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【劇場アニメ公開記念】『君を愛したひとりの僕へ』冒頭試し読み

乙野四方字さんの大ヒット青春SF『僕が愛したすべての君へ』『君を愛したひとりの僕へ』。8月には待望の長篇スピンオフ『僕が君の名前を呼ぶから』も刊行され、10月7日(金)の劇場アニメ公開に向けさらに注目が集まっています。本欄では、映画の公開を記念しシリーズ全作の冒頭試し読みを公開いたします。本日は『君を愛したひとりの僕へ』の第一章までを公開! こちらから読むと、幸せなラブストーリーに……。

君を愛したひとりの僕へ

序章、あるいは終章

 ギネス・カスケード、と呼ばれる現象がある。
 ギネスとはアイルランド生まれの真っ黒なビールのことだ。日本のスーパーやコンビニなどではあまり見かけないが、アイルランドでは「コップに入った食事」などとも言われ毎日のように飲まれている。
 このビールを口の広がったグラスに勢いよく注ぐと、泡とビールが分離されてしまうまでの間、黒いビールの中を白い泡が下へ下へと沈んでいくのを見ることができる。泡が液体の中を沈むという現象は普通に考えればあり得ないことのように思えるが、実はこれは極めて単純な物理現象である。
 泡が浮かぶ時、その泡にぶつかったビールも押し上げられて上昇する。これはビールに粘性があるためだ。しかしビールは泡以上には上昇しないので、グラスの径が広がっている部分で渦となり、グラスの内表面に沿って下降していく。すると今度は泡が粘性によってビールに押され、ビールと一緒に下降していくのだ。これにより、グラスの中央部では泡が上昇し、グラスの内表面では泡が下降するという状態ができあがる。これを外から見ると、泡が沈んでいるようにしか見えないというわけだ。
 自慢できることではないが、俺も若い頃は結構な酒を飲んだ。なのでこの現象自体は見知っていたのだが、それを「ギネス・カスケード」と呼ぶことを知ったのは四〇歳になろうかという頃だった。
 どうしてその年になってそんなことを知ったのかと言えば、何のことはない。たまたま入った店でたまたまギネスを頼み、グラスの内側で泡が沈むのを見てその現象を思い出し、慌ててマスターに教えてもらった結果だ。
 では、なぜそんなことを慌てて教えてもらったのか。
 それは、その時の俺にとって『泡が沈む』という現象は世界をひっくり返すほどの衝撃で──そしてその時の俺が、世界をひっくり返すための何かを探していたからだ。
 泡は沈む。その発想を得た俺は、それからの人生をとにかく『泡を沈める』ために費やした。要するに、泡の浮力がビールの粘性を下回ればいい。その状態で下降流を生み出してやれば、泡は沈んでいくはずだ。
 泡は沈む。この概念が俺の中に生まれただけで、たった一杯のグラスビールの値段とは比べものにならないほどの価値があった。
 それから約一〇年をかけて、ついに目的を果たせる『泡の沈め方』を確立させた。あとは時期と場所。いつ、どこに泡を沈めるかだけだ。
 それからさらに二〇年以上をかけて、慎重に泡を沈める時期と場所を見定めた。そしてここなら大丈夫だという場所を見つけた時、俺はもう七〇歳を過ぎていた。
 長い、長すぎる人生だった。
 そして、何の意味もない人生だった。
 妻もいない。子供もいない。自分が何のためにこの世界を生きてきたのか意味を見出せない。俺が唯一愛した人は、俺のせいでこの世界から消えてしまった。
 だが、それももう終わりだ。
 泡は沈む。
 さぁ、世界を消し去ってしまおう。
 こんな、愛する人のいない世界なんて。

第一章 幼年期

 七歳の俺は離婚という言葉の意味を理解していて、父と母のどちらと一緒に暮らしたいかと聞かれた時も、特に取り乱すことなく答えを出せた。
 父はその道では高名な学者であり、片や母は実家が資産家である。どちらについていっても金銭的な不自由はしそうにない。ならばあとは感情で決めればいいわけで、最終的に俺は父についていくことを選んだ。ただ、これは俺が母よりも父のほうが好きだったとかそういうわけではなく、母についていくと再婚の邪魔になるのではと思ったからだ。
