【特別掲載】櫛木理宇『氷の致死量』連載第8回【増量試し読み】
映画『死刑にいたる病』の大ヒットを記念して、原作者の櫛木理宇さんによる最新傑作『氷の致死量』の本noteでの試し読みを特別に増量し、10回に分けて掲載いたします。読みだしたら止まらないノンストップ・シリアルキラー・サスペンス。毎日更新していきますので、お付き合いいただければ嬉しいです!(編集部)
『氷の致死量』
櫛木理宇
第7回「第一章 6」の続き
※本稿には残酷な場面があります。苦手な方はご注意ください。(編集部)
第一章
7
八木沼武史(やぎぬま・たけし)が”四人目”のママと出会ったのは、三十八箇月前のことだ。
つまり三年以上の付きあいになる。八木沼は、ターゲットをすぐに殺すような真似はしない。行きずりの女など絶対に殺さない。
彼女をはじめて見たのは、スマートフォンの液晶越しであった。デリバリーヘルスのサイトに、下着姿の写真が載っていたのだ。
八木沼はデリバリーヘルスが好きだ。店に通うのは好きではない。そのほうが足が付かないとはわかっているが、自宅もしくはホテルでないと安らげない。安心できない場所では、彼は勃起不全に陥る。
”四人目”こと彼女は、サイトのほんの片隅に顔写真を載せていた。しかも写真はごくちいさく、ピンボケだった。一番人気だろうヘルス嬢に比べたら、十分の一以下の大きさである。
その理由ははっきりしていた。彼女が美人ではなく、若くもないからだ。乳房はたるんで垂れており、腹は醜い段になっていた。
だが、それがよかった。彼女は八木沼の好みにぴったりだった。
歳の頃は四十後半から五十代前半。経産婦らしい体形。眉と目に険があり、どこか八木沼自身の母親に似ていた。
「サービスしますから」
はじめて指名したとき、おずおずと彼女はそう言った。
「……よかったら、また指名してくださいね」
そのいかにも自信なさそうな、卑屈と紙一重の謙虚さが八木沼をときめかせた。絶対にまた指名しよう、と決心した。
ただし頻繁にではない。せいぜい三、四箇月に一度である。店に「お得意さま」と見なされ、覚えられるのは絶対に駄目だ。そして目くらましのため、たまに若い娘も指名しておかなければいけない。
八木沼はあちこちのデリバリーヘルスに、お気に入りのヘルス嬢を一人ずつ持っていた。
全員を殺せるわけではないからだ。よほどの条件が揃わない限り、殺しまではたどりつけない。時期、場所、機会、タイミング、運。どれほど神が味方しようと、せいぜい二十人に一人といったところだろう。
「今度、プライベートで会おうよ」
そう八木沼が”四人目”にはじめて持ちかけたのは、一昨年の春である。
「お金は同額払うからさ。プライベートなら、それ全額きみの懐に入るじゃん」と。
そのときは、”四人目”は渋った。
「店にバレたらまずいよ……。バレたら、クビになるだけじゃ済まない。前も言ったけど、あたし前に二回トんでんだよね。さすがにもう行き場所ないっていうか……。歳も歳だし、ヤバいことしたくないの」
「そっか、わかった」
八木沼はあっさり引きさがった。ただし「でも、考えといて」と付けくわえるのは忘れなかった。
そして年明けに指名したときも、懲りないふりで同じように誘った。
店を通さず会おう。お金は同額、いや色を付けて払う。中抜きなしで、全部きみの収入になるよ。おれはきみにお礼を払いたいのに、店なんかに吸いあげられるのがむかつくんだよ──。
八木沼はこういうとき、別人格になりきることにしていた。中学生のとき脳内でつくりあげ、いまも使っているおしゃべりで陽気な人格である。八木沼自身は口下手で人見知りだから、別人格になりきったほうが舌がまわりやすい。
二度目も、彼女は断った。八木沼はやはりすぐに引いた。
しつこくするのは厳禁だ。店に報告されるかもしれない。外で待つ送迎ドライバーに言いつけられて、怒鳴りこまれでもしたらたまらない。
