【特別掲載】櫛木理宇『氷の致死量』連載第10回【増量試し読み】
映画『死刑にいたる病』の大ヒットを記念して、原作者の櫛木理宇さんによる最新傑作『氷の致死量』の本noteでの試し読みを特別に増量し、10回に分けて掲載いたします。読みだしたら止まらないノンストップ・シリアルキラー・サスペンス。毎日更新してきたこの【増量試し読み】企画も今回が最終回です。最後まで、お付き合いくださって、どうもありがとうございました! 続きを書籍で読んでいただければ嬉しいです!!(編集部)
『氷の致死量』
櫛木理宇
第9回「第一章 8」の続き
第一章
9
八木沼武史(やぎぬま・たけし)は『Y'sコーヒー』の窓際に座っていた。
手もとには湯気の立つソイラテ。安っぽいプラスティックのマドラーと、追加した砂糖の空き袋。
ガラス越しに彼は、母校である聖ヨアキム学院の学生寮を見下ろしていた。
とはいえ在学中、この学生寮とは無縁だった。バス通学だったし、特待生の友人もいなかった。小中高を通して「おとなしく、目立たない生徒」でありつづけた八木沼は、華やかなスポーツ特待生たちに近寄れずじまいだった。
──多少なりとも社交的になれたのは、自分に自信をつけてからだ。
人殺し、という経験を通して得た自信である。
他人なんて大したもんじゃない、恐れるに足らない。その証拠に、おれみたいな馬鹿に簡単に殺されちまうんだからな──といったふうに。
八木沼は甘いソイラテを啜った。
コーヒーは苦いから好きじゃない。砂糖とミルクをたっぷり入れて、なんとか飲めるレベルだ。どちらかというと紅茶が好きだ。しかしこの『Y'sコーヒー』にだけは、ときおり来てしまう。
いままでは、ひとえに戸川(とがわ)先生の思い出を反芻(はんすう)するためだった。
十四年前、八木沼は廊下で「相談があるんです」と戸川先生を呼び止めた。すると先生は、彼をこっそりこの店に連れてきてくれた。
美しく微笑んで、彼女は言った。
──この奥の席なら、誰にもなにも聞こえませんよ。だから気にせず、なんでも打ちあけてね。
八木沼は、言いたかった。言うつもりだった。
戸川先生の旦那さんがどんな人なのか知りたい、と。先生が気になって授業どころではないと。先生は子供がほしいのかどうかも訊きたかった。もしほしいなら、いつでもおれが子供になってあげたい、とも言いたかった──。
だが、どれも口に出せなかった。
彼はただ先生の顔を見つめ、美味くもなんともないコーヒーを啜りながら、「勉強がむずかしい」「友達ができない」と、どうでもいい話ばかりを繰りかえした。
──もし打ちあけていたら、なにか変わっただろうか。
おれと戸川先生の結末は、違ったものになっていただろうか。夜の校舎。ほとばしる鮮血。あんなふうにはならず、いま先生はおれのそばで微笑んでいただろうか。
──いや。
だとしても先生は死ぬべきだった。
マドラーで、八木沼はソイラテのクリームを混ぜる。
その意見はいまも変わっていない。先生は死んでよかった。生きつづけて老いるより、あの夜に死ぬべき人だった。
戸川先生は美の絶頂期で死んだのだ。
その凄絶な美しい死に打たれ、八木沼はあの夜、はじめて脳で射精した。手も女体も使わず、脳の興奮だけで達した。その後は殺人を通してしか──いや通してすら、完全には得られていない至上の悦楽であった。
店の入口が開く。ウエイトレスが駆け寄っていく。
「いらっしゃいませ。何名さまですか? はい、二名さまですね。お煙草はお吸いになられますか?」
マニュアルどおりの台詞だ。なんの気なしに八木沼は顔を上げ、入ってきたばかりの客を見やった。
途端、どくりと心臓が跳ねた。
店内の音が、遠くなる。
まわりの喧騒も音楽も色褪せる。視界が一気に狭まる。
ドアを背にして立つ女性に──ウエイトレスに案内されて入店してくる女性に、五感のすべてが集中する。目がそらせない。釘づけだ。
──戸川、更紗(さらさ)先生。
似ている。
いや顔かたちは似ていない。でも──似ている。そっくりだ。
戸川先生より背が高い。すらりとして、腰の位置もいくぶん高い。肌は戸川先生のほうが白かったようだ。髪型だって違う。先生は肩までの髪で、ゆるくウエーブがかかっていた。目の前の”彼女”は、肩下十センチのストレートである。