 離婚の原因は、父と母の会話のずれだったらしい。父は研究所に泊まることが多く、たまに家に帰ってきた時は母に研究の内容を話すのだが、母はいつも全く理解できていなかったようだ。父は「自分が理解していることは相手も理解していて当然」という考えで会話する人だったため、母とは日常会話のテンポも合わず、一人苦悩する母の背中をよく見ていたものだ。
 そんな父だから、きっとしばらくは再婚を考えたりしないだろうと判断したというわけである。いや、さすがに当時はそこまではっきりと考えていたわけではないだろうけど。
 面白いことに、父と母の関係は離婚した後のほうが良好だった。一度は結婚して子供をもうけたくらいだからお互いにちゃんと愛情はあったらしく、俺が子供だった頃は最低でも月に一回、俺を交えたり交えなかったりで親交は続いていた。きっとそのくらいの距離感が二人にはちょうどよかったのだろう。とりあえず俺は和やかな様子の両親を喜び、自分が望まれない子供ではなかったことに安堵した。
 父と二人暮らしをすることになった俺は、父が勤める研究所にちょくちょく顔を出すようになった。学校が終われば家に帰らず研究所に向かい、仕事を終えた父と一緒に帰る。研究所は年中無休の交代制だったため、学校の休日と父の仕事が重なった日には一日中研究所にいることもあった。
 研究所には福利厚生の一環として子持ちの所員が子供を遊ばせるための保育室があり、たまに小さい子供がいた。企業内保育所と言うほどきちんとしたものではなく、専任の保育士もいないために所員たちが持ち回りで子供の面倒を見ているのだが、年長者だった俺はよく代わりに子供たちの相手をしており、忙しい所員たちから感謝された。
 保育室には誰もいない時もよくあった。そんな時、俺はそこに置いてある本を読みふけった。子供向けの絵本や小説ではなく、父の研究に関わる論文や学術書などである。当然ながら当時の俺には何が書いてあるのかさっぱりだったのだが、中にはイラスト多めのいわゆる『よく分かる』タイプの本もあり、それならなんとか読むことができて、その未知なる世界に心を躍らせていた。
 俺が研究に興味を持つことが嬉しかったのだろう。父はよく休憩がてら俺の様子を見に来て、俺の質問に答えたり、研究の内容を分かりやすく教えてくれたりした。
 ある日父は、熱帯魚を飼っている大きな水槽を指さして、こんな話をした。
「この泡が、俺たちの生きている世界だ」
 父は息子に対しても自分のことを「父さん」などとは呼ばず「俺」と呼ぶ。母と一緒に暮らしていた頃の俺の一人称は「僕」だったのだが、父との二人暮らしになってからはすっかりそれがうつってしまった。
 父の指さす先には、エアレーションから水面に昇っていく泡。
「泡がだんだん大きくなっていくのが分かるか? 一定の温度下だと体積は圧力に反比例する。これをボイルの法則と言い、」
「待って待って、分からないから。はんぴれい? って何?」
「比例ってまだ習わないのか? いつ習うんだったかな」
「分からないけど習ってないよ。なんか分かりやすくたとえてよ」
「そうだな……一個百円の菓子を二個買うと二百円、三個買うと三百円になるだろ? こんな風に、片方が増えるともう片方も増える関係のことを比例って言うんだ」
「ふんふん」
「反比例はその逆だ。六個の菓子を二人で分けると、一人分は三個になるだろ? 三人で分けると一人二個、六人で分けると一人一個だ。こんな風に、片方が増えるともう片方が減る関係のことを反比例と言う」
 父は最初、決まって難しい言い方をする。けれど俺が分からないと言えば、悩みながらもちゃんと分かりやすくたとえてくれる。母もこんな風に、素直に「分からない」と言えれば二人の関係はまた違っていたのかもしれない。
「水の中は、深ければ深いほど圧力……押さえつける力が強い。だから泡の体積……大きさは、下にあるほど小さくなる。泡が上に行くほど大きくなるのは圧力が弱くなるからだ。こんな風に、泡の大きさが押さえつける力に反比例する法則を、ボイルの法則という」
「ぼいるのほうそく」
「ボイルの法則」
「覚えた」
「よし」
 俺の反応に気をよくした父は、水槽の泡を指さして続ける。どうやらボイルの法則を教えることが目的ではなかったらしい。
「俺たちは、世界をこの泡と同じものと考えて、泡同士で情報を交換できないかという研究をしている」
 最初にそんなことを言っていたのを思い出す。この泡が、俺たちの生きている世界だ。どういうことだろう?
