
【特別掲載】櫛木理宇『氷の致死量』連載第7回【増量試し読み】
映画『死刑にいたる病』の大ヒットを記念して、原作者の櫛木理宇さんによる最新傑作『氷の致死量』の本noteでの試し読みを特別に増量し、10回に分けて掲載いたします。読みだしたら止まらないノンストップ・シリアルキラー・サスペンス。毎日更新していきますので、お付き合いいただければ嬉しいです!(編集部)

櫛木理宇
早川書房/46判並製/定価2090円(税込)
『氷の致死量』
櫛木理宇
第6回「第一章 5」の続き
第一章
6
職員室へ戻った十和子(とわこ)は、杵鞭(きねむち)が去年作成した青いファイルをぼんやりとめくった。
『市川樹里(いちかわ・じゅり)。二〇〇五年八月三十日生まれ。二○一八年度入学、一年C組。
保護者は母親の美寿々(みすず)。住民票は千葉市の上和西(かみわにし)区に建つマンションに置かれている。母ひとり子ひとり。学生寮の個室に入寮中。
自傷癖あり、摂食障害ありで要注意。とくに身長に比したBMIが十五を切った場合は、管理人から担任への連絡を義務付けて──……』
十和子は席を立ち、壁際のコーヒーマシンへ向かった。業者からレンタルしている、業務用の全自動コーヒーマシンである。
いつでも挽きたてのコーヒーが飲めるのは、正直ありがたい。でもつい飲みすぎてしまうから困りものだ。現に今日は、早くもこれで四杯目であった。
──やっぱり、わたしには教師なんて向いてなかったのかも。
濃いコーヒーを啜って、そう自嘲する。
やっぱりわたしは母のようにはなれない。思春期の子供を理解できないわたしに、教師の資格なんてあるんだろうか、と。
──市川樹里の言うことが、なにひとつわからなかった。
共感して寄り添うどころか、戸惑いしかなかった。
無性愛者であっても、教育者として生徒を助け、尽力することは可能だと思ってきた。そのために独学ながらも勉強し、研修を受け、十代の少年少女の性愛について、知識を蓄(たくわ)えてきた。
でもいざ今日、樹里を前にして──まるでぴんと来なかった。
十和子は掌で額を覆った。
いままで生きてきて、十和子は一度も「他人のプライベートゾーンに触れたい」と思った経験がない。せいぜいで「赤ちゃんの頬をつついてみたい」「子供の頭を撫でたい」と思うくらいだ。そこに性的な意図はまったくなかった。
眠っている他人の下着をずらす、胸をさわるなどは完全に想像の外で、
「十代の性衝動は未分化で当然なのだから、まずは寛大に見守り、じっくり経過を観察すべき」
などという理屈は、咄嗟(とっさ)に湧いて出てくれなかった。
──アセクシュアルだからといって、性に対して完全に客観的に、理性的になれるわけではない。
それが恨めしかった。
現にこの年齢になっても、いまだ十和子はあがいている。
性嫌悪ではないはずなのに、こうして湧いてしまう困惑にだ。性を理解できない限り、精神的に幼稚なままなのではないか、という焦燥感に。性衝動を受け入れられないのは単に狭量だからじゃないのか、と疑ってしまう己自身に。
──もし母の子でなかったら、すこしは違っていただろうか。
そう思ってしまう。わたしが、あの母の子でなかったら──と。
十和子は、幼い頃から優等生だった。母の期待をけっして裏切らなかった。まわりの大人たちは口をきわめて十和子を誉めそやし、教育管理職である母におもねった。
「あんな優秀なお嬢さまがいて、うらやましいわ」
「ほんと、うちの子に爪の垢を分けてもらいたい」
「学業優秀。品行方正。容姿端麗。天は二物を与えずって言うけど、嘘よねえ」
そのたび母は鷹揚に、
「べつに、わたしが厳しく指図したわけじゃないのよ」
と微笑んだ。
「自然にのびのびと育てたつもりなんだけど──。気が付いたら、こんなおとなしい子になっていたの。ふふ」
それはなかば以上、真実だ。
