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小川楽喜『標本作家』第二章⑦ マーティン・バンダースナッチ 二十八世紀の児童文学作家



小川楽喜『標本作家』(四六判・上製)
刊行日:2023年1月24日(電子版同時配信)
定価:2,530円(10%税込)
装幀:坂野公一(welle design)
ISBN:9784152102065




(第13節はこちらの記事に掲載しています。)



14

 マーティン・バンダースナッチ。二十八世紀の児童文学作家。
 ……二十八世紀ともなれば、世界のありようが劇的に変わり、その言及にも労を要すると思われるかもしれませんが、文明の発達度という点では、先述した二十四世紀のころと、たいした違いはありませんでした。
 あのナノマシンの異常によって起こった連続狂死事件以降、ナノテクロノジーの研究が禁止されたのはすでに述べたとおりですが、それ以外の科学分野においても、特に禁止されたわけでもないのに、研究はとどこおり、文明的にはほぼ二十四世紀のままで頭打ちの状態になってしまったのです。具体的な原因はわかりません。小説〈ティファレト〉のなかの人工知能の弁を鵜呑みにしたわけではないのでしょうが、結果だけをみればまさに科学からえられる利益は先細りしていき、人類は孤独に、その支えとなるものを失って、物質的にも精神的にも空虚な地平に取り残されてしまったのです。
 一方で人口は増えつづけ、その影響による種々の問題は、容赦なく人々を苦しめました。限られた食糧。限られたエネルギー。かつては発展途上国と呼ばれていた国々が、先進国なみに発展して、他国と同じ──いえ、それ以上の利潤を求めるようになりました。国際間のかけひきはより熾烈なものになり、悪魔が考えたかのような政策や外交がぶつかりあいました。そして、これまでとは比べものにならない、全世界的な経済の停滞と、それによる社会システムの崩壊がおとずれたのです。目にみえたしわよせは、中流以下の生活水準にあった人々にやってきました。これまでにもワーキングプアと呼ばれる人たちは存在しましたが、それとは次元のちがう規模と深刻さです。大量の失業者。職にはついていても、けっして楽とはいえない生活環境の人々。年金や福祉の減少、あるいは打ち切り。犯罪と自殺の増加。どんなに必死に働いても、人間らしい生活を送ること自体が難しい、そんな世の中になっていきました。それでも働かないことには生きていけないので、誰もがただひたすらに、幸せになるためというより、生物的にただ生き延びるために、その人生をささげるようになったのです。社会全体が死神に取り憑かれているかのように。
 こうした情況で児童書を発表したのが、マーティン・バンダースナッチでした。
 彼の作家性は、二十八世紀よりも前の時代なら、反発のほうが多かったかもしれません。しかし二十八世紀においては、彼の、次のような訴えには、一定の理解が示されました。
 ──……すべての人間は、この世に生まれてこなかったほうが良かったし、今後、生まれてくるであろう子供たちについても、出産せずに、そっとしておいてあげたほうが良い──
 ──と、そのようなテーマが作品内で語られ、理解され、共感をえて、支持されるようになったのです。児童書で、です。大人向けの小説などでそういった主張をする作品はなくもありませんでしたが、物心ついてまもない子供たちに向けて、そのようなことを伝えてくる物語をこしらえたのは、おそらくは彼がはじめてだったのではないでしょうか。
「出産せずに、そっとしておく」という言葉の意味は、堕胎ではなく、それ以前の、生命を生みだす行為全般を「しないほうが良い」と、すすめています。この世界は、よろこびよりも、苦しみのほうが圧倒的に多く、そうした世界に子供を生み落とすのは、あまりにも残酷で、ほんとうに子供のことを思いやるのなら、「存在すること」よりも「存在しないままでいること」を優先したほうが、まだしもましなのではないか、と、そう述べているのです。
 こういった考えは、反出生主義はんしゅっせいしゅぎと呼ばれています。二十八世紀になるよりも前、はるか昔から、アルトゥル・ショーペンハウアーや、デイヴィッド・ベネターといった哲人たちが論じてきた思想ですが、それを児童文学というジャンルで、当の子供たちが読んでもおもしろいと感じる話にしてひろめたのは、マーティン・バンダースナッチの手腕によるものだったといえるでしょう。
