の暴走を拮抗によって封じ込め、食い止めようとするのです。この「力(パワー)」の捉え方は、フーコーの思想における「pouvoir(権力)」概念にかなり近いものです。ふつう権力というと、誰かしらの主体が、何かしらの行為を遂行する力として考えられています。フーコーは主体も行為も分解し、ただ「pouvoir」だけが錯綜する領域として世界を捉え直そうとしていました。地政学の扱うランドパワーやシーパワー、スペースパワーは、一見すると、ドイツやロシア、中国のような主権国家、あるいはそれぞれを代表する政治家たちのパワーゲームの分析として捉えられます。しかし、マッキンダーもドルマンも、地理的な条件、鉄道や自動車などの技術、重力などの物理条件などが醸成する諸力の「束」を論じているという意味でフーコー的です。
ディズニフィケーション、マクドナルド化、ゲーミフィケーションと呼ばれている現象も、「pouvoir」と無縁ではありません。アメリカの政治学者ジョセフ・ナイが提唱したソフトパワーという概念に結びつけて考えてみましょう。ソフトパワーは、日本でも参照され、クールジャパン政策を後押ししましたが、ここでいう「ソフト」とはコンテンツを指すものにとどまりません。軍事力などで強制的に交渉相手を動かす力をハードパワーとした場合に、そうではなく考え方のレベルで自分の側に有利な状況を作る力を指しています。コンテンツだけでなく、アーキテクチャ、インフラストラクチャのレイヤーも含んでいると考えるべきです。そうすると、ディズニフィケーション、マクドナルド化、ゲーミフィケーションは、人々の世界認識や人生観をアメリカ化するという点で、まさにソフトパワーのアーキテクチャ的、インフラストラクチャ的レイヤーでの成果だといえそうです。
さて『闇の精神史』において、木澤は仮想世界(サイバースペース)にユートピアを求めた20世紀の夢が、身体を無視することによって成立していたこと、それゆえに現実の身体を拘束する現実の社会体制から逃れることができなかったといいます。逃れることができない現実をただ無視することによって、現実では不可視化された人々が労働者として劣悪な環境へと追いやられ、また無視をしているあいだにやはり不可視化された自然環境が破壊されていきます。いうなれば、『エンダーのゲーム』も、ドルマンもドゥーギンも、華々しく雄々しい壮大な虚構の陰に、まさに闇の領域に、弱者の窮乏と苦痛、そして自然破壊を生み出す、ということです。現実は虚構に先行される。なるほどでは、虚構を追いかけて現実が遅れてやってくるわけです。その遅れてやってくる現実は何なのでしょうか。
ここで木澤はフーコーが見出す「ユートピア的身体」を参照します。身体は、ふつう、日常に絶えず在り続けるものです。しかしそれゆえにわたし達はこの身体の存在を普段は忘れています。自然状態においては、わたし達は身体のことを意識しないのです。忘れられ、無視されている身体。統一しようとする意識が不在であるために、世界あるいは宇宙のなかにバラバラに離散している身体。それをあるとき、わたし達は発見します。もっとも反自然的なものとして、まっさきに見つけるべき存在としての身体。自然状態では失念されている身体がそこにあるでしょう。自然な世界には存在していなかったユートピアとしての身体。フーコーはこの身体を「小さなユートピア的核」と呼びます。
『闇の精神史』はいわば、宇宙という極大から始まって、このフーコー的身体というミクロへと収斂していくスケールの変化の過程を記したものです。もちろん、「小さな核」としてのユートピア的身体は、そのゼロ地点から反自然的ユートピア宇宙が展開する端緒にほかなりません。
ほぼ脱線しかない本稿ですが、最後に更なる脱線を試みたいと思います。まずはジョルジョ・アガンベンを介して、フーコーの孫弟子とも言えるエマヌエーレ・コッチャの『メタモルフォーゼの哲学』。『植物の生の哲学』で注目されたコッチャですが、身体と変容のテーマをめぐって自然の生物学的な現象を、いわばハラウェイ的に反自然的に読み替えていきます。
もうひとつの脱線は、ドルマンが地政学で展開しようとした議論を、哲学や思想史の文脈に系譜学的に適用しているといえるユク・ホイの『中国における技術への問い』です。米中新冷戦と騒がれているここ最近の情勢に照らして、欧米の地政学に対する、ユーラシア大陸の中国側の回答、として読むのはどう考えても穿ちすぎだし、ユク・ホイもそういうつもりで書いてはいません。しかし、地政学Geopoliticsの地理学の部分、つまりGeo-という接頭辞は、幾何学Geometryジオメトリーと不可分であり、それは何よりフーコーの身体論の着想源である現象学の開祖エトムント・フッサールが『幾何学の起源』でその黎明を幻視しようとしたものなのです。地と図を分離し、操作可能にし始めた原初の幾何学。反自然の最初から、ユク・ホイは別の宇宙観を構築しようと試みているのです。
