そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第5章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を上梓します。

その刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第5章を公開。

失踪した佐伯は、名緒子との離婚と引き換えに五千万円の慰謝料を受け取るはずだった。佐伯の行方を捜すならまずは自分ではなく警察を頼るべきだと、沢崎は更科邸を去ろうとするが……。

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そして夜は甦る』(原尞)

5

 雑木林の中の車道を濃紺のメルセデス・ベンツが音もなく走って来た。更科邸の塵一つ落ちていない駐車場で、私はブルーバードに乗車するところだった。まごまごしていると、粗大ゴミと間違えられかねない。ベンツは、私が出て来たばかりの建物の正面へ向かい、車寄せをゆっくりと上って、玄関に横づけになった。すかさず玄関の大きなドアが開いて、食堂で給仕をしていた和服姿の女が出迎えた。
 ベンツの色と同じ濃紺のつばの広い帽子に、同じ濃紺のテイラード・スーツを着た年配の婦人が車から降り立って、すぐに玄関の中へ消えた。出迎えた女は運転手に一言二言口をきいて、女主人のあとを追った。ほんのわずかな時間だったが、濃紺の帽子の下の横顔は、新聞やテレビなどで見憶えのある更科頼子のものだった。〈東神グループ〉の前会長で、現在は新会長となった弟の相談役を務める女実業家である。私にはまったく縁のない世界の住人だったが、彼女が佐伯直樹という行方不明の男の義母であることを知った今は、いささか根拠薄弱ではあるが一種の親近感を覚えた。
 私はブルーバードのドアを開けて運転席についた。玄関のベンツは車寄せを降りて駐車場へ移動して来ると、私のブルーバードに並んで停まった。相手は左ハンドルなので、ウィンドー越しにお抱え運転手ふうの帽子をかぶった中年男と顔をつき合わせることになった。どちらからともなくウィンドーをおろした──向こうはスイッチ一つで楽に、こっちは滑りの悪いハンドルに苦労して。運転手は四十代後半の小太りの男だった。人差し指で帽子のひさしを突きあげてあみだにすると、禿げあがった額があらわになった。彼の視線は、まるで死体が動くはずがないと言いたげな様子で、私のブルーバードに注がれていた。
「かつてこの邸で見た最低の車って顔だな」と、私は言った。
「それで車のつもりならね。通いのお手伝いが乗って来るバイクのほうがまだましだ」彼はにっこりと笑った。色の黒い丸顔のなかに人なつっこい眼があった。お抱え運転手の半分はお喋りで、残りの半分は無口だった。それを決定するのは運転手自身ではない。更科夫妻が無口でないことを祈りながら、私は適当な話題を探した。
「ベンツという車は決してエンジン・トラブルを起こさないと聞いたが、そんなものか」
「まァ、信じていいね。この十五年間に三台のベンツを乗り継いできたが、エンストなんかただの一度もなかった。ただし、運転の仕方にもよるがね」
「大した車だ。銀行強盗をやるときにはぜひ拝借したい。運転手込みで」
 彼は苦笑した。だが、すぐに改まった顔つきになった。「あんたは、韮塚弁護士が話していた探偵さんかね」
「そうだが、お宅は──?」
「十五年来、更科・神谷両家の運転手を勤めている長谷川という者だ。親父がここの先代の運転手を二十五年間勤めていたから、父子二代お世話になっている身の上でね。おれは八才の年からこの邸に住んでいる」
 彼はベンツのバックミラーに映っている私の顔を見つめて、声をひそめた。「佐伯さんの件で呼ばれたのだろう?」
「どうしてそう思うんだ?」と、私は訊き返した。
「このうちで何か問題があるとすれば、佐伯さんのことしかない。二代目が──新会長の惣一郎さんのことだけど──まだ学生だった時分には何かと厄介事を起こして、先代や更科のご夫婦に面倒をかけたものだった。でも、先代が亡くなり、大学を卒業して〈東神〉の一員となってからは、人が変わったように立派になった。それが、今では佐伯さんだ」
「佐伯さんというのは、どんな人なんだ?」
「いい男なんだがねぇ。彼がまだ〈朝日〉の記者だった頃は、お嬢さんとの仲も周囲が羨むくらいうまくいっていたし……二代目の素行が改まったのだって、佐伯さんがこのうちに出入りするようになって、年下の佐伯さんに影響されたような話だった……佐伯さんがどうかしたのか」
「彼と至急会いたいのだが、どうしても連絡がつかなくて困っている。最近、彼に会ったかね」
「いや……もう、しばらく会ってないと思うな」長谷川の声が急に小さくなり、ちらっと私の顔を見て、すぐに眼をそらした。ちょうどそのとき玄関のドアが開く音がしたので、彼が私の視線を避けたのか、ただ玄関のほうに気を取られたのか、はっきりしなかった。
 佐伯名緒子が玄関を出て、私たちのほうへ小走りに駈けて来るのが見えた。手に持った赤いコートが、少年闘牛士の扱い慣れないケープのように風にひるがえった。
 運転手の長谷川は帽子をきちんとかぶり直して、車を降りた。彼はベンツの背後をまわり、名緒子を乗車させるために後部ドアを開けた。「久我山のお宅へお帰りになりますか」
 彼女はベンツのボンネットの前で立ち止まり、長谷川にちょっと待てと言うように手を挙げた。食堂で最後に見たときの様子に較べると、すっかり落ち着きを取り戻していた。そばに父親がいないせいか、さっきよりも年嵩に見え、二十七才の既婚者らしく見えた。
「沢崎さん。お差し支えなければ、わたしを一緒に乗せて行っていただけません? あなたに是非ご相談したいことがありますの」
「もちろん、構いませんよ。新宿の事務所へ戻るつもりでしたが、あなたは久我山ですか」
「いいえ。中野にある佐伯のマンションへもう一度行ってみるつもりです。どこか適当なところで降ろして下されば結構ですわ」
 彼女は長谷川にその旨を告げて、待機してもらったことを詫びた。長谷川は、とんでもありませんと言って、急いで二台の車の背後をまわり、私のブルーバードの助手席のドアを開けた。名緒子は長谷川に礼を言って、私の隣りに乗り込んだ。
「気をつけて運転してくれよ」と、長谷川が言った。「探偵さん、本当はあんたの車はお嬢さんを乗せられるような代物じゃないんだから」
 私は右手の親指を立てて、諒解の合図を送った。彼は助手席のドアを閉め、ウィンドー越しに名緒子に挨拶した。私はベンツのそばでやけに緊張しているブルーバードのイグニッション・キーをまわした。来年は自由契約必至の控えのロートル選手が、大リーガーの入団で発奮してクリーン・ヒットをとばすこともあるのだ。エンジンは奇蹟的に一回でスタートした。

次章へつづく

次回は2月8日(木)午前0時更新

※書影はアマゾンにリンクしています。以下の書影は2月下旬から展開予定の、新装版文庫の装幀。

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