失敗した歴史の瓦礫から、未来の可能性を組み立てなおす 木澤佐登志『闇の精神史』書評:乗松亨平(東京大学大学院総合文化研究科教授)
ロシア宇宙主義からアフロフューチャリズム、サイバースペースまで、〈宇宙〉にまつわる思想を領域横断的に俯瞰する話題の新刊、『闇の精神史』(木澤佐登志、ハヤカワ新書)。この記事では、ロシア文化研究を専門とする東京大学大学院総合文化研究科教授の乗松亨平さんによる書評を公開します。
失敗した歴史の瓦礫から、未来の可能性を組み立てなおす
乗松亨平
漆黒の天球に星々がかろうじて瞬いている。その輝きは目をじっと凝らさねば見分けもつかないが、だからこそ美しい――木澤佐登志の新著『闇の精神史』はそんな書物だ。
私たちが閉じ込められている資本主義という牢獄からの出口を、脱出を夢みては敗れ去っていった過去の人々のうちに探ること。本書の課題をひとことでいえばこうなるだろう。しかしそれはほとんど不可能な課題である。資本主義をみずからおおいに享楽している私たちが、果たして「閉じ込められている」などといえるのだろうか? ここを出てどこへ向かおうというのだろう? 実際、本書でとりあげられる過去の人々の多くは、たんに敗れ去ったのではない。あるいは全体主義やナショナリズムへの献身を、あるいは資本主義の加速を、導くこととなったのだ。
そんな失敗した歴史の瓦礫から、叶わなかった未来の可能性を組み立てなおすという、ベンヤミン的な展望を本書は掲げるのだが、組み立てなおすところまでは踏み込まない。きらめきを秘めた瓦礫を闇のなかから拾い出し、並べおくだけである。だがその並べおく手つきに著者の妙技がある。ばらばらでもなく、くっつきすぎてもいない。やはりベンヤミンの比喩を借りれば、闇夜に瞬くそれらの星々を、私たちはさまざまなしかたで結んで星座を描くことができる。
ロシア宇宙主義、アフロフューチャリズム、サイバースペース論という、直接のつながりはない対象を順に扱う3章から本書は成る。著者はこれらを積極的に結びつけはしない。たとえば第1章で触れられる「精神圏」概念は、テイヤール・ド・シャルダンを通じてマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』にとりいれられており、この系譜をたどってロシア宇宙主義とサイバースペース論を直接結びつけることもできたはずだが、著者はおそらくあえてそれを控えている。
だがもちろん、三つの章はばらばらではない。「進化、ネットワーク、宇宙」というキーワードから三つの対象を読み解くことで、それらのあいだに潜在する照応関係がさまざまに示唆される。あくまでも示唆にとどめて、星々をいかなる星座へ結びあわせるのか、歴史の瓦礫からどんな未来を組み立てなおすのか、それは読者に委ねる手つきが、著者の妙技と呼んだものである。
だからここでは、ロシア文化研究を専門とする評者なりの視点から、本書に瞬く星々をいくつか結びあわせてみよう。
本書の第1章では、1850年代、大西洋を横断する電信ケーブル敷設のための海底調査から、当時の進化論における「大発見」がなされたエピソードが紹介されている。海底で発見されたプラズマ状のその「始原生物」は、無機物から有機生命が発生した進化のミッシング・リンクであると信じられた。結局それはただの無機物であることが判明し、有機生命がいかに発生したのかはいまだ謎のままなわけだが、電信によるグローバルな通信ネットワークの誕生と、無機物と有機体を連続させる一元論的な進化論との結びつきを、このエピソードにみてとる著者の指摘はじつに示唆的である。
第1章の主役のひとりである共産主義者アレクサンドル・ボグダーノフは、まさに、無機物から有機体までを包含するグローバル・ネットワークの組織化を構想した。彼にとって共産主義とは、資本主義によってアトム化した世界をひとつにつなぎ、組織化するものにほかならず、マルクスは偉大な一元論者なのであった。人間のあいだの血液交換により老化に抵抗するという構想にボグダーノフが熱中し、みずからを実験台にしたあげく落命したエピソードは本書でも紹介されているが、彼は老化を、人体のシステムが年齢とともに複雑化しすぎて矛盾をきたし、組織性を失うことに起因すると考えていた。つまり共産主義と血液交換は、システムの組織化という目標において共通していたのだ。
