【特別掲載】櫛木理宇『氷の致死量』連載第2回【増量試し読み】
映画『死刑にいたる病』の大ヒットを記念して、原作者の櫛木理宇さんによる最新傑作『氷の致死量』の本noteでの試し読みを特別に増量し、10回に分けて掲載いたします。読みだしたら止まらないノンストップ・シリアルキラー・サスペンス。毎日更新していきますので、お付き合いいただければ嬉しいです!(編集部)
『氷の致死量』
櫛木理宇
第1回「プロローグ」の続き
第一章
1
二年C組の教室を覗きこみ、
「あなたたち、まだ残ってたの? 早く帰りなさい」
と十和子(とわこ)は声をかけた。
時刻は午後五時三十四分。
黒板の真上で、大きなデジタル時計がコロン記号を点滅させる。吹きこむ風を受けたカーテンが、茜(あかね)に染まった空を生徒たちから隠すようにふくらんでいる。
「はあい」
「はーい、いま帰りまーす」
ひとつの机を中心に集まっていた女子生徒たちが、口ぐちに高い声を上げた。
紺のセーラー服。臙脂(えんじ)のリボンタイ。ふくらはぎ手前までのクルーソックス。みんな手足がすらりと細長い。そして「帰ります」と口では言うくせに、誰ひとり輪から抜けようとはしない。
今年の聖ヨアキム学院の二年生はA組が男子クラス、C組が女子クラス、BとD組が男女共学だ。そして十和子はC組の担任である。
十和子は教室へ入り、彼女たちに近づいた。
中心にいた生徒が、すかさずスマートフォンの画面を突きつけてくる。
「ねえねえ先生。この中の誰が好き? 誰が一番かっこいいと思う?」
液晶に表示されていたのは、いま人気の男性アイドルグループの画像だった。
十和子は内心で苦笑した。さすがにグループ名くらいは知っている。しかしメンバーの顔と名前は、まるで一致しない。なぜって興味がないからだ。人間の脳は、興味のないものは覚えられないようにできている。
芸能にまるきり関心がないわけではなかった。三十五歳の“おばさん”になったせいでもない。既婚者だからでもなかった。昔から──そう、昔からのことだ。
「この子かな」
適当に、十和子は端の男の子を指した。途端に生徒の輪から「きゃーっ」と悲鳴じみた絶叫が湧く。
「うっそ、意外―」
「えーっマジ? 先生なんでなんで?」
詰めよる生徒たちに、
「だって、やさしそうじゃない」
さらりと十和子は答えた。
これもまた、昔からの決まり文句である。こういった場面では、十代の頃から繰りかえしてきた。一番やさしそうだから、落ちついて見えるから、と……。
「えー、そう来たか」
「さすが鹿原(かばら)先生。クールぅ」
「ねえ先生、こっちのセンターの子のほうがかっこいいってば。うちの推し、もっとよく見てよー」
「はいはい」手を叩いて十和子はいなした。
「明日見させてもらうから、今日はもう帰りなさい。最終のバスが出ちゃいますよ」
「はあーい」
ようやく渋しぶといった様子で生徒が散りはじめる。聖ヨアキム学院中等部のスクールバスは、午後五時五十分が最終なのだ。
学校指定のバッグにスマートフォンをしまう。スカートの皺(しわ)を伸ばす。机をがたがたと鳴らして、一人、また一人と教室を出ていく。
「先生、また明日。ごきげんよう」
「ごきげんよう、先生」
全員が戸口で振りかえり、きっちりと礼をして去っていく。
十和子は目を細めた。
「ええ。また明日ね。ごきげんよう」
女子中学生が美形のアイドルに熱を上げるのは、カトリック系の学校に通っていようがいまいが全国共通だ。微笑ましい。そしてなんのかの言いながら、教えこまれた「ごきげんよう」の挨拶と礼を欠かさないのも可愛らしい。
うまくやっていけそうだ、と思う。
そう、この学校でなら、きっとうまくやっていける。前の学校で起こったような・事件・とは無縁に、心穏やかに教師生活をつづけられる。
──生徒に背後に立たれることだけは、まだすこし慣れないけれど。
無人になった教室を出て、十和子は廊下を歩きはじめた。
慎重に階段をくだり、夕焼けに染まりはじめた渡り廊下を抜ける。中等部の本館はH字形をしており、この渡り廊下が間の横棒に当たる。
五月が、早くも終わろうとしていた。つまり十和子が聖ヨアキム学院中等部の教壇に立ってから、二箇月近くが過ぎたことになる。