 子供を愛しているからこそ、子供を生まないのです。生きることは、それ自体が苦痛にみちており、人生でえられる幸せは、それを上回る悲しみと苦しみによって蹂躙じゅうりんされ──もしもそうではないと反論するのなら、それは生きることの価値を過剰に美化しているか、悲しみや苦しみから目をそむけているか、旧来の道徳観やヒューマニズムを盲信するあまり、それを無条件に受け入れ、思考停止してしまっているかの、いずれかだ──、最期には逃れようのない死が待っているだけで、そんな体験をわざわざ自分の子供にさせることが、はたして愛情をそそぐことになるのかどうか、もういちど考えてみてほしいと、将来、大人になるであろう子供たちにむけて、やさしく語りかけているのでした。もちろん児童書ですので、ストレートな表現ではなく、子供の興味をひくような寓話にしてあります。彼はそういった技術が天才的に巧く、たとえば十九世紀にルイス・キャロルが著した〈不思議の国のアリス〉を、思いきったかたちで翻案したこともあります。〈常若とこわかの国のアリス〉と名づけられたそれは、大筋は原典と変わらないのですが、反出生主義にもとづく死生観と、ケルト神話の世界観が取り込まれています。アリスは白ウサギに導かれ、異世界へと迷いこみます。チェシャ猫は、死と生のあいだを自由自在に行き来するモノとして登場し、狂ったお茶会では帽子屋、眠りネズミ、三月ウサギが、壊れた時計をなおすため、自分たちが生きていた時間と、自分たちが生まれてくるまでの時間、自分たちが死んだあとの時間、それぞれの時間とどうすれば仲良くなれるのかについてを、アリスをまじえて談義するのです。そして、トランプのハートのクイーンが、原典では「処刑せよ!」と命じるところを「誕生させよ!」と命じて、死ぬのではなく誕生することをいやがる部下たちを恐怖のどん底にたたき落とす、という、わけのわからない展開になっています。原典の時点で奇想天外だったストーリーが、さらに奇天烈に、また、生死の空虚さや滑稽さをシニカルに表現するものへとアレンジされていました。マーティンは、〈常若の国のアリス〉が偉大なる原典のオマージュであることを表明しており、本作の献辞はルイス・キャロルその人とアリス・リデルの両名へとささげられています。およそ千年前の、児童文学の偉人と、その彼が愛した女性へと──
〈常若の国のアリス〉は、原典のファンからは賛否両論あったものの、社会全体からみれば大きな反響をまきおこし──ワーキングプアの人々も読めるよう、彼は、この作品を無償で公開しました──、貧困にあえぎつつも生きる人々に、新奇な読書体験をもたらしました。ほかにもマーティンは〈オズの魔法使い〉や〈メアリー・ポピンズ〉、〈ピーターラビットのおはなし〉、〈くまのプーさん〉といった児童文学の古典名作を次々と翻案し、反出生主義の観点からおもしろくなるように趣向を凝らして発表しました。同時に、オリジナル作品も手がけ、翻案した作品とあわせて、そのすべてを無償で公開していったのです。
 当時の子供たちはこれらを読み、すなおにおもしろがり、いつしかそのテーマである反出生主義に共鳴するようになっていきました。マーティンは、自分の作品のメインの読者である子供たちを〈手遅れになった子ら〉と呼称しました。きみたちは、もうすでに生まれてきてしまったけれど──すなわち「存在しないままでいること」に失敗し、〈手遅れ〉になってしまったけれども──、どうかどうか次の世代には「存在すること」の重荷を背負わせないであげてほしい、と伝えていったのです。マーティンと当時の子供たちのあいだには、とても不思議な、友情めいたものが成り立っていきました。単なる作家とその読者という立場を越えて、同じ想いをいだく、友情めいたものが──
 ──二十八世紀よりも過去の時代の人々がこの話を聞くと、大半は、その眉をひそめ、マーティンのことを批判しはじめます。その気持ちも私にはわかるのですが、一方で、マーティンの子供たちに対する想いには、まぎれもない深い愛情が根底にあったとも私には感じられるのです。彼の作品がここまで受け入れられたのは、二十八世紀という時代が、彼の作品にすがらねばならないほど苦しみにみちていたからにほかなりません。……ほんとうに、ひどいものでした。当時においては、反出生主義の訴える内容は、強い説得力をもっていたのです。
