そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第3章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作それまでの明日を上梓いたします。

その刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作そして夜は甦るを平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第3章を公開。

ルポ・ライターの佐伯について依頼があると、沢崎は著明な美術評論家にして複合企業〈東神グループ〉経営者の更科修蔵の自宅に招かれる。

第2章はこちら→

そして夜は甦る』(原尞)

3

 午後からは次第にくずれるという予報にもかかわらず、都心から西南部にかけての空はまだ抜けるように青かった。翌日の十二時一分過ぎ、私は宏壮な洋風建築の更科邸の玄関に立って、青銅の馬の手綱を引っぱるという大げさな呼鈴を鳴らしていた。田園調布四丁目の通りに面した青銅の格子の表門に着き、インターフォンのボタンを押して来意を告げたときは、まだ約束の時間に数分前だった。ところが、遠隔操作で開閉する表門からブルーバードを乗り入れ、雑木林の中の車道をしばらく走り続け、教えられた建物の脇のゆうに三十台は収容できる駐車場に車を停め、ようやくこの玄関にたどり着いたときは一分遅刻していた。昨日の図書館での調査である程度は想像していたが、これは想像を遙かに超える豪邸だった。
 雑木林を振り返って正体不明の小動物の鳴き声にじっと耳を傾けていると、馬がちんちんしたまま通れそうに大きい玄関の樫材のドアが開いた。私と同世代の長身の男が現われ、値踏みするように私を眺めまわした。
「弁護士の韮塚です。更科氏がお待ちになっている。どうぞ、入りたまえ」
 耳が隠れるくらい長めの髪、細長い銀色のメタルフレームの眼鏡、細身のダブルのブレザー、折り目のまっすぐなズボンの裾からのぞいているワイン色のハーフ・ブーツ──彼の装いはそつがなく若々しかったが、小じわの目立ちはじめた彼の面長な顔には実際の年齢が表われていた。たぶん私より五つほど年長で四十五才前後というところだ。
 私は玄関に入り、腕を挫かないように用心して重厚なドアを閉めた。韮塚弁護士は、生まれて一度もペンより重いものを持ったことがないような白い細長い指を優雅に一振りすると、先に立って案内しはじめた。邸内は常時適温に保たれているらしかった。私たちは小さな家が一軒すっぽり入ってしまいそうな玄関ホールを抜けて、建物の後方に通じる回廊を歩いて行った。
「職業柄、私も興信所や探偵社には二、三接触がある」と、韮塚は長い首をまわして言った。「でも、個人営業のいわゆる私立探偵にお眼にかかるのは、これが初めてだな」
「何事にも最初があり、認識を新たにするにはいい機会ですよ」と、私は言った。
「なるほど、結構だ」彼は長い歯を見せて笑った。この男の身体はどこもかしこも長かった。「詮ずるところ、この世の中は経験がものをいう。そうじゃないかな。きみは探偵の仕事を始めて何年になる?」
「十一年です」と、私は答えた。「経験が邪魔になることを知ってから七年になる」
「面白い意見だな」と、韮塚は面白くなさそうに言った。
「更科氏がお呼びになったのは、きみのきいたふうな意見を拝聴するためではない。それを忘れんようにね、渡辺さん」
「気をつけましょう」と、私は言った。例によって、自分の名前を訂正しているあいだに、観葉植物の温室になっている中庭にそった廊下を二つ、磨きあげられた樫材のドアの前を三つ通り過ぎた。もとの玄関まで帰り着けるかどうか心配になりかけたとき、韮塚弁護士はひときわ大きい両開きのドアの前で立ち止まった。彼はここだと言うように私に合図をして、ドアを二、三度ノックした。そして、曲がっていないのを百も承知でネクタイに手をやって身繕いをした。かなり遠くで返事の声がすると、彼はドアを開け、私を先に立てて部屋の中へ入った。
 そこはゆうに三十坪はありそうな、この邸の食堂だった。東向きは全面が庭から自由に出入りのできる洒落たフランス窓になっていた。部屋の中は穏やかな陽光が差し込み、窓の向こうには芝生を敷きつめた広々とした庭と大きな噴水が見えた。部屋の中央に据えられた時代物の食卓はゆうに三十人が坐れそうな大きさだったが、そこに人影はなかった。返事の主は、その向こうのもっと小さめのテーブルに席を取っていた。私たちは三十秒かけて、食堂を縦断した。
 韮塚弁護士は、私を食事中の五十代半ばの紳士に引き合わせた。豊かな銀髪に、彫りの深いブロンズ像のような容貌を持った更科修蔵の正面に、私たちも腰をおろした。
「沢崎さん、でしたね」と、彼は私を見つめて言った。「年のせいか、決まった時間に食事をしないと身体の調子が良くないので、失礼して先に始めています。あなたはお昼はおすみになりましたか。よろしければ、ご一緒に召し上がって下さい」
 和服姿の中年の女性が給仕のために現われて、私たちの注文を待っていた。
「厚焼きのトーストとダージリン・ティーを頼む」と、韮塚が言った。私はコーヒーを頼んだ。更科氏は美術館の陶芸展でお眼にかかるような凝った器で、何か茶粥のようなものを食べていた。
 給仕の女性がさがると、彼は弁護士に言った。「沢崎さんがおみえになったことを名緒子に知らせてきてくれませんか。あれは庭の噴水のあたりを散歩しているはずです」
 いかにも丁寧な口振りだが、そのほうがかえって相手を威圧できることを知っている人間の丁寧さだった。韮塚はすぐに席を立ち、フランス窓の一つを開けて庭へ出て行った。