「世界は最初、水の底で生まれた一つの小さい泡だ。それが浮かんでいくと同時に大きくなり、途中で二つに割れる。その割れた泡の片方にいるのが俺やお前だ」
「もう片方はどうなるの?」
「そっちの泡にも俺やお前がいる。ただし、こっちの泡とはいろいろと違う部分がある。もしかしたらそっちの泡では、お前は俺じゃなくて母さんと一緒にいるかもしれない」
 もう一つの泡には、両親が離婚した時に母についていった俺がいるということだろうか。
「そういった、俺たちがいるこの泡から見た別の泡のことを、並行世界って言うんだ」
「へいこうせかい」
「並行世界」
「覚えた」
「よし」
 正直、比例や反比例に比べるといまいち理解できていなかったのだが、とにかく教えられたことは何でも覚えるようにしていた。おかげで俺の学力は学校の授業よりも随分と先を行くことになり、こと勉強に関しては苦労しなかった。
「人間は無意識に、日常的に近くの泡と行き来してるんじゃないか、と俺たちは考えてる。近くの泡だとあまり違いがなくて行き来してることに気づいてないだけなんじゃないかってな。もしそうだとしたらそれを証明して、さらに制御を目指す。それが、うちの所長が提唱した『虚質きょしつ科学』という学問だ」
 その時の俺は、それがどれだけ凄いことなのかがよく分かっていなかった。多少賢かったとは言え、所詮小学校の低学年。なんだか面白そうだなぁ程度にしか思っていなかった。
 その愚かさが過ちを招いたのは、それから数年後。
 その時の俺は、ちょうど一〇歳になろうとしていた。

こよみ
 電話を終えた父さんが、いつになく暗い声で俺の名前を呼んだ。
 ゲームの途中なのに、と思ったけど、その父さんの声があまりにも沈んでるように聞こえたから、無視できずにゲームを中断して振り向いた。
 父さんの顔は、声から予想した通りに落ち込んでる。こんな父さんを見たのは初めてかもしれない。いったい何の電話だったんだろう?
「ユノが、死んだらしい」
「……え?」
 ユノというのは、母さんの実家で飼っている犬の名前だ。ゴールデンレトリバーの雌で、俺より大きいくらいなのに甘えん坊で、母さんの家に遊びに行くといつもしっぽを振ってじゃれついてきた。
 そのユノが、死んだ?
 あまりに唐突すぎて実感できなかった。蚊やハエを叩いたりはするし、肉や魚を食べもする。ゲームではたくさんのモンスターを殺してる。でもユノは虫じゃないし食べ物でもない、もちろんモンスターでもない。そんなユノが、どうして死ぬんだ? アイテムを使えば生き返るのか? 魔法を使えば? さすがに、そんなことを本気で思うほど子供じゃないけど。
「死んだって、なんで?」
「交通事故だそうだ。道に飛び出して車にかれかけた子供を助けようとして、代わりに轢かれたらしい。立派だよ」
 自分で聞いておきながら、そんなことを言われても、なんて思った。だってそうだろう、いきなりそんなことを言われてどうすればいいんだ? 何を思えば?
「母さんの家の庭に、墓を作ったそうだ。今から行くか?」
「……えっと、ゲームが、途中だから」
 とっさにそう答えてしまう。ゲームなんかより大事なことくらい分かってるのに。
「……そうか。じゃあ、また今度にするか」
 ゲームどころじゃないだろ、と怒られるかと思ったのに、父さんはむしろ心配するような目で俺を見た。その目がなんだかとても痛くて。
「……やっぱり、今から行く」
 そう言って俺は、ゲームの電源を切った。
 準備をして、父さんの車で母さんの家へと向かう。そんなに遠くなくて車で一〇分くらいだ。たまに一人で自転車で行くこともある。
 父さんと母さんが別れてすぐの頃はちょくちょく母さんの家に遊びに行っていた。母さんやユノに会えることはもちろんだけど、それ以上に俺はおじいちゃんに会えることが嬉しかった。おじいちゃんはいつも優しくて、行くたびに甘いアメをくれた。けれどだんだんと行く回数は減っていって、今年は正月に挨拶に行って以来だった。
「ああ、暦。来たのね。こっちよ」
 何ヶ月ぶりかに会う母さんは、やっぱりユノのことがショックだったのか、見ただけで心配になるような落ち込んだ顔をしている。俺もそんな顔をしているんだろうかと少しだけ不安になる。
「大丈夫か?」
「うん。ありがとう」
 父さんが母さんに声をかけると、母さんは少しだけ安心したように笑った。こんな時になんだけど、二人が仲良さそうにしているのを見るのはやっぱり嬉しかった。
 ユノの墓は、裏庭の片隅にぽつんとあった。少しだけ土が盛り上がっていて、その下にユノがいると言われてもうまく実感できない。かわいそうだから出してあげたい、なんてことすら思う。
「ユノはね、暦が生まれた時におじいちゃんが飼い始めたのよ」
