原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第2章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作それまでの明日を上梓します。

その刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作そして夜は甦るを平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第2章を公開。

佐伯というルポ・ライターの行方を尋ねる男、海部の訪問をうけた沢崎。男を見送ったあと、沢崎はさらに奇妙な電話をうける。

第1章はこちら→

そして夜は甦る

2

 私は預かった封筒をこの事務所で鍵のかかる唯一の場所であるデスクの一番下の引き出しにしまった。〈電話応答サービス〉に電話をしてみたが、留意すべき連絡は何も入っていなかった。昼飯にはまだ早いので、郵便受けから取ってきたものを片づけることにした。
 私はまず新聞に眼を通した。一面には、エジプト航空機が乗っ取られマルタ島に着陸、機内で銃撃戦があって乗客と犯人に死者が出たと報じている。スポーツ欄によれば、千代の富士が九州場所でV5を達成し、ジャイアンツ入りを決めた〈PL学園〉の桑田投手が学校側ともめているという。名人戦の棋譜は贔屓の大竹英雄九段の出番ではないので斜めに読みとばす。東京版では、新知事が来年度の予算案に関して与党である自民党議員と対立の構え、と書いている。政治、犯罪、スポーツ、文化と紙面を占める場所は異なっても、どの記事も人間の闘争本能に由来するものばかりだった。人間ほど闘争を好む生き物は少ない。他人の闘争を見物したがる生き物は人間の他にはない。
 三通の郵便は、それぞれ女子大生と女権主義者と女装趣味の男にでも送付すべきダイレクト・メイルで、いつものようにクズかごへ直行させた。そのとき、あいだに挟まって平たくなった紙ヒコーキに気づいて拾いあげた。ハネの折り方に特徴のある紙ヒコーキだった。ひろげてみると、北方領土返還要求のチラシの余白の部分に見憶えのあるボールペン書きの字が並んでいた。

 懐かしい窓に明かり、窓ガラスの渡辺探偵事務所のペンキの文字もそのまま、そしてブラインドの向こうに映る人影がひとつ。影というものがこんなにその人間の特徴や癖を表わすとは知らなかったよ。
 どうやら、まだくたばってはいないようだな。こっちは首までアルコール漬けだが、いたって元気なり。しかし、今夜あたりは冷たい秋風が身にしみる。今年の冬は暖かい南のほうへ行くつもりだが、途中ちょっと寄ってしまった。では、また。W  

