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【劇場アニメ公開記念】『僕が君の名前を呼ぶから』冒頭試し読み

乙野四方字さんの大ヒット青春SF『僕が愛したすべての君へ』『君を愛したひとりの僕へ』。8月には待望の長篇スピンオフ『僕が君の名前を呼ぶから』も刊行され、10月7日(金)の劇場アニメ公開に向けさらに注目が集まっています。本欄では、映画の公開を記念しシリーズ全作の冒頭試し読みを公開いたします。本日は『僕が君の名前を呼ぶから』冒頭を公開! 本作を読めば、『僕愛』『君愛』をもっと楽しめること間違いなし!

僕が君の名前を呼ぶから

しおりの日記

8月16日

 久しぶりに、この日記を書きます。
 前に書いたのはいつだっただろうとページをめくってみれば、もう三年も前。ちょうど古希のお祝いでした。この年になると日々特に書くこともなく、三年なんてあっという間です。
 年を取るほど時間の流れが速く感じることを、ジャネーの法則と言うそうです。ご存じでしたか? なんて、知識自慢をしてしまいました。私も進矢しんやさんから聞いただけです。あなたくらいしか披露する相手がいないの、許してくださいね。
 あなたはいかがですか? お変わりありませんか?
 私はと言えば、もうそろそろお迎えが近いのかもしれない、なんてことを最近よく思うようになりました。今年、特に今月に入ってから、妙な胸の苦しさを覚えることが多いのです。お医者さんは大丈夫だと仰(おつしや)るのですが。
 もしかしたら、この日記を書くのもこれが最後になるかもしれません。そうなったら、あなたともお別れですね。
 結局あなたからは、一度もお返事がもらえないままです。
 今日、あなたに書いた日記を読み返していました。最初の日記から、ずっと。
 不思議ですね。もう何十年も前なのに、あの日のことをはっきりと思い出せました。
 私が初めてあなたと会った……いえ、会ったと言うのは違いますよね。あれは何と言えばいいんでしょう……気づいた? 感じた? どちらも違うような……もしかしたら、私がおかしくなってしまっただけなのかもしれませんね。若い頃はそんなはずがないと思っていましたが、今になってみれば、案外単純にそれだけだったのかもしれないと思うようにもなりました。それだけ、両親の不仲が私にとって苦痛だったということなのでしょう。
 とにかく、私が初めてあなたに……やっぱり「会った」と言わせてもらいます。あなたに会ったあの時を、久しぶりに思い出したのです。

第一章 幼年期

1

 両親の不仲がいよいよ極まって、もはや離婚の秒読み段階に入ったのは私が七歳の時だった。
 母は科学者で、当時はまだ世間的に認知度の低かった虚質きょしつ科学という分野の第一人者だ。最先端の理論や技術には当然ながら守秘義務があり、専業主夫だった父と母の間に共通の話題はとても少なかったようだ。ただでさえ二人には知力や学力、学歴にも大きな差があり、早い話、父は母に対して強いコンプレックスを抱いていた。
 母が働き、父が家事をする。もともと納得してその関係を選んだはずだが、実際にそういう生活を送ってみて、父の中に違和感が生じたのかもしれない。一方の母が、なんの葛藤もなく生き生きと日々過ごしているように見えたのも、父は気に入らなかったのだろう。
 母の帰りは遅く、大抵は私たちが眠りについたあと。そして私が登校するときに起き出してきて、行ってらっしゃいの挨拶だけは毎日欠かさず、しかし父の話によるとそのあとはまた寝ていたらしい。
 たまの休みに時間があれば、母は私にいろいろなことを教えてくれた。とはいえ、母は人に何かを教えるのがあまり得意ではないようで、その内容も科学者としての専門知識ばかりだった。当時小学生だった私は、とても理解できないその言葉たちを不思議な呪文のようにただ聴いているだけで、父がよく「まだわかるはずないだろう」と止めに入ったものだ。
 自分で言うのもなんだが、当時の私はその年齢にしては随分と賢かったと思う。おそらくそれも母のおかげなのだろう。だから私は、きっと父が思っていたよりもずっと、母の話を聞いているのが好きだった。
 だけど父は、母の仕事には理解を示しつつも、しかし母親としてはあまり一般的ではないその態度に不満を抱いていたらしい。私と二人のときによく、母さんのことをどう思うかと聞いてきた。私の口からも、母への不満の言葉が聞きたかったのだろう。
 私はと言えば、そんな母が決して嫌いではなかった。
 きっと母は、小さい私と何を話せばいいのかわからなかったのだ。
 だけど母親として、何か話さないとと思った結果、教えるという行為に至ったのだと思う。それは紛れもなく、母なりの愛情の形だった。
 もちろん、当時はそんな難しいことを考えていたわけではない。だけど子供ながらに、私に難しいことを話して聞かせる母の声や眼差まなざし、その表情から、なんとなく安心するものを感じていたのは確かだった。
 おそらく、あの頃の父の中には「理想の家族像」というものがあって。
 その家族像に、私と母はぴたりとはまらなかったのだろう。
 私は最初、両親の不仲になど気づきもしなかった。うちは家族みんなが仲良しで、よそとは少し違う形でも、幸せしかない家庭なのだと思っていた。
 そうではないことを知った最初のきっかけは、私が小学一年生の頃から見始めた、嫌な夢だ。
 それが、私が覚えている限りでは初めての、並行世界との邂逅かいこうだった。