八木沼は暴力沙汰が嫌いだ。喧嘩も弱い。ターゲットを殺す瞬間さえ、他人相手に強くは出られない男であった。
「ねえ、あのさ……こないだの話、受けようと思うんだけど」
そう彼女から言い出したのは、去年の八月だ。
「ん? なんだっけ?」
八木沼はわざととぼけた。彼女は焦れた顔になり、
「ほら、あれよ。あの……プライベートで会う、ってやつ」
と早口で言った。窓の外を気にしていた。外で待つ送迎ドライバーに聞こえやしないか、と心配しているのだ。
聞こえるはずなどないのに馬鹿だ、と八木沼は思う。だが、その馬鹿さ加減が好ましかった。可愛らしかった。
──利口な女は、嫌いだ。
おれの下手な嘘にだまされる女が好きだ。おれが払う数万円ぽっちの金にしがみつく女が好きだ。馬鹿で、不幸で、どん底から這い上がる才覚のない女が大好きだ。
「ああ、うん。嬉しいよ」
八木沼は微笑んだ。
「じゃあ、店のメニューにないこともしてみたいんだけど……いいかな?」
「え」彼女の顔が強張る。
「え、それってもしかして、痛いこと?」
「違う違う。そうじゃないよ」
慌てて八木沼は手を振る。
「きみに痛いことなんか絶対しない。そうじゃなくてさ、ちょっと甘えたいんだ。ほら、おれって熟女好きじゃんか。だから予想してたかと思うんだけど──」
そこで八木沼は「赤ちゃんプレイが希望なんだ」と明かす。
「母乳プレイとか、おむつ交換とか。どう?」
女の頬が一瞬歪んだ。
八木沼は慌てて言った。
「いや、大丈夫。交換だけだよ。それ以上のスカトロはしないから」
ほっ、と彼女の頬が緩んだ。なんだ、という顔つき。
なーんだ、確かにキモくて汚らしいけど、おむつ替え程度ならこなせる。そのぶん金を弾んでもらい、シャワーを数回使えるのなら耐えられる、と。
「ごめんよ。割増料金は払うから」
精いっぱい済まなそうな顔を装ってから、八木沼は言った。
「じゃあプライベートのID教えてよ。合言葉も決めたほうがいいよね。うん、だってほら、ドライバーさんとかにスマホ覗かれたらヤバいじゃん? 『山』『川』みたいな、会うときのサイン決めとこう。それ見たらおれに電話して。そうそう、履歴もまめに消しといたほうがいいね……」
彼女が約束どおり、”プライベート”で八木沼家を訪れたのは翌週である。
まずは気分をほぐすため彼女にシャワーを使わせ、風呂上がりに度数の高い缶チューハイで乾杯した。
彼女が浴室にいる間、八木沼はだだっ広いベッドにブルーシートを敷き、家具や床をビニールで覆っておいた。
「ほら、おむつ替えをしてもらうから。飛び散ったら掃除が大変だろ?」
との説明に、彼女はすんなり納得した。
全裸に成人用おむつを着けただけの姿で、八木沼はたっぷり彼女に甘えた。ママと呼び、垂れ気味のおっぱいにむしゃぶりつき、仰向けにひっくり返っておむつ交換をしてもらった。
「いっぱい出まちたねえ、いい子いい子」
「どうちたの? ああ、お腹がすいたのね? おっぱいほしいの。よちよち」
けっして彼女は乗り気ではなかった。だがプレイをつづけるうち、次第に馴染んでいったようだ。
彼女が離婚の際にわが子を手ばなしたこと、その後一度も会えていないことを八木沼は知っていた。問わず語りに、彼女自身が洩(も)らした身の上話であった。
「なんだか昔を思いだしちゃう」
最終的に彼女は、そうつぶやいて涙をぬぐった。
二時間に及ぶ赤ちゃんプレイの仕上げに騎乗位でセックスし、もう一度彼女にシャワーを浴びさせてから、八木沼は約束どおりの額を払った。
帰りのタクシー代も足してやると、彼女は顔をほころばせて、
「また呼んでね」と言った。
八木沼は答えた。「もちろんだよ」
それからは一、二箇月に一度のペースで彼女を家に呼んだ。
彼女はママと呼ばれることに慣れ、八木沼の排泄物の処理に慣れた。理想のママになりつつある、と八木沼は思った。いいママだ、こいつをずっと生きたママにしておこうかな、と。
