小川楽喜『標本作家』第二章⑧ クレアラ・エミリー・ウッズ 世紀不明、人類最後の文学者
(第14節はこちらの記事に掲載しています。)
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クレアラ・エミリー・ウッズ。世紀不明。どこにも属さない作家。
おそらくは人類最後の文学者です。そして、人類初の、標本化された作家でもあります。
彼女を既存のジャンルのいずれかに当てはめるのは不可能、いえ、無意味といっていいのではないでしょうか。あまりにも逸脱しているのです。彼女の書いたものの一側面に目をむければ、そこには狂想的な思索の断片があります。昏く、はかなく、どこまでも人の心の内奥に迫っていくような重みが感じられ、読者はその深部へと、自然、沈みこんでしまいます。しかし別の面に目をむければ、そこには無慈悲な不条理があふれていました。なぜそうなのか、どうしてそうなっているのか、語られることもないままに、登場人物も、世界も、物語の構成も、何もかもが翻弄され、いじりまわされ、道理にそぐわぬ話の流れのなかで、極彩色のかがやきを放つようになるのです。
狂想と不条理。──そのふたつの言葉で彼女の作品を云いあらわせられるかというと、やはりそれだけでは足りないような気がします。私などの筆舌ではとうてい伝えきれぬ、彼女固有の、鬼気迫る何かが宿っているような気がして、けれどもそれを形にする言葉が見つからなくて、もどかしく、表現を尽くせば尽くすほどその本質から遠ざかっていくように思えてならないのです。似た者がいないという点では独創的ともいえるでしょうし、それまでの文学の──人間という生き物が、文字を発明してからずっとつづけてきた精神活動の──、その系譜の末端に位置するという意味では、すべての作品の影響下にあったともいえるでしょう。全世界、全人類の文芸の幕切れを飾るにふさわしい才能の持ち主であったのは間違いありませんが、その一方で、これほどの才能が社会で正しく評価されるためには、生まれてくるのが遅すぎた、というのも、また事実であったように思えます。そして、文化的にも生物的にも衰退した人類にかわって、ついに歴史にその名を刻みはじめた玲伎種にひろわれることになったのです。
彼女が誕生したのは、きっと三十一世紀以降のことなのでしょう。なぜ断定できないのかというと、玲伎種がそこから先の詳細な歴史データの閲覧を許してはいないからです。彼らが歴史に登場するようになった三十一世紀──まだ生存していたはずの人類とのあいだに何があったのか、どのような交流がなされたのか、私たちは、その全容をうかがい知ることはできません。聞いた話によれば、玲伎種と人類が共存するようになって、さらに長い年月がすぎたころ、いよいよ滅亡の間際に立たされた晩年の人類は、ふたつに引き裂かれていたのだそうです。ひとつは、不老化手術を受けた特権階級のなれの果て。もうひとつは、不老化手術を受けられなかった、一般市民のなれの果て。両者は互いにまじわることなく、それぞれ、まったく別の生き物へと進化しました。元・特権階級は、文明の崩壊した地上で、その遺産を食いつぶすだけの日々を送るようになりました。元・一般市民は、地下へともぐり、夜には地上へと這い出てきて、特権階級のなれの果てを捕食するように──比喩ではなく、肉食獣が草食獣をその餌食とするように──なりました。双方ともに知能は低下し、自分たちがもともと「人間」であったことさえ忘れて、ケダモノのように暮らしていたのだそうです。その果てに、人間という種は絶滅しました。玲伎種はその一部始終を見届けたといわれています。より高次の知的生命体として勃興した彼らは、滅びゆく人類に対して、なんら救いの手を差し伸べることはありませんでした。ただ、人類の遺した貴重と思える文化財や技術、芸術、そういったものや、失くすには惜しい過去の偉大な人間たちを再生し、サンプルとして保存していったといいます。あくまでも学術的な動機からであり、それ以上の意味はないのでしょう。彼らのそうした活動の成果が〈終古の人籃〉であり、そこに住む私たちの存在ということになります。そして、その初期段階にて標本にされたのが、他ならぬクレアラ・エミリー・ウッズなのでした。
