そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第15章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第15章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

15

 上北沢と桜上水の境をほぼ南北に直線で伸びる、俗に水道道路と呼ばれる狭い道路の脇にブルーバードを違法駐車して、私は真新しい二階建のアパートを見張っていた。五カ月前に、そこから五十メートルほど離れた〈菊栄荘〉というアパートに住む日大の学生の身辺調査をしたことがあるので、このあたりの土地勘は十分にあった。でなければ、所番地だけでここまで飛び出して来る気にはならなかったろう。海部正美の上北沢の所番地には、〈コーポ・フジカワ〉という二棟のアパートが建っていた。道路に面したA棟の二階の真ん中のドアで海部正美のネームプレートを見つけた。アパートの中は暗くて人のいる気配はなかったが、一応ノックして留守を確かめてから、ブルーバードに戻ったのだ。
 世田谷区もこのあたりにはまだ農地が点在していた。コーポ・フジカワの背後に広がる畑には、かつてはキャベツだったらしい野菜が茶色に変色したまま放置され、かすかな腐臭を放っていた。目的は農作物ではなく、税金対策なのだろう。
 三十分近く待って十二時を過ぎた頃、海部正美の右隣りのアパートの明かりも消えてしまった。一階の左端のアパートの窓にだけはまだ明かりがついていて、時折カーテンに人影が映った。そこの住民が寝てしまわぬうちに訪問して、二階に住む海部正美がどんな男か、あるいは女か訊き出す方法もあった。この海部正美も別人だということが分かれば、こんな所で寒い思いをしてむだな時間を費やすことはないのだ。しかし、こんな時間に隣人のことをあれこれ質問するには相当な口実が必要だった。思い迷っているうちに、さらに十五分が過ぎた。私は適当な口実も思いつかないまま、ブルーバードから出ようとした。しかし、後方から車が接近していたので、一度開けたドアを再び閉めなければならなかった。グリーンの車体のタクシーが、スピードを落としながらブルーバードの横を通り過ぎ、コーポ・フジカワのA棟の前で停まった。
 カーキ色のコートを着た男と、薄青色のハーフコートを着た髪の長い女が、タクシーから降りた。料金を払う男の顔が、ちょうど女の蔭に隠れて見えなかった。私もブルーバードを降りて、アパートに向かう二人を追った。A棟の二階へ通じるスチールの階段の手前で、女はちょっと歩みを止めたが、男が女の肩を抱くようにして一緒に階段を昇りはじめた。二人が階段の半ばに達したとき、私は階段の下から声をかけた。「失礼だが──」
 二人は足枷でもはめられたように急に立ち止まって、階段の下の私を見おろした。暗がりの中で見たときのコートの後ろ姿は例の男によく似ていた。だが、階段の上の非常灯に照らされた、その男の驚いた顔はまったくの別人だった。まだ口の端にミルクのあとが残っていそうな二十才位の大学生で、そばで蒼ざめた顔をして立ちつくしているのは十七、八才の小娘だった。
 二人には可哀相だが、私としても仕事を中途半端にするわけにはいかなかった。「失礼だが、海部正美さんですか」
 二人はいっそう狼狽して、顔を見合わせた。こんなときに見知らぬ男から、いきなり名前を呼ばれて気持のいいはずがなかった。アパートに入ってからでは迷惑だろうと思ったのが、かえってあだになった。
「ぼくです。ぼくが海部です」男のほうが情ない声で言った。
「そう……どうも、ありがとう。それさえ、うかがえばいいんです。とんだ迷惑をかけてしまった」私は頭を下げた。
「何ですか、これは?」と、彼はヒステリックな声を出した。「こんな時間に、一体何の用です。あんたは誰ですか」さっきびくついたことの反動で、急に威勢がよくなってきた。体格と若さからすれば、腕力は私より上のはずだった。
「いや、実はカイフマサミという人に急用があって、電話帳で手当たり次第に捜さなければいけない羽目になってね。もちろん、きみは違う。つまり、全然若過ぎるし──」
 間抜けな中年の探偵め、若者に〝若過ぎる〟と言うのは禁句なのを知らないのか。