 私はこういう手紙をこの五年間に二、三通受け取っていた。紙マッチでタバコに火をつけ、その火をチラシにも移して灰皿の中で燃やした。デスクを離れて窓のところへ行き、下の通りと駐車場を見おろした。おそらく一昨日の土曜日の夜、私の元パートナーは向かいのビルの角あたりに身をひそめて、この窓を見上げていたに違いない──ウィスキーの壜をポケットに忍ばせて。首までアルコール漬けだと? 頭のてっぺんまでアル中のくせに。
 似たような手紙を最後に受け取ってから、もう二年近くの歳月が流れていた。伸ばせば手の届くようなところに来ていながら、決して会おうとはしない。会うつもりはないが、もはや無縁な者としてケリをつける勇気もない。私はこの身寄りもなく、まもなく六十才になるはずの、アルコール中毒の男に同情するつもりはなかった。五年前に二億円近い不労所得をせしめて、死ぬまで酒を飲みつづけられる金と放浪者同然の生活を手に入れた男は、誰の同情も必要としていないはずだった。
 私は十一年前に初めてこの探偵事務所を訪れた日のことを思い浮かべた。私が入口のドアを開けたとき、このデスクに坐っていた渡辺賢吾は作ったばかりの紙ヒコーキを飛ばしたところだった。手近かにある紙は何でもヒコーキにしてしまう癖のことはあとで知った。紙ヒコーキは二人のあいだの空間をゆっくりと二度旋回して、私の足許に着陸した。
 五年前、私が最後に会った日の渡辺も同じデスクに坐っていて、ちょうどウィスキーのボトルを引き出しにしまったところだった。彼は濡れた口許を手の甲でぬぐうと、いたずらを見つけられた子供のような顔をした。すでにそのときは、その夜決行しようとしていた一攫千金の企みが成功すれば、彼は二度とこの事務所へ戻って来ないつもりでいたのだろう。何もかも過ぎ去ったことだった。
 デスクの上の電話が鳴った。私は受話器を取って、自分でもびっくりするような声で「誰だ?」と怒鳴った。
「えっ? 恐れ入った挨拶だな。そちらは渡辺探偵事務所じゃないのか」
 私は思いのほか、元パートナーの手紙に腹を立てていたらしい。その手紙は灰皿の中ですでに灰になっていた。
「失礼……別の人物からの電話と勘違いしたようだ。こちらは渡辺探偵事務所です。間違いありません」
「結構。早速だが、私は弁護士の韮塚という者だ。初めに訊ねるが、お宅の事務所はきみの他にも探偵がいるのかね」
「いや、私ひとりだが」
「それなら結構。こちらとしてはお宅の責任者を相手にしたかったので、念のためにうかがった。私は更科修蔵氏の代理として電話をしている。更科氏はご存知か」
 どこかで聞いたような名前ではあった。「いや、残念ながら知らないようだ。それとも、知っておくべき人物ですか」
「きみが美術に関心があるならね」
「ポール・セザンヌなら知っている」
「あいにくだが、更科氏は絵描きではない。彼はおそらく現在日本で最も権威のある美術評論家の一人だ」
 それで、かすかに思い出した。更科修蔵が褒めると絵の値段は二桁も跳ね上がり、彼が駄目だと言えばその絵描きは転職を考えたほうがいい──そんな話を聞いたことがあった。
「その更科氏が私にどういうご用件です?」
「明日正午、田園調布のお邸まで出向いていただきたいということだ。詳細はそこでということになる」
「仕事の依頼ですか」
「もちろん、そう考えてもらって構わない」
「どういう内容の依頼か聞かせてくれませんか。ものによっては引き受けかねる仕事もあります。その場合はお互いにむだをしなくてすむ」
「いや、そこまで話す権限は与えられていない」
「弁護士ともあろう、あなたが?」
「私の専門は財産管理でね。その意味では、お互いにむだをしないようにというお宅の意見には大いに賛成だ。更科氏に余計な出費をさせないことは私の職務の一つだから……これはあくまで私の口からは出なかったものとして聞いてもらいたいのだが──お宅は、佐伯直樹という男を知っているだろうね」
「ルポ・ライターの?」と、私は訊き返した。
「大いに結構」と、彼は満足そうに言った。「彼を知っているとすれば、きみはすでに更科氏から仕事の依頼を受けたと考えても差し支えないと思う。それも相当にわりのいい仕事をね」
 私はルポ・ライターの佐伯という男を知っているとは言えなかった。だが、全然知らないとも言えまい。一日のうちに佐伯なる人物に関する問い合せが二件──こういう偶然はいささか気に入らなかった。
「明日おうかがいすると、更科氏にお伝え願います」と、私は言った。
 韮塚弁護士は田園調布の更科邸の住所と電話、それに〈韮塚法律事務所〉の電話番号も控えさせた。
「更科氏は非常に多忙な身なので、きみにさける時間は正午から一時までのあいだなのだ。時間厳守で頼む」彼は念を押して、電話を切った。
 その日の午後は、まず前の週に片づけたいくつかの仕事の請求書を作った。そのうち、東京出張中の商社マンの素行調査をした料金と経費は、関西のある興信所宛てに郵送した。北新宿にあるお寺の依頼で、頻発している香奠泥棒の警備を兼ねて葬式の受付係に二日間狩り出されたのだが、こっちは事務所から近いので直接請求に出かけることにした。まるまると肥った住職が、合掌して支払いは月末だと言った。
 その帰り道、私は区立図書館に寄って三十分ほど時間をつぶした。もし図書館にある資料が探偵の知りたいことを教えてくれるなら、閲覧室は恐喝屋で貸切りになってしまう。だが、仕事のタネになりそうな人物に関しては、せめて世間の常識ぐらいのことは知っておくべきである。
 眼鏡美人の司書に手伝ってもらって、ルポ・ライターの佐伯直樹を調べようとしたが、著者別索引カードに彼の名前は見当たらなかった。掃いて捨てるほどある物書きの連盟や協会が発行した紳士録にも眼を通してみたが、彼の名前は記載されていなかった。結局、佐伯直樹の著書も雑誌記事も──そういうものがあるとしてだが──探し出せず、彼の経歴は調べがつかなかった。
 一方、更科修蔵に関しては書架の一つを占領するほどの著書や資料がそろっていた。彼には美術評論家、〈東京芸術大学〉講師、〈東神美術館〉館長などの肩書の他に、もう一つまったく別の顔があった。二年前に身を退くまでの約十年間は、東京の西南部一帯から神奈川県にかけて電鉄会社とデパート形式の消費網を所有する〈東神グループ〉の実質上の経営者でもあったのだ。それほどの人物が、無名のルポ・ライターや私立探偵に一体何の用があるのだろうか。どんな人間にも悩みのタネはあるものらしい。探偵事務所への薄汚れた階段を自分の足で上がって来ようと、顧問弁護士を使って自分の邸へ探偵を呼びつけようと。

次回は2月5日(月)午前0時更新

第3章へつづく→

※以下の書影は2月下旬から展開予定の、新装版文庫の装幀。書影はアマゾンにリンクしています。

新作『それまでの明日』は2018年3月1日発売!


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