2

 最近、たまに、とても嫌な夢を見る。
 深夜。多分、もう日付が変わった後だ。ふと目を覚ました私は、不穏な気配を感じてそっとベッドを抜け出し、リビングへと向かった。
「もう少し、早く帰れないのか?」
 いつものように遅く帰ってきたお母さんを、お父さんが責める声が聞こえてくる。
「ここのところずっとじゃないか。仕事が大変なのは理解してるよ。でも、せめて週に一度くらいはうちで晩ご飯を食べる日があってもいいだろう」
 ああ、またこの夢だ。リビングで、お父さんとお母さんが喧嘩けんかをしている夢。と言っても、喋っているのはお父さんばかりだ。お母さんは黙ったまま、じっとお父さんの言葉を聞いていて、たまにぽつりぽつりと小さい声で何かを言い返す。
「休日はうちで食べてるでしょ」
「平日の話だよ」
「だったら週に一度じゃなくて平日に一度と言うべきよ」
「そういうことじゃなくて……」
 ため息をつくお父さん。お父さんの気持ちもわかる気がする。お母さんだってもう少し違う言い方をすればいいのに。でも、それができないのがお母さんなんだ。
 お父さんは、いらいらした様子で問いかける。
「……君は、仕事と娘とどっちが大事なの?」
 今度は私がため息をつきたくなった。それは駄目だよお父さん。そんなことを言っちゃ駄目だ。お母さんも、呆れたように聞き返す。
「そのくだらない質問に、どうしても答えないといけない?」
 お父さんはすぐに反省したようで、小さく「ごめん」と謝った。でもそのすぐ後に「だけど」と繋ぎ、二人の喧嘩は続く。
 私は怖くて悲しくて、泣きそうになるのを我慢しながら部屋へ戻り、ベッドにもぐって目を閉じる。早く寝てしまおう、明日になれば大丈夫だから──そう信じて。
 そうして次の日になると不思議なことに、お父さんもお母さんも何事もなかったように仲良くしていた。
 お母さんは必ず、私が小学校へ登校するときに起きてきて、お父さんと一緒に「行ってらっしゃい」と言ってくれる。そのときの二人は、昨日の夜喧嘩していたことなど嘘のようになごやかな雰囲気だ。
 私のために、仲が良いふりをしてくれているのかな、と思ったこともあった。だけどどうも違うみたい。休日とかに二人の様子を見ていても、まるであの喧嘩自体が無かったようにしか思えない。
 だから私は、二人の喧嘩は私が見た夢なんだと思っていた。現実とは何の関係もない、悪い夢の世界の出来事なんだ、と。
 だけど、私は知ることになる。
 それは、並行世界の出来事だったんだということを。
 現実と関係ない悪い夢じゃなくて、現実のすぐ隣にある、もう一つの現実。
 それを知ったのは、私が悪夢を見始めて少し経った頃だった。

