原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第4章
ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を上梓いたします。
その刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。
本日は第4章を公開。
夫であるルポ・ライターの佐伯を捜す名緒子とその父、更科修蔵。彼らが佐伯を探すある事情が明かされる。
『そして夜は甦る』(原寮)
4
更科邸の食堂の時計が、すでに十二時三十分をさしていた。その重厚で壮麗な柱時計は私よりも背が高く、私が生まれる前から時を刻んでいるように見えた。佐伯名緒子が父の隣りに坐り、韮塚弁護士が私の隣りに坐って、やっと用談のできる態勢が整った。
「私から話をすすめますか」と、韮塚が更科氏に訊いた。
「いや、それには及ばないでしょう。あなたはどうぞ食事をすませて下さい。必要に応じて、あなたの意見をうかがうことにします」
更科氏は娘の名緒子に諒承をとるような仕種をして、私に向きなおった。「名緒子の夫の佐伯直樹はご存知ですね?」
「ええ」と、私は答えた。ことここに至っては、それ以外に答えようがなかった。
「私たちは至急彼と連絡を取りたいのですが、もし彼の居所をご存知であれば、それを教えていただきたいのです」
彼の口調はあくまでも平静だった。夫の行方を、妻とその父親がそろって見知らぬ他人に訊ねているのに、それを不自然だと思う必要はないという態度だった。これでは、昨日私の事務所に現われて海部と名乗った男と大して変わりがなかった。
「その前に、うかがっておきたいことがあります」と、私は言った。「皆さんは何故私が佐伯氏の所在を知っていると考えておられるのか。そもそも私のことをどうしてお知りになったのか。それをお訊きしたい」
父親と弁護士がすばやく顔を見合わせた。娘の名緒子は紅茶のカップを持ってうつむいていたので、表情が分からなかった。
「昨日の電話でも言ったように──」と、韮塚は食いかけのトーストを皿に戻しながら言った。「更科氏は貴重な時間をさいて、きみと話しておられる。きみの好奇心については、のちほど私のほうから差し支えのない範囲で話しても構わない。しかし、ここはすみやかに氏の質問に答えてもらいたい。そのほうがきみにとっても効率のいい仕事をすることになるはずだ。それは私が保証する」
私は更科氏に言った。「弁護士を雇えるような身分ではないので、彼のいまの忠告を正しく理解できたかどうか自信がないのですが──要するに彼は、ぐずぐず言わずに知ってることを喋ったほうがてっとり早く金になるぞ、と言ってくれているのですか」
韮塚は唖然とした顔で私を見つめていた。更科氏はちょっとたじろいだような表情を見せた。意外にも、佐伯名緒子はうつむいたままで懸命におかしさをこらえていた。
「名緒子、失礼だよ。そもそも、これはみんなおまえのために心配をしているのだから」父親は娘をたしなめた。それから私に言った。「韮塚君のことを悪く思わないで下さい。彼は自分の職務を果たすことに熱心になり過ぎているようです。なるほど、あなたの疑問はもっともだと思われる。順序立てて話さなければ解らないので、しばらく我慢して聞いていただきます」
彼は火の消えたパイプをテーブルの上に置いた。代わって、私がタバコに火をつけた。
「先週の木曜日の夜──」と、彼は話しはじめた。「私たちはこの家で佐伯君と会う予定になっていました。これは、彼のほうからの要請だったのです。私たちは夜中の十二時過ぎまで彼を待ちましたが、結局彼は現われませんでした。翌日の金曜日以来ずっと彼に連絡を取ろうとしていますが、うまくいきません。彼からも何の連絡もありません。たまりかねた娘が、きのう佐伯君のマンションに出かけたのですが、やはり彼には会えませんでした。名緒子の話では、玄関に新聞が木曜日の夕刊から溜まったままになっているらしいので、彼は自分のマンションにも帰っていないようです。娘は心配だと言っているが、彼のルポ・ライターという仕事や普段の生活ぶりから考えて、必ずしも異常なこととは言えないと思います」彼は同意を求めるように娘を見た。彼女はそれには応えず、私の顔を見つめた──そこに公平な答えがあるとでもいうように。
