原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第14章
ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。
刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。
本日は第14章を公開。
『そして夜は甦る』(原尞)
14
私はリストを作り直して、七人のカイフマサミに電話をかけた。こういう状況では、昨日事務所に現われた男に連絡をつけるのは早いほどいいと思われた。《夜分恐れ入りますが、カイフマサミという方が新宿の私の事務所に忘れ物をされているので、ちょっとお訊ねしたいのですが……》
最初の海部正美は、細君と替わって眠たそうな声で電話に出た。今週は仕事でずっと上野‐宇都宮間の往復をしていて、新宿などへ行く暇はなかったと言った。東北訛りのある声は例の男とはまったく違っていた。二人目の海部正美は、電話のベルを二十回以上鳴らし続けたが誰も出なかった。三人目の海部正美は、また細君が電話に出たのだと思って、ご主人をお願いしますと頼んだ。彼女は、自分は独身で海部正美はわたしだと答えた。そういえば、マサミというのは女性にもある名前だった。例の男はどう転んでも男装の女性には見えなかった。私は適当な応対をして早々に電話を切った。四人目の海部正美は、直接本人が電話に出て、こんな遅い時間に何事だとまくし立てた。かなりひどく吃る声を聞いてすぐに別人だと分かったが、二、三質問をして確認した。未練がましい口調で忘れ物は何かと訊ねるので、大金の入った封筒だと答えて電話を切った。
次ぎに海部正己に電話をかけた、若い男が出て、兄は十一時までには帰ると言う返事だったので、後刻かけ直すことにした。もう一人の海部正己は、べろべろに酔っ払って電話に出た。私を知り合いの誰かと勘違いしているようで、訊きもしない愚痴を長々とこぼした。要するに、自分がチビで、頭が禿げていて、カマっ気があるから、みんながあたしのことを馬鹿にすんのよ──ということだった。いかに酒が人を変えるとはいえ、これはありうべからざることに思えた。
最後に残った海部雅美も、字面から予想した通り女性だったので、間違い電話のふりをして切った。
応答のなかった海部正美と、十一時に帰宅する海部正己を確認するまで、結論は出せない。しかし、あの男が都区内に住む電話加入者の中から見つかるという見込みに、私はいささか悲観的になっていた。
雨が上がった後の冷え込みがきつくて、受話器に向かって喋る息が白く見えるほどだった。私は、廊下の奥の共同トイレに行ったついでに、隣りの共同物置から石油ストーブを出してきた。使い残しの灯油がタンクの底に入っていたので、すぐに火をつけた。初めは水分の混じった匂いと油煙が出たが、すぐにおさまって明るい炎が部屋を暖めだした。私は労働意欲を回復し、電話応答サービスのダイヤルをまわした。
「もしもし、こちらは電話サービスのT・A・Sでございます」四、五人いるオペレーター嬢の中で、一人だけ声の区別がつくハスキーな声の持ち主だった。
「渡辺探偵事務所の沢崎だが……久しぶりに聞く声だね」
「あら、今晩は。そう、夜勤は二週間ぶりなんですよ。うちのが肝臓を悪くして入院したので、ここは昼だけにしてもらって、付き添ってたんです」
「飲み過ぎだろう」
「ええ。飲み過ぎ、食い過ぎ、働き過ぎ、遊び過ぎ。不足しているのはお金ばかり」
「夜勤ができるようになったということは、無事退院かな」
「そうなんです」と、彼女は嬉しそうに言い、電話が入っていると付け加えた。「十九時十五分に弁護士のオオギ様から、〝依頼人は今夜十九時にクガヤマの家へ帰宅。自分は他用で外出しているので、明朝事務所のほうに電話を乞う〟、以上です。それから、十九時五十分に名前をおっしゃらない方から問い合せがあって──」
「ちょっと待ってくれ」と、私は口を挟んだ。「その電話はきみが受けたのか」
「ええ、そうですけど」
十九時五十分といえば、橋爪たちがこの事務所を見張る少し前だった。
「問い合せというのは?」
「ここが電話応答サービスだと聞くと、自分も利用したいからと言って、うちのシステムや料金や事務所の所在地などを訊かれました。あなたへの伝言は、あとでかけ直すから結構だと言って、名前も言わずに切れたんです」
事務所に押し入ろうとする者が、電話をかけて留守を確かめるのは常套手段である。電話応答サービスの番号は事務所の電話番号と一緒に、名刺や事務所のドアや駐車場に面した窓ガラスにも併記してあった。用心深い侵入者なら、両方の番号に電話を入れてみるだろう。
「その電話をかけてきたのは女性かな」と、私は訊いた。
「いいえ、男の方でした」
「そう……どういう感じの男だったか憶えている?」
「声の感じでは、そんなに若くはなくて、ある程度の年配のような印象を受けたけど」
「喋り方に特徴はなかった?」
「別に……ただ、自信たっぷりで、人にものを言いつけ慣れてるって感じでした」
「なるほど。ほかに電話は?」
彼女がその二つだけだと答えたので、私はご亭主によろしくと言って、電話を切った。続けて、佐伯名緒子の久我山のダイヤルをまわした。待っていたように本人が出て、二度電話したが留守と話し中だったと言った。
