日・英・仏語を操る著者は、終戦後の混沌をいかに描き出したか? ルイ・アレン『日本軍が銃をおいた日』解説(笠井亮平)
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は終わった。しかし、海外各地で戦っていた数百万の日本軍兵士にとって、それは新たな戦いの始まりだった――。
現代史家・大木毅氏監修のもと、戦争ノンフィクションの名著を復刻するシリーズ〈人間と戦争〉。その第一弾として刊行した『日本軍が銃をおいた日: 太平洋戦争の終焉』は、当時イギリス軍の語学将校として降伏交渉に身をもってあたり、その後太平洋研究の第一人者となったルイ・アレンが、終戦「以後」のアジア各地の様相を克明に描き出した一冊です。
この記事では、本書の監訳を務めた笠井亮平氏(岐阜女子大学南アジア研究センター特別客員准教授)による解説を全文公開します。
監訳者解説
岐阜女子大学南アジア研究センター特別客員准教授
笠井亮平
1945年8月15日は「終戦」の日として知られる。たしかにこの日、昭和天皇の玉音放送が日本全国、そしてアジアや太平洋各地の日本軍基地や陣地で流れ、戦争は「終わった」。緒戦こそ連戦連勝ではじまったものの、しだいに厳しい局面が増え、国内では国民が窮乏生活を強いられた。45年に入ると、3月の東京大空襲、5月の沖縄戦、そして8月上旬の広島・長崎への原爆投下と激しい攻撃がつづき、さらには和平の仲介役として期待していたソ連が満州に侵攻したとの報せが入る──そうしたなかで、「敗戦」ではなく「終戦」という表現が広く用いられたのも、「終わった」ことに対する安堵や解放感が込められているのだろう。
だが、同時にそれは「新たな戦い」の始まりでもあった。日本軍と連携しながらアジア各地で祖国の解放を目指していた勢力にとっては後ろ盾を失うことになり、いかにして自分たちだけで自由を獲得するかが喫緊の課題になった。一方、日本による統治に抗っていた者にとっては、独立を実現する好機が訪れたことを意味した。そしていずれのケースでも、ふたたび支配の手を伸ばそうとするイギリス、オランダ、フランスといったヨーロッパ列強にどう対峙するかという課題にも直面することになった。中国の場合は、「抗日」という共通目標が失われた途端、国民党と共産党の対立が再燃し、内戦に逆戻りした。それが毛沢東による中華人民共和国の建国宣言と蒋介石の大陸脱出・台北遷都というかたちで決着を見るまでには、日本の降伏から4年以上の歳月を要することになった。
そして、アジア各地で孤立することになった膨大な数の日本人にとって、終戦は新たな苦難の始まりだった。日本軍将兵は捕虜になり、一夜にして立場が変わった。比較的短期間で祖国日本に帰還できた将兵がいた一方で、満州で降伏した将兵のように、シベリアに抑留され、筆舌に尽くせない辛酸をなめることになった者もいた。将官のなかには戦犯に指定される者もいた。日本人居留民は現地で築いた生活基盤や財産が失われ、引揚まで不安の中で過ごすことを余儀なくされた。ソ連軍の侵攻を受けた満州の場合、状況は過酷だった。本書第2部第2章で取り上げられている、ある開拓村で住民を襲った悲劇は、満州各地でも起きていたことだろう。
もちろん、各地で事情は大きく異なる。終戦直後の状況を、現地側から見るか、日本軍側から見るか、あるいは旧宗主国側から見るかで、捉え方も当然違ってくる。それぞれの地域の実態を各勢力の視点を踏まえながら詳述しつつ、一冊の書物にまとめることで俯瞰することは、容易ではない。その大仕事が結実したのが、本書『日本軍が銃をおいた日』である。
これは、ルイ・アレンという類い稀な才能を持つイギリス人の著者を得て、はじめて可能になった作業である。第二次世界大戦についての米欧の歴史家による研究や著作は、英語をはじめ西洋の言語で書かれた資料に依拠するケースが多く、その結果、日本側の視点が占める比重が軽くなってしまいがちだ。その点、アレンは英文資料だけでなく日本語を読みこなせたことで、日本側の動きのような表面的な部分はもちろん、彼らのロジックや心情、現場での会話をも描き出すことに成功している(なお、彼はフランス語も解していた。仏印について書かれた第1部第4章では、フランス語文献も使用されているのはそのためである)。