 二十四世紀から二十八世紀までの歴史を俯瞰すると、科学文明の進歩のなさや、世界経済の停滞ぶりより、むしろ、人類全体の精神的な斜陽のほうに気をとられてしまいます。社会全体をおおう、いいようもない虚無感。虚脱感。〈終古の人籃〉にいて、すでに人類の滅亡したことを知っている私は、悲しいけれどこのように述べることができます──このころから人類は、種としての活力を失っていったのだ──と。いかようにもしがたい文明の閉塞感と、生産活動の翳り。最終戦争も破滅的災害もおきていないのに、もはや自分たちはどこにもたどりつけないのだという諦めからくる、倦怠感。そうした風潮が蔓延まんえんして、人々の意欲や向上心といったものが徐々に減退していったように感じられます。オカルトじみた話をするなら、二十四世紀の連続狂死事件にて、自殺した人工知能が、その機能を停止する前に、世界じゅうにナノマシンを散布したという噂も、流れました。そのナノマシンはいつのまにか全人類へと浸透し、人々の欲求をえさせて、科学の発展や、真理の探究をさまたげる作用をもたらした──ということです。あくまで噂です。真実かどうかはわかりません。
「その噂については、僕も、聞いたことがある──」
 物憂げな声で、マーティン・バンダースナッチが私の話に応じました。「だが、やはり真偽のほどはわからないな。エドが何か思い出せば、わかるんじゃないかな」
 容姿端麗な、二十代半ばの、線の細い優男でした。肩の近くまで伸びた、女性のように長い髪の毛が印象的です。彼にひけをとらぬ整った顔立ちというならセルモス・ワイルドがいますが、両者のもつ美の性質は、じつに対照的でした。背徳や退廃、淫蕩といった、人間の有する負の面をあらわした美貌の持ち主がセルモスだとするなら、マーティンのそれは、健全でまっとうな、正の面をあらわした美貌といえるでしょう。性格的にもセルモスが享楽的で欺瞞ぎまんを弄するのに対し、マーティンは基本的にすなおで、朴訥ぼくとつな、正直な心の持ち主でした。
〈終古の人籃〉へとやってきたマーティンは、人類の滅亡したことを知って、無邪気によろこんだのだそうです。彼はもともと、新たなる人間の誕生には否定的でした。生前のころから増えすぎた人口の問題をうれいており、反出生主義をひろめることで次世代の人口を少しずつ減少させていき、ゆくゆくはゼロに──つまり絶滅へといたることを、善意から、望んでいたのでした。自主的でゆるやかな人類の終焉。それこそが彼の本望だったのです。
「だけど、僕のその望みも、作品も、一部の人たちの居心地をよくするための道具として使われていたんだね──」
 彼が亡くなってから発覚したことではありますが、反出生主義をテーマにした彼の諸作品は、ごくわずかな特権階級にとって都合がよく、作者であるマーティン自身も把握していないうちに特定のプロパガンダに利用されていたのだそうです。
「僕が生きていた時代にもナノテクノロジー禁止条約はあった。けれど、頭のいい人たちにかかれば、いくらでも抜け道はつくれたみたいで、秘密裏にその研究はつづけられていたんだ。医療分野にかぎっての話だけどね」
「不老化手術のことですね。二十九世紀になってから、ようやく表沙汰になった──」
「うん。結局、一部の人たちのあいだでしか浸透しなかったけどね。独占したんだ。彼らにとっては邪魔で仕方なかったんだろうな。誰もが長生きして、五百歳以上の寿命をえてしまったら、地球に人があふれてしまう。ただでさえ人口が超過していたのに、そんなことは認められない。だから、不老化するのは自分たちだけでいい。それ以外の人々は──云い方は悪くなるけど、どんどん死んでいってもらって、ひとりあたりの居住スペースをひろげて、風通しを良くしよう、と、そんなことを考えていたんじゃないだろうか」
 不老化手術──。人間の老化現象をナノマシンによって抑制し、やがておとずれる老衰の時期を、数百年単位で先延ばしにする手術です。これを受けた者は、おおよそ五百歳ほどまで生きつづけることが可能となります。その手術を受けた時点の肉体年齢のままで。
「不老化手術が確立したことを、あなたの死後、一世紀近くも経ってから世間に公表したのは、スケープゴートを欲したからなのでしょうね。後世、あらぬ非難を受けるようになって、あなたもお辛かったでしょう」
「僕のことはいいんだ。それよりも、この馬鹿げた考えのせいで、少数ながらも子供が生みだされる状況になったのが悲しい」
 彼は、過去をふりかえりながら答えました。
