そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第13章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第13章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

13

 階段を上がったところで、私は自分の事務所に明かりがついているのに気づいた。鍵をかけておいた入口のドアも半開きになっている。訪れる可能性のある人物の顔が次々と浮かんだが、すべてはずれだった。〝あの消えそうに燃えそうなワインレッドの……〟などと唄っている下手糞な声が、事務所の中から聞こえてきたのだ。他人の事務所でカラオケをバックに歌の稽古をするような神経を持っている男は、一人しか知らない。
 私はドア口のところへ行って、事務所の中をうかがった。〈清和会〉の橋爪という男が、私のデスクに両足をのせ、椅子にふんぞりかえって、気持よさそうに声を出していた。カラオケはデスクの上に置いたラジカセから流れていた。紺ストライプのダブルのスーツ、純白のシルクのタイ、顔が映りそうなイタリア製のエナメル靴、そしてスーツの襟につけた金バッジが彼のスタイルを完璧なものにしていた。年は私より少し若いはずだ。ポマードで光ったオールバックの下の顔は『酔いどれ天使』の三船ばりに眼つきの鋭い二枚目だった。誰よりも見たくないツラだった。
 五年前の渡辺の事件で、ようやく警察から釈放された私を待ち構えていたのが、この橋爪と清和会のチンピラたちだった。彼らの一億円を持ち逃げした渡辺が私と共犯か、少なくとも私に連絡を取ると考えて、まる五日間この事務所に居すわった。橋爪は渡辺の逃亡先を聞き出すために私を拷問にかけ、かかってくる電話はすべて受話器を取り、訪ねてくる客はすべて追っ払った。チンピラが三人がかりで私を痛めつけているあいだ、橋爪は今と同じようにラジカセでカラオケを流しながら、〝おれより先に死んではいけない……〟などと当時の流行歌を唄っていた。
 橋爪の手下が一人、来客用の椅子に坐っていた。見たことのない顔で、体重が百キロ以上あるパンチ・パーマの巨漢だった。派手な緑色のサイドベンツの上衣に黄色のスポーツシャツという恰好で、競馬新聞を真っ赤に塗りたくっていた。信号機なみに百メートル先からでも目立つ男だった。
 橋爪が私に気づいて、唄うのをやめた。「どうやら探偵のご帰還らしいぜ。久しぶりだな、沢崎」
 私は事務所の中へ入って、ドアを閉めた。ドアの鍵を見たが、むりにこじ開けたような形跡はなかった。
「念のために言っておくが、そこを開けたのはおれたちじゃないぜ」と、橋爪が言った。「ここはやけに不用心だな。おれたちが来なきゃ、今ごろは泥棒にごっそりやられてたところだ」
 パンチ・パーマのデブが椅子を立って、壁まで移動した。
「どういうことだ。何があった?」と、私は訊いた。
 橋爪がデブにデスクの上のラジカセを指差した。デブはラジカセのスイッチを切った。
「誰が切れと言った? ボリュームを下げるだけでいい」
 デブは黙って指示に従った。再び、気の抜けた炭酸飲料のような音楽があたりに漂った。
 橋爪が言った。「そんなところに突っ立ってないで、そこへ坐れ。ここは、おまえの事務所だぜ。遠慮することはない」
 私は来客用の椅子に坐った。五年前も、私はほとんどこの椅子に坐りっぱなしで五日間を過ごしたのだった。私の体内を怒りと恐れが交差しながら駈けめぐった。私はかろうじて平静を装った。
 橋爪がデブに訊いた。「おれたちが来たのは何時だった?」
「八時頃です」体格通りの豊かなバスで答えた。
「おれたちは八時にここへ来た。事務所は真っ暗で留守だと分かったので、この窓が見える駐車場の向こうの通りにリンカーンを停めて、おまえの帰りを待つことにした。駐車場にぽんこつのブルーバードがあるから、いずれは戻るだろうと思ったんだ」橋爪は言葉を切って、デブに訊ねた。「この窓に明かりがついたのは何時だった?」
「八時半頃です」と、デブが答えた。