彼女が作品を発表していたころ、人類全体の心身がどこまで変容していたのかはわかりません。最終的にはケダモノ同然の生き物になり果てるものの、まだそこまでには至っておらず、存外、私たちとそう変わらぬ状態だったのではないか、とは考えられています。なぜなら、クレアラ本人がそうだからです。人間的な容姿と知性を保ち、三十世紀までの作家たちと違和感なく交流できています。彼女と同じ時代に生きた人類も、彼女と同じようなものだったと考えるのは妥当でしょう。
しかしながら、はっきりとは認識できないまでも、ゆるやかに、そして個人差をともなって、人間的な機能が衰えていったのだとしたら──、彼女の作品の、狂想と不条理、その機微を味わえるほどの感受性や情緒は、もはや、多くの人々の内面から失われつつあったのかもしれません。そのせいで、彼女は、おのれの著した小説の内容にふさわしい賞賛を浴びぬまま、その生涯の幕を下ろすことになったのかもしれません。
死後、彼女のことを再評価したのは玲伎種のほうでした。よみがえった彼女は、玲伎種に保護されながら創作活動をつづけることになりました。不死固定化処置を受け、完全なる不老不死となって、自分以外の人々の滅びゆくさまを見送ったとされています。先述の、ふたつに引き裂かれた人類のなれの果てというのも、彼女から伝え聞いた話です。ただし、くわしいところまでは聞けませんでしたし、語ろうともしてくれません。彼女にとって人類の晩年はあまり思い出したくはない過去のようで、裏腹に、その著作には終末をテーマにしたものが多いのでした。意図して歴史上のそれから逸脱した、仮想の終末を語ることで、現実に起こった人類の衰亡を忘れたがっているようにも感じられます。
「──こうして、各時代の小説家が集まることになるだなんて、思ってはいなかったの」
巡稿の折、彼女がそう語ったことがあります。窓の外の雪景色を見つめながら、なんでもないことのように。「……ようやく眠りについた子供を揺り起こそうとしている、馬鹿な親にしか思えない。私たちがこうしていることに、どれだけの意味があるというのでしょうね。どれもこれも、すでに終わった命だというのに」
そこで途切れた述懐の、私たちがこうしている意味への問いかけは、おそらく、その場にいた私に発されたものではなかったのでしょう。事実、彼女の視線は窓の外に向けられたままでした。けれども私は、私自身の関心と、その述懐へのいいようもない共感から、その答えをみつけたくなりました。彼女のいう「馬鹿な親」とは、玲伎種のことなのでしょう。が、その口ぶりには本気で玲伎種のことなど責めるつもりはなく、生死すら彼らに握られている自分たちへの諦観と皮肉のほうに重きがおかれているように聞こえました。
「生きているうちに書けなかった作品の執筆に挑めるのではありませんか」
私の口から出たのは、心にもない、自分でも驚くほど白々しい回答でした。
「もし、そんなことのために不死性を与えたのなら──」
クレアラは私のほうへと顔をむけて、「まるで作家のことをわかっていなかった、ということになるわね。機械と同じだと考えてる。心と体と、それから魂と、あとは設備。それだけ与えておけば、いつまでも書けるものだと思ってる。そんなわけがないというのに」
窓のほうからこちらへとふりむいた彼女の貌は、とても翳りのあるものでした。その翳りは、とうに彼女とは不可分のもので、どちらがどうともいえぬほど混濁し、汚しあい、溶けあわなければ、クレアラという小説家は生まれてこなかったのだと思わせるほどの深い憂愁をにじませ、その眉目にも彩りをそえていました。
三十歳前後の、優艶なる婦人。それが〈終古の人籃〉における彼女の姿です。全盛期、その年齢に達するまでに、二度の離婚と、精神病院での二年、ペンネームの変更、そして、十一度におよぶ自殺未遂を経験していました。
私は、そんな彼女のいわんとするところが呑み込めず、あらためて訊ねるしかありませんでした。
「心や魂があるのなら、機械とは異なるのではないですか」
「機械にも心や魂はあるわ」
彼女は当然のことのように答えました。「そして故障しないかぎり、機械は安定供給してくれる。私たちはそうじゃない」
「…………」
「どうしてかしらね」
彼女は窓際から去って、私のほうへと近づいてきました。正面に立ち、私の頬に手をかざすと、触れるか触れないかの距離でその輪郭をなぞっていきます。すでに枯れてしまった花を慰撫するような、そんな手つきでした。