 その話は今までにも何度か聞いたことがあった。子供が生まれたら犬を飼いなさい、という詩も覚えるほどに聞かされている。
 子供が生まれたら犬を飼いなさい。
 子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。
 子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。
 子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。
 そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。
 ……この詩の言ってることが本当だとしたら、ユノが死んでしまうのは少し早かったんだろう。いつからが青年なのかは分からないけど、俺はまだ九歳だ。だからこうしてユノの墓を見ても命の尊さが分からないのかもしれない。
「暦、おじいちゃんたちにも会っていってね」
 そう言われて俺はそのまま家へと上がる。おじいちゃんとも数ヶ月ぶりだ。
「ああ……暦。来てくれたのか。ありがとうなぁ」
 久しぶりに会ったおじいちゃんは、記憶よりも一気に老け込んだように見えた。ユノを飼い始めたのはおじいちゃん。だから、誰よりも落ち込んでるのかもしれない。
 泊まっていけと言われたけど、俺はそれを断った。
 ユノが死んだことをちゃんと悲しめないと、それ以上おじいちゃんとは一緒にいられないような気がした。

 それから一ヶ月くらい、ユノのことはほとんど忘れて過ごしていた。
 母さんの家にはあれから一回も行ってない。ユノの死を悲しめなかったことが、今でも少し後ろめたいからだ。
 その日、俺はいつものように研究所の保育室にいた。
 今日は俺しかいない。本を読むことにも飽きて、なんとなくテレビをつけてみる。
 チャンネルを変える手が止まったのは、画面にゴールデンレトリバーが映ったからだ。
 ユノによく似た大きな犬。つい気を取られて画面を見てしまう。
 その番組は、様々な形で人に尽くした犬の特集だった。盲目の飼い主の目となって生活を助ける盲導犬。災害現場で人が見つけられなかった要救助者を発見した救助犬。座礁した船からロープをくわえて岸まで泳いだ船上犬。帰らぬ飼い主を待ち続けた忠犬。宇宙開発の実験のために単独で宇宙へと飛んだライカ犬……。
 テレビのコメンテーターはそれら犬たちの勇気を讃え、忠心に涙している。犬は人間を決して裏切らない。人類の最大の友である。テレビはその後も犬たちがいかに人間のために生きて死んでいくかを感動的に語っている。
 それを見ながら、俺はなぜか腹が立って仕方がなかった。
 いったい何に怒っているのか、自分でも分からない。そもそも本当に怒っているのかも分からない。もしかしたら怒ってるんじゃなくて悔しいのかもしれない。でもそうだとしてもいったい何が悔しいのか、やっぱり分からない。
 分からないまま、目の奥から何か熱いものがこみ上げてくる。
 俺は、なんで泣いてるんだろう。
「どうしたの?」
 急に聞こえた声に、驚いて顔を上げた。
 俺しかいないと思っていた保育室の中に、いつの間にか女の子がいる。
 白いワンピースを着た、長く真っ直ぐに伸びた黒髪が美しい、かわいらしい子だ。俺と同い年くらいだろうか。保育室で見たことはないけど、他の所員の子供か?
「泣いてるの? どこか痛いの?」
 女の子は心配そうに近づいてくる。女の子の前で泣いてしまうと言うのが恥ずかしくて、そでで乱暴に目をぬぐう。
「泣いてないよ」
「泣いてるよ。どうしたの?」
「だから……!」
 しつこい態度にいらついて、女の子を睨みつける。
 けど。
 その女の子の無邪気で澄んだ瞳が、なぜかユノの目に重なって見えて。
「……ユノに、会いたいんだ」
 無意識に、そう言っていた。
 そうだ。俺は怒ってたんでも悔しかったんでもない。ただ、ユノに会いたくなったんだ。やっと会いたくなったのにもう会えないから──悲しかったんだ。
「ユノ、って?」
「おじいちゃんの飼ってた犬」
「もう会えないの?」
「死んじゃったから」
 死んじゃったから。そう口に出した時に、俺はやっと実感した。
 ユノは死んだ。もういない。
 それが、悲しい。
「死んじゃったから……ユノにはもう、会えないんだ……!」
 それに気づいたら、もう我慢できなかった。あの時に泣けなかった分まで泣くかのように、俺の目からたくさんの涙があふれ出した。
 それからしばらく、女の子の前であることなんて忘れて泣き続けた。それでも妙なプライドがあったのか、泣き声だけは上げないように歯を食いしばりながら。おかげで俺がそんな風に泣いてしまったことは、その女の子以外には知られなかったはずだ。