もとよりクリスチャンの──プロテスタントではあるが──十和子には、居心地のいい校風であった。穏やかで、規律正しい。かといって厳格すぎるわけでもない。
むろん生徒も教員も全員がクリスチャンではなかった。洗礼を受けた生徒は三割強といったところか。それでも一般の学校に比べればかなりの率だろう。
十和子は引き戸を開け、職員室へ入った。
「鹿原先生、すごいな。すっかり生徒たちと馴染(なじ)んでますね」
机に着いた途端、隣席からそう声をかけられた。
美術担当の森宮(もりみや)だ。浅黒い顔に、笑うと細くなる目。ラフなポロシャツに樹脂サンダルをつっかけて、白衣がなければ美術教師にはとても見えない。
「いやすみません。通りすがりにさっきの、見ちゃったんです。『ねえ先生。この中の誰が好き? 誰が一番かっこいい?』ってやつ」
「あら、見られちゃいましたか」
十和子は微笑んだ。森宮が下敷きで顔を扇(あお)いで、
「C組はいいですよね。女子クラスだからか、まだ五月だってのに早くもみんな打ちとけてる。全体の雰囲気がなごやかですよ」
みんなねえ、と胸中で十和子は思う。
──その「みんな」とはクラス全員のことですか。それとも、あるひとりを除いてのこと?
だがもちろん、その問いは口に出さず呑みこんだ。
森宮が椅子に寄りかかり、大げさに嘆息する。
「あーあ、鹿原先生がうらやましいなあ。ぼくなんか在籍六年目なのに、女子からあんなふうにじゃれてもらった経験ないですよ」
「そりゃあ女子生徒は、そういう年頃ですもの」
笑顔を崩さず、十和子はあいまいに答えた。
友人たちに学生時代、「出たあ、十和子のアルカイックスマイル」といつも揶揄(やゆ)された笑顔だ。唇を半円状に吊りあげる、静かな微笑である。
「“そういう年頃”か。うんうん、こいつもまさにそれかな」
机に置かれたプリントを、森宮がかざす。
A4用紙に横書きで印刷された、保護者へのお知らせプリントであった。事務員の浜本夕希(はまもと・ゆき)が配っていったのだろう。一行目のタイトルは『校内で流行中の、チェインメール対策について』。
「チェインなんとかって、すたれないんですねえ。ぼくの母親の世代からあるそうですよ。もっともその頃はメールじゃなく、『不幸の手紙』だったとか。つまり手書きですよ、手書き。メールなら転送すればいいだけですが、手書きで『同じ文面を十人に送れ』なんて言われたらね……」
「わたしの頃も、ぎりぎり手書きでしたよ」
十和子は言った。森宮が目を剥(む)く。
「へえ、鹿原先生も、そんなの参加したんですか?」
「参加というか、ほかの子にまわしたりはしてません。でもクラスで流行したし、一応まわってきましたね。──そんなに驚きですか?」
「いやあ、驚きというか」
森宮は目じりに笑い皺を寄せた。
「鹿原先生は、こう、なんというか、知的でノーブルですからね。そんな世俗の瑣末事(さまつじ)とは、遠いとこにいるイメージでして」
咄嗟に十和子はうまく反応できなかった。
しかし助け船のように、頭上からうまいタイミングで声が降ってきた。
「はいはい、間を失礼しますよ。いまいちノーブルじゃない幹事で申しわけございませんね」
おどけた口調でそう言うのは、事務長の灰田(はいだ)であった。
二十年以上前から「ロッテンマイヤー、略してロッテン」の渾名が定着しているという彼女は、今日もひっつめ髪にスタンドカラーの黒いツーピースだ。
「予告したとおり、鹿原先生と浜本さんの歓迎会は今夜ですよ。『モンテ』で十九時半からを予約しました。はいこれが地図」
縁なし眼鏡を指でずりあげて、同じくA4の用紙を差しだしてくる。
「わからない場合は、お声がけしてくだされば同伴いたします。食べ物にアレルギーがある場合は、十八時半までにわたしまで連絡お願いしますね?」
歓迎会の会場『モンテ』は、驚いたことにフランス料理店だった。
奥の個室を貸しきりで、総勢二十八名の会食である。四月から赴任した十和子と、浜本夕希の歓迎会だ。
以前勤めていた公立中学ならば、割烹(かっぽう)の座敷を貸しきって、宴会料理のお膳を前に──というのがお決まりであった。