──なのに、どうしようもなく似ている。
動作が、かもしだす雰囲気が、まとう空気が同じだった。・彼女・のまわりだけが、ひどく清潔だ。”彼女”のいる場所だけ、白い光が射して見えた。
”彼女”は二人連れだった。若い女と一緒だ。
ウエイトレスは”彼女”たちを、柱の陰の席に案内した。日焼けしないよう、気を利かせて窓から遠ざけたのかもしれない。最近の女は、みんな紫外線をいやがる。
八木沼はウエイトレスを呼びとめた。
「はい? 追加オーダーですか?」
「いや、ちょっとここ、まぶしくて……。席、移動していいですか」
さいわい店内は混んでいなかった。八木沼はカップと伝票を持ち、”彼女”と背中合わせになれる席へと移った。
椅子を引いたとき、己の腕が”彼女”のプライベートゾーンだろう半径二十センチ内に入った。それだけでどきどきした。頬が勝手に熱くなり、全身が痺(しび)れた。
幸せだ、と思った。
これほどの幸福感に包まれたのは、あの夜以来であった。まさかまた、こんなに幸せになれる日が来るだなんて想像だにしなかった。
八木沼はせめてもの礼に、ウエイトレスにソイラテのおかわりを頼んだ。そして、背後の会話に耳をそばだてた。
「カバラ先生、はいメニュー。ううん、わたしは大丈夫です、ネットで見て、決めてあるから。グッズがもらえるメニューって限られてるんですよ。……え、ほんとに? 先生も同じのでいいんですか。うわぁすみません。じゃ今度、埋め合わせになにかお礼しますね。そんな遠慮しないでください。ほんと、絶対お礼させてくださいね……」
どうやら”彼女”の連れは、かなりのおしゃべりだ。
だがおかげで、”彼女”の情報が早くもいくつか頭に入った。
名前はカバラ先生。付き合いがいいらしい。そして連れにあんなに感謝されるほどやさしく、かつ謙虚でひかえめらしい。
──やっぱり、戸川先生そのものじゃないか。
八木沼はスマートフォンを取りだした。
グーグルで全国の苗字が検索できるサイトを呼びだし、『カバラの読みを含む苗字』で調べる。岡原(おかばら)、鹿原(かばら)、中原(なかばら)、蒲原(かんばら)……。おそらく「鹿原」で決まりだ。
おしゃべりなほうの女が、ウエイトレスを呼ぶ。二人はブレンドコーヒーと、ハム&チーズのベーグルサンドを頼んだ。
「あー、ほんと同期が鹿原先生でよかったあ」
ウエイトレスが去って、ふたたび女が口をひらく。
「あ、同期とか言っちゃってすみません。でも新参者が一人だけだと、マジできついじゃないですか。二人いて、同じ女性で、しかもそれが鹿原先生みたいに話しやすい人でラッキー。もし灰田(はいだ)事務長みたいな人と同期赴任だったら……うえー、考えただけで鳥肌もん」
「そうなの? 灰田事務長、きちんとした方に見えるけど」
「いやいや、そう思うのは鹿原先生が事務長と席離れてるからですよ。あの人、相手を見て態度すっごい変えますしね。とくにわたしみたいな若い部下なんて、頭っから馬鹿にしてるし」
鹿原先生の声が聞きたいのに、耳に入るのはおしゃべり女の声ばかりだ。
とはいえ、きんきん声の合間に響く先生のアルトは悪くない。緩衝材のようで心地いい。しっとりと、心に沁み入るような声だ。
「そういえば鹿原先生、七日の件聞きました?」
「七日? なにかあるの?」
「ああ、やっぱり鹿原先生は知らないかあ。あのね、うちの学校、じつは十何年か前に殺人現場になったことがあるんですよ」
ぎくり、と八木沼は身を強張らせた。
──あの夜。
違うぞおまえ、とおしゃべり女の言葉を胸中で訂正する。十何年か前じゃない。あれは十四年前だ。
十四年前の、六月七日。
いまにも降りだしそうな重い雲で覆われた夜だった。忘れられない一夜。殺人者として、八木沼を目覚めさせてくれた夜──。
「でね、その日は毎年、教員みんなで鎮魂のお祈りをするんですって。殺された先生の旦那さんもいらっしゃるんですよ、昔は生徒も参加してたけど、保護者からクレームが来て、最近は教員だけになったとか。だからその日は、最低でも七時くらいまで居残りしなくちゃですよ。忘れて、デートの予定入れたりしないでくださいね」