「へいこう世界?」
「そう。並行世界」
 タブレットに指先で文字を書きながら、お母さんが言う。
 お母さんと一緒の休日。お母さんはこうして私を膝に乗せながら、タブレットを使っていろんなことを教えてくれる。今日の講義は「並行世界」について、らしい。
「って、なに?」
 初めて聞く言葉、初めて見る漢字にわくわくする。お母さんの話はいつも難しくてわからないけど、それでもお母さんの話を聞くのは好きだ。
「私たちが生きているこの世界は、似たような世界がいくつもあってね。私たちはその中の一つにいるんだ」
「そうなの?」
「うん。なんて言うかな……こことほとんど同じ、でも少しだけ違うとこが、隣にいくつも並んでて……うーん、難しいな」
 腕を組んで黙ってしまうお母さん。少しだけ違うとこが、隣にいくつも並んでる……それによく似た場所を、私は思い出した。
「……学校の教室みたいな感じ?」
「ああ、そうそう。栞は頭が良いね」
 お母さんが頭を撫でてくれる。それがとても嬉しくて、にっこりしてしまう。
「たとえば今いるこの世界が、A組だとしようか。栞はA組で給食を食べている。でも、隣のB組にも、その隣のC組にも、そのまた隣のD組にも……全部の教室に栞がいるんだ」
「え? でも、私は一人しかいないよ?」
「そうだね。栞は一人しかいない。でも、並行世界には別の栞が無限に存在するんだよ」
「むげん……」
「たくさんってこと」
「うん」
 よくわからないけど、頷いておく。
「A組の栞は、昨日の給食はなんだった?」
「えっとねぇ、ハンバーグだったよ」
「いいね。でも、もしかしたらB組の栞の給食は、エビフライだったかもしれない」
「ええ? 給食はどのクラスでも一緒だよ?」
「それが一緒じゃないのが、並行世界なんだ。すぐ隣のクラスは一緒かもしれない。でも五つ隣のクラスはサンドイッチかもしれない。十、二十と遠くなるほどその差は大きくなっていって、百も隣のクラスだと、もしかしたら風邪が流行はやっていて学級閉鎖してるかもしれない」
「うーん」
 そんなことがあるのだろうか。だって給食はみんな同じはずだ。首をかしげる私に、お母さんはさらに違う話でたとえてくれる。
「本当だよ。たとえば栞は、授業を受けているときに、消しゴムがどこかに行ってしまったことってない?」
「ある!」
「その消しゴムが、探したはずのところから出てきたことは?」
「ある!」
「それはね、A組の栞が、いつの間にかB組の栞と入れ替わったからなんだよ」
「入れ替わる?」
「そう。A組の栞が、消しゴムを使って机の上に置く。ちょうど同じとき、B組の栞は消しゴムを使った後ペンケースにしまう。その瞬間に、二人が入れ替わる。だから栞は机に置いたはずの消しゴムを見失ったんだ。ここに置いたはずなのに、と思って他の場所を探しているうちに、二人は元に戻る。すると机の上で消しゴムが見つかる……これは、栞が知らないうちに並行世界を移動したからなんだよ」
 確かに、たまにそういうことがある。それは並行世界のせいだったのか。
「私が研究してる虚質科学というのは、そういう学問なんだ」
 お母さんの言うことが完全に理解できたわけでは、もちろんない。
 だけど私は一つ、嫌な考えに至った。
「……今と少しだけ違う世界がたくさんあって、そこには私じゃない私がたくさんいて、それがたまに入れ替わるの?」
「そう。栞だけじゃなくてみんなが、知らないうちに並行世界を移動してるんだ。まぁ、大抵はすぐ近くの世界にしか移動しないから、今言ったみたいにほんの少しの違いしかないんだけどね」
「それって、夢じゃないの?」
 私の一言に、お母さんは少し目を丸くして、興味深そうに続ける。
「夢か……そうだな、もしかしたら夢というのは、並行世界の自分を覗き見てるのかもしれない。そう考えてる人もいるね。私も、あり得ない話じゃないと思ってる」
「じゃあ……」
 その続きを、声に出すことができない。
 じゃあ、私がたまに夢に見る、喧嘩をしているお父さんとお母さんは?
 もしかしてあれは夢じゃなくて、並行世界の私の家なの?
 怖くて、そう聞くことができない。
「栞……? どうしたの?」
 心配そうに私の顔をのぞき込むお母さん。
 そのとき、キッチンの方からお父さんの声が聞こえてきた。
「二人とも、ご飯できたよ! ほらお母さん、難しい話はもうおしまい。栞が困ってるじゃないか」
「あ……ああ、そうね。栞、ご飯だって」
「……うん!」
 明るく返事をして、お父さんの元に駆け寄る。お母さんもついてきて、三人で一緒に食器を運ぶ。
 大丈夫。あれはただの悪い夢だ。
 だってお父さんとお母さんは、こんなに仲が良いんだから。
 だから大丈夫。私の世界は大丈夫。私は必死で、自分にそう言い聞かせていた。
 だけど。
 夢の世界の仲が悪い二人と、現実の世界の仲が良い二人は、少しずつ近づいていった。

