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【特別掲載】櫛木理宇『氷の致死量』連載第1回【増量試し読み】

映画『死刑にいたる病』の大ヒットを記念して、原作者の櫛木理宇さんによる最新傑作『氷の致死量』の本noteでの試し読みを特別に増量し、10回に分けて掲載いたします。読みだしたら止まらないノンストップ・シリアルキラー・サスペンス。毎日更新していきますので、お付き合いいただければ嬉しいです!(編集部)

『氷の致死量』
櫛木理宇
早川書房/46判並製/定価2090円(税込)


『氷の致死量』

櫛木理宇



プロローグ


  

「ねえカバラ先生。あなた、もしかしてトガワさんとご親戚?」

 私立聖ヨアキム学院中等部の事務長が、そう首をかしげて問う。縁なし眼鏡の奥で、黒い瞳がいぶかしげに揺れる。

 鹿原十和子(かばら・とわこ)はとくに驚かなかった。

 トガワさんって、トガワサラサさんですよね。ええ、お名前は存じています。でも親戚ではありません。会ったことさえありません──そう言いたいのを抑え、

「いえ」

 とだけ短く答える。

「親戚にその姓はいないようです」

「あら、ごめんなさい。よく似た方(かた)を知っていたものだから」

 ついよけいなことを──と、事務長が口に手をあてて目を細める。微笑んだつもりらしい。彼女の内心の狼狽(ろうばい)を察して、十和子は薄く微笑みかえした。

 事務長とは初対面だ。この聖ヨアキム学院に、十和子は今日から赴任した。しかし事務長のいまの問いが、失言にあたることは知っていた。

 はじめてトガワサラサの名を聞いたのは、十年以上前だ。

 大学院の廊下でゼミの教授に呼びとめられ、

 ──きみ、トガワサラサくんの妹かね?

 と問われたのだ。

 ──は? いえ。

 十和子は目をしばたたいた。

 ──違いますが……?

 ──ああそうか、すまない。

 教授は首を振った。

 ──以前のゼミ生が、きみによく似ていたものでね。すまない。

 その顔には、いま事務長が浮かべたのと同じ戸惑(とまど)いと後悔が浮いていた。いや、もっと色濃い後悔が、だ。なぜなら当時は、まだおいそれと彼女の名を口に出せる時期ではなかった。

「失礼しました。では、校内を案内いたしますね」

 仕切りなおすように事務長が言う。十和子はうなずいた。

「お願いします」

 正直、また教壇に立つのは怖かった。一年間のブランクがある。だが教師としての腕の鈍りを恐れているのではなかった。生徒の視線にさらされるのが、怖かった。

 ──去年教えた生徒とは、別人だ。まったく違う生徒たちだ。それはわかっている。

 頭では重々わかっているけれど、感情が付いてくるかは、またべつだ。

 この聖ヨアキム学院への口利きは、前述の元担当教授に頼んだ。いや、きみに紹介するのは、ちょっと……と渋る教授に、

 ──大丈夫です。

 と十和子は断言した。

 ──ぜひ、わたしに行かせてください。お願いします。

 だが教授が渋った理由も、やはり頭では理解できていた。

 無理もない。だって──そう、この聖ヨアキム学院中等部の校内で、英語教師だった戸川更紗(とがわ・さらさ)は殺された。十四年前のことだ。犯人は、いまだ見つかっていない。

 十和子はまぶたを閉じ、ゆっくりとひらいた。

 目の前に広い回廊があった。

 アーチ形の天井。均等に並んだロマネスク様式の白い柱。やわらかな春の陽射しが、東の空から降りそそいでいる。回廊の突きあたりには、毎週月曜の朝に全校生徒が典礼をおこなうチャペルがあるはずだ。

 ──戸川、更紗。

 十和子は背すじを伸ばした。

 いま十和子は、彼女を誰より近しく思っている。親より友人より、夫より。

 生前の彼女をもっと知りたい。そう十和子は熱望していた。だからこそ、ふたたび教壇に立つことを選んだのだ。しかもこの聖ヨアキム学院で。

 戸川更紗はわたしと同じだった──。十和子はそう推測していた。その推測に、確証がほしい。わたしは孤独ではないのだと、先人がいたと思いたい。

 いまのわたしには生きた人間より、死せる彼女のほうが安心できる。彼女を理解したい。彼女の生だけでなく、死の理由をも知りたい。彼女のすべてに寄り添いたい。

 ──いえ、正確には違う。

 正しくはたぶんこうだ。

 彼女を理解することで、わたしの心を癒やしたい。

 事務長の後ろにつき、ロウヒールのかかとを鳴らして十和子は歩いた。

──第2回へ続く

〈書誌情報〉
氷の致死量
櫛木理宇
早川書房 四六判並製単行本
定価:2090円(税込)
ページ数:416ページ

内容紹介
聖ヨアキム学院中等部に赴任した英語教師の鹿原十和子(かばら・とわこ)は、自分に似ていたという教師・戸川更紗(とがわ・さらさ)が14年前、学院で何者かに殺害された事件に興味をもつ。更紗は自分と同じアセクシュアル(無性愛者)かもしれないと。一方、街では殺人鬼・八木沼武史(やぎぬま・たけし)が、また一人犠牲者を解体していた。八木沼は亡くなった更紗にいまだ異常な執着を持っている。そして彼の5番目の獲物は、十和子が担任する生徒の母親だった……十和子と八木沼、二人の運命が交錯するとき、驚愕の真実が! 映画「死刑にいたる病」の原作者が放つ傑作シリアルキラー・サスペンス。

〈プロフィール〉
櫛木理宇(くしき・りう)
1972年新潟県生まれ。2012年『ホーンテッド・キャンパス』で第19回日本ホラー小説大賞・読者賞を受賞。同年、『赤と白』で第25回小説すばる新人賞を受賞する。著書に〈ホーンテッド・キャンパス〉シリーズ、『死刑にいたる病』(『チェインドッグ』改題)『死んでもいい』(以上2作ハヤカワ文庫刊)『鵜頭川村事件』『虜囚の犬』『老い蜂』『残酷依存症』などがある。2016年に『ホーンテッド・キャンパス』が映画化、2022年に『死刑にいたる病』が白石和彌監督映画化『鵜頭川村事件』は入江悠監督でドラマ化が決まっている。