「てっきりおまえが帰って来たんだと思ったぜ。ここへ上がってきて、そのドアをノックした。ところが、返事はなくて、中からはガサゴソと怪しげな音が聞こえてくる。おかしいと思ってドアを開けると、誰かがこの窓から下へ跳び降りたんだ。残念ながら、リンカーンに残っていたのが車の運転しか能のないドジな野郎で、眼の前をまんまと逃げられちまった。仕方がないから、こうして歌のレッスンをしながらお留守番をしていたところなのさ」
「そいつがこの部屋にいたのは、どのくらいの時間だ?」
「どのくらいの時間だ?」と、橋爪はデブに訊いた。
「一分といられやしませんでしたよ」
「そいつはどんなやつだった?」と、私は訊いた。「おれじゃないと分かったんだから、よく見たはずだ」
 橋爪が急に不機嫌になった。「待ちなよ、探偵。話には順序ってものがあるだろう。おれはわざわざここへ泥棒を追っ払いに来たわけじゃないんだぜ。まず「今日のご用件は何でしょうか、橋爪さん」と訊ねるのが、礼儀ってもんだろうが」
 私は苦笑した。「今日の用件は何だ、橋爪」
 橋爪はデスクから足をおろした。ラジカセに手を伸ばして、自分でスイッチを切った。「渡辺の野郎から何か連絡があったはずだ。五年前みたいな目に遭いたくなかったら、すっかり吐いちまいな。渡辺もいい目を見たんだ。一億の金はともかく、三キロのシャブをこっちへ渡せば、まァ五年がかりで取引が成立したと考えて、おれたちだってそんなに酷い扱いはしないつもりだ。渡辺にそう話をつけろ」
 橋爪の眼が細くなった。デブが競馬新聞をポケットにしまった。私の返事次第では、両手を空けておく必要があるらしい。
「まだそんなことを言っているのか」と、私はそっけなく言った。「渡辺がこの世で一番会いたくない人間がこのおれだと、前にも言ったはずだ。もし、渡辺がこの近くにいるのなら、こっちが教えてもらいたい」
「言うことはそれだけか」橋爪の眼が一段と細くなった。
 私は微笑した。「このビルの向かいにある薬局の親爺にここへ出入りする者を見張らせているようだが、買収しているんだったら金がむだだ。あの親爺の眼は十メートル離れたら、おまえとこのデブとの区別もつかない」
 デブは何の反応も示さなかった。デブと言われて腹を立てないデブは要注意だった。
「手荒な真似はしたくないんだ」と、橋爪は怒りを抑えて言った。「こっちはそれだけの根拠があって、ここまで出向いてる。探偵、おれはおまえには一目置いてるんだぜ。このおれをよく見なよ。五年前の三下とはわけが違う。今では清和会の幹部なんだぜ。お互いに不愉快な思いをするより、あのアル中の老いぼれにケジメをつけさせるのが利口ってもんじゃないか」
「一目置いてるだと? 笑わせるな」私はデブを指差して言った。「こんな暴力専門の化け物を連れて来るようで、一目もクソもあるか」
 デブが一歩前へ出た。橋爪がすばやく手を上げて、デブの動きを止めた。「出しゃ張るんじゃねえ! おまえのせいで仕事が三十分は回り道をしたぜ。いいか、世間には暴力を使うほうが遠回りになるようなバカもいるんだ。気をつけろ!」
「遠回りかどうか知らないが、おれに任せてくれれば必ず目的地に着きますぜ」なかなか洒落たことを言う化け物だ。
 橋爪は苦笑した。「こういう野郎だ。勘弁しろ。まァ、穏やかに話をつけようじゃないか」
 そのときデスクの上の電話が鳴り出した。私が立ち上がるのと同時に、デブが図体に似合わぬ身のこなしでデスクとのあいだに割り込んだ。橋爪が受話器を取った。
「もしもし、渡辺探偵事務所ですが──」橋爪はしばらく受話器に耳を傾けていたが、肩をすくめて受話器を私に差し出した。私はデブが元の位置に戻るのを待って、受話器を受け取った。
「もしもし?……沢崎か」錦織警部の苛立った声が聞こえた。
「ああ、そうだ」
「いま、電話に出たのは誰だ?」
「清和会の橋爪さ」
「あのバカがどうしてそんなところにいるんだ?」
「あんたに会ってからまだ三時間も経っていないのに、連中はここへ押しかけて来て、渡辺から何か連絡があったはずだと息巻いている。たぶん、新宿署には連中に通じてるやつがいるんだろう」
 橋爪は知らん顔でラジカセのスイッチを入れ、また唄いはじめた。
「馬鹿を言え」と、錦織が怒鳴った。「警察を何だと思ってる。やつらはおまえの動きを監視していたんだ」
「かも知れん」
 私は、錦織にも聞こえるように受話器の口は塞がずに、橋爪に言った。「警部は、警察の内部におまえたちのスパイがいるというおれの意見には賛成できないそうだ。これで、安心だな」