3

 ずるい

 タブレットに残されたその一言に、私は首を傾げた。
 また悪い夢を見た、次の日の朝のこと。起きてすぐ、忘れ物をチェックするため授業で使っているタブレットを立ち上げると、すぐ画面に表示されたのが「ずるい」の文字だ。
 テキストデータとして入力されたのではなく、ペイントソフトを使って指で描かれた文字だった。昨日の私はこんなものを描いただろうか? そんな覚えはない。
 なんだか気味が悪いけど、怖くて消すこともできなくて、お父さんに相談しようと思ってリビングに行った。そしたら珍しく、お母さんも起きていた。
「あれ、お母さん。珍しいね、こんな時間に起きてるなんて」
「ああ……おはよう、栞」
 朝からお母さんに会えて上機嫌な私とは反対に、お母さんはなんだか気まずそうな笑顔を私に向ける。
「栞、その……あの後、ちゃんと眠れた?」
「え? うん」
 どうしてそんなことを聞くんだろう? それに「あの後」って?
 困惑する私の頭をお父さんが優しく撫でながら、ゆっくりと言う。
「栞、昨日はどうしてあんなことを言ったんだい?」
 心臓が、きゅっと縮むのを感じた。
 昨日? あんなこと? 何? 私、何も言ってないよ?
 お父さんに続いて、お母さんもよくわからないことを言ってくる。
「栞、私たちは別に喧嘩をしてたわけじゃないの。ただちょっと、大事なお話をしてただけなのよ」
 喧嘩? なんだかとても嫌な感じがする。私の知らないところで、知らないことが起きているような、そんな。
「……お話って、なんの?」
 私が聞くと、お父さんがごまかすような顔で返事をする。
「ああ、その……ほら、栞の作文が学校で賞を取っただろ? もうすぐ栞の七歳の誕生日だし、それとあわせて豪華にお祝いしたいねって」
 お父さんの言葉に、後ろでお母さんも頷く。お母さんは嘘はつかない、というかつけない人だ。だから、何かをごまかしているとしてもまるっきりの嘘というわけじゃないはず。私は少し安心して小さく笑う。
「そうなんだ。嬉しい」
「うん。だからその日は、お母さんも早く帰ってきてくれるって。な?」
「努力はする」
「約束だろ」
「……約束はできない。努力はする」
 どうしても約束しようとしないお母さん。お母さんはいつも、できない約束はしない。お父さんが少し不満そうな顔になったので、慌てて私が間に入る。
「大丈夫だよ。お母さんのお仕事が忙しいの、わかってるから」
「……ごめんね、栞」
 申し訳なさそうな顔をするお母さん。お母さんだって、私のことがどうでもいいとか嫌いだとか思ってるわけじゃない。お父さんもそれはわかってるはずだ。
 なのにお父さんはまだ納得がいかない様子で、不満げな表情を隠そうともしない。やっぱりおかしい。今までこんなにあからさまに、二人の間の空気が悪いことなんてなかった。これじゃあまるで、私がたまに見る悪い夢の二人みたいだ……。
 そう考えたとき、思いついたことがあった。
 私は昨日の夜、また悪い夢を見た。
 もしそれが夢じゃなくて、お母さんが言っていた、並行世界だったとしたら?
 夢だと思っていた世界。お父さんとお母さんが少しだけ仲の悪い世界。私は昨日の夜その世界に来て、まだ元の世界に戻ってないんじゃあ?
 そうだ、それならタブレットにあった「ずるい」という文字の謎も解ける。あれは私じゃなくて、並行世界の……この世界の私が書いたんじゃあ?
 だとすると、何がずるいんだろう。この世界では昨日、何があったんだろう。この世界の私は昨日、何かを見て、何かを言ったんだ。だからお父さんとお母さんは、私に謝ってきた。
 この世界の私は一体、何を言ったんだろう?
「お父さん、お母さん、あのね……私、昨日、ちょっと寝ぼけてて。よく覚えてないんだけど……何か、言ったの?」
 私の質問に二人はきょとんとして、それから少し心配そうに顔を見合わせ、そして私を安心させるように小さく笑った。
 お父さんが私の頭をなでながら言う。
「大丈夫。覚えてないならいいんだよ」
 それに続いて、お母さんも。
「うん。栞は少し、悪い夢を見ただけなのよ」
 悪い夢。もしそれが並行世界のことだったら、私にとっての悪い夢は今いるこの世界のことだ。この世界のお父さんとお母さんは、私の世界よりも少し仲が悪い。この世界の私には悪いけど、私は早く元の世界に戻りたかった。
 これが夢で、夜だったら、目が覚めれば元通りなのに。