「どうして普通の人ぶろうとするの。ここではそうする必要もないでしょう。あなたと同等以上に心を傷めて消えていった命もたくさんある。さらけ出すことはできない? さっきの的外れな答えだって、あなたの本心から出たものではないでしょうに。何があなたをそうさせているのかしら」
間近に迫ったクレアラの瞳は、私の表層ではなく、その内側に根ざしているものを見すえようとしていました。私はそれを知られることを極度に畏れ、彼女の眼差しから逃れようとあらがいましたが、結局、何をしたところで逃れきれないのだと悟りました。
「たとえば私は……」クレアラは私から離れつつ、言葉をつづけました。「生まれたときから、この世にあるすべての物事がとても複雑で、煩わしくて、ひとつひとつを解するのにひどく時間がかかるものだと感じてきた。誰かとの会話。恋。思想。家庭生活。孤独。感情。他者との触れ合い。化粧。時計の仕組み。小説の読み方、それに書き方。不眠。どうすれば暴力をふるわれなくてすむか。陰鬱な理知。お金。敗北。祈り。音楽と雑音。痛覚。私にとってはどれも重すぎる問題だったし、否応なく感じてしまうこと、考えなければいけないことが多すぎた。皆、私と同じ世界で生きているはずなのに、どうしてこうも他の人たちは、それらに押し潰されずに生きていけるのか、不思議でならなかった。私の脳では処理しきれない。私の心じゃ受けとめきれない。有形・無形を問わず、いろいろなものがありすぎて、もう、溺れてしまいそうだった」
私から遠のいた彼女は、古びた書架の前で立ち止まると、そこの一角に指をかけました。
「本は、気に入ったものが手元に三冊あればいい。自分とかかわってくれる人間は、五人もいれば、それでいい。だというのに、生きていくにはそれ以上の書物や人間とまじわらなければいけなくて──。それがどれだけの苦役だったか、たぶん、多くの人には理解してもらえないでしょう。他人がなにかひとこと云っただけで、それについて何時間も、何日も、延々と考えこんでしまう。あのときのあの言葉は、こういう意味ではないのか、ああいう意味ではないのか、と考えをめぐらせ、それを相手にたしかめることもできず、悪いほうに思考をすすめれば、私にむけて発された言葉のすべてが私を責め苛む絶対者からの判決のように聞こえ、自己否定、もしくは、その絶対者に抵抗するための手立てをみいだそうとして、神経をすり減らしていく。そんな人間よ。普通の人は、私より多くの本を読み、私より多くの人とかかわって、雑多な出来事にも動じることなく生きているというのに、私は、ろくにそれができなかった。人としての出来損ない。だから私は──」
書架には、まばらに並んだ書籍のほか、意匠を凝らした箱がおいてありました。彼女はそれを手にとり、開いて、中から何かをとりだしました。
紫色の液体で満たされた、ガラスの容器。
「──こういうものに頼らざるをえなかった。これが無かったら、とっくに私は、自分を保ててはいなかった。これと溶けあうことで、私は私でいることができた」
それはドラッグでした。人類は完全に滅び去るまで、ついに、アルコールや薬物といったものと縁を切ることはできなかったようです。彼女の手にしたガラスの容器は、彼女に仮初の安らぎを与えるアンプルでした。〈愉悦の質量〉──かつてセルモスが著した小説、〈痛苦の質量〉のタイトルを元に名づけられたそのドラッグは、紫色のアンプルと注射器をもちいることで、崩壊する間際にあった彼女の自我を、ぎりぎりのところで維持させているのでした。いうまでもなく、言語を絶するおそろしい禁断症状があります。しかし、それを受け入れてでも彼女は〈愉悦の質量〉が与えてくれる悪夢のような安逸を選び、それに耽るようになりました。薬物による、不可逆で、段階的な、自己の破壊。それ以外には、自殺か、発狂かしか、残されていなかったのですから。
