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【特別掲載】櫛木理宇『氷の致死量』連載第9回【増量試し読み】

Hayakawa Books & Magazines(β)

映画『死刑にいたる病』の大ヒットを記念して、原作者の櫛木理宇さんによる最新傑作『氷の致死量』の本noteでの試し読みを特別に増量し、10回に分けて掲載いたします。読みだしたら止まらないノンストップ・シリアルキラー・サスペンス。毎日更新していきますので、お付き合いいただければ嬉しいです!(編集部)

『氷の致死量』
櫛木理宇
早川書房/46判並製/定価2090円(税込)


『氷の致死量』

櫛木理宇


第8回「第一章 7」の続き

第一章 


 

     8

 

 日をまたいで、十和子(とわこ)は職員室にいた。

 まだ二時限目が終わったばかりである。早くも疲れきっていた。昨日、ほとんど眠れなかったせいもあるだろう。頭が重い。こめかみに鈍痛が居座っている。

 頭痛の種は、ひとつではなかった。

 まずは夫の茂樹(しげき)だ。昨日の朝、十和子は「話し合いましょう」と書き置きして家を出た。だが帰宅してみるとそのメモはまだテーブルに載っており、

 ──無理。遅くなる。

 との殴り書きが追加されていた。

 メモを見た十和子は、深い深いため息をついた。離婚になることはわかりきっている。なのになぜ茂樹が引き延ばすのか、理解できなかった。

 しかし長く落ちこんでいたくはない。気分転換に、まずお風呂にお湯を溜めた。お湯の音を聞きながら、ざっとメイクを落とした。

 冷蔵庫を開ける。茂樹が一昨日食べなかった夕飯が、ラップをかけたまま入っていた。ポークチョップ。ほうれん草のおひたし。いんげん豆と帆立のソテー。

 十和子は再度のため息をついてから、ポークチョップとソテーの皿をレンジにかけた。

 みずみずしさを失ったほうれん草は、すこし考えてから、味噌汁に投入して一煮立ちさせた。

 味気ない食事を済ませ、すぐ風呂につかる。

 せめてもの気晴らしに、ちょっといい入浴剤を放りこんだ。手足を伸ばして浴槽につかりつつ、十五分かけて歯をみがき、あらためて洗顔した。髪も二度洗った。

 バスローブを羽織ってリヴィングへ戻る。そこで、気力の限界が来た。

 ソファに顔から突っ伏す。

 ──もう、なにも考えたくない。

 さっさと寝てしまおうか。だがまだ眠くはない。時間つぶししようにも、この状態で読書は無理だ。騒々しいテレビ番組も観たくない。

 DVDでも観ようか──。そう思って立ちあがり、ラックを探る。

 ふと、手が止まった。

 奥に押しこまれたディスクを見つけたからだ。いつぞや茂樹が持ちこんできた、成人向けDVDであった。

 パッケージでは十代のアイドルと言っても通るだろう女性が、カメラ目線で可愛らしく微笑んでいる。その上半身にはなにも着けていない。パッケージデザインの九割を、ピンクと肌いろが占めている。

 ──なあ、こういうふうにできない?

 そう言って、茂樹はこのDVDを十和子に見せてきたのだ。こういうのが普通なんだよ。きみは、なんでこうできないの? と。

 十和子はDVDをケースから取りだし、プレイヤーにセットした。再生を選択する。

 ソファにもたれ、リモコンを片手に十和子はDVDを観はじめた。

 書籍や論文で得た知識によると、アセクシュアルの中には性嫌悪をともなう人びとも一定数いるらしい。だが、十和子はそうではなかった。

 性的なものに嫌悪はない。顔をそむけたり、吐き気をもよおすほどの抵抗はない。女性の裸を見て、きれいだと思うこともあった。興奮しないというだけだ。

 だがこのDVDは、やはり何度観ても好きになれなかった。

 茂樹は「きみはプライドが高いから、こういうのが屈辱なんだろう」と決めつけた。「女優がきみより若くてきれいだから嫉妬してるんだ」とも言った。そのとき、十和子は混乱した。茂樹の言うことが正しいのだろうか? と戸惑った。

 しかしいま観かえしてみて、はっきりわかる。

 茂樹の決めつけは、どちらも的外れだった。

 十和子が苦手に思ったのは、このストーリイだ。主演女優はずっと「いや」「やめて」と言っている。つねに眉根を寄せ、目を閉じ、顔をしかめて拒絶の姿勢を取っている。なのに男優は無理やり彼女をねじ伏せ、のしかかって行為をおこなう。

 ──いやと言っているんだから、やめてあげればいいのに。

 もちろん台本なのはわかっている。十和子の主張を、みんな鼻で笑うだろうことも知識として知っている。

 それでもやはり、「なぜもっと仲良く、楽しそうに映せないんだろう」と思ってしまうのだ。どうしてこんなふうに、男女間での意思の疎通を無視して──いや、疎通を拒むかのように撮るのだろう、と。

 女性が苦しそうでない作品や、「いや」と叫ばない作品では需要がないんだろうか。夫婦か恋人同士が、もっと仲良く楽しそうにセックスする作品はないのか。それならわたしだって、興奮はしないまでも最後まで鑑賞できそうなのに。

 ──きみとベッドにいると、氷を抱いているようだ。

 かつて夫の茂樹は言った。

 そして彼女にそう告げたのと同じ唇で、「なあ、こういうふうにできない?」とこのDVDを観せて尋ねた。

 こういうのが普通なんだよ。どうしてきみは、こうできないの──?