 ご飯を食べて、登校の準備をするために部屋に戻る。
 机の上に置きっぱなしのタブレットを見て、そこに書かれている文字を見る。

 ずるい

 その文字を見て、ふと頭に浮かんだことがあった。
 考えてみる。そもそも、私が並行世界にいるのだとしたら、この世界の私はいったいどこへ行ってしまったんだろう。
 お母さんは「入れ替わる」と言っていた。A組の私がB組に行ったなら、B組の私はA組へ。私は昨日、悪い夢を見た。私がそのときこの世界にいたのなら、私の世界には、この世界の私がいたということになる。
 だとしたら。
 この世界の私は、自分の世界よりも仲が良いお父さんとお母さんを見て、どう思っただろう?
 ずるい、と思ったんじゃないだろうか?
 私の世界に来たもう一人の私が、仲が良い二人を見て、タブレットに「ずるい」と書いた。それから元の世界に戻って、私がその文字を見たんだとしたら……。
 なんだかとても、嫌な予感がした。
 ……もしかして、ここは、並行世界じゃないんじゃ?
 ここは悪い夢でも並行世界でもなくて、本当に私の世界で……お父さんとお母さんは、本当に少しだけ仲が悪くなったの……?
 昨日の夜、私ともう一人の私が入れ替わって、もう一人の私は仲の良いお父さんとお母さんを見た。そしてそれをずるいと思った。
 だからもう一人の私は、私のお父さんとお母さんに何かを言った。
 それが原因で、お父さんとお母さんは、少しだけ仲が悪くなった……?
 今まで悪い夢で見てきた、仲の悪い二人の姿を思い出す。私のお父さんとお母さんもあんな風になるの? そんなの嫌だ、絶対に嫌だ!
 夢なら早く覚めてほしい。ここが並行世界なら、早く元の世界に戻ってほしい。
 だけど、ここが並行世界じゃないのなら。
 私はいったい、どうすればいいんだろう……。

4

 決定的なことが起きたのは、私の七歳の誕生日だった。
 今年の誕生日はいつもより豪華だった。学校で私の作文が入賞したことも一緒に祝うからだ。豪華とは言っても高級レストランに行ったりするわけじゃなくて、お父さんの作ったごちそうと少し大きなケーキを家族で食べて、少し贅沢ぜいたくなプレゼントをもらう、というだけなんだけど。それだけに、お父さんは気合いを入れて準備していた。
 私の頭にはお姫様みたいなティアラ。テーブルには人数分のクラッカーと、載り切らないほどたくさんの手料理が並んで、なんと冷蔵庫の中で出番を待っているケーキまでお父さんの手作りだ。完璧な誕生日。
 ただ一つ、やっぱりお母さんがいないことを別にすれば。
 テレビを観たりお話をしながらお母さんの帰りを待っていたけど、時計の針が八時を過ぎた頃にはさすがのお父さんも黙り込んでしまった。いつもは六時にはご飯を食べて十時には寝ているので、これはもう遅すぎる。
 私のおなかが、ぐぅ、と大きく鳴った。
「……お父さん、もう食べようよ」
「……きっとお母さん帰ってくるから。もう少し待ってみよう?」
 言いながらお父さんはスマートフォンを手にとって、通話アプリでお母さんを呼び出す。だけど何度鳴らしても繋がらない。六時半を過ぎた頃、お母さんから一度連絡があった。想定外のトラブルがあって遅くなると。でもそれ以降は何もなかった。
「お母さん、お仕事が忙しいんだよ。私は大丈夫だから、食べよう?」
「……ごめんね、栞」
「なんで謝るの? 私、お腹いちゃった! もう我慢できない。だってお父さんのお料理すごく美味おいしそうなんだもん!」
 無理をしていたつもりはない。そりゃあ、お母さんも一緒にお祝いしてくれるならそれが一番嬉しいけど、お仕事が忙しいなら仕方ない。迷惑をかけちゃいけない。その分、お休みの日にたくさん甘えればいいんだから。
「……そうだね。食べようか。じゃあその前に」
 やっと笑ったお父さんは、クラッカーを二つ持ってその紐を一緒に握る。
「お母さんの分も一緒に……栞、お誕生日と作文の入賞、おめでとう!」
 ぱぱん、と乾いた音が響いた。