 橋爪は聞こえないふりをして、女学生の交換日記から盗んできたような歌詞を口ずさんでいた。
「そんなことはどうでもいい」と、錦織が噛みつくように言った。「さっきは、佐伯直樹がもっと深刻なトラブルに捲き込まれていることをなぜ言わなかった?」
「何のことだ?」
「しらばっくれるな。中野のマンションの死体のことだ」
「ああ、それは──」私は、あの仰木弁護士の腕なら、佐伯名緒子はとっくに中野警察署を解放されていると見込んだ。「たったいま依頼人に電話して聞いたばかりだ。おれも驚いているところだ」
「嘘をつけ。さっきのおまえの面は、何もかも知っていておれをこけにしていた面だ」
「いつから人相を見るようになった? 被害妄想だよ」
「うるさい。いいか、よく聞け。この件は警察が取り扱うべき事件になったんだ。佐伯は殺人事件の重要参考人として手配される。探偵なんかの出る幕はない。分かったな?」
「分からんね。そもそも、あんたがおれを佐伯に紹介したんだ。いまさら、そんな勝手なことが言えた義理ではあるまい」
「つべこべ言うな。警察の捜査の邪魔をするようなことがあったら、このおれが承知しない」
「邪魔をするつもりはない。警察がおれの仕事の邪魔をしない限りは。手を引くつもりはない。依頼人が仕事を断わってこない限りは」
「クソ! いい加減にしろ。これは最後通牒だ。依頼人には適当に仕事をしてるふりをして、おまえはおとなしくしてろ」
「ところで、佐伯のマンションに転がっていた死体は一体何者だ?」
「ふざけるな。そんなことが答えられるか。おまえとの話はもう終わった。橋爪を電話に出せ」
 私は受話器を橋爪に差し出した。「警部がおまえを出せと言っている」
 橋爪は唄うのをやめて、受話器を受け取った。私は来客用の椅子に戻った。橋爪と錦織はしばらく話していた。橋爪がもっぱら聞き役だった。やがて、受話器を置いて、デブに言った。
「おまえはリンカーンに戻っていろ」
「でも、兄貴──」と、デブが抗議しかけた。
「いいから、戻ってろ!」と、橋爪は有無を言わせなかった。デブは不承不承その場を離れて、ドアのほうへ向かった。
「待て」と、私はデブを呼び止めた。「デスクの上のオモチャを持って行ってくれ。うるさくってしようがない」
 橋爪が持って行けという合図をしたので、デブはラジカセを取りに引き返して来た。
「音楽の解らないやつは付き合いにくいぜ」と、橋爪が言った。
「ヤクザならヤクザらしく演歌でも唄え」と、私は言った。
 橋爪は笑った。「そいつは偏見というもんだぜ、探偵。ヤクザがニュー・ミュージックを唄ってなぜ悪い? カラオケバーやクラブへ行ったときに若い娘にもてるんだぜ」
 デブが溲瓶でも運ぶような手つきでラジカセをぶらさげて、事務所から出て行った。
「おまえみたいな人間が触れると、何もかもクズ同然になってしまう」と、私は言った。
「偉そうなことを言うぜ。だが、そんなことはどうでもいい。錦織の話では、おまえは殺人事件に関わっているそうだな。おまえたちが会ったのはそのためで、渡辺の野郎とは何の関係もないと言っていた。おれがサツの話を鵜呑みにすると思ったら大間違いだぜ。まァ、今日のところは錦織に免じて引きあげるが、さっきの話をよく考えてみるんだ。こっちが興味のあるのは三キロのシャブだけだ。いいな?」橋爪は椅子を立って、デスクの前へ出た。
「侵入者がどんなやつだったか、教えてくれ」と、私は言った。
「フン、こっちの頼みには知らん顔で、自分だけ得をしようたってそうはいかないぜ」橋爪は私の横を通り抜けて、ドアへ向かおうとした。だが、すぐに立ち止まった。公園の三人組から取り上げた飛び出しナイフの切っ先が、橋爪のダブルの上衣の脇腹に当たっている。
「何てこった。どっちが暴力団だか分からねえ」と、橋爪が呆れたように言った。
「用心棒同伴で来ていながら、身体検査一つさせなかったのは迂闊としか言いようがない」
「憶えておくぜ」
「ミスをする人間は必ずそう言う」
 橋爪が私の顔を見おろした。「どうしろってんだ? 窓から逃げたやつのことを話せばいいのか」
「いや、おれには人を脅してものを訊ねる趣味はない。ナイフを渡せ、と言え」
 橋爪はしばらくためらっていたが、ほかにどうしようもなかった。「おれが「ナイフを渡せ」と言ったら、笑って「いやだ」と言うんじゃねえだろうな」