「それはともかく──」と、更科氏は話を続けた。「娘は佐伯君のマンションで、卓上カレンダーに書きこまれたスケジュールやメモを調べてみたのです。しかし、木曜日以降は空白になっていて、彼の不在の理由を明らかにするような手掛りは得られなかったそうです。ただ、木曜日のページの最後のメモがちょっと気になって、それを書き写して来たのです。それが、沢崎さん、あなたの事務所の名前と電話番号だったというわけなのです」彼は喉が渇いて、とうに冷たくなっているお茶を一口飲んだ。「お解りいただけたでしょうか。佐伯君と連絡を取りたい私たちとしては、彼についての最新の情報はあなたにお訊ねするのがいいのではないかと考えた次第です。しかも、あなたなら職業柄こういうことには慣れておられると思って、こちらへ出向いていただくことにしたのです」
「そういうことですか」私はクリスタルの灰皿を引き寄せて、タバコの灰を落とした。「しかし、残念ながら私は佐伯氏の所在については何も知らないのです。佐伯氏はその木曜日もそれ以降も、私の事務所へは来ていないし電話もかけてはいません。彼の卓上カレンダーに私の事務所の連絡先が記入されていたことは、いま初めて知りましたが、それがいかなる理由によるのか私には判りません。実際のところ、私は佐伯氏には一面識もないのです」
「では、さっき佐伯直樹のことをご存知だと言われたのは嘘だったのですか」更科氏の言葉は丁寧だったが、咎めるような口振りは隠せなかった。
「いや、そんなはずはありません」と、韮塚が横から口を出した。「佐伯君について何の情報も持っていないような人物をこの邸に入れるのは適当でないので、私は昨日この男に電話を入れたとき、あなたの指示からは少しそれますが、念のために「佐伯直樹という男を知っているか」と確認を取ったのです。そのとき、この男は「ルポ・ライターの佐伯か」と訊き返しています。一面識もない者が彼の職業を知っているはずがない。名緒子さんを前にして失礼ですが、佐伯君は物書きとして世間に知られているほどの男ではないですからね」
名緒子は父と同様に私の釈明を聞きたいという顔で、こちらを見つめていた。自分の夫に対する韮塚の評価は別に気にする様子もなかった。
「これは一体どういうことでしょうか」と、更科氏が訊いた。
「これには少し微妙な経緯がありましてね」と、私は答えた。
「要注意ですよ」と、韮塚がしたり顔で言った。「探偵などという人種は信用できません。この男はわれわれの足許を見ているだけです。こういう金銭ずくの交渉は私に任せていただいたほうがよろしい」彼は背筋を伸ばして、眼鏡のフレームの下から私を見た。「もし、本当に何か売りつける価値のある情報を持っているのなら、条件を言ってみたまえ。私にはきみがどういう人間か分かっている」
「そうだろうな」と、私は言った。「見上げなければならない人間か、見下していい人間か──あんたには二種類の人間しか存在しないからだ」私は吸いさしのタバコをクリスタルの灰皿でもみ消して、立ち上がった。「皆さんのお役に立てないことは、すでに申しあげた。これで失礼します」
私は遙か彼方に見える出口へ向かった。さて、この大邸宅から案内なしで脱出できるかどうか、少々心もとなかった。
「沢崎さん、お待ちになって下さい」と、名緒子が背後から声をかけた。私は立ち止まり、振り返った。彼女も立ち上がっていた。彼女が私に口をきいたのは、挨拶以来それが初めてだった。「微妙な経緯があったとおっしゃいましたけど、一体どういうことなのでしょうか」