 夜。
 いつもより少し遅くベッドに入った私は、リビングの方から聞こえてきた声に目を覚ました。
 嫌な予感がする。きっとこのまま布団をかぶって、耳を塞いで寝てしまった方がいい。それはわかってる。わかってるのに、私はそっとベッドを抜け出して、足音をたてないようにリビングへ近づいた。
 お父さんとお母さんの声が、はっきり聞こえるようになる。
「今日が何の日か、忘れてたわけじゃないだろ?」
「覚えてるよ」
「今日は早く帰ってくるって約束したじゃないか」
「……悪いとは思ってる。ごめん。でも約束はしてないはずだ」
「そういう問題じゃないだろ!」
 今まで聞いたことがないような、お父さんの怒った声。まるで自分が叱られたかのように、私の体がびくりと震える。
「大きな声を出さないで。栞が起きる」
「……そんな母親らしいことが言えるなら、ちゃんと帰って来いよ」
「そのつもりだったよ。でも、私がいないとどうしようもないトラブルだったんだ」
 声を震わせるお父さんに、あくまで冷静に返すお母さん。お母さんは、お仕事の話をするときは男の人のような口調になる。今そうやって話すお母さんの態度も、きっとお父さんは気に入らなかったんだと思う。
「……君は、仕事と娘とどっちが大事なの?」
 ──それは。
 お父さんの、その言葉は。
「そのくだらない質問に、どうしても答えないといけない?」
 お母さんの、その返事も。
 私は今のやり取りを、聞いたことがある。悪い夢の中で。お父さんとお母さんの仲が悪い、並行世界の私の家で──
 それ以上聞いていたくなくて、私は自分の部屋に戻る。私の家も、並行世界の私の家みたいになっちゃったの? それともここは並行世界なの? もうあっちとの差がよくわからない。ここが並行世界ならいいのに。目が覚めたら全部元通りで、二人が仲良くしてたらいいのに……。
 祈るような気持ちで目を閉じて、元に戻れ、元に戻れと頭の中で繰り返しながら、私はいつの間にか眠っていた。
 お父さんが私に「二人で暮らそう」と言い出したのは、その一ヶ月後だった。

「栞、お父さんと、二人で暮らそう」
 お父さんが何を言っているのか、なぜだか私は理解していた。
 お父さんは、ついに我慢できなくなったんだ。この家族の形に。
 もしも私が、お父さんと一緒になってお母さんに文句を言っていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。お父さんはきっと、この家の中でひとりぼっちで戦っているような気分だったんじゃないだろうか。
 あの誕生日のあと、真夜中に何度もお父さんとお母さんが話し合っているのを、こっそりと聞いていた。翌朝、私に「おはよう」と言うお父さんの表情に、だんだんと諦めの色が混じり始めるのをなんとなく感じていた。
「お父さんとお母さんね、少し、別々に暮らそうと思ってるんだ。仲が悪くなったわけじゃないよ。ちょっと、どうしようもない理由があってね」
 精一杯の笑顔でお父さんは言う。嘘の笑顔だって、私にはわかるのに。
 お母さんはその後ろで何も言わず、いつものクールな表情でソファに座っていた。お父さんには悪いけど、ああ、かっこいいな、なんて思ってしまう。
「でも、お母さんはお仕事が忙しいから、栞のご飯を作ったりできないんだ。だから栞、お父さんと一緒に行こう」
 ずるい。そんな言い方をされたら、断れなくなってしまう。私は自分のお仕事をしているお母さんが好きだ。だからお母さんに迷惑をかけたくない。そんな言い方をされたら、頷くしかなくなってしまうじゃないか。
「もちろん、もう会えなくなるわけじゃないんだよ。栞が会いたいと思えばいつでも会えるんだからね。少し住む場所が遠くなるだけなんだ」
 さも大したことではないという風に言っていたけれど、そんなわけがないということは感じていた。会おうと思えば会えるのだろうけど、いつでも好きなときに、なんてわけにはいかないだろう。
「フェアじゃないから、私も言わせてもらう」
 それまで黙って聞いていたお母さんが、初めて口を開く。
「確かに私は仕事で忙しいから、お父さんほど栞の面倒は見てやれない。だけどそこは家事代行を頼むなりすればどうとでもなる。大事なのは、栞がどうしたいかだ」
「そんなこと、子供に選ばせるべきじゃない」
「どうして? 栞も一人の人間だ。栞は頭が良い。自分がどうしたいか、ちゃんと自分で選べるはずだ」
「それは大人としての責任の放棄だ。僕たちが決めて、その責任も僕たちが負うべきだ」
「自分の人生は自分で責任を負うべきだと思う。もちろん栞に何もかも押しつけるつもりはないよ。だけど栞のために、栞の意思は聞くべきだ」
 お父さんの言うことも、お母さんの言うことも、間違っていない気がする。
 私はいったい、どうすればいいんだろう?
 お父さんもお母さんも、どっちも好きだ。お父さんはいつも私と一緒にいて面倒を見てくれて、遊んでくれる。お母さんは一緒にいないことが多いけど、たまの休日に私を膝に座らせて、いろんな難しい話を聞かせてくれる。その時間が私の一番の楽しみだった。二人ともそれぞれのやり方で、私を愛してくれている。
 だから選べない。どっちか片方なんて。
 なかなか答えが出せない私に、お父さんが言った。
「お母さんと一緒に暮らすなら、知らない人にご飯を作ってもらうことになるけど、今まで通りこの家に住める。お父さんと一緒に暮らすなら、引っ越すことになるけど、そんなに遠くじゃないよ。歩いても行ける距離だし、転校もしなくていいしね」
 どちらの場合もいいことと悪いことがある。だけど転校しなくていいという事実には少し安心した。もっとずっと遠くに行かなければいけないのかと思っていたからだ。だけど、だったらなおさらどっちを選べばいいのかわからなくなる。もし県外に引っ越すとかいう話なら、それを理由にお母さんを選ぶこともできたのに。
 いっそ、もっと気軽に選んでもいいんだろうか……。
 もういいや、と半ば自暴自棄じぼうじきになって、お父さんかお母さん、どちらかの名を呼ぼうと口を開きかけたその瞬間。