 不老化を達成した人々は、そのことをいつ、どのタイミングで公表するのか、そして今後の人類社会をどのようにしていくかの判断を迫られました。
 折よく、マーティンが反出生主義をおりこんだ児童文学を発表していたので、これを有害図書に指定するのではなく、あえて推奨し、人口を減らしていく思想的な根拠として政治利用することに決めたのです。そして、そのことをマーティン自身は知りませんでした。
 二十九世紀以降、不老化手術を受けた自分たちの子供を優先的に誕生させ、それ以外の出産については大幅な制限をもうけることにしました。中流以下の家庭は、子供を生みたくても実質的に育てていける経済力をもてなくなったと同時に、出産は認可制となり、段階的にその数も減らされていきました。野放図に人口の増加を許してきた歴史とは決別し、これからは計画的に人口をコントロールしていこうという方策が打ち出されたのです。
 こうして、人類社会はその規模を意図的に縮小し、最適化することで、いましばらく命脈をつなぐことが可能となったのです。一方で、マーティン・バンダースナッチという作家は、こうした社会システムを構築するプロパガンダの広告塔だったのだと誤認されるようになり──じっさいには、何のつながりもなかったのですが──、後世、大変に厳しい批判を受けるようになりました。
 特権階級にとっては、批判の矛先を増やして、自分たちの権益を守るためのにえにしたかったのでしょう。まさにスケープゴートとして利用され、濡れ衣を着せられた作家なのでした。
 そんな彼が〈異才混淆〉に協力する見返りとして求めたのは、自分の作品によって生まれてこなかった子供たち、、、、、、、、、、、、、との交流でした。
〈終古の人籃〉に来てから、マーティンの死生観には変化が生じていました。彼はここで、とある日本の作家が〈河童〉というタイトルの小説を発表していたことを知りました。その作品は、ある精神病院の患者──第四十二号が誰にでもしゃべる話の内容、すなわちその狂人の妄想にすぎないという前置きをしてから、河童という架空の生物(日本ではそれを妖怪と呼ぶのだそうです)が暮らしている異世界について、語っています。河童たちの社会は、おおむね人間のそれと似ていますが、ちがう点も多々あります。たとえば出産の際、生まれてくる河童の赤ん坊に、このようなことを訊ねるのです。
「お前はこの世界へ生まれて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ」
 これを耳にした、いままさに母親の胎内から出てこようとしていた河童の子供は、次のように返事します。
「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから」
 ──それを聞いた産婆は、母親に注射をほどこし、その胎内にいる子供を消滅させてしまいます。さっきまで大きかった母親の腹は、まるでガスを抜いた風船のように縮んでしまうのです。
 河童の社会では、この出産時の問いかけと応答が、かならずおこなわれているのだそうです。そして、生まれたいと主張した者だけがこの世界で暮らし、それを拒否した者は、この時点で消え去ることができる、というわけなのでした。
 マーティンは〈河童〉という小説に感じ入るものがあったらしく、それからしばらくのあいだ、思索にふけるようになりました。そして、玲伎種となにやら相談して、この小説内の行為を実践することに決めたのです。つまり、事後承諾にはなるけれども、マーティンの作品の影響によって(生まれてくることもできたはずなのに)生まれてこなかった子供たちにむかって、
「きみたちはこの世界へ生まれてきたかったのかどうか、よく考えてから答えてほしい」
 ──と、問いかけるというものでした。
 考えてみれば、私たち人間の社会では、出産時にそうした確認をしていません。その子は、生まれてくることを望んでいるかもしれませんし、望んではいないのかもしれません。河童の社会のように、本人の同意をえてはいないのです。本人に「存在すること」と「存在しないままでいること」のどちらを選ぶか、決断してもらうこと。──それこそが真に公正な出産のありかたではないだろうか、とマーティンは考えるようになりました。