 その女の子に見られていたことは……まぁ、いいか。なぜだかそう思えた。
 俺が泣き止むまで、女の子はずっとそこにいた。そして俺が泣き止んで落ち着いてくると、真っ白い綺麗なハンカチを差し出してきた。
「いらない」
 俺は再び自分の袖で涙を拭う。なんとなく、女の子のハンカチを汚してしまうのがもったいなかった。
 女の子はしばらくハンカチを差し出していたけど、俺がかたくなに受け取ろうとしないからやがて諦めてポケットにしまって。
「来て」
「え!?」
 いきなり、俺の腕を掴んで走り出した。
 今日は日曜日。研究所は開いてはいるけど普段より所員は少ないし、出勤してもいつもより早く帰ってしまう人が多く、所内にはほとんど人の気配がしない。いつもより静かな研究所内を、女の子は迷う様子も見せずに走っていく。
「おい、どこ行くんだよ!」
「静かにして。お母さんに見つかっちゃう」
 お母さん、というのはこの研究所の所員なのだろうか。きっとこの子も俺と一緒で親の仕事についてきたのだ。しかもこの迷いない足取り、もしかしたらかなり所内を探検しつくしているのではないか。
 俺は普段、父さんに言われた通りに余計な場所には行ったりしないけど、もちろん興味はあった。あの廊下を曲がるとどこに出るんだろう。あの扉の向こうには何の部屋があるんだろう。あの階段の下には……俺の手を引く女の子に素直について行っているのは、そんな好奇心のせいだ。
 女の子は一つの部屋の前で立ち止まり、扉を開けた。
 その部屋の中にあった物を見て、俺は興奮してしまった。
「おおお、なんだこれ!」
 部屋の真ん中に、ロボットアニメで見たコクピットのような形をした箱があり、それにたくさんのケーブルが繋がっている。箱にはガラスの蓋がついていて、中を覗いてみるとやはり人が入れるようにできているみたいだ。
 女の子が、ガラスの蓋をなでながら言う。
「これに入れば、並行世界に行けるって、お母さんが言ってた」
「え……?」
 並行世界。それは父さんにさんざん聞かされた話だ。
 この世界は、大きくなったり分裂したりしながら海を浮かんでいく泡で、自分のいる泡から見た他の泡が並行世界。そこには自分じゃない自分がいて、自分とは違う毎日を過ごしてるらしい。
「ユノに会いたいんでしょ?」
「……うん」
「もしかしたら、ユノが生きてる世界もあるかもしれないよ」
 それは、とても魅力的な誘いだった。
 もう一度ユノに会える。ユノが死んでしまうなんて思ってもいなかったから、最後に会ったのがいつだったかもよく覚えてない。最後にどんな風に遊んだのか、どんな風にユノをなでたのか、全然覚えてない。
 だから、最後にもう一回だけでも。ユノに会えるなら。
「……どうしたらいい?」
「この中に入って」
 言われるままに蓋を開け、箱の中に入った。アニメかゲームの世界にでも入り込んだようで少しどきどきしていた。
 蓋を閉めると、外から何やらがちゃがちゃと音が聞こえてきた。少し身を起こしてガラスの外を見てみると、女の子は机にたくさんならんだボタンやスイッチやつまみをいじっている。その手つきはどう見ても適当で、正しい使い方を知っているとは思えない。
「おい、大丈夫か?」
 声をかけても女の子は返事をしない。何か切羽せっぱまったような表情で、手当たり次第に手を動かし続けている。なんでそんなに真剣なんだろう? まさか俺をユノに会わせるためだとも思えないけど。
「なぁ、手伝おうか?」
「いいから。あなたはあなたでやれることをやって」
「やれることって言われても。何だよ?」
「分からないけど……何か、念じたりしててよ。ユノが生きてる世界に行きたいって」
「念じるって、そんなことでいいのか?」
「信じることが大事だって、お母さんが言ってた。信じることをやめない人だけが世界を変えられるんだって」
 何を言ってるのかよく分からない。それにさっきからお母さんお母さんって、この子のお母さんはいったい何者なんだろう。
 とは言え、女の子は今も真剣に機械を触っている。その真剣さに触発されて、俺は言われた通り『念じて』みることにした。
 並行世界へ。
 ユノが生きている世界へ行きたい。
 ユノのことを思い出す。生きてる時の元気な姿。裏庭の小さなお墓。人間のために死んだ犬たちのテレビ番組。なぜか無性に腹が立ったコメンテーターたち。
 最初は半分お遊びのつもりだったけど、いろんなことを思い出しているうちに、だんだんと本気でその世界へ行きたくなってくる。
 目を閉じて、強くそれを念じる。
 並行世界へ。
 ユノが生きている世界へ──

──目の前で、母さんが泣いていた。
「…………え?」