アレンが日本語に接したのは、1943年末のことだった。当時イギリスは、対日戦を遂行するに当たっては日本語ができる人材が大量に必要になると考え、ロンドン大学に日本語特訓コースを設置し、有望な学生や軍人を採用した。そのなかのひとりが彼だったのである。ちなみに彼は当初ロシア語を希望していたようで、日本語を学ぶことになったのは偶然だったという(当時の経緯や日本語特訓コースについては、大庭定男『戦中ロンドン日本語学校』〔中公新書、1988年〕に詳述されている)。
日本語特訓コースを修了した彼は、陸軍中尉としてビルマ戦線に投入され、終戦後も含め、捕虜の訊問や通訳に当たった。ビルマに焦点を当てた本書の第1部第1章では、現地の日本軍部隊から軍使が出てきて、英軍と降伏交渉を行ったときの様子がまるでその場に居合わせたような鮮明さで記されている。それもそのはずだ。他でもないアレン自身が、「その場に居合わせた」のだから。アレンは本人であることを明かしていないが、その箇所に自分自身を登場させている。どれが彼なのかは、ぜひ本文を読んで探してみてほしい。アレンは戦後に除隊し、イギリスのダラム大学でフランス文学を講じる傍ら、戦時中および戦後直後の体験と膨大な数の関係者へのインタビュー、徹底した文献調査にもとづき、日本軍がアジアで関わった戦いについて多くの著書を著した。そのうち邦訳されているものとしては、本書の他に『シッタン河脱出作戦』(早川書房)と『ビルマ 遠い戦場──ビルマで戦った日本と英国1945-45年(上中下)』(原書房)がある。
なお、「訳者あとがき」で訳者の2人が書いているとおり、本書の原書がイギリスで刊行されたのが1976年で、翻訳が出たのも同じ年である。これだけの大部かつ広い範囲を扱う書をスピーディに訳出して日本での刊行にこぎ着けたのは、原訳者である長尾・寺村両氏の力のなせる技だろう。特に、日本軍関係者の名前や部隊名、その他固有名詞を英文から漢字表記に直すのは、一見単純な作業に見えるが、実際には相当な労力を要したはずだ。一方で、刊行から46年という長い時間が経っており、現在ではあまり使われない表現や、訳文がややぎこちなく感じられる箇所もあった。そこで、今回復刊するに当たって訳文を全面的に見直し、できるかぎり読みやすくすることを心がけた。そうした作業を経て、「戦争」というものが近年ではかつてないほどにリアルに感じられるいま、戦争ノンフィクションの名作を復刊する早川書房のシリーズ〈人間と戦争〉の第1弾として本書を世に送り出せることを、監訳者として非常に意義深く感じている。
話を本書の内容のほうに戻そう。「戦争中」については数多の文献があるが、「戦後」となると当時の実情を知ることができるものは限られているなかで、本書は多くの気づきを与えてくれている。ここではそれをいくつか紹介したい。
日本軍は降伏し、戦闘自体はたしかに終結した。将兵は順次、武装解除を受け、収容施設に集められて次の指示を待つことになった。だが、その一方で、現地人による警察機構が整備されていない地域では、現地の治安をどう維持するかという喫緊の問題があった。連合軍が進駐してくるまでには「力の空白」が生じるし、実際に進駐してからでも、現地の情勢をよく踏まえた上で各地に展開するまでには時間を要する。そこで、日本軍部隊の一部が一定期間、ひきつづき治安維持を担うことになったケースがあったことが、仏印や朝鮮を扱った章などで記されている。本書の邦題は『日本軍が銃をおいた日』となっているが、場所によっては日本軍が銃を手にしたまま、任務の遂行に当たっていたことが興味深い。