だがある日、どうしても我慢できなくなった。
──帰したくない。
八木沼は思った。
──このママをおれのものにしたい。”通いのママ”じゃ満足できない。おれだけの永遠のママにするために、壊したい。
だからその日、八木沼はいつもの乾杯に使う缶チューハイに、磨りつぶした睡眠薬を三錠混ぜた。アルコール度数十二の、ウォトカベースの缶チューハイだ。ウォトカ独特の苦みと臭みが、睡眠薬の味をうまく消してくれる。
やがて八木沼におっぱいを含ませながら、彼女は「眠い」と言いだした。
「ごめん。なんか……すごく眠い。疲れてるのかな……」
「いいよ」
乳首を舌で転がしつつ、八木沼は答えた。
「いいよ。添い寝プレイも好きだ。寝ちゃっていいよ」
わずか一分後、彼女は深い深い眠りに落ちた。
軽いいびきをかいている。頬を叩いてみたが目覚めなかった。耳を掴み、引いてみる。やはり目を覚まさなかった。
八木沼は彼女の胸に顔を付けた。
心臓の音が聞こえた。とく、とく、とく、と一定のリズムで鳴っている。
うっとりした。八木沼はこの音がなにより好きだった。ママの音だ。ママが生きて息づいている証だと陶酔できた。
──この心臓だけは、ずっと動いたままでいてくれるといいんだが。
だが無理だとわかっていた。
試してみたことはあるのだ。「眠っている間に脳の一部だけ壊せば、心臓はずっと動いているかも」と考え、鼻孔や耳孔から錐(きり)を深く深く刺してみた。またその穴から、熱湯を注ぎこんでもみた。
しかし、駄目だった。
歴代のママたちはみな、完全に壊れた。いとしい心臓も脈動を止めてしまった。
だから無駄なあがきはせず、彼は心音をたっぷり十分録音してから、包丁を取りだした。かねて用意の、よく研いだ包丁だ。中年女の体は驚くほど脂肪を溜めこんでいる。その脂はぎとぎととしつこく、ぬめってすぐに刃を駄目にする。
八木沼は、まずママを絞め殺した。それからていねいに時間をかけて、ママの胸から腹を切り裂いた。
切除した内臓を、ひとつずつブルーシートの上に取りだしていく。
内臓の名前なんてよく知らない。こいつはたぶん胃。こっちはたぶん肺。心臓はわかりやすい。大腸も間違えようがない。でも子宮はどれだろう? 卵巣もよくわからない。
とにかく、全部引きずり出してぶちまける。その上に寝転がり、彼は胎児のようにまるくなる。
シのシンセンスイ、という言葉がふと浮かぶ。
なんだっけ? 唐突に思いだした単語だ。かつて、よく耳にしたような。
だが目を閉じた瞬間、その思考はみるみる薄れていく。
あたたかい。やわらかい。安心できる。ねとつく臭い血と内臓に包まれ、八木沼は心から安堵した。幸福だった。
臭いのはかまわない。だがすぐに冷えてしまうのが不満だった。いつまでもあたたかくやさしく、子宮のように彼の全身を包んでくれるママでいてほしかった。
でも、そんなママはいやしない。
わかっている。だからやっぱり、殺して壊すしかないのだ。殺して壊し尽くして、永遠のママにする。それが彼にとっての究極の愛であり、”使命”だった。
──ほんとは、戸川(とがわ)先生がママになってくれたらよかったんだけど。
戸川更紗(さらさ)先生。中学二年生のときの、副担任。
彼女は八木沼にとって別格だった。もし彼女がママになっていてくれたら、おれの使命はまた違ったものになっていただろう、と彼は思う。
だが現実は変えられない。時間を巻き戻すことはできない。
──あの夜。
あの夜の、あの光景。
いまも網膜に焼きついている。あの体験が、八木沼のすべてを変えた。彼が使命を実感し、体の奥底まで染みこませた夜だ。
職員室に、戸川先生は一人居残っていた。採点のため答案にペンを走らせる横顔が、透きとおるほど白かった。そのまなざしは真摯(しんし)だった。見つめているだけで、胸が震えた。