 十和子はリモコンの『停止』を押した。

 次いで『開/閉』を選択する。DVDプレイヤーの口がひらき、トレイが手前に押し出されてくる。

 DVDをケースにしまい、十和子は自分の前髪をふっと息で跳ねあげた。

 あるフランス映画で、ヒロインが見せる仕草だ。十和子はこの恋愛映画が好きだった。巷(ちまた)では、性描写が激しい映画として有名らしい。だがすこしも不快に感じなかった。

 全篇を通して画面を占める、あざやかなブルーとイエロー。怒りに満ちた荒々しいヒロイン。狂気と紙一重の愛情。奇妙に美しい音楽。

 そこで描かれるロマンスを、美しいと思った。感嘆した。しかしああいう恋がしたい、うらやましいとはかけらも思わなかった。

 SF映画を観るのと一緒だ、と十和子はいつも思う。SF映画を観て楽しんだとしても「自分も宇宙に行ってみたい」と思う人間はほんの一握りだろう。十和子にとって、恋愛映画はそれと同じジャンルだった。映画を観て「いいな。面白い」と思っても、それは「自分もあんな恋をしてみたい」という意味ではないのだった。

 十和子は床のバッグに手を伸ばした。

 通勤に使っているトートバッグだ。内ポケットから、まずスマートフォンを抜く。着信を確かめ、友人からのLINEに短い返事をする。

 スマートフォンをバッグに戻そうとして、十和子は手を止めた。

 なにか入っている。折りたたんだ紙だ。A4サイズに見えた。

 プリントだろうか、入れた覚えはないが──とつまみあげ、ひろげて瞠目(どうもく)した。

 白い紙の真ん中に、ゴシック体で一行だけが打たれている。

 

 おまえをころす ふつうの女のふりするな これは天ばつ

 

 しばし、十和子は動けなかった。

 やがて指さきから、小刻みに震えだす。震えは腕から肩に、やがて全身に広がっていった。一瞬にして口内が乾き、舌が干上がる。

 まただ、と思った。

 一昨年の"あれ"が、またはじまったのだ。

 ──"おまえは、女じゃない"

 一昨年に届いた脅迫状は明朝体だった。対するこちらはゴシック体である。

 だが、内容はほぼ同じだ。十和子を糾弾していた。十和子が十和子として生まれついたことを、責めていた。

 十和子はスマートフォンを握りなおした。

 そこから先の行動は、なかば発作的だった。狼狽と恐怖が、ふだんなら考えもしない行動をとらせた。以前の同僚の番号を呼びだし、電話してしまったのだ。

「……はい。なんの用?」

 元同僚は迷惑そうだった。

 その時点で十和子は電話を後悔していた。なのに口は勝手に動き、問いを押し出した。

「ひさしぶり。あの──あの子たちは、どうしてるの。いまはなにを……」

「やめて」

 元同僚はぴしゃりと言った。

「言ったでしょう。あの子たちは多感な時期だった。未熟だったの。何度謝らせれば、気が済むわけ? そうやって永遠に『謝れ、謝れ。わたしは傷ついた』って付きまとうつもり? あのねえ、そうやって追いつめたって、子供の反省心は──」

 違う、と言いたかった。

 そうじゃない、違うの。また謝れなんて言うつもりはない。

 ただ彼らがどうしているか知りたかった。わたしがいまどこにいるか、どの学校にいるか把握しているのか、教えてほしかった。

 しかしなにも言えず、十和子は通話を切った。

 部屋を静寂が満たす。重苦しい、息づまるような静寂だった。

 十和子はうつむいた。唇をきつく噛む。まだ手にしていた紙を、彼女はたたんでクッションの下へ押しこめた。

 

 それが、昨夜のことだ。

 チャイムが鳴った。三時限目の始業を告げるチャイムである。

 十和子は授業用のノートを抽斗にしまった。この時限に授業は入っていない。予定では、いまのうちに小テストの準備をしておくつもりだった。だがじっとしていられそうにない。

 ──外の空気を吸ってこよう。

 構内を一周すれば、きっと気持ちもおさまるはずだ。いや、このまま回廊をたどってチャペルに行くのもいい。十和子はけっして熱心なプロテスタントではないが、十字架の前に立てば、いつも心は自然と凪(な)いだ。