 唐突な風景の変化に、頭が追いついていかない。
 とりあえず、目に入るものを一つずつ確かめていく。泣いている母さん。ちゃぶ台。それと……おばあちゃん? おばあちゃんもいる。おばあちゃんも泣いている。
 あたりを見回す。ロボットのコクピットのような箱の中じゃない。見慣れた部屋。ここは母さんの家のお茶の間だ。一ヶ月くらい前、ユノの墓参りに来た時に上がったのが最後のはず。絶対に、俺が今いるはずのない場所。
 なんで俺はここにいる? あの女の子はどこにいった? 俺が入っていたあの箱は、いったいどう──
 ──そうだ。
 一つ、思い出した。自分がさっきまで何をしていたか。
 あの箱に入った、その目的を。
 もしかして、ここは──
「あの、母さん?」
 おそるおそる聞いてみようとしたところで、家の外からその答えが聞こえてきた。
 わん。
 聞き慣れた犬の鳴き声。俺ははじかれたように立ち上がり、家の外へと駆け出す。
 そして、裏庭へと出てみると。
「……ユノ」
 一ヶ月前に死んだはずのユノが、確かに生きて、そこにいた。
「ユノ……ユノ!」
 ユノに駆けよって、その大きな体を抱きしめる。そして頭をなでると、ユノはいつものように尻尾を振ってじゃれついてきた。
 まさかと思ったけど、間違いないらしい。
 ここは、並行世界だ。
 一ヶ月前に死んだはずのユノが生きている世界。
 あの女の子の滅茶苦茶な操作が機械を動かしたのか、それとも俺の念が世界に通じたのか……とにかく俺は、本当に並行世界へ跳んでしまったのだ。
 もう一度ユノに会いたい。その願いは叶ってしまった。仰向けになるユノのお腹をなでながら、俺はユノをじっと見つめる。死んでしまったユノ。目の前で生きているユノ。その体はとても温かい。なのに元いた世界では、土の下で冷たくなっているなんて。
 おじいちゃんに聞かされた詩を思い出す。子供が生まれたら犬を飼いなさい。子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。
 今手のひらに感じている温かさが、命の尊さなんだろうか。
 もしそうなんだとしたら、きっと俺は、元の世界に帰ってもう一度ユノの墓を見た時、本当にそれを知るんじゃないだろうか。
 泣きそうになりながらひとしきりユノをかわいがって、じゃあ俺は今からどうするべきなんだろうと考える。
 俺の世界では、ユノは交通事故で死んでしまった。だったらこっちの世界の母さんやおじいちゃんに、交通事故に気をつけるように言っておけばいいだろうか。
 うん。何もしないよりはマシだろう。早速それを伝えるために家の中へ戻る。
 お茶の間へ入ると、母さんとおばあちゃんはもう泣き止んでいたけど、それでもまだ悲しそうな顔をしていた。いったい何があったんだろう?
 けど、ここで「どうしたの?」なんて聞くのはまずい。俺がここに来るまではこの世界の俺がここにいたはずなんだから。この世界の俺は、母さんたちがなんで泣いてるのか知ってるはずだ。だったら俺が「なんで泣いてるの?」なんて聞いたら変に思われる。
 だとすれば、俺が聞いても大丈夫そうなことは。
「あの、母さん……おじいちゃんは?」
 ここまでなら聞いても大丈夫なはずだ。どこにいるの、とかは聞かない。これなら母さんが質問の先を想像して答えてくれる。
 その俺の狙いは、だいたい成功した。
「おじいちゃんは……明日、お通夜をするのよ」
 返ってきた答えに、聞いたことのない言葉が入っていたことを除けば。
「おつや? って何?」
「お通夜っていうのはね……」
 ──そして俺は、この世界ではおじいちゃんが死んでいるということを知った。
 この世界と俺の世界の大きな違いは、三つあった。
 一つは、ユノが生きてること。
 一つは、おじいちゃんが死んでること。
 もう一つは、父さんと母さんが離婚した時、俺は父さんについていったけど、こっちの世界の俺は母さんについていったということ。
 話していくうちに、少しずつこっちの世界のことが分かっていった。こっちの世界の俺は、この家で母さんやおじいちゃんたちと一緒に暮らしているらしい。そしてそのおじいちゃんが、今日の午後、死んだということだった。
 そのことをちゃんと理解した時、俺は無茶苦茶に泣いた。
 ユノが死んだことと、ユノが生きてることと、おじいちゃんが死んだことと……そんな色々がごちゃまぜになって、とにかく泣いた。母さんはそんな俺を優しく抱きしめてくれた。父さんと二人暮らしになってからは母さんに甘えることなんてほとんどなかったから、俺は母さんにしがみついて思いっきり泣いてしまった。
 泣くだけ泣いて少しすっきりすると、別の心配が生まれた。
 俺は、元の世界に帰れるんだろうか?