「警察はどうでした?」と、私は訊いた。
「ええ。仰木弁護士が一緒でしたから、そんなに嫌な思いをせずにすんだようですわ。最近の主人のことを詳しく訊かれました。田園調布から中野へ行く途中、あなたにお話ししておいたお蔭で、苦労せずに答えられましたわ」
「マンションの死体のことは?」
「結局、写真で顔を確認させられることになりましたの。あれが伊原という刑事さんだということは、わたしたちは知らないわけですから、顔も見ないで知らない人だとも言えませんし……」
「仰木弁護士は異議を唱えなかったんですか」
「ええ、反対して下さいましたわ。死体の身許が判っているなら、その名前さえ言ってもらえば彼女は知っている人物かどうか答えられる、とおっしゃって……でも、警察の方はちょっと相談があると仰木弁護士を別室へ連れて行きましたの。しばらくして、仰木弁護士が戻って来て、警察の言う通りにするしかなさそうだ、そんなに酷い死顔じゃないから、心配しないでいいって──わたしも覚悟はしていましたから、大丈夫だと言ったんです。夫のマンションに死体があったんですから、仕方がありませんもの」
仰木弁護士を黙って引きさがらせた、警察の相談とはどういうものだったのだろうか……。私は話題を変えることにした。「お父上はどうされました?」
「さっきまでここにいたのですが、田園調布へ帰ってもらいました。韮塚さんと一緒に中野警察署へ駈けつけて来ましたの。それから、久我山まで送ってくれたんです。父は心配して、わたしを田園調布へ連れて帰りたがりましたけど、佐伯がいつここに戻って来るか分からないから、わたしはここに残ることにしたのです」
久我山の家は警察の監視下にあるはずだから、万一彼女の身に危険があるとしても、むしろ田園調布の邸以上に安全な場所だといえるだろう。
「沢崎さん、一つお訊きしたいのですけど──」彼女はその先をなかなか口にしなかった。
私が代わって言った。「あの刑事の死に、ご主人が関係しているかどうかということですか」
「ええ」と、彼女は消え入りそうな声で言った。
「あのマンションで殺人があったのは、少なくとも昨日の午前九時以降だが、ご主人はすでに先週の木曜日から行方不明です。それに、殺人の現場に自分のマンションを選ぶのはあまり利口な話とはいえない。やむをえずそうなったとしても、死体を運び出す余裕があったはずです──こんなことは、もう仰木弁護士か誰かが言ってくれたでしょう。今のところははっきりしたことは判りません。あなたは、答えに窮するような質問をするために私を雇ったわけではないはずだ」
何もこんな言い方をする必要はなかったのだ。彼女が同情を求めているのではなく、ただ冷静な意見を聞こうとしていたのは分かっていた。だからといって、冷静な意見を述べる必要はなかった。
「そうですわね。ごめんなさい」と、彼女はアルトの声に戻って言った。
「いや、謝ることはありません。あなたは明日の午前中に時間が取れますか」
「ええ、大丈夫ですわ。出版社のほうは、さっき上司に電話をして一週間の休暇を取ったばかりですから」
「では、明日の十時に私の事務所へ来て下さい。そのとき、今までに分かったことを話しましょう。それから、ある人物に会うために私に同行してもらいたいのですが」
「ええ、結構ですわ。ある人物って……それは、明日まで秘密ですか」彼女は少し明るい声を出した。
私はそうですと答えて、彼女が事務所へ来るのに一番分かりやすい道順を教えた。「今日の午前中までは、佐伯さんのことを心配していたのはあなたと事務所に現われた男の二人だけだった。しかし、今は警察や私を含めて多くの人間が彼を捜しはじめている。そう考えて、今夜はぐっすりお寝みなさい」
「そうしますわ。では、明日」佐伯名緒子が受話器を置くのを待って、私は電話を切った。
私はストーブで湯を沸かして、思いきり苦いコーヒーを淹れた。大竹英雄著『布石の心得』を拾い読みした。時間をつぶすことはこの仕事の不可避な部分で、私はその方法を九十通り知っていた。だが、どの方法も時計の針の歩みを早めることはできなかった。〝基礎編〟を読み終えたとき、やっと十一時を過ぎた。
私は電話を引き寄せて、弟が十一時には帰宅すると言った海部正己のダイヤルをまわした。声が同じだったので弟が出たのかと思ったが、海部正己本人だった。私はさっきと同様忘れ物の口実を使った。
「昨日、新宿へですか」と、彼は言った。「確かに行きましたが、忘れ物などした憶えはないな。お宅の事務所ってどちらですか」
「渡辺探偵事務所です」
「いや、そんな所へは行ってません。何かの間違いですね」
私は丁重に詫びを言って、電話を切った。次ぎに、応答のなかった海部正美のダイヤルをまわした。ベルが鳴っているあいだに、もう一度電話帳のページを繰って、この海部正美の住所を調べた。世田谷区上北沢の所番地をリストの隅に書き写した。電話には、やはり誰も出なかった。私はリストを上衣のポケットに突っ込み、石油ストーブの火を消しに行った。
次回は2月22日(木)午前0時更新
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