人類最後の文学者は、生きるということに甚だ不都合な感性を宿していました。素面のままで生き抜くよりは、ドラッグに侵されつつ徐々に自分を壊していったほうが、まだしも延命できるという皮肉な人生を送ったらしく、彼女にとって、小説を書くことと、薬物をもちいることは、おのれの精神の荒廃をわずかながらにも遅らせる、たったふたつの手段だったのです。彼女は、自分のことを「人としての出来損ない」と評しましたが、私の目には、そのようには映っていませんでした。彼女は決して、他の人より劣っているわけではありません。感受性が強すぎるのです。他の人が一としてしか受けとらない情報を、彼女は百にも千にも感じとって、その情報量の多さに打ちのめされるのです。他者からのひとこと。小説の一節。ほんのささいな日常での出来事。大多数の人間は素通りしてしまう事柄でも、死ぬるほどの深刻な痛みとなって突き刺さり、その意識をかき乱されていったのでしょう。クレアラがみた人間の社会とは、どんなに読み解いても読み解いても解読不能な、苦悩の種の坩堝だったに違いありません。幸か不幸か、彼女には文才があったから、そうした窮状を文芸として表現することができました。そしてそれは、文学史に刻まれるべき、すばらしい内容のものでした。
〈終古の人籃〉で、はじめて彼女の存在を知るにいたって、人類の終末にかくも美しい作品が生まれたことを知って、私はようやく、苦しみを分かちあえる仲間と出逢えたような気さえしたのです。
「〈愉悦の質量〉は、私に無上の陶酔と、限りない激痛をもたらした。そのどちらもが、私が私であるために必要なものだった。陶酔と激痛のなかに身をおくことで、やっと、世界にあふれる情報の渦に呑み込まれなくなった。それでも〈愉悦の質量〉が危険な異物であるのに変わりはなかったから、ほんとうの意味で溶けあうことは叶わなかった。私は壊れていった。生前は、担当の医師から使用量の制限を受けて、それにしたがって、予想以上に生き延びることができた。玲伎種に復元されてからは、不死固定化処置と、さらに精密な使用量のコントロールで、〈愉悦の質量〉と共存できるようになった。あなたは、どう? あなたにとっての、救いとなるようなものはあるの。何を寄る辺にしているの。この閉塞された施設のなかで、何を求め、何を感じているのか、それを知りたい。さっきみたいな、当たり障りのない言葉なんて聞きたくないわ」
「私は……──」
目の前にいる、この人は、私よりも苦しい生をくぐりぬけ、〈終古の人籃〉へとやってきているのでした。取りつくろうのは申し訳ないと思いました。何より、以前から彼女の作品に感銘を受け、より深いところまで理解したいという想いを寄せていたため、それが反転し、私のことを理解してもらいたいという願望も、にわかに芽生えて、たったひとりの例外をのぞいては語ったことのない──語ってしまえば、もうそれだけで他の人々から疎外されかねないと思っていた──私自身の悩みを、打ち明けることができました。彼女はそれを受け入れてくれました。私という人間がもうひとりいるような錯覚にさえ陥り、私は彼女と、互いの苦しみを共有するようになりました。
以降、作家と巡稿者という垣根を越えて、私たちは交流しました。
この館で、私がもっとも打ち解けることのできた相手が、クレアラだったといえるでしょう。親愛なる者。心のありようが近い者。一時期はよく彼女の部屋に逗留し、寝食をともにすることで、彼女の一部になっていくような心地にひたっていました。彼女のなかに私が溶けこむのを期待して、その心象風景に、作品に、なんらかの変化が生じることを望みましたし、私の内面にもクレアラというパーソナリティーが浸透していくのを願いました。彼女の部屋は暗く、そこで書かれる小説の世界観をそっくり投影しているかに思え、夜もなく、昼もなく、私たちはそのなかで語らい、抱きあい、ときには諍いをおこし、そのたびに和解をくりかえして、密接な友誼を結んできたのです。〈愉悦の質量〉は、常に私たちのそばにありました。禁断症状に苦しむクレアラの姿もみてきましたし、床に寝転がって阿呆のようにドラッグの陶酔感に溺れる彼女の肢体も眺めてきました。私自身は〈愉悦の質量〉に手を出すことはありませんでしたが(私がそうしようとするたび、クレアラが全力で阻止しました)、それゆえに傍観者の立場であらねばならず、いくら壊れようとも完全には自滅できない、標本としての身の上にあるクレアラの狂態を見守ることしかできませんでした。この人は、別の時代を生きた、もうひとりの自分なのだと。生まれてくる時代と場所が違っていれば、私もこうなっていたのではないかと、そんな錯覚に囚われながら、私は、彼女に寄りそっていたのです。