 あの女の子が俺をこの並行世界へ跳ばした。なら戻る方法は? 女の子が俺を戻してくれるのを待つしかないのか? いくら考えても分かるわけがなかった。
 今の俺にできることは何もない。せいぜい自分が並行世界から来たということがばれないようにするくらいだ。
 けれど、せっかくだから。
「母さん……今日、一緒に寝ていい?」
 このくらいはいいかと思って、言ってみた。きっと元の世界に戻ったら、母さんと一緒に寝ることなんて二度とないだろうから。
 母さんは驚いた顔をしてたけど、すぐに頷いてくれた。
 夜、俺はもう一回ユノと一緒に遊んだ。いつ元の世界に戻るか分からないし、戻ったらもうユノはいないんだから。
 そうしてユノにお別れを言って、俺は母さんと一緒に眠った。

次の日の朝。
 目が覚めたとき、俺は一人で布団の中にいた。
「お? 暦、起きたか」
 すぐ側で、聞き慣れたしわがれた声がする。
「……おじいちゃん?」
「うん。おはよう」
「おはよう……」
 返事をしつつも、なんでおじいちゃんがそこにいるのか分からなかった。頭がまだ眠っているみたいだ。あれ、俺は昨日、母さんの家に泊まったんだっけ?
 まだ半分眠ったままで昨日のことを思い出す。昨日は確か、おじいちゃんが──
 それを思い出した俺は、布団をはねのけて飛び起きた。
「おじいちゃん!?」
「お、元気だな」
「おじいちゃん、生きてる……?」
「なんだそりゃ。不吉なことを言わんでくれ」
 確かにおじいちゃんだ。今日お通夜のはずの。なのに生きているということは。
 部屋を飛び出して、そのまま家を出て裏庭に向かった。
 裏庭の片隅には、小さく土が盛り上がった所があった。
 ──ユノの墓だ。
「ユノ……」
 土の上に手のひらを当ててみる。冷たい。昨日、眠る前に触ったユノの温かさは、当然ながらそこにはない。
 温かさと冷たさ。この温度差が、命の尊さというものなんだろうか。
 あと少しで答えが分かりそうなのに、最後の何かがつかめない。俺はこの温度差から何を知るべきなんだろう。知ることができるんだろう。
 いまだに命の尊さが分からないのが申し訳なくて、ユノの墓に背を向ける。そしてそれをごまかすかのように、違うことを考える。
 眠ってる間に、俺は元の世界に戻っていたらしかった。理由は分からないけど、無事に戻って来られたならよしとしよう。
 でも、なんでこんな所にいるんだろう? 俺は研究所の箱の中にいたはずだ。まさか俺の体が勝手に動いてここまで来たんじゃあ──
 そこまで考えて、一つ思いついた。
 そうだ。俺が向こうの世界に行ってたんなら、もしかして。
 家の中に戻り、俺に怪訝けげんそうな視線を向けるおじいちゃんにさりげなく確認する。
「あの、おじいちゃん。昨日、俺っていつぐらいにここに来たっけ?」
「うん? いつだったかなぁ……ああ、夕方の六時過ぎだな。お母さんが研究所までお前を迎えに行った時、ちょうど相撲をやってたはずだ」
 母さんが研究所まで俺を迎えに来た……うん。間違いないだろう。
 俺が向こうの世界に行ってる間は、向こうの世界の俺がこっちの世界にいたんだ。
 きっと向こうの世界の俺は研究所の箱の中に跳んで、そこから母さんに電話したんだろう。女の子とは会ったんだろうか? 何を話したんだろう? というか、結局あの子は誰だったんだ?
 どうやら俺が次にするべきことは、あの子を探すことらしい。
「いや、しかし久しぶりに暦と一緒に寝られて、じいちゃん嬉しかったぞ」
「……そう」
 考えてみれば、向こうの世界の俺がこっちの世界に来たんだとしたら、おじいちゃんが死んだ世界から生きてる世界に来たってことだ。俺以上に混乱したのかもしれない。何を思ったのか聞いてみたい気もする。
 まぁ……迷惑をかけても、俺なんだから別にいいか。
「あのさおじいちゃん、体の具合、悪くない?」
「ん? 別にどうもないぞ?」
「そっか。長生きしてね」
「なんだなんだ? 心配しなくてもまだまだ大丈夫さ」
 明るい笑顔でおじいちゃんは俺の頭をなでる。その手のひらが温かい。
 この温度も、そう遠くないうちになくなってしまうのかもしれない。並行世界のおじいちゃんのように。
「また、ちょくちょく遊びに来るよ」
 色々な想いを込めて、俺はそう約束した。
「おう。鍵、見つかるといいな」
 最後におじいちゃんが言ったその言葉の意味は、分からなかったけれど。

次の休みの日。
「じゃ、子供同士仲良くね」
 綺麗な女の人が、そう言って保育室を出て行った。
「暦、せっかくだから友達になっておけ。お前、友達少ないだろ」
 そんな余計なことを言いながら、父さんも女の人の後について出て行く。
 そしていつもの研究所の保育室には、俺と、例の女の子だけが残された。