ユク・ホイの提示する宇宙技芸なるものが、単なる欧米覇権に挑戦するユーラシア的もしくは東洋的なオルタナティブな歴史、あるいは「本当の」技術思想史なのではないとしたら、それは、思想の系譜の複数性の提案です。欧米を中心とするひとつの、そしてひとつだけの哲学の歴史を根底から相対化すること。それは、世界の見方、捉え方そのものの複数性を肯定します。
世界が多数的であるという考え方(マルチバース)は近年ますます流行しつつあるのはいうまでもありません。この流行は、ひるがえってみれば、多数的な世界をひとつの作品や一連のシリーズのなかへ包括し、バラバラだった諸コンテンツを統合して鑑賞・消費させようという産業側の罠だと捉えることも可能でしょう。
ディズニフィケーションの浸透した社会に生まれ、そのなかで生きてきた者ならば、この「罠」こそが、生の第一条件としての「自然」だということになります。ディズニー傘下の映画スタジオであるマーベルが手掛けた『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』(2022年)は、文字通りのマルチバースが登場します。主人公がゾンビ化するという、マルチバース展開のお約束がファンを喜ばせるものの、この作品の悪役となるスカーレット・ウィッチ(ワンダ)がまさに悪役になる理由が胸に迫ります。作品のメインとなる世界において、ワンダはパートナーだったヴィジョンを失い、孤独に生きています。しかし、他の世界線でのワンダは家庭を持ち幸せに暮らしています。孤独なワンダは別の世界から子供たちを奪い、現世では実現を許されない「母親としての幸せ」を叶えようとします。ドクター・ストレンジは、ワンダのこの悲願を打ち砕くべく戦うことになります。「主人公がゾンビになる」という飛び道具的キワモノ展開よりも、「母親としての幸せ」を求める女性を敵と見做して戦うという構造のほうが、よほど本作を問題作にしている気がします。
とはいえ、実はマルチバースで主人公のヒーローが母親の幸せを打ち砕く、という構造はこの作品に限った話ではないのです。マーベルとならびアメコミヒーローコミック産業を二分するもうひとつのブランドであるDCが製作した『ザ・フラッシュ』(2023年)もまた、マルチバースをヒーローが駆け巡り、世界のために「母親の幸せ」を破壊する物語でした。
現実では目下、世界の人口は増加を続けており、一昔前は食糧不足が危惧されたこともありました。しかし今後、世界人口はむしろ減少することが予想されており、人類文明全体の社会不安を引き起こしかねないとも言われています。少子高齢化は、全人類規模での都市化が原因と考えられています。人口密度が高く、生活コストが高くなる都市生活においては、子供を多く産むことはリスクが高いと考えられるからです。つまり「母親としての幸せ」なるものは、少なくとも現行の都市型の社会でははなから困難な願望とならざるを得ないのです。ゆえに、「母親としての幸せ」を魔術的な力によって、つまり現実世界のことわりを突き破ってまで求めるワンダは打ち倒されることになるのでした。
生まれなかった者の声を聞き、その存在を信じてしまうことは、きわめて反自然的だと見做されており、現実の社会ではタブー視されていることは今更強調するまでもないでしょう。それは、不可能を望む者に、身の丈を超えた、つまり文字通りに「身の程を知らない」振る舞いをさせます。無いものねだりをする者には相応の報いがある、それが秩序だということになるでしょう。
生まれなかった者の声、あるいは死んでしまった者の声、まだ生まれていない者の声を聞いてしまうこと、あるいはそれが聞こえると信じてしまうこと、もしくはそれが「聞こえるかもしれない」と考えてしまうこと。その可能性を考慮するためには想像力が必要になります。この種の想像力を持たない人や、この種の想像力の使い方を知らない人には「声」は何の力も持たないでしょう。さて、どうでしょう、あなたには聞こえるでしょうか。反自然の闇から谺する、あの呼び声が。
書評執筆者プロフィール
永田希(ながた・のぞみ)
書評家。1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評サイト『Book News』を運営。『週刊金曜日』書評委員。その他、『週刊読書人』『図書新聞』『HONZ』『このマンガがすごい!』『現代詩手帖』『はじめての人のためのバンド・デシネ徹底ガイド』で執筆。著書に『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)、『書物と貨幣の五千年史』(集英社新書)、『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)。
記事で紹介した書籍の概要
『闇の精神史』
著者:木澤佐登志
出版社:早川書房(ハヤカワ新書)
発売日:2023年10月17日
著者プロフィール
木澤佐登志 (きざわ・さとし)
1988年生まれ。文筆家。思想、ポップカルチャー、アングラカルチャーの諸相を領域横断的に分析、執筆する。著書に『ダークウェブ・アンダーグラウンド』、『ニック・ランドと新反動主義』、『失われた未来を求めて』、共著に『闇の自己啓発』(早川書房)、『異常論文』(ハヤカワ文庫JA)がある。