 私は笑って、ナイフをたたみ、橋爪に渡した。「街のチンピラから取り上げたものだ。目障りだから始末してくれ」
 橋爪は即座にナイフの刃を元に戻し、私のあごの下に切っ先を当てた。小さな痛みが走った。
「二度と今のような真似をするんじゃねえ」と、橋爪が声を震わせて言った。「おれがなぜおまえを殺らねえか、解るか。ヤクザが誰かを殺るときは、自分よりも相手のほうが失うものが大きいという損得勘定があるからだ。世間のやつらがヤクザを恐れるのも、その損得勘定からさ。ヤクザと殺り合っても、向こうが丸損だからな。悲しむ親がいるし、仕返しを恐れる妻がいるし、路頭に迷う子供がいるし、馬鹿げたことをしたと言う友達がいる。だから、ヤクザには逆らわないでおこうってわけだ。ところが、おまえはどうだ。ここでおまえを殺ったって、おまえよりおれのほうが失うものが大きいような気がするのは、一体どういうわけだ?」
 私は何も言えなかった。橋爪の眼に、私がそんなふうに映っていることに驚いていた。橋爪はナイフをたたんで、上衣のポケットにしまった。シルクのタイをなおして、オールバックの頭を撫でつけると、別人のように冷静になった。
「窓から逃げたのは、小柄で若い女だったぜ。毛糸の帽子からカールした髪がはみ出しているのが見えたからな。顔は何かを塗って黒っぽくした感じで、よく分からなかった。黒っぽいジャンパーに、黒っぽいスラックスに、黒っぽい運動靴、しかし手袋だけは真っ白だった。あの女は、最初からここへ忍び込むつもりだったに違いねえ」
「若い、と言ったな?」
「はっきりしたことは言えねえ。二十才から四十才位まで、どうとでもとれる。しかし、この窓から飛び降りて、そのまま走り去ったくらいだから、年寄りのはずはねえだろう」
「ほかには?」
「あの女は唖じゃねえし、日本語も喋れるぜ。窓から飛び降りるとき、おれの顔を見て、可愛い声で「チクショウ」とほざきやがった」
「もう一つ訊きたいことがある」と、私は言った。
 橋爪はドア口まで行って、振り返った。「何だ? あんまり図に乗るなよ」
「八王子で起こった関東連合の山村組長の射殺事件を知っているか」
「ああ、それがどうした?」
「あの事件には、新聞記者が大きな特ダネをものにできそうな、何か裏でもあるか。そういう可能性はないか」
 橋爪はドアの把手に手をかけてしばらく考えていたが、やがて首を横に振った。「八王子には新生会風間組という昔からの縄張りがあるが、これが立川のほうから勢力を伸ばして来た鏑木興業に押され気味でね。仕方なくハマの山村組に助っ人を頼んだのさ。東京に勢力を拡げるチャンスとばかり、直々に乗り込んで来た山村組長を、鏑木の若い者二人が待ち伏せて、真っ昼間北口の商店街で蜂の巣にしたんだ。その二人は翌朝警察に出頭している。ところが、組長の八王子行きを鏑木興業にタレ込んだのは山村組の幹部の一人だったことがバレちまった。いまでは、山村組は跡目の問題も絡んで真っ二つに割れ、とても八王子の縄張り争いにかまっていられるような状態じゃなくなった──この辺のことは世間にも筒抜けで、新聞に書きたてられている通りだから、特ダネなんかの出てきそうなヤマじゃねえな」
「そうか」と、私は言った。
「このドアの鍵は何とかしろ。これじゃ、どうぞ盗みに入ってくれと言ってるようなもんだぜ。もっとも、ここには盗んだほうで迷惑しそうな代物しか見当たらねえがな。じゃ、また来るぜ」
 橋爪はドアを開けたままで、階段のほうへ去った。私はドアのところへ行って、鍵の状態をもう一度調べてみたが、何の痕跡も残っていなかった。ドアを閉めて、デスクのところへ行き、一番下の引き出しを開けた。佐伯直樹宛ての手紙も、東京都民銀行の封筒も、佐伯の写真も、すべて元の位置にあった。私はそれらを上衣のポケットに移した。コートを脱いでロッカーにしまうと、デスクのへりに腰掛けて、タバコに火をつけた。
 まもなく十時になるところだった。電話をかけるにはいい時間だと思って、デスクの上の電話帳を引き寄せた。ページを繰ってみたが、挟んでおいた七人のカイフマサミのリストがなくなっていた。

次章へつづく

次回は2月21日(水)午前0時更新

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