 だめ。

 ……心の奥底から、そんな声が聞こえたような気がした。
 途端に、私の中で一つの思いがふくれ上がる。本当の思いが。
「……いや」
「え?」
 口に出してしまえば、あとはもう勢いだった。
「いや! お父さんとお母さんが別々に暮らすなんて、絶対にいや! なんでそんなこと言うの!? 私は二人とも大好きなのに! みんな一緒がいいのに!」
 なんだかとても我慢できなくなって、私は生まれて初めて、お父さんに対してそんな大きな声を出した。自分でも驚いた。自分が自分じゃないみたいだ。だけど抑えきれなかった。まるで、私の中にいるもう一人の私が叫んでいるみたいだった。
「お母さんの帰りが遅くてもいい! 朝はおはようって言ってくれるもん! お休みの日はいろんなお話聞かせてくれるもん! 私、全然怒ってないのに! なんでお父さんは怒るの!?」
 お父さんはショックを受けたような顔で私を見る。きっと、驚いたんだろう。私が、お父さんが怒っている理由を全部わかっていることに。
「栞……」
 泣き出した私の頭を、お父さんは困ったように撫でる。
 そこに、お母さんが静かに話しかけた。
「……私があなたに頼り切って、栞のことを全部任せてしまっていることは、謝る。だけどそれは、それが栞にとって一番いい形だと思ってるからなの」
「栞にとって、一番いい?」
「うん。私の研究は、近い将来、人類の日常を変えてしまうと思う。きっと世界は混乱する。でも私がそれを少しずつ栞に伝えていけば、栞は真っ先に、その新しい世界に順応できるのよ」
 お母さんの言っていることは、全部は理解できない。だけど、お母さんが遅くまで帰ってこないのも、私に難しい話をし続けるのも、私のためを思ってのことなんだということは伝わってきた。きっと、それはお父さんにも。
「だからあなたには、その手助けをしてほしい。私も、その……できる限り、頑張るから」
 珍しく、子供のような喋り方をするお母さん。それを聞いて、強張(こわ ば)っていたお父さんの顔からも力が抜ける。
「……君は、本当にすごい仕事をしてるんだね」
「うん。我ながらすごいと思う」
 そしてお父さんは、ついに小さく笑った。
「あははっ……そんな君と夫婦なんだから、僕もどっしり構えてないとね」
 さっきまでの冷たかった空気が、ゆっくりと温かくなっていく。
「栞、ごめんね。やっぱり今まで通り、三人で一緒に暮らそう」
「うんっ!」
 私は嬉しくて、一番大きな声を出してしまった。
 それと同時に。