つまるところ、私たちはやはり異なる人間なのでした。錯覚は錯覚にすぎず、その事実から目をそむけたところで、得られるものは何もありませんでした。私には彼女のような文才はありません。翳りや美しさもありません。精神的にも肉体的にも、これ以上はないほどの交わり方をしましたが、だからこそ、互いの相違点を意識せざるをえなくなって、同一化からは遠ざかっていきました。どんなに語りあっても救われはしないのです。苦悩を言語化した時点で、それは言葉の羅列でしかなく、ただそれをなぞるだけでは、互いの本質にはたどり着けませんでした。また、どんなに相手の苦しむさまを目の当たりにしても、それすら表層的なもので、抱きしめようが、愛撫しようが、とどめを刺そうと満身の力で首を絞めようが、やはり、相手の苦しみの核心にまでは届かないのでした。ですから、自分たちのしていることの無益さを実感するのに、さほどの時間はかかりませんでした。私とクレアラは、すでにそのことを知っていながら、両者、それを口に出さず、空になったはずの瓶にまだお酒が残っていると、そう信じているふりをして、ふたりでその中身を分けあう、……存在せぬものを分けあって満たされようとする日々を送っていたのでした。
そんな折に〈異才混淆〉の実施が決定したのです。〈終古の人籃〉にいる作家たちは、それに協力する見返りとして、さまざまなものを求め、与えられましたが、クレアラだけは何も求めず、それどころか〈愉悦の質量〉の使用量を減らし、なるべく正気を保ったままでセルモスにおのれの才知と感性をささげるという、一見、奉仕的とも思える生き方を選びました。
「一時的な処置よ」
クレアラはそういいました。「〈異才混淆〉に協力する見返りの件も、求めなかったわけじゃない。保留にしてもらっているだけ。コンスタンスにはそう伝えているわ。いつの日か、〈愉悦の質量〉の使用量を増やす日も来るでしょうね。そのとき、〈異才混淆〉にどんな影響が出るのか、ちょっと愉しみではあるわ。私の変性意識は、他の人に、どう映るのかしら──」
「何を求めるのか、まだ決まっていないの?」
私は問いかけました。そのころには、もう彼女に対しては敬語をもちいていませんでした。
「そうね」
「あなた自身の問題が、少しでも改善できるよう、願いを叶えてもいいと思う。もし、あなたがそれ以外のことを求めて、他の願いを考えているなら、私には知るよしもないけれど……」
「難しいことじゃないわ」私のとなりで横たわっていた彼女の上半身が、気だるげに、起き上がりました。私は寝そべったまま、彼女を見上げる格好になりました。
「あなたが何を欲しているのか、まだわかっていないだけですもの」
その返事を聞いて、私は息を呑みました。言葉を失い、目だけで、彼女に真意を問おうとしました。彼女は微苦笑しました。
「私のぶんは、あなたに使ってほしいの。それくらいしか、実のあるものは作れそうにないしね」
植物に喩えると、まるで立ち枯れているような、そんな生気のない笑みでした。
これまでの私たちの日々がいかに空虚だったか、それを痛感するのに充分なもので、彼女同様、そのことを認めてしまっている私は、ただその笑みを眺めているしかありませんでした。立ち枯れた草木のように私のそばで裸身をさらし、いま、微苦笑を浮かべている彼女。ともに眠り、起き、ベッドから身を起こして、願いを私のために使うと打ち明けた彼女は、室内によどんだ陰翳と混ざって、ますます枯れていっているように見えました。私は、相手から一方的に与えられることへの負い目と不安で混乱し、どうにかして拒否はできないかと逡巡する反面、いかな言葉であろうと、行為であろうと、赤裸々に願いを告げること以上にクレアラをよろこばせる手段はないのだとも悟り、その意を汲むため、私自身の願いとは何なのかを考えていかねばならない、と心のどこかで感受していました。
「玲伎種から永遠にこの世にとどまるようにいわれて、私は消沈したわ。どうして眠ることを許されないのか。どうして創りつづけることを強いられるのか。終わりのみえない創作活動なんて、自己の破壊と再生をいつまでもくりかえせといわれているようなもの。次もまた同じように壊れることができるとは限らない。次もまた同じ自分でいられるとは限らない。何かを作りだすごとに私たちは変わっていく。かつての何かを作ったときの、そのときにあったはずの脳と、心と、体を寄りあわせただけじゃ足りないのよ。不死性は、創造性とは相容れない、真逆に位置する属性なのだから」