「二十分ほど席をはずします」

 隣の席の森宮(もりみや)に、そう声をかけた。

「了解です」

 どこへ、とも訊かず森宮が白い歯を見せる。

 感じのいい笑顔だった。以前聞いた夕希(ゆき)の言葉が、ふっと記憶をかすめた。

 ──森宮先生って絶対、鹿原(かばら)先生に気がありますよね。

 視線がつい、彼の左手に吸い寄せられてしまう。その薬指に指輪はなかった。べつだん夕希のからかいを真に受けたわけではないが、心のどこかでがっかりした。

 十和子は椅子を引いて立ちあがった。

 職員室を出る。角を曲がって、渡り廊下に出る。

 廊下の途中に、神父の志渡がいた。

 ひらいた窓から校庭を見下ろしている。つられるように、十和子は彼の視線の先を追った。

 一年生たちがいた。これから体育の授業がはじまるらしい。

 衣替えまでまだ数日あるが、暑いせいか生徒の半数近くが夏用の体育着に替えていた。ショートパンツから伸びる足が、うらやましいほどまっすぐだ。

「神父さま。ごきげんよう」

「えっ、ああ」

 志渡(しど)神父が慌てた様子で振りかえる。近づく彼女に気づかなかったらしい。

 神父の瞳に、やはり驚きが浮かぶのを十和子は認めた。杵鞭(きねむち)主任と同じ表情だった。何度見ても似ている──という、感嘆まじりの暗い驚愕。

「ああ……ごきげんよう。今日は暑いですね、鹿原先生」

「ええ、ほんとうに」

 あたりさわりのない会話を交わし、会釈をして離れる。

 ふたたび歩きかけて、十和子は眉を上げた。廊下の向こうから、今度は事務員の浜本(はまもと)夕希がやって来る。腕に『職員室用』と書かれたゴミ箱を抱えている。

「浜本さん、ゴミ捨て?」

「ああ鹿原先生。そうなんですよー。わたしのゴミ箱ばっかり、すぐいっぱいになるからやんなっちゃう。──あ、神父さま、ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 神父が礼を返し、ゆったりと立ち去っていく。夕希の視線がちらりと窓の外へ走り、すぐそらされる。

「そういえば鹿原先生、今日のお昼ってお弁当ですか?」

「いいえ、今日も手抜き。売店でサンドイッチでも買おうかと」

 十和子は答えた。

 前の公立中学は給食制だったが、聖ヨアキム学院の生徒は構内の食堂か売店で昼食を済ませる。教員は学食へ行くもよし、外で食べるも、個人で仕出し弁当を取るもよし、と自由である。

 夕希が手を叩いて、

「やった。じゃあ外で食べません? 寮の向かいにある『Y'sコーヒー』、今週いっぱいフェアやってるんですよ。ドリンク二杯でキャラクターグッズがもらえるの。わたし、じつはそれ集めてまして」

「わたしのぶんと二杯でグッズがもらえるわけね、はいはい」

「え、駄目ですかあ?」

「まさか、行きましょう。その代わり、グッズわたしにも見せてよね」

「もちろん!」

 夕希が飛びはねた。

「あのねえ、すっごい可愛いんですよ。毎回フリマアプリでも即完売なんです。ペアのテディベアで、このくらいのてのひらサイズ……」

 はしゃぐ夕希と肩を並べ、十和子はいま来たばかりの廊下を戻った。

 ほっとする。屈託のないかん高い声に、懊悩と不安が溶けていく。

 同期の同僚にこの子がいてくれてよかった──。心からそう思いつつ、十和子は歩を進めた。

──第10回へ続く

〈書誌情報〉
氷の致死量
櫛木理宇
早川書房 四六判並製単行本
定価:2090円(税込)
ページ数:416ページ

内容紹介
聖ヨアキム学院中等部に赴任した英語教師の鹿原十和子(かばら・とわこ)は、自分に似ていたという教師・戸川更紗(とがわ・さらさ)が14年前、学院で何者かに殺害された事件に興味をもつ。更紗は自分と同じアセクシュアル(無性愛者)かもしれないと。一方、街では殺人鬼・八木沼武史(やぎぬま・たけし)が、また一人犠牲者を解体していた。八木沼は亡くなった更紗にいまだ異常な執着を持っている。そして彼の5番目の獲物は、十和子が担任する生徒の母親だった……十和子と八木沼、二人の運命が交錯するとき、驚愕の真実が! 映画「死刑にいたる病」の原作者が放つ傑作シリアルキラー・サスペンス。

〈プロフィール〉
櫛木理宇(くしき・りう)
1972年新潟県生まれ。2012年『ホーンテッド・キャンパス』で第19回日本ホラー小説大賞・読者賞を受賞。同年、『赤と白』で第25回小説すばる新人賞を受賞する。著書に〈ホーンテッド・キャンパス〉シリーズ、『死刑にいたる病』(『チェインドッグ』改題)『死んでもいい』(以上2作ハヤカワ文庫刊)『鵜頭川村事件』『虜囚の犬』『老い蜂』『残酷依存症』などがある。2016年に『ホーンテッド・キャンパス』が映画化、2022年に『死刑にいたる病』が白石和彌監督映画化『鵜頭川村事件』は入江悠監督でドラマ化が決まっている。


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