 ただ、これにはひとつ問題があります。河童はその誕生時にこのことを判断するだけの知恵と意思をそなえていますが、人間の赤ん坊は、それだけのものを有してはいません。そこで、玲伎種は人間の新生児にも知性を与え、外の世界の知識も授けて、それでもなお誕生したいかどうかを問いただせるような状態にしました。それは通常、マーティンの周囲できらきらとかがやく光の粒子のように舞っています。マーティンがその無数の光の粒子に語りかければ、それは知性をもった光の群集として、応答します。
「生まれたくはない」と答えれば、その光の群集はうすれて、この世から消えていきます。
「生まれたい」と答えれば、その光の群集は、さらに密集して、人型となり、やがて半透明の人間の子供の姿になります。そうして〈終古の人籃〉で存在することを許されるのです。
 マーティンは、ひとりひとりに問いかけていきました。自分の作品が社会に影響をおよぼしたがゆえに生まれてこなかった子供の数だけ、この「遅すぎる確認作業」を、くりかえしていったのです。それは何十億人という規模でした。まだ途中ですが、これまではほぼすべての者たちが「生まれたくはない」と答えました。しかし、ほんの数人の者たちは「それでも生まれたい」と答えたのです。後者は、マーティンと同居しています。つねに人型にはなっておらず、ただよう光の粒子となって、彼の室内を照らしつづけています。人型にも光の粒子にも自由に変化できる状態で、マーティンと共生するようになったのです。
 光の粒子の子供たちは、しゃべることもありませんし、その顔には目も口もない、作りかけの人形のような面相をしています。うすく透き通って、いつも同じ服をまとい、館内を歩きまわることくらいしかできません。彼ら、、は幽霊のような存在なのです。こちらからコミュニケーションをとることはできず、唯一、意思疎通できるのはマーティンだけでした。その彼にしても、会話ではなく、無言のうちに心を通わせあっているみたいでした。
 そうしたなかで、よく人型になってマーティンになついている少女がいました。彼女の名はパレアナ。六~七歳ほどの、ロングヘアーの、可愛らしい子です。ほかの子供たちもマーティンのことを慕ってはいましたが、パレアナはことさら彼のことを愛しているようで、彼のために何かできることはないかと、一生懸命に尽くしているようでした。
「館内のあちこちでよくパレアナを見かけるのですが、彼女は何をしているのですか」
「あれはね、『よかった探し』をしているんだよ──」
 あるとき、私はパレアナのことをマーティンに訊ねたことがあります。
「どんなに不幸で絶望的な状況でも『よかった』と思えるものを見つけだそうというゲームさ。彼女は、ほかの作家にも興味津々だよ。最近はセルモスと仲良くなりたいみたいだけど、彼と親しくなるのは難しいだろうね──と、いっているうちに、彼女が来た。おいで、パレアナ」
 私たちの会話中にあらわれたパレアナが駆けよってきて、マーティンにじゃれつきました。彼の脚によりかかるようにして甘えてくるパレアナを、マーティンは、いつくしむような目でみつめています。そして、彼女の頭をそっと撫でるのでした。
「……この世界は苦痛にみちている。その考えはいまも変わってはいない。けれど、誰もが他人に苦痛を押しつける権利を有していないのと同様に、苦痛をあえて味わおうとしている者に、そんな生き方はやめろという権利も有してはいない」
 パレアナをみつめる目は、いっそう、いとしげなものになっていきました。
「同意をえていないという点では、強制的にこの世に子供を生み落とすことも、子供を生まずに『存在しないまま』にすることも、同罪だった。パレアナをはじめとする、ここにいる子供たちには申し訳ないことをした。本人が苦痛を望んでいるのなら、僕は、それをも尊重しよう。そして、僕が〈終古の人籃〉にいるうちは、全身全霊をもってこの子らを守っていくことを誓おう。不幸と苦痛にまみれたこの世界で『存在すること』を選んだ、物好きな子供たちのために──」
 そういって、彼はまだ見ぬ「生まれてこなかった子供たち」と交流していくのでした。大量の光の粒子が彼をつつんで、そのほとんどが「存在すること」を選ばず、そのまま、消えていきます。けれど、ごくごくわずかな光の粒子は、彼と永遠をともにすることを選ぶのです。マーティンは、これからもすべての子供らに問いかけていくのでしょう。世界にはこれだけの苦痛があるけれども、それでもきみたちは────と。
 

 (以下、第15節に続く)

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