「あの、わたし、きょうは帰る」と、女の子がまるで全世界に宣言するようにきっぱりと言った。
「えっ? 何言ってんだよ、ここまで来て」と、彼はまるで全世界を失うかのように慌てて言った。
 私は彼らの愉しみを邪魔するつもりはなかった。「そういうわけだから、これで失礼する」と言って、二人に背を向けた。私さえいなくなれば問題はないと思ったのだ。遠ざかるあいだ、二人が言い争う声が聞こえていたが、突然どちらかが相手の頬をひっぱたく音がした。振り返ると、女の子が階段を駈け降りて、こっちへ走って来た。
「ちょっと待ちたまえ」と言って、私は彼女を引き止めた。「今も言ったように、私はきみたちには何の用もないんだ。ここを出た途端にきみたちのことは頭から消えるんだが……」
「余計なお世話だよ!」と、海部が痛そうに自分の頬を手で押さえて怒鳴った。「ユミ、おまえみたいな子供っぽい女はほんとは趣味じゃないんだ。さっさと帰っちまえよ!」
 彼は階段の残りを駈け上がり、自分のアパートに突進した。ドアの鍵がなかなか開けられずにてこずったが、アパートの中へ跳び込むと、けたたましい音を立ててドアを閉めた。私はユミと呼ばれた女の子と呆れたように顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑してしまった。私たちはアパートに背を向けて歩き出した。
「申しわけないことをしてしまった」と、私は謝った。
「いいんです」と、彼女はさばさばした口調で言った。「ほんとは大助かりだったんです。わたし、彼の魂胆は分かっていたんだけど、断わり切れないままずるずるとここまで連れて来られたんです。あの階段を昇るときは、もうどうにでもなれって気持だったんです」
「ならいいが……きみたちは恋人同士じゃないのか」
「わたし、自分の恋人をひっぱたいたりしません。たとえそうでも、きょう一日ですっかり幻滅していたんです」
 私たちはブルーバードのドアの前で立ち止まった。
「で、きみはどうするんだ? この通りなら、待っていればすぐにタクシーが来ると思うが」
「あの、わたし、持っていたお金を全部彼に使われちゃって一文無しなんです。代々木上原にある短大の寮まで帰るんですけど、どこか近くまでで構いませんから、あなたの車に乗せていただけませんか。厚かましいんですけど」
「もちろん構わないよ。私は新宿へ戻るところだから、代々木上原なら途中のようなものだ。でも、タクシーで帰りたければ、お金を貸してもいいよ。いや、きみがこうなったのも半分は私の責任だから、金を返す必要はない」
「よかったら、あなたの車に乗せて下さい。もうタクシーはうんざりだし、ここにいつまでも立っていたくないの」
 彼女は眉をひそめて、海部正美のアパートを振り返った。
「よし、乗りたまえ」と、私は言った。彼女はぴょこんと頭を下げると、助手席の方へまわった。
 隣りに親子ほど年の違う若い娘がいるせいか、私は二、三度エンジンをかけそこなって、ようやくブルーバードをスタートさせた。京王線の桜上水駅の踏切りを渡り、甲州街道を右折すると、都心に向かって走った。
 彼女は一種の興奮状態で、休みなしに喋り続けた。海部正美とは、先月学園祭で知り合ったばかりで、これまではグループ交際をしていたが、今日初めて二人だけでデートをしたのだそうだ。新宿の高野のフルーツパーラーでお茶を飲み、ミラノ座で『これから』だか『それから』だかいう映画を観たあと、荻窪の〈エリノア・リグビー〉というパブで食事をしたり酒を飲んだりした、と言った。ところが、海部は銀行から金を引き出すつもりだったが、マネーカードを忘れて来たので五、六千円しか持ってない、と言う。映画の料金までは、彼が気前よく払ってくれた。さて、食事をしようということになって、海部は明日返すからきみのお金を出しといてくれ、と言った。彼女は一万円持っていたので、それを彼に渡した。海部は、これだけあればエリノア・リグビーなら後輩がアルバイトしているから、たっぷり飲み食いできる、と言った。確かに、たっぷり飲み食いできたが、勘定をすませるとお釣りはほとんどなかった。彼女が電車がまだ走っているから大丈夫と言うと、彼はタクシーで送るから心配するなと言った。ところが、タクシーに乗ると当然のように上北沢に行ってくれ、と言ったのだそうだ。