本書には多くの人物が登場するが、日本側では中堅クラスの軍人に焦点が当てられている。タイ(シャム)で終戦を迎え、その後地下に潜伏した辻政信、「F機関」を率いてインド国民軍創設の立役者となった藤原岩市、満州国で皇帝溥儀の御用掛を務めた吉岡安直、戦中は「桐工作」はじめ日中和平工作に奔走し、終戦後は中国側と降伏交渉を行った今井武夫らだ(吉岡は陸軍中将、今井は陸軍少将だったので「中堅」というよりは「幹部」としたほうがふさわしいが)。いずれも個性豊かで、型にはまらない独創性と高い行動力を兼ね備えた軍人である。その資質をどの方向に活かしたかはそれぞれだ。辻のように戦犯追及を逃れるべく潜伏の道を選んだ──彼は日本が主権を回復した後に姿を現し、1952年には衆議院議員に当選する──者もいれば、藤原のように、英軍によるインド国民軍裁判で商人として出廷した際にインド人の仲間を擁護する者もいた。アレンが描く彼らの意図や思いも、本書の読みどころのひとつだ。
こうした個々の軍人の動きとも関連するテーマとして、日本軍が「降伏」という事態、より正確に言えば、「降伏した場合にいかなる手を打つべきか」についての方針を最後の最後まで持ち合わせていなかったことが挙げられる。日本軍は「敗戦」の可能性があることを考慮してこなかった。個別の戦闘で苦杯をなめたことはあっても、日清、日露、そして第一次世界大戦と、戦争全体では勝者の側に立ち続けてきた。そうしたなかで日中戦争が始まり、さらには対米英蘭戦へとなだれ込んでいく。勝つつもりで戦争に臨むのは何も日本に限ったことではないが、それでも敵、とりわけアメリカとの圧倒的な国力の差を踏まえれば、今度は容易ならざる戦いになることは自明だったはずだ。ところが、そのための備えは行われなかった。戦局が深刻さを増していた1945年前半の時点でも、勝利は無理にしても講和は可能と信じ、ソ連に仲介を依頼していた。それだけに、無条件降伏に応じることなど直前まで念頭になかったのだろう。仮に降伏した場合、アジアの占領地には連合軍が進駐することになる。それを前提に、いかにして日本の影響力を残していくか。また、日本占領中に独立したビルマやフィリピン、それに戦前から独立を保っていたタイ(シャム)といった国々の対日姿勢を望ましいものに誘導するためにはいかなる方策がとりうるか。こうした、「プランB」と言うべき方針が欠けていたのだ。その結果、日本の対応の多くは、各地の事情に精通し、人脈を持つ軍人が現場レベルで行動するに留まってしまった(インドネシアのように、旧宗主国のオランダが戻ってくる前に急いでスカルノらに独立を宣言させるという好判断をした現地日本軍司令部のようなケースもあった。しかしこれとて、大本営があらかじめ明確な方針を示した上で行われたものではない)。
今日のアジアは発展著しいが、わずか80年近く前にはどの国も混沌としていた。指導者や外部勢力の思惑、直近の統治者であった日本軍の動き、そして地域および国際環境しだいではまったく別の道もあり得たことを本書は教えてくれている。しかし、実際には各国は現在に至る軌跡をたどることになった。多くの国にとって、それは新たな戦乱であったり、分断であったり、革命であったりと、「解放」や「自由」とは言っても、必ずしも人びとが当初思い描いていたようなものではなかった。その原点を知ることができるという点でも、本書の意義は大きい。その意味で、本書は単に過渡期を取り上げたものではなく、現在のアジアの基礎を確立した重要な時期を、詳細かつ豊かな筆致で描き出した労作と位置づけることができる。
2022年7月
監訳者略歴
笠井亮平 (かさい・りょうへい)
1976年、愛知県生まれ。岐阜女子大学南アジア研究センター特別客員准教授。中央大学総合政策学部卒業後、青山学院大学大学院国際政治経済学研究科で修士号取得。専門は日印関係史、南アジアの国際関係、インド・パキスタンの政治。在インド、中国、パキスタンの日本大使館で外務省専門調査員として勤務後、横浜市立大学、駒澤大学などで非常勤講師を務める。著書に『インパールの戦い』(文春新書)、『インド独立の志士「朝子」』(白水社)など、訳書にアイヤール『日本でわたしも考えた』、クラブツリー『ビリオネア・インド』(ともに白水社)など。
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