私は椅子のところまで引き返した。「あなたのご主人を捜しているのは、ここにいる皆さんだけではないようです。昨日、韮塚弁護士から電話がある少し前に、ある人物が私の事務所を訪ねて来て、やはり佐伯氏のことを質問した。佐伯氏がルポ・ライターであることは、その人物の口から聞いて知っていたのです。佐伯直樹を知っていると答えるのはいささか抵抗があったが、知らないと答えるのも似たようなものでした」
三人の顔に同じ疑問が浮かんだ。それを口にしたのは名緒子だった。「佐伯を捜している人物とおっしゃるのはどなたですか」
「それはお答えできない……その人物は、私の依頼人なのです」確かに、私のデスクの引き出しには、あの男から預かった二十万円が入っている。それにしても、最近どうも嘘すれすれの発言が多くなった。注意しないと癖になりそうだ。
「守秘義務ってわけか」と、韮塚は言って冷笑した。「法律的には、探偵にそんなものはないんだ」
「法律の世界だけがこの世界ではない」
「では、道義上の問題かね。守らなければならない秘密は守る──大いに結構。この狂ったご時世だ、探偵に道義があっても少しもおかしくないさ」
「守りたい秘密は守る──それだけのことだ」
「韮塚君、もうそれくらいにして下さい」と、更科氏が釘をさした。相変わらず言葉は丁寧だが、効果は訓練の行き届いた犬に命令するのと同じだった。
「これは相談ですが──」と、更科氏は立ち上がって言った。「いろいろ考え合わせてみると、やはり私たちよりもあなたのほうが佐伯君の所在を知る機会が多いと思います。その場合に、こちらへもその情報を教えていただければ、十分な謝礼を差し上げられると思うのです……どうかこの申し出を受け入れてもらえないでしょうか」
「私は仕事の報酬で身を立てているのです。そういう謝礼を受け取るつもりはありません」
「しかし──」
「待って下さい。私にできることは二つだけです。一つは、もし私が今後佐伯氏に連絡が取れるようなことがあれば、皆さんが連絡を取りたがっていることを彼に伝えること──これは無料です。もう一つは、佐伯氏の行方を捜す仕事を私に依頼なさること──こちらは規定の料金を頂きます。しかし、私が皆さんにおすすめしたいのは、もっと別のことです。佐伯氏の不在に多少とも不安があるのなら、直ちに警察に届け出るべきです。彼が自分のマンションに戻らなくなってすでに五日目だというのに、誰もそれを考えないのは不思議だ」
名緒子の顔色がさっと蒼ざめた。彼女は力が抜けたように元の椅子に腰をおろした。父親が心配そうに娘のほうにかがみ込んだ。
韮塚が唐突に立ち上がり、長い指を私につきつけた。「きみは佐伯と名緒子さん夫婦の現状を何も知らないからそんな勝手なことが言えるんだ!」彼は喋りながら、いっそう感情をたかぶらせた。「木曜日の夜、彼が一体ここへ何をしに来る予定だったのか教えてやろう。あの男は名緒子さんとの離婚届に印鑑を押し、それと引き換えに五千万円の慰謝料を受け取りに来るはずだったんだ! そんな男が数日行方不明だからと言って、更科家の人たちが一体何をする義務があると言うんだ」
「韮塚君、やめたまえ!」と、更科氏が声を上げた。「そんな話は沢崎さんには迷惑なだけです。それに、名緒子の身にもなってもらいたい」
彼女は身体を硬くしてあらぬ方角を見つめていたが、取り乱しているようには見えなかった。彼女よりもむしろ父親の動揺が大きかった。美術界と実業界に君臨した更科修蔵も、連れ子である一人娘の結婚生活に対してはほとんど無力なように見えた。
私は彼らに背を向けて、食堂の出口へ向かった。両開きのドアの把手に手を掛けて、彼らを振り返った。あまりにも部屋が広すぎるので、私は彼らに聞こえるように大きな声を出さねばならなかった。
「五千万円もの大金を受け取りに来ない人間に一体何が起こっているのか。常識ある人間なら、まず警察に届けるべきですね。それから、私を雇うべきだ」
返事を期待できるような状態ではなかったので、私は部屋を出た。
次回は2月7日(水)午前0時更新
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