私は〈終古の人籃〉に収容された作家たちのことを思い返していました。彼らが皆、生前のころと比べて精彩を欠き、筆の運びも遅くなっているのは、クレアラのいうようなことが影響しているからでしょうか。作家ではない私には判断のつかぬことでした。
「ここでの暮らしは私たちにとって、かつての自分を愛おしむための、追憶の場にすぎない。だけどね、あなたとは逢えてよかったと思っている。今後は〈異才混淆〉によって、きっとあなた以外の人間と精神的なものを共有し、通じあっていくことになるのでしょうけど、一番そうしたいと思っていた相手は、メアリ、あなたよ。だから、あなたにも〈異才混淆〉に加わってもらいたかったけど、他の連中もそこにいるんじゃ、無粋がすぎるわね。任せるわ。あなたが望むこと、それを私の望みとして叶えましょう。これは私からの返礼だから、あなたはそれを受けとるだけでいい。私は創作にも、玲伎種にも、ここでの暮らしにも執着していないから、──どうなってもかまわないと思っているから、遠慮することはないのよ」
そう話しながら、私の肩を抱き、互いの呼吸音が聞こえる距離で、ふたり、まどろみに沈んでいきました。ある程度は私が望むであろうことを予測していないと口にできない言葉まで用意し、私が気兼ねすることのないよう、配慮してくれました。私はそれに寄りかかりました。クレアラにとっての私とは、どのような存在だったのでしょう。こうまでしてもらえるほどの価値のある人間だったのでしょうか。この部屋で、それぞれの苦しみを持ちより、見せあい、ひとつになるという幻想もひとときは芽吹いたけれど、それは立ち枯れ、枯れたあとにも、自分に近しい痛みを感じる人間がいるということ、その事実だけで、いくらかでも彼女の救いになりえたというなら、それはあまりにささやかな慰めにすぎなかったのに、彼女はそれに対する返礼をするというのでした。泣きました。彼女の前でも、彼女のいないところでも、心の裡でそのことを回想しては、知らず、私の全身はくずおれて、哀哭の衝動に耐えかねるかのように胸中で泣き伏さずにはいられませんでした。当時、私は、彼女の気持ちを尊重して、いつか本当に実現したいことができたらお願いするという約束をして、その日がくるのを待ってもらうことにしました。しかし、お願いするつもりはありませんでした。約束を交わせば、それで充分で、具体的な行動に移らずとも、私たちのあいだで完結してほしいと願っていました。
そして、その約束をしてから、彼女とは少しずつ疎遠になっていきました。不仲になったわけではありません。関係性が安定したから、離れられるようになったのです。一時期、私たちは互いをどうあつかえばいいかわからず、必要以上にかかわりあう日々を送りました。いまは、約束を果たす側と、果たされるのを待つ側という──たとえそれが、履行される予定のないものでも──立場が明確になって、それに基づいた行動がとれるようになりました。私は巡稿者として、クレアラ偏重になっていた活動内容をあらため、他の作家とも等しくかかわるようになり、クレアラは作家として、特に目立った成果はないものの、〈異才混淆〉の主要人物のひとりとして認知されるようになりました。それから、気の遠くなるほどの年数を経て、あのときのふたりが、よみがえろうとしています。あの約束。とうに風化していてもおかしくはない、クレアラから提起されて、私のほうで待ってもらっていた、あのときのふたりの、あの約束を、いまごろになって、浅ましくも利用しようとしている私がいました。〈異才混淆〉を終わらせるために、なりふり構わなくなった私の、愚かな選択でした。クレアラはそれを見越して、私に云ってくれていたのでしょうか。創作も、玲伎種も、〈終古の人籃〉も、どうなってもかまわない──と。それは予言めいていて、私が考えている以上に、現状の変革は悲惨なことになるだろうとの知らせを受けているようにも感じられました。……
(以下、第16節に続く)
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