「失礼ですが、あなたはお年はいくつですか」と、更科氏は箸をやすめて訊いた。「実はあなたを見ていて、ふと自分が初めてこの家へ来た日のことを思い出したものですから」
「四十です」と、私は答えた。
「確かに、そういう年齢通りにお見えになる。これは意外に大事なことです。人間はあまり老けて見えても若く見えてもいけないようです。嘘の外見では、内面の嘘を被い隠すことはできませんからね。それにしても、さっきあなたを見たときに、家内の父に結婚を許してもらうために初めてこの家を訪問したときの自分を思い出したのも、無理はありません。私がいまの家内と再婚したのは四十一になったばかりのときでしたから……あのときの私自身の姿を義父の眼を通して見ているような──回想錯誤というか、さかさまの既視感というか──不思議な錯覚に陥りましたよ。あれは、もう十五年も昔のことになりますが」
 更科修蔵が十五年前に当時十二才の娘をつれて再婚したのは、〈東神グループ〉の創立者・神谷惣之助の長女の頼子である。三年後、義父が癌で死亡したとき、東京芸術大学の助教授だった彼は、新会長となった妻の相談役に就任して実業界に関わることになる。それが故人の遺志でもあったらしい。東神の重役たちも世間も驚き危ぶんだが、十年間の彼の手腕と実績は義父の経営能力に優るとも劣らないと評価される。その間、本業の美術界における活動もさらに多岐にわたり、精力的になる。二足のわらじをはいて、それを見事にはきこなしたわけである。二年前、東神電鉄の社長であった義弟の惣一郎が三十才となって、東神グループの新会長に就任する。創立者の長男で、頼子とは異母姉弟である。それを機会に、更科氏は相談役の座を妻に譲って、自分は東神の経営から身を退く。そして、美術の分野に専念するにつれて、彼の声望と権威は日ごとに増大しつつある──昨日、図書館で仕入れたばかりの知識だった。
「嘘があってはいけませんか」と、私は訊いた。「人間も、美術品のように?」
 更科氏は食事を終えて、箸を置いた。一瞬、彼は私の質問がどこからつながっているのか分からない様子だった。
「いや……美術というのは、いわば虚構と想像力の世界ですから、むしろ嘘で成り立っています。だが、真正の芸術はみずからその嘘に耐える力があります。われわれ人間はそうはいきません。普通の人間は自分で自分の嘘に耐えられなくなるのです」
「普通の人間がですか。そんなことは信じられませんね。自分で自分につく嘘ほど見抜けないものはありませんよ」
 さっきの和服の女給仕が私のコーヒーと更科氏のお茶を運んで来たので、私たちの話は途切れた。私はコーヒーを一口すすった。コーヒーの味も白磁に蘭を描いたコーヒー・カップも極上だった。
「何だかむずかしい話題になってしまいました」と、更科氏は微笑しながら言った。「お呼びした用件を話さなければならないのですが、韮塚君たちが戻るまでもう少しお待ち下さい」
 彼は着心地のよさそうな紺系統のツィードの上衣のポケットから小ぶりなブライヤーのパイプを取り出してくわえ、黒い漆張りのダンヒルのライターで火をつけた。上衣の下はクリーム色のスポーツシャツに濃緑色のアスコット・タイという寛いだ服装だった。「沢崎さん、あなたは自分に嘘をつかなければ生きていられないような方には見えませんよ」
「そんなことはありません。すぐにばれるような嘘はつかないでしょうが、自分で見抜けないような嘘をどれだけついているか、こればかりは本人には判りませんからね」
「真実というのは、ばれない嘘のことだ──と言いますからね」更科氏はわざと俗っぽい口調で言った。
 フランス窓のガラス越しに、韮塚弁護士と明るい藤色の服を着た女性が芝生の庭をこちらへ歩いて来るのが見えた。
「この邸には、なぜ美術品が一点もないのですか」と、私は訊いた。「玄関からこの部屋までを見た限りでは、壁に一枚の絵もないし、棚に置物一つなかった」
 更科氏は苦笑した。「あなたにも自分にも嘘をつかないように注意しなければ……いや、特別な理由があるわけではないのです。見る価値のあるような作品は、すべて東神の美術館で一般の展覧に供すべきだと考えているだけです。それに、われながら情ない話ですが、美術は私にとってはまず仕事なのです。いわば、仕事を家庭に持ち込まないという心理が働いているのかも知れませんね。そうは言っても、客間に一点だけルオーの作品が掛けてあります。興味がおありでしたら、あとでごらんにいれますよ」
 韮塚たちがフランス窓から入って来ると、女給仕が韮塚の注文の昼食を運んで来た。藤色のニットのアンサンブルの女性が、ほっそりとした小柄な体格には意外な、低いアルトの声で言った。「わたしにも紅茶を下さいね。ミルク・ティーにしていただくわ」
 更科氏が私たちを紹介した。「沢崎さん、これは娘の名緒子です。こちらは渡辺探偵事務所の沢崎さんだ」
 彼女は美人というタイプではなかった。だが、端整でむだのない顔立ちには月並みな美人以上に人を惹きつけるものがあった。すでに二十七才のはずだが、きりっとした眉とその下の涼しい眼は少年のような魅力を持っていた。私は腰を浮かして彼女に挨拶した。
「佐伯名緒子です。どうぞよろしく──」
 彼女が〝佐伯〟という姓を名乗ったとき、その場の空気が急に重苦しくなったように感じられた。更科修蔵のブロンズの顔になぜか自信をなくしたような表情が漂った。韮塚弁護士の面長な顔を明らかに不愉快そうな表情がよぎった。私が佐伯直樹という男の存在を実感できたのは、それが最初だった。

次章へつづく

次回は2月6日(火)午前0時更新

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