「デートって。わたし既婚者よ」
鹿原先生が笑う。おしゃべり女がむきになる。
「えーっ。でも結婚したって、旦那さんとたまにはデートくらいするでしょう? わたしの友達なんかすごいですよ。二年前に結婚したけど、いまだに毎月、記念日だなんだって……」
そこで女が言葉を切る。
ウエイトレスがコーヒーとベーグルサンドを運んできたのだ。ついでになんとかいうキャラクターグッズも付いてきたらしく、女が派手な歓声を上げる。
背中越しにその声を聞きながら、八木沼は胸をそっと撫でおろした。ようやく動悸がおさまりつつある。確信がこみあげる。
──これも、きっと啓示だ。
彼は深くうなずいた。
例の標的を殺すべきか、じつはまだ迷っていた。
あの女を殺したら、自分はおそらく捕まるだろう。慣れたパターンからはずれるのは自殺行為に等しい。不慣れな犯行はミスを生みがちだ。些細なミスから、警察は間違いなくおれを探りあてるに違いないと。
彼は、自分の能力を知っていた。
警察に目を付けられたら最後だ。絶対に逃げられない。逃げおおせられる自信も才覚もない。そう正しく自己分析してきた。
──でも、神がおれに道を示した。
おれを殺人者にした”大いなる意思”が、この店で鹿原先生に引き会わせてくれた。そして戸川先生の事件について、見知らぬ女の口を通じ、いま一度語り聞かせてくれた。これが啓示でなくてなんだというのだ。
神はおれを導いている。おまえは神の御心とともにあると、思いのままに動くべしと命じている。
なぜって、おれの考えと行動が正しいからだ。たとえ法律に反していようと、おれは神のご意思に沿っている。
──その結果、おれはきっと逮捕されるだろう。
だがそれでいい。逮捕されようとやるべきだと、いま神がそうおっしゃっている。
八木沼はテーブルに肘を突き、両手の指を組んだ。
無意識の仕草だった。十数年ぶりに取った祈りの姿勢だ。組んだ指に額を付ける。まぶたをきつく閉じる。
──神よ。
彼は祈り、感謝した。イエスでもモーセでもムハンマドでもない彼の神に。大いなる意思に。寛大かつ、慈愛あふれるお導きに。
その瞬間、ふわりといい香りがした。鹿原先生の髪の香りだと気づいて、八木沼はうっとりした。
また大切なものができてしまった──。彼は思った。
そして使命もふたつに増えた。同時に大事な使命をふたつも授かるなんて、おれはなんと幸福で幸運な男なんだろう。
すべてが福音だった。世界中が彼の選択を喜び、応援し、彼の行く手を祝福していた。目を閉じたまま、彼は胸いっぱいにシャンプーの芳香を嗅いだ。
──書籍『氷の致死量』第二章へ続く
〈書誌情報〉
『氷の致死量』
櫛木理宇
早川書房 四六判並製単行本
定価:2090円(税込)
ページ数:416ページ
〈内容紹介〉
聖ヨアキム学院中等部に赴任した英語教師の鹿原十和子(かばら・とわこ)は、自分に似ていたという教師・戸川更紗(とがわ・さらさ)が14年前、学院で何者かに殺害された事件に興味をもつ。更紗は自分と同じアセクシュアル(無性愛者)かもしれないと。一方、街では殺人鬼・八木沼武史(やぎぬま・たけし)が、また一人犠牲者を解体していた。八木沼は亡くなった更紗にいまだ異常な執着を持っている。そして彼の5番目の獲物は、十和子が担任する生徒の母親だった……十和子と八木沼、二人の運命が交錯するとき、驚愕の真実が! 映画「死刑にいたる病」の原作者が放つ傑作シリアルキラー・サスペンス。
〈プロフィール〉
櫛木理宇(くしき・りう)
1972年新潟県生まれ。2012年『ホーンテッド・キャンパス』で第19回日本ホラー小説大賞・読者賞を受賞。同年、『赤と白』で第25回小説すばる新人賞を受賞する。著書に〈ホーンテッド・キャンパス〉シリーズ、『死刑にいたる病』(『チェインドッグ』改題)『死んでもいい』(以上2作ハヤカワ文庫刊)『鵜頭川村事件』『虜囚の犬』『老い蜂』『残酷依存症』などがある。2016年に『ホーンテッド・キャンパス』が映画化、2022年に『死刑にいたる病』が白石和彌監督映画化。『鵜頭川村事件』は入江悠監督でドラマ化が決まっている。