 よかった。

 また、心の奥で誰かが囁いた気がした。

 それから、お父さんとお母さんが喧嘩をすることはなくなった。
 ある日、私はふと思い出して、お母さんに聞いてみた。
「あのねお母さん、夏休みに入る前のことなんだけど……私のタブレットに、私が書いた覚えのないことが書いてあったの」
「ふぅん? なんて?」
「えっと……それは秘密なんだけど。あれってもしかして、並行世界の私が書いたのかな?」
「そうかもしれないね。パラレル・シフトは気づかないうちに起きていることがほとんどだから、そういうことも十分にあり得るよ」
「そっか」
 パラレル・シフト……並行世界の自分と入れ替わることを、そう言うらしい。じゃああれはやっぱり、並行世界の私が、私の両親を見て書いたものなんだろう。
 あれ以来、悪い夢は見ていない。あの世界のお父さんとお母さんはどうなってしまったんだろうか。やっぱり離婚してしまったのだろうか。だとしたら、あの世界の私は、いったいどっちを選んだんだろう……。
 ずるいという言葉。そして、私のお父さんとお母さんが離婚しそうになったとき、私の中で聞こえた「だめ」「よかった」という言葉。あれが誰の言葉だったのか、私はずっと気になっている。
「お母さん、並行世界の自分の声が聞こえることってあるの?」
「え?」
「あのね、なんていうか……頭の中で、声が聞こえたことがあるの。私の声。私が自分で考えたことなのかもしれないけど、そうじゃないような気もして」
「ふむ……」
 お母さんは口に手を当てて、真剣な顔をする。
「パラレル・シフト時の虚質転移に有意な時間差はないから、そんなことはあるはずないんだが……いや、もしかしたら虚質の残響のようなものが生じる可能性もあるか? いやむしろ、ラウンドダウン領域では共鳴のような現象が起こる可能性も……」
 しばらくぶつぶつと呟いていたお母さんだけど、はっと我に返って私を見て、困ったように頭をかきながら。
「ええと……そうだな。可能性はゼロとは言えない」
 そんなお母さんらしい答え方をした。
「じゃあ、並行世界の私とお話もできるの?」
「うーん、研究してみないとわからないけど……現実的には難しいな。それに、あまりやらない方がいいような気がする。もしかしたらある種のゲシュタルト崩壊に繋がる可能性もある」
「げしゅ?」
「ああ、えっと……自分が誰だかわからなくなるかもしれない、ってこと」
「そうなんだ……それは怖いね」
「うん。でも、どうしてそんなことを聞くの?」
 すべてをそのままに話すことはできない。したくないし、する必要もないと思う。だから、嘘はつかないで、言えることだけを選んで慎重に話す。
「えっとね、少し前に、悪い夢をよく見てたの。それが、並行世界の私なのかもしれなくて。だとしたら、今どうしてるのか、大丈夫なのか、気になって……」
「そっか……そもそも、はっきり気づけるほど差違のある並行世界へのパラレル・シフトはそんなに頻繁に起こるものじゃないんだ。むしろ、一生で一度も経験しない人の方が多いくらいだ。だから栞のそれも、ただの夢だった可能性が高い」
「ええ? そうなのかなぁ……」
 そうなんだろうか。だってただの夢は、目が覚めたらだんだんと消えていくものだ。でもあの世界は、あまりにも記憶に残りすぎている。
「でも、そうだね……栞がどうしてもその世界の栞とお話がしたいなら……交換日記をしてみるといいかもしれない」
「交換日記?」
「そう。タブレットでもいいし、紙のノートを買ってもいい。そこにまず栞が日記を書いて、次のページを開けておくんだ。そうしたら、もしパラレル・シフトが起きたときに他の世界から来た栞がそれを見たら、日記の続きを書いてくれるかもしれない」
 なるほど。それはとてもいいアイデアに思えた。
 私は、あの時自分の中で聞こえた声に、どうしてもお礼が言いたかった。もしあの声が聞こえていなかったら、私の両親は離婚していたかもしれない。
「うん! 私、交換日記する!」
「そう? じゃあ、やってみるといいよ」
 お母さんが私の頭を撫でてくれる。私は立ち上がって、ご飯を作っているお父さんに駆け寄った。
「お父さーん! ノート買ってノート!」
「ノート? いいけど、授業で使うやつ?」
「ちーがーう! 日記書くの!」
「日記? なんでまたいきなり……」
 キッチンでは、フライパンからジュウジュウという音といい匂い。
 目の前にはお父さん。後ろにはお母さん。
 私は今、幸せだよ。
 あなたは?

栞の日記

8月1日

 今日から日記を書き始めます。
 初めまして。私の名前は今留(いま どめ)栞と言います。
 あなたの名前もそうですか?
 私は今、幸せです。お父さんとお母さんはとっても仲良しです。
 あなたはどうですか?
 あのとき、私のタブレットに「ずるい」と書いたのはあなたですか?
 あなたのお父さんとお母さんは、仲良しですか?
 それと、私のお父さんとお母さんがお別れしそうになっていたとき、だめだと言ってくれたのはあなたですか?
 だとしたら、私はあなたにお礼を言いたいです。
 あなたは今、幸せですか?
 もし違うんだったら、私に何かできることはありませんか?
 お返事待ってます。

 栞

―――――――

『僕が愛したすべての君へ』
乙野四方字
カバーイラスト:shimano/カバーデザイン:早川書房デザイン室
682円(税込) ハヤカワ文庫JA

人々が少しだけ違う並行世界間で日常的に揺れ動いていることが実証された時代──虚質(きょしつ)科学を研究する母と専業主夫の父と共に暮らす今留栞(いまどめ)・しおり)は、中学2年の夏休みに訪れた元病院の敷地内で、内海進矢(うつみ・しんや)という青年と遭遇。のだが……別の並行世界を生きた、もう一人の栞の物語。

みんなにも読んでほしいですか?

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