そして鮮血。
先生の頸(くび)からほとばしる、驚くほど大量の血。
見ひらかれた先生の眼。
床にくずおれる彼女が、スローモーションで見えた。たまらず八木沼は射精した。あんなに気持ちよかったことはない。人生最高の射精だった。
──美しかった。
あの夜の戸川更紗先生は、凄絶なまでに美しかった。つねに美しくやさしい人だったが、格別だった。いまだ彼は、あの美しさと衝撃を超えられずにいる。何人殺そうと超えられない。
戸川先生。ママになってくれなかった先生。
だからおれは、またママを探しつづけた。ママを探し、殺し、壊す。それをつづけていなければ、生きる意味がなかった。生きつづけていられなかった。
──次の筆頭ママは、誰にしようかな。
己の親指を吸いながら、八木沼は思った。
候補はすでに何人か確保している。今回のママと同じように離婚した経産婦で、親きょうだいとも疎遠で、前夫とも子とも音信不通な女。いまや風俗産業の片隅にしがみつくしかない女。何度か借金で夜逃げした経験があり、いつまた失踪しても、誰一人あやしむことのない中年女。いとしいおれのママたち。
──でもいまは、ほかにもやることがある。
ほんの一箇月前のことだ。彼は、新たな使命を授かってしまった。
いままでとは趣向の違う使命である。だが”殺す”という一点では一貫していた。標的も、すでに定まっていた。
──遂行せねばならない。
だが正直に言えば、彼はすこしばかり迷っていた。
危険だからだ。今回の標的はいままでとは違う。条件が揃っていない。
子供と完全に音信不通ではないし、デリヘル嬢でもないから家に呼びつけられない。それなりにセキュリティの高いマンションに住んでいるし、運びだして始末するのはもっとリスキーだ。だから死体は、すぐに発見されるはずだ。
八木沼は賢くない。とはいえ、さすがに防犯カメラの存在くらいは知っている。
マンションの出入り口、コンビニのレジ、銀行のATM。街にはいたるところにカメラがあるのだ。危険だ。わかっている。殺したら、きっと足が付く。
──でも、やらずにはいられない。
だって彼は、いままでの彼ではなくなった。
新たな使命を担った男だ。天啓を受けてしまったのだ。神には逆らえない。啓示を無視して生きてはいけない。
血まみれの親指をしゃぶりながら、八木沼は標的を殺す手順を練りはじめた。
──第9回へ続く
〈書誌情報〉
『氷の致死量』
櫛木理宇
早川書房 四六判並製単行本
定価:2090円(税込)
ページ数:416ページ
〈内容紹介〉
聖ヨアキム学院中等部に赴任した英語教師の鹿原十和子(かばら・とわこ)は、自分に似ていたという教師・戸川更紗(とがわ・さらさ)が14年前、学院で何者かに殺害された事件に興味をもつ。更紗は自分と同じアセクシュアル(無性愛者)かもしれないと。一方、街では殺人鬼・八木沼武史(やぎぬま・たけし)が、また一人犠牲者を解体していた。八木沼は亡くなった更紗にいまだ異常な執着を持っている。そして彼の5番目の獲物は、十和子が担任する生徒の母親だった……十和子と八木沼、二人の運命が交錯するとき、驚愕の真実が! 映画「死刑にいたる病」の原作者が放つ傑作シリアルキラー・サスペンス。
〈プロフィール〉
櫛木理宇(くしき・りう)
1972年新潟県生まれ。2012年『ホーンテッド・キャンパス』で第19回日本ホラー小説大賞・読者賞を受賞。同年、『赤と白』で第25回小説すばる新人賞を受賞する。著書に〈ホーンテッド・キャンパス〉シリーズ、『死刑にいたる病』(『チェインドッグ』改題)『死んでもいい』(以上2作ハヤカワ文庫刊)『鵜頭川村事件』『虜囚の犬』『老い蜂』『残酷依存症』などがある。2016年に『ホーンテッド・キャンパス』が映画化、2022年に『死刑にいたる病』が白石和彌監督映画化。『鵜頭川村事件』は入江悠監督でドラマ化が決まっている。