「お前のお母さん、所長さんだったんだな」
 今出て行った綺麗な女の人は、この研究所を作った所長さんで、女の子のお母さんらしかった。並行世界から戻ってきた俺が、家に帰って父さんに「昨日こんな女の子に会ったんだけど知らない?」と聞いてみると、あっさり「それは所長の娘さんだな」という答えが返ってきた。
 こうして女の子の正体は割れて、次の休みの日、研究所でその子との再会を果たしたというわけだ。所長さんはおじさんだと勝手に思ってたから、綺麗な女の人ですごくびっくりした。なんでも父さんと大学時代の同級生らしい。
「所長さんの娘だから、あの機械のこととか知ってたんだな」
「うん」
 女の子は少しおどおどとした感じで俺の様子をうかがっている。かと思いきや、いきなり真剣な表情になって聞いてきた。
「ユノには、会えたの?」
「……うん。でも、命の尊さは分からなかった」
「命の尊さ? どういうこと?」
 犬は自らの死をもって命の尊さを子供に教える。その詩を女の子に教え、なのに俺はユノが死んでもそれがまだ分からない、ということを話した。温かさと冷たさにそれを感じたような気がするんだけど、それがうまく答えとしてまとまらないと。
 話を聞き終えた女の子は、なんだ、とでも言うようにふっと笑った。
「もう、分かってると思うよ」
「え?」
「温かさと冷たさ。あなたの言う通り、きっとその温度差が、命の尊さなんだよ」
「どういうことだ?」
 すがるように聞く俺に、女の子は優しく目を細める。
「あのね、生きてることは、温かいでしょ。その温かさは、ユノと会えたり、話せたり、遊べたり……そういうすべての可能性があることを意味してるんだよ。でも、死んでることは冷たい。その冷たさは、ユノの世界がそこで終わって、そこにはもうなんの可能性もないことを意味してる。あなたが感じたのは、可能性の温度なんだよ」
「可能性の、温度……」
「うん。その温度差が、きっと命の尊さなんじゃないかな」
 ああ、そうか。素直にそう思った。
 生きていることと、死んでいること。その温度差で、二つの間にはそれだけの可能性の差があるということを、ユノは教えてくれたんだ。
 後でもう一度ユノの墓に行こう。そして今度こそちゃんと、お礼とお別れを言おう。俺はやっと、ユノが死んだということを受け入れられたような気がした。
「ありがとう。お前、すごいな」
「そんなことないよ」
 向けられた微笑みに、俺の心臓が少し高鳴る。
「……そう言えば、そっちはあの後どうしてたんだ?」
 ごまかすように聞く。けどそれも大事なことだ。
 並行世界に行った後、俺は一晩を過ごしてからこっちの世界に戻ってきた。その間、あっちの世界の俺が入れ替わりにあの箱の中に移動してたとしたら、どう考えても顔を合わせてると思うんだけど。
「あの後ね、機械の中にいるあなたが、いきなり人が変わったみたいになったの。自分のことを『僕』って言ってたし、私のことも、自分がどこにいて何をしてるのかも分かってないみたいだった」
「たぶんそれ、並行世界の俺だ。そっか、あの世界の俺ってまだ自分のこと『僕』って呼んでるんだな。それで?」
「うん、それで、びっくりして、なんだか怖くなって……」
 急にばつが悪そうな顔になる女の子。おいおい、まさか。
「そのまま逃げちゃったの。ごめんなさい……」
 なんという無責任な話だろう。でも、よく考えたら俺も思いつきでやってしまったことから逃げ出すなんてしょっちゅうだ。本当ならもっと怒るべきなのかもしれないけど、そんな気になれなかった。
「まぁ、ちゃんと帰って来れたからそれはいいよ。それよりもさ、なんであんなに真剣に俺を並行世界へ行かせようとしたんだ?」
 俺の質問にしばらくじっと黙っていた女の子は、やがて小さく口を開いた。
「私のお父さんとお母さん、離婚したの」
「ふーん。うちと同じだな。で?」
 何でもないことのように返すと、女の子は顔を上げて目を丸くした。でもそれで安心したのか、そこからは流れるように喋り始めた。
「すごく喧嘩してね。怒ってるのはお父さんばっかりだった気がするけど……お父さんはもう二度と会わないって言って出て行っちゃったの。それから本当に、一回もお父さんとは会ってない。でも私は、お父さんのことも嫌いじゃなかったから……」
 離婚したのは同じでも、俺の両親とはいろいろと違うらしい。でも、ということはなんとなく話が見えたような気がする。
「そんな時に、お母さんから並行世界の話を聞いたの。並行世界に自由に行ける機械を作ってるって。それを使えば、お母さんとお父さんが仲良くしてる並行世界に行けるかもしれないと思って」
 うん。まぁそんなところだろう。じゃあ俺の役