十和子自身、十四、五歳になるまではとくに違和感を覚えていなかった。母の言うとおり、彼女はごく自然に優等生だった。勉強もスポーツもできた。責任感があり、自立心旺盛で、何度クラス替えしようと学級委員長に選出された。
──わたしは、ほかの子と違うのではないか。
はじめてそう気づいたのは、中学二年の秋だ。
まさに思春期であり、二次性徴の第三期から四期にあたる年頃である。
まわりの友達はみな、男の子の話ばかりするようになった。
小学生のときのような「サトウくんって足速くてかっこいいよね」「スズキくんに今年のバレンタインあげようかな」といったほのかな好意ではない。もっと瞳を潤ませ、頬を上気させながら、
「タカハシ先輩って彼女いるのかな」
「いけそうだったらタナカくんに告ろうと思うんだけど、みんなどう思う?」
「ねえねえ、十和子ってワタナベくんと家近いんでしょ? 場所教えてくれない? ううん、べつになにするってわけじゃないんだけど……」
とささやき合うような恋慕だ。
その中にあって、十和子だけが初恋を知らなかった。
クラスメイトの男子に胸が高鳴ることも、若い男性教師にのぼせることもなかった。テレビで人気俳優やアイドルを観ても、「いい役どころだな」「ととのった顔してる」以上の感慨は湧かなかった。
「十和子は真面目ちゃんだもんね」
「奥手よね」
「モテるから、ガツガツする必要ないんじゃん?」
級友はみな、そう言った。誰ひとり不自然に思っている様子はなかった。
十和子は「そんなことないよ」「べつにモテないってば」とかわしながら、いつも内心でひそかに冷や汗をかいた。
──どうしてわたしは、ほかのみんなみたいに男の子に興味が持てないんだろう。
「十和子、これ貸したげる。めっちゃキュンキュンするよ」
と渡された少女漫画を読んでも、なぜ感情が動かされないんだろう。クラスのみんなが熱中している恋愛ドラマに、どうしてのめりこめないんだろう。
漫画もドラマも、あらすじならむろん理解できる。アクションや推理のシーンは普通に楽しめた。シナリオの破綻だって指摘できたし、伏線がうまく回収できると「さすがプロの脚本家」と思えた。
でもみんなのように、
「昨日観たぁ? 今週もカズトかっこよかったね、ヤバかったね!」
「最後、あの二人くっつくと思う? くっつかなかったら苦情の電話入れちゃうかも!」
などと身をよじらせ、熱をこめて語れない。主人公とヒロインの恋愛に感情移入し、一喜一憂することができない。
──これはほんとうに”奥手”なだけなんだろうか?
十和子は本心から悩みはじめていた。
恋愛に疎いだとか、消極的というのとも違う気がする。未熟というわけでもない。なんというか、もっと、根本のところで異なっているように思う。
──ほかのみんなと、わたしは違う。
懸念が完全にはっきりしたのは、二年生の二月だ。
バレンタインをひかえ、クラス全体が浮き立っていた。その空気の中、十和子はともに委員長をつとめている男子に呼びだされ、告白された。
「ごめんなさい」
断りながら、十和子は愕然(がくぜん)としていた。
己がほぼなにも感じていない、という事実にである。
嫌悪はない。迷惑でもなかった。ただ「申しわけない」と思った。それは道を聞かれて答えられなかったときに感じる”済まなさ”と、同程度の感情でしかなかった。
その後、十和子は相手の男子から些細(ささい)ないやがらせをされるようになった。
できるだけ丁重に断ったつもりだ。これ以上どうしていいかわからなかった。しかたなく十和子は、告白されたことも含めて、信頼できる友人に相談した。
友人は親身に聞いてくれた。そして心底困った顔で、
「あー……。それ、気まずいよね」
と言ってくれた。
翌日から、十和子は”気まずいふり”をした。
十和子のほうから例の男子生徒を避け、わざと目線をななめ下にはずしたり、「申しわけないけれど、気まずいの」という演技に徹した。この態度は正しかったらしく、やがていやがらせはおさまった。