「上北沢に着いてからはあなたに見られた通りです」と、彼女は言った。「あの人ったら、デートの最初からそのつもりでいろいろ企んでいたくせに、結局最後まで自分のアパートに来いとは言わなかったの。それが、わたし、すっごい嫌だったんです」
 ブルーバードは明大前の先で井ノ頭通りに入り、和田堀給水場を迂回して走っていた。
「何という早とちりだ。クソ!」と、私は大きな声を出して、ハンドルを叩いた。助手席の彼女はわけが分からずにびっくりしていた。
「いや、驚かしてすまん。仕事のことなんだ。さっき、きみは持っていたお金を彼に渡したと言ったね?」
「ええ。だって、お勘定するときに女のほうが払うのは、男も恰好悪いけど、女はもっとみじめでしょう」
「そういうものか……ある男が金を持っていた場合、その金は彼のものではなくて、彼の恋人か、細君か、姉妹か、母親の金だってこともありうるわけだ」
「それはそうだけど、でも、どうして女性ばっかりなの? そうとは限らないんじゃない」
「この際、女であることが大事なんだ」と、私は言った。
 ブルーバードは小田急線を越えて、上原の商店街に入った。彼女の指示に従ってしばらく走ると、通りの右側に彼女の短大の女子寮が現われた。しかも、お誂え向きに通りを隔てた左側の歩道に公衆電話があったので、私はその傍にブルーバードを停めた。
「着いたよ」と、私は言った。しかし、彼女はうつむいたままで、返事をしなかった。
「どうした?」と、私は訊いた。彼女は顔を上げると、きまじめな口振りで言った。「わたし、きょうデートに出かけるときには、処女を捨てる決心をしていたんです。あの人があんなに馬鹿げていなかったら、そうしていたんです。お願いです。わたしをあなたの所に連れて行って下さい。わたし、友達にも子供っぽいって笑われるけど、あと二カ月で二十才になります。早く処女なんか捨ててしまいたいんです」
 私は一つ深呼吸をしなければ、言葉が出て来なかった。
「私はゴミ箱じゃない。きみが大事にしているものなら、事と次第によってはいただかないでもないが、本人がゴミみたいに思っているものを、勝手に捨てられてはかなわない」
「そんな」と、彼女は頬をふくらませて言った。「わたしだってゴミみたいに思ってるわけじゃないわ。だけど──」
「口先だけだ。でなければ、三十分前に会ったばかりの名も知らぬ男を相手にそんなことを言うはずがない」私は上衣の内ポケットから名刺を一枚出して、彼女の手に押し込んだ。「三日経ってもまだ同じ考えだったら、電話したまえ」
「嫌よ、わたしは今夜でなきゃ──」
「うるさい。その名刺をよく見るんだ。探偵なんていう商売は、世間ではクズみたいな人間だと思われている。私はきみをアパートに連れ込んだら、裸にして縛り上げ、いやらしい写真をたくさん撮って、きみの両親をゆするかも知れん。もし、きみの未来の亭主が金持だったら、これはもっといい稼ぎになる。きみはそんな目に遭いたいか」
「嘘だわ。あなたはそんなことをするような人じゃない」
「フン、きいたふうなことを言うんじゃない。十九の小娘に、私の考えてることがどうして解る。おっと、これは失言。十九だろうが、二十九だろうが、三十九だろうが、人が何を考えているかということは容易にうかがい知れないものだ。四十九や五十九のことは判らない。まだそんな年になったことがないんでね。海部という青年の肚が読めたくらいで、何もかも解ったような顔をするんじゃない。一人前の大人なら、よく知らない相手には用心をするし、それなりの敬意を払うものだ。いきなり自分を抱いてくれと言っても失礼にならないのは、それを職業にしている商売女だけだ」
 彼女は唇を噛んで黙り込んでしまった。私はダッシュボードの時計を見た。一時五分前だった。常識で考えれば、電話をかけるには遅過ぎる時間だった。
「私は仕事で電話をしなければならない。そのあいだに、きみは寮へ帰りたまえ。三日後の電話を楽しみにしているよ」
 私はブルーバードを出て、歩道に上がり、公衆電話のボックスに入った。カイフマサミのリストを出し、事務所で電話したときの二人の女性の印象を思い浮かべた。あとでかけた海部雅美のほうが、何となく例の男と結びつくような気がした。ダイヤルをまわしていると、背後でブルーバードのドアが開く音がした。私は振り返らずに、ダイヤルをまわし終わった。意外にも、二度目のベルで相手が出た。