あらゆる事象を組織化という観点から把握すべく、その一般理論を展開したボグダーノフの主著『テクトロジー』は、一般システム理論やサイバネティクスの先駆と評価されている。サイバネティクスはサイバースペース論の重要な基礎を成したが、スターリン死後のソ連でも大流行し、不合理なイデオロギー的抑圧ではなく、合理的計算によって社会を組織し、共産主義を実現するのだという機運をもたらした(詳しくは、スラーヴァ・ゲローヴィチ『ニュースピークからサイバースピークへ』)。
本書では、ソ連末期の混迷のなか、共産主義イデオロギーの刷新を図って設立された「実験的創造センター」について触れられている。センターが発表した文書では、ロシア宇宙主義やロシアの宗教哲学を参照し、共産主義をロシアのナショナルな伝統と結びつけることが試みられた。だがそれに加えて、アルヴィン・トフラーの情報化社会論に言及し、ポスト工業主義の時代の新たな共産主義が唱えられてもいる。本書の第3章では、トフラーの『第三の波』を「サイバーパンクのバイブル」とするブルース・スターリングの述懐が引かれているが、アメリカのカウンターカルチャーとソ連の共産主義はともに、サイバネティクスや情報理論に刷新の可能性を見出したのである。
サイバネティクスには、自律的ネットワークの組織化がもつ主体的側面の一方で、ネットワークに組み込まれた人間を組織化され管理される受動的客体と化してしまう、という二面性があることを本書は指摘する。インターネットが後者の側面をますます強めると同時に、昨今のメタバース論では、インターネットが実現する主体的自由が楽天的に謳われている。
この乖離した状況に本書は介入しようとする。メタバースにいたるサイバースペース論の楽天性は、物質的身体からの離脱という志向に表れている。電信に始まるグローバルな通信ネットワークの形成は、全人類が純粋な精神と化し、情報の集積として統合されることで完成するはずなのだ。しかしそれは夢想にすぎない、と本書は喝破する。どんなに抑圧しようと、私たちの自由にならない身体は残存する。だがこの身体は、たんに私たちが主体的に制御できず、ネットワークシステムに管理されるしかない対象なのだろうか。主体的自由は、不自由な身体を打ち捨てることによってではなく、その不自由さのうちに未知の可能性を探求することでのみ、手に入りうるものなのではないか――本書第3章の末尾における「ユートピア的身体」の呼びかけを、このようにパラフレーズできるだろう。
この呼びかけから照らしかえすと、ボグダーノフの血液交換実験が、まさにそうした、身体の秘める未知の可能性の探求にみえてくる。唯物論者たるボグダーノフにとって、システムの組織化は情報をもてあそぶことではなく、物質的な労働であった。
最後に、本書第1章のもうひとりの主役である、ロシア宇宙主義の祖ニコライ・フョードロフが、電信をきわめて唯物論的に捉えていたことを紹介しよう。同時代に発達した電信網に、フョードロフは地球やさらに太陽の運行を統御する可能性をみた(なお、フョードロフやボグダーノフの著作は近日、ボリス・グロイス編『ロシア宇宙主義』の翻訳で紹介できる見込みである)。
電信は、それが伝達する情報ではなく、そこを流れる電気によって、新たな天空を物理的につくりだす。サイバースペースにいたるのとは異なるネットワークをめぐる想像力を、この歴史の瓦礫から組み立てなおせないだろうか。こんなふうに、本書を読みおえた者の目には、闇に沈んだ石くれがおぼろな光を帯びてくる。
書評執筆者プロフィール
乗松亨平(のりまつ・きょうへい)
1975年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。専門はロシア文学・思想。著書に『リアリズムの条件』(水声社)、『ロシアあるいは対立の亡霊』(講談社選書メチエ)、訳書にヤンポリスキー『デーモンと迷宮』(水声社、共訳)、トルストイ『コサック』(光文社古典新訳文庫)など。
記事で紹介した書籍の概要
『闇の精神史』
著者:木澤佐登志
出版社:早川書房(ハヤカワ新書)
発売日:2023年10月17日
著者プロフィール
木澤佐登志 (きざわ・さとし)
1988年生まれ。文筆家。思想、ポップカルチャー、アングラカルチャーの諸相を領域横断的に分析、執筆する。著書に『ダークウェブ・アンダーグラウンド』、『ニック・ランドと新反動主義』、『失われた未来を求めて』、共著に『闇の自己啓発』(早川書房)、『異常論文』(ハヤカワ文庫JA)がある。