十和子たちヒラの教師は、たとえ歓迎される側であっても料理をそこそこに席を立ち、まずは校長、次に教頭、次は学年主任、と順にお酌(しゃく)してまわった。早々に泥酔して「まあ今夜は無礼講ですから、無礼講!」と大声を上げる者も、必ずひとりはいた。
──それが、聖ヨアキムだとこうなのね。なんとまあお上品な。
ついさっき森宮に「ノーブル」と評されたことを思いだし、あやうく笑いだしそうになる。この校風のただ中に五年いる彼のほうが、よほどノーブルではないか。
料理は美味しかった。
前菜はオイスターのムニエルと、魚介のカクテル。さらに蓴菜(じゅんさい)のコンソメスープを経て、いまは真鯛のポワレの皿を前にしている。
レモンが効いたバターソースで、日本人の口にも馴染みやすい。ワインも口当たりよく上等だった。
──でもこれじゃ、席を移動できないな。
ナイフとフォークを扱いながら、十和子は「残念」と内心でつぶやく。奥のテーブルの上座に座る、校長、事務長、学年主任、神父を順に目で追う。
お酌してまわる必要がないのは、正直言ってありがたい。でも今日ばかりは、いまひとつ嬉しくなかった。
お酒が入る席なら、さすがのクリスチャンでも堅い口がゆるむかも、とひそかに期待していたのだ。この機会にすこしでも情報を得ようと目論(もくろ)んでいた。そう──戸川更紗についての情報をだ。
「どうしました? 鹿原先生」
隣からささやかれ、はっとした。
浜本夕希だ。前下がりのボブカットに、学生と言っても通るだろう薄化粧の童顔。まるい瞳が、やや心配そうに揺れている。
「もしかして、お魚苦手でしたか?」
「えっ、いえ」
いつのまにかフォークを使う手が止まっていたらしい。十和子は慌てて首を振り、
「ちょっと、戸惑っちゃって。校長先生たちにお酌してまわらない歓迎会なんて、はじめてだから」
と答えた。
「あっ」夕希が指さきで口を覆う。
「わたし、そんなの頭の片隅にも浮かびませんでした。そっかあ、そういうことしなきゃいけない場だってあるんですもんね。お酌なんて、そういえばやったことない……」
いかにも若者らしい反応に、十和子の頬がゆるんだ。
一世代違えば世界が違う、とはよくいったものだ。女がお茶くみやお酌をしなくていい社会で育った夕希が、純粋にまぶしかった。
「えっと、鹿原先生は……以前は公立中学校に?」
「ええ。でもお酌どうこうは、公立私立の違いというより校風でしょうね。まあ郷(ごう)に入っては郷に従え、だから」
ポワレの皿が下げられた。口直しのソルベが運ばれてくる。
夕希がスプーンを取って、
「というか鹿原先生って、院卒ですよね? 院卒で公立中の教師になるってめずらしくないですか?」
そう言ってから、「あ、すみません」とふたたび口を手で覆う。
「じつはわたし、鹿原先生の経歴見ちゃったんです。一緒に赴任する方だから、つい気になって」
「いえそんな。謝らないで」
首を振りながら、経歴か、と十和子は思った。
いつかわたしにも、職員の経歴を閲覧できる機会があるだろうか? とくに十四年前、この学校に在籍していた職員の経歴をだ。ざっと頭には入れてあるが、さすがにこまかい点は把握できていない。
──事件当時、戸川更紗(とがわ・さらさ)とともに働いていた同僚たち。
十和子もスプーンを取った。
ソルベは柚子(ゆず)と、ほのかな蜂蜜の味がした。
「でもね浜本さん。院卒から公立の教師になるのって、それほどめずらしくないんですよ」十和子は言った。
「え、そうなんですか?」
「ええ。院といえば研究職のイメージが強いけれど、教育学部はやっぱり教員免許の取得が第一目的、という人が多いから。それに院生になったほうが、研究室の推薦を受けやすくて就職に有利ですもの。とくにわたしは、はなからオーバードクターになるつもりはなかったし」
そう言ってから、
「浜本さんは、以前はどちらに?」
と夕希に話を振る。
「えっと、わたしは新卒で一般企業に入ったんです。でも人間関係が面倒くさいし、評判以上にブラックだったからいやになっちゃって。だから退職して、事務系の専門学校に一年通いなおしました。私立校って事務員はたいてい契約社員しか募集しないんですけど、聖ヨアキムは正社員採用なのが嬉しいですよね。……それより先生、次はヴィアンドですよ。お肉お肉。サーロインステーキ! フランス料理っぽい、変なソースかかってないといいなあ」
