ザリガニはどこで鳴くか~北上次郎の早出し版「勝手に文庫解説2」~
「勝手に文庫解説」とは…
書評家には、読んだ瞬間、解説を書きたいという衝動につき動かされるときがある。しかしながら、縁に恵まれなかったり、むしろ文庫化まで待ちきれないとき、書評家はどうするべきか。書けばいいのだ。本連載では、旧刊から新刊まで、私(北上次郎)の書きたい文庫解説を後出し先乗りでご披露するものである。
ミステリマガジン5月号(3/25発売)より先行掲載
「勝手に文庫解説2」
北上次郎
連載 第3回
ザリガニはどこで鳴くか
ディーリア・オーエンズ
『ザリガニの鳴くところ』
友廣 純訳
早川書房
ISBN978-4-15-209919-8 C0097
本体価格1900円(税別)
2020年3月5日発売
ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(友廣純訳/早川書房)は、素晴らしい小説だ。
たとえば、カイアの住む場所は次のように描写される。
その湿地帯にはたくさんの生き物がいるが、不毛の地であり、カイアの一家が粗末な小屋に住んでいたように、人々は勝手に住んでいた。その貧しさと、瑞々しい自然の対比が鮮やかだ。
小説は、カイアが6歳のとき、母が小屋を出ていく姿から始まっていく。1足しか持ってないワニ革風の靴を履き、茶色いロングスカートを穿いた母親が出ていく姿を、カイアは網戸を開けて煉瓦と板切れの階段に立って見る。母さんは青い旅行鞄を手にしていた。いつもなら、小屋から延びる小道が通りにぶつかるところで立ち止まり、こちらを振り返って片腕を高く上げ白い手をひらひらさせるのに、その日は立ち止まらず、振り返らなかった。
それから数週間がたったころ、いちばん上の兄と、2人の姉も小屋を出ていく。歳が離れた兄弟なので、3人ともに大人に近い年齢だった。カイアの7歳上の兄ジョディも「これ以上ここで暮らしてはいけないんだ」と言って出ていく。父と2人っきりにしないで、と頼みたかったが、それもかなわない。自分も出ていきたかったが、バス代もないのでは無理だ。なにしろ彼女はまだ7歳なのだ。
残されたのは父とカイアだけ。戦争で負傷した父は障害者年金で暮らしているが、時折小金を置いていくだけで帰らない日も多い。つまりカイアは6歳にして1人でトウモロコシ粉で粥を作り、暮らしていくことになる。
7歳の誕生日、カイアがトウモロコシ粉の入った鍋を手に林の先の海岸へ行くと、カモメたちが輪を描くように降下してくる。トウモロコシ粉を放ってやると浜に降り立ち、鳥たちは静かにその場で羽をつくろうようになる。カイアも膝を横に崩して砂浜に座ると、傍らに大きなカモメが寄ってきた。「今日はわたしの誕生日なの」カイアが鳥にささやきかける。
ここでまだ32ページ。もう少し行く。
カイアが10歳になったころには父親は帰らなくなり、こうなると彼女は自分で食料を調達しなければならなくなる。父さんのボートで海に出て、沢に沿ってムール貝を堀り、麻袋に入れたそれを燃料店に持って行ってガソリンと金に換えてもらう。そういう生活の始まりだ。
着るものはある。姉たちが残して行ったオーバーオールを使い捨てのように穿いた。しかしシャツはどれも穴だらけで、履ける靴は一足もない。
14歳のとき、エビ漁師の息子テイトから読み書きを教えてもらうくだりがある。カイアは学校に行ったことがないので読み書きが出来ないのだ。テイトが根気よく教えてくれるので、少しずつ彼女は字を読めるようになる。最初に読んだ本は、テイトの父親の蔵書である『野生のうたが聞こえる』という本だ。苦労して読む。「世のなかには野生から離れて生きられる者もいれば、生きられない者もいる」このあとがいいので引く。