「もしもし、海部雅美さんですか」
「そうですが、どなたでしょうか」電話を待っていて、がっかりしたような声だった。私は上衣の内ポケットから、都民銀行の封筒を取り出し、例の支払伝票を抜き取った。背後で、通りを駈け去って行く靴音が聞こえた。
「私は沢崎という者です。夜分申しわけありませんが、やむをえない事情で電話をしています。私の捜している男性があなたのご存知の方である可能性が大きいので」
「誰のことでしょう?」と、海部雅美が緊張した声で訊いた。私は当たりクジを引いたようだった。
「失礼ですが、あなたは東京都民銀行に預金口座をお持ちですか」私は伝票の口座番号を読み上げた。
「ええ、それはわたしの預金口座です」
「やはりそうですか」と、私は言った。「私の捜している男性は、この口座から先週の金曜日にキャッシュ・カードで引き出された三十万円を所持していたと思われる人物なのですが、あなたはその人に心当たりがありますか」
「警察の方ですか、あなたは」と、彼女が不安げに訊ねた。
「いや、違います。私は私立探偵で、実は昨日その人に私の事務所で会ってもいます。彼は数日中にまた私の事務所を訪ねると言いましたが、ある事情からできるだけ早く彼に会わなければならなくなったのです。彼にもあなたにも、決して迷惑をかけるつもりはありません」
「探偵とおっしゃると、渡辺探偵事務所の方ですか」
「そうです。では、彼をご存知ですね」
「もちろん知っています。あの人は今年の夏からここでわたしと一緒に暮らしていますから」
「というと、彼はあなたのご主人ですか」
「違います。婚姻届を出しているかという意味でしたら」
「しかし、彼は海部と名乗りましたが」
「あの人は、外ではわたしの苗字を使っているようです」
「なるほど。よろしければ、彼の名前を教えていただけますか」
 彼女は言いにくそうに言った。「名前は分かりません」
「何ですって?」私は思わず受話器を見つめた。
「わたしはあの人の名前は知らないのです」と、彼女が繰り返した。
 私はわけが分からなくなった。「では、とにかく……海部さんはそちらにいらっしゃるのですか」
「いいえ、昨夜から帰っていないのです。昨日の午後、「佐伯さんの卓上メモに書いてあった渡辺探偵事務所という所を訪ねたけれど、彼の行方はまだ分からない、これから、もう一度佐伯さんのマンションへ行ってみるつもりだ」という電話があったきりで、その後は何の連絡もありません。わたしも心配しているのです」
 電話機に十円玉を追加してから、私は佐伯の細君の依頼で仕事をしていることを手短かに説明した。「私としては、佐伯氏のことを訊ねて来た彼だけが手掛りだったので、どうしてもあなたに会ってご存知のことをお訊ねしたいのです。今夜、これからうかがっても構いませんか」
「ええ、どうぞ。わたしは夜の仕事をしていますから、まだ寝る時間ではありません。テレビで『逃亡者』を観ていたところですから。どうせあの人のことが心配で、一晩中帰りを待つことになるでしょう。わたしの住所はご存知ですか」
 彼女が教えてくれた住所は、世田谷の千歳烏山にある住宅公団の団地だった。また、甲州街道を逆戻りだ。
「一つだけ注意して下さい」と、私は言った。「今夜私の事務所に侵入して、あなたの電話番号を書いたメモを盗んだ者がいます。その侵入者は、おそらく佐伯氏や海部氏とは利害の対立する者だと思われる。もし、それらしき人物から電話があったり、直接訪ねて来られても、私がそちらへ着くまでは、彼らの要求に応じないようにしてほしいのです」
「ええ、そうしますけど──」と、彼女は不審そうに言った。
「キンブル博士が窮地を脱する頃には、そちらに着けると思います」そう言って、私は電話を切った。
 ブルーバードに戻り、エンジンをかけた。ウィンドーから女子寮の建物を見上げると、さっきは真っ暗だった三階の窓の一つに明かりがついていた。髪の長い女のシルエットが浮かんでいた。私はクラクションを短く小さく一回鳴らして、ブルーバードをスタートさせた。すでに三時間をむだにしていた。

次回は2月23日(金)午前0時更新

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