小声ながらも夕希がはしゃぐ。その目線がふっと止まって、
「あ」
なにかに気づいたらしく、十和子の耳もとに口を寄せてきた。
「森宮先生がこっち見てた。……森宮先生って絶対、鹿原先生に気がありますよね」
「まさか。あなたを見てたんでしょう」
「違いますって。百パーセント鹿原先生です」
返す言葉に十和子は詰まった。
苦手な話題だった。生徒に「この中で誰が一番好き?」と訊かれるより何倍も困る。無関心すぎてもいけない。かといって興味のあるふりをしても、あとが厄介だ。
しかたなく十和子は、もっとも無難な選択をした。
「あら嬉しい。でもわたしはこう見えて、夫のいる身ですから」
できるだけ冗談めかし、笑いにまぎらせようとしたのだ。
しかし夕希はしつこかった。
「そんなの関係ないですって。第一、森宮先生はそう悪くないですよ。うちの教員の中じゃ一番じゃないかな。背も高いし、顔だって……」
さいわいそこで夕希の言葉は止まった。
メインのステーキが運ばれてきたおかげだ。瞬時にステーキで頭がいっぱいになった夕希に、十和子は胸を撫でおろした。
この隙にと、ふたたび奥のテーブルに目を向ける。
十四年前の職員名簿は、一応確認済みだ。いまこの場にいる二十八人の中で、当時も在籍していたのは丹波(たんば)校長──当時は教頭だった──と灰田事務長、杵鞭(きねむち)学年主任、志渡(しど)神父、そして二人の教師である。
私立学校は公立と違い、基本的に転任がない。聖ヨアキム学院は学校法人として中等部、高等部、大学を擁するが、それぞれ教員免許が異なるため、三校間での異動すらない。いなくなるのは、退職するときのみだ。
キリスト教系の学校はどうしてもクリスチャンが厚遇されやすいため、そうでない教師は自然と辞めていく……とは噂に聞く。逆に肌が合えば、定年まで勤めあげることもめずらしくない。
──十四年を経て、残っている教員は六人きり。
はたしてこれが多いのかすくないのか、十和子は判断できない。できる材料が乏しい。だが更紗の事件を機に辞めた教師は、きっと一人や二人ではないに違いない。
聖ヨアキム学院では心穏やかに教師をつづけたい、という気持ちはほんとうだ。波風を立てたくない。トラブルは二度と御免だ。
なのに心の一方では、戸川更紗の死の真相が気にかかる。なにがあったか知りたいと切望してしまう。
──いったいどちらを、優先させるべきなのか。
心中でつぶやき、十和子は唇をワインで湿した。
──第3回へ続く
〈書誌情報〉
『氷の致死量』
櫛木理宇
早川書房 四六判並製単行本
定価:2090円(税込)
ページ数:416ページ
〈内容紹介〉
聖ヨアキム学院中等部に赴任した英語教師の鹿原十和子(かばら・とわこ)は、自分に似ていたという教師・戸川更紗(とがわ・さらさ)が14年前、学院で何者かに殺害された事件に興味をもつ。更紗は自分と同じアセクシュアル(無性愛者)かもしれないと。一方、街では殺人鬼・八木沼武史(やぎぬま・たけし)が、また一人犠牲者を解体していた。八木沼は亡くなった更紗にいまだ異常な執着を持っている。そして彼の5番目の獲物は、十和子が担任する生徒の母親だった……十和子と八木沼、二人の運命が交錯するとき、驚愕の真実が! 映画「死刑にいたる病」の原作者が放つ傑作シリアルキラー・サスペンス。
〈プロフィール〉
櫛木理宇(くしき・りう)
1972年新潟県生まれ。2012年『ホーンテッド・キャンパス』で第19回日本ホラー小説大賞・読者賞を受賞。同年、『赤と白』で第25回小説すばる新人賞を受賞する。著書に〈ホーンテッド・キャンパス〉シリーズ、『死刑にいたる病』(『チェインドッグ』改題)『死んでもいい』(以上2作ハヤカワ文庫刊)『鵜頭川村事件』『虜囚の犬』『老い蜂』『残酷依存症』などがある。2016年に『ホーンテッド・キャンパス』が映画化、2022年に『死刑にいたる病』が白石和彌監督映画化。『鵜頭川村事件』は入江悠監督でドラマ化が決まっている。