この驚きが新鮮だ。このあと、30以上の数字を数えられないカイアのために、テイトが算数を教えてくれるくだりが続いていくが、紹介はその150ページあたりまでにしておいたほうがいいだろう。全体が500ページ強ある小説なので、これで3分の1。意図的に省略したことを次に触れておく。この長篇小説は、1969年に起きたチェイス・アンドルーズという青年の不審死を描くパートと、1952年から始まるカイアの成長記が交互に描かれていく。そのチェイス・アンドルーズは、カイアが成長していくと同じ村の青年であることがわかってくる。つまり、この2つの話はカイアの成長記が1969年まで来たときに合体するわけである。そういう構造を持つ長篇であることを意図的に省いて紹介したのは、これをミステリとして読むのではなく、孤高のヒロインを描く小説として読みたいからだ。
アメリカ探偵作家クラブ賞にノミネートされた作品であり、ラスト100ページあまりが裁判シーンである長篇なのにミステリ小説としての側面を紹介しないのは、ミステリとして読むとけっして新鮮というわけではなく、どこかに既視感がともなう作品であるからだ。退屈ではないが、飛び抜けてはいない、というのが正直な感想だろう。ところが、孤高のヒロインを描く小説として読めば、沼地で生まれ、7歳からたった1人でそこで生きたヒロインの孤独と、苦難の人生を鮮やかに描く長篇に一変する。その美点を強調したいのである。
本書『ザリガニの鳴くところ』は、ディーリア・オーエンズが70歳にして初めて書いた小説である。この長篇は2018年に上梓されたが、その34年前に書いたノンフィクションが『カラハリ アフリカ最後の野生に暮らす』だ。その翻訳は1988年に早川書房から、監修・伊藤政顕、小野さやか・伊藤紀子訳で刊行されている。
夫のマーク・オーエンズとの共著だが、こちらも興味深い。これは、1974年(ディーリアが25歳、夫のマークが30歳のときだ)から7年間、アフリカ最後の秘境でフィールドワークした驚異の記録である。
冒頭にマークが次のように書いている。
「ここにいるたいていの動物は、これまで人を見たことがなかった。銃で撃たれたことも、車に狩りたてられたことも、落とし穴や罠にかかったこともなかった。そのおかげで私たちは、多くの野生動物について,これまでほとんど知られていないことまで学べるめったにない機会を得た」
つまり、この若き夫婦を見ても野生動物たちは逃げないのだ。もちろん、すぐそばにライオンがきたことに気づくと、彼らを刺激しないようにそっと静かに離れるよう細心の注意をようするが、あまりに近くにいることに驚かされる。あるいは、こういうシーンもある。
ここに出てくるキャプテンとメイトというのはジャッカルだ。彼らは動物たちに名前をつけて識別しているのである。たとえば、ブラウンハイエナの額に、小さな白い星があると「スター」と名付けたりする。もちろん時間をかけて接近するのだが、スターは彼らに近づいてきて、ディーリアの髪の匂いを嗅ぎ、一歩横に出て、マークの顎ひげを嗅ぐ。彼らは死骸しか食べないので、ライオンの食事が終わるのをひたすら待つ。ときには5時間でも6時間でも。それを若き夫婦は、同様に近くで待って観察するのだ。気の遠くなるような作業といっていい。
この本の白眉は、ブラウンハイエナがなぜ群れで行動しているのかを突き止めるくだり。ライオンやオオカミ、時には原始人まで、群れを作るのは共同で狩りをしたほうが効率がいいからで、楽しいから一緒にいるわけではない。ところがブラウンハイエナは屍肉食だから狩りはしない。いつも単独で食物を探して歩いている。にもかかわらず、群れをつくって社会生活を営んでいる。なぜ彼らは仲間を必要としているのか。その設問を最後に解くくだりが白眉。
このような自然観察、動物行動学の研究が『ザリガニの鳴くところ』の背景にあることは想像に難くない。本書の瑞々しい自然の描写には、彼らの研究の積み重ねがひっそりと佇んでいる。
最後になるが、タイトルの意味について。母さんがよく言っていたけど、ザリガニの鳴くところってどういう意味なの、とカイアがテイトに尋ねる場面がある。母さんが、いつもこう口にして湿地を探検するように勧めていたことを、カイアは思い出すのだ。茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きてる場所ってことさ、とテイトが言う。本書は、ザリガニが鳴くところでずっと生きた少女の物語なのである。