十和子は混乱した。他人の意見がなければ対処できなかった自分に失望し、怯(おび)えた。これから先も、何度かこういうことが起こるかもしれない。そのたび自分は失態を犯すのかと思うと、恐怖で身がすくんだ。
──誰にも、悟られないようにしなくては。
己を守るため、十和子は理論武装することにした。
本を読み、論文を読んだ。インターネットで検索し、図書館へ通い、そして大学二年の夏にようやく「アセクシュアル」という言葉に行きあたった。
──アセクシュアル。誰にも性的魅力を感じず、他人を性的に求めることがない性的指向者を指す。世界人口のうち、約一パーセントが該当するとされる。
これだ、と思った。
わたしはアセクシュアルだ。
人口の約一パーセントが該当するなら、わたしだけではない。わたしだけが特別なんじゃない。この世には、わたしと同じ性質の人びとが確かに存在する。
また彼女は同時に「アロマンティック」という言葉も知った。こちらは他人に恋愛感情そのものを抱かない者を指す。まさに十和子はこのタイプであった。アセクシュアルでアロマンティック。それがわたしだ、と確信した。
目の前がひらけたように思った。
と同時に、絶望した。
自分は、母が望む娘にはなれない。それが完全にはっきりしたからだ。
だって母が望むのは人並みに恋愛をして、人並みに結婚と出産を経て、その上で良妻賢母と世間に讃えられる娘だ。そんな人生に疑いを抱かぬ、純粋で模範的な娘に、わたしはなれない──。
さらに調べるうち、十和子は日本にも『アセクシュアルの会』があることを知った。
いわゆる交流会だ。参加すれば、仲間と語りあえるはずだった。
しかし参加する勇気はなかった。他人にアセクシュアルだと知られることに、どうしてもためらいがあった。
誰かに洩らしたら、いつか巡りめぐって母の耳に入るかもしれない。それが恐ろしかった。
──その恐怖は、三十歳を超えても変わらない。
一昨年の”あのとき”でさえ、十和子はカウンセリングの勧めを断った。
他人に自分の心なんて打ちあけられない。すべてをぶちまけて、さらけ出すなんてできない。だって、怖い。怖くてたまらない。
──そしていまも、怖いままでいる。
だから戸川更紗に惹かれるのだろうか、と十和子は自問した。
彼女がすでに死んでいるから。自分と似ているはずだけれど、永遠に対話はかなわず、十和子の心を暴くこともない安全な存在だから──。
ため息をつき、十和子は青いファイルを閉じた。
──第8回へ続く
〈書誌情報〉
『氷の致死量』
櫛木理宇
早川書房 四六判並製単行本
定価:2090円(税込)
ページ数:416ページ
〈内容紹介〉
聖ヨアキム学院中等部に赴任した英語教師の鹿原十和子(かばら・とわこ)は、自分に似ていたという教師・戸川更紗(とがわ・さらさ)が14年前、学院で何者かに殺害された事件に興味をもつ。更紗は自分と同じアセクシュアル(無性愛者)かもしれないと。一方、街では殺人鬼・八木沼武史(やぎぬま・たけし)が、また一人犠牲者を解体していた。八木沼は亡くなった更紗にいまだ異常な執着を持っている。そして彼の5番目の獲物は、十和子が担任する生徒の母親だった……十和子と八木沼、二人の運命が交錯するとき、驚愕の真実が! 映画「死刑にいたる病」の原作者が放つ傑作シリアルキラー・サスペンス。
〈プロフィール〉
櫛木理宇(くしき・りう)
1972年新潟県生まれ。2012年『ホーンテッド・キャンパス』で第19回日本ホラー小説大賞・読者賞を受賞。同年、『赤と白』で第25回小説すばる新人賞を受賞する。著書に〈ホーンテッド・キャンパス〉シリーズ、『死刑にいたる病』(『チェインドッグ』改題)『死んでもいい』(以上2作ハヤカワ文庫刊)『鵜頭川村事件』『虜囚の犬』『老い蜂』『残酷依存症』などがある。2016年に『ホーンテッド・キャンパス』が映画化、2022年に『死刑にいたる病』が白石和彌監督映画化。『鵜頭川村事件』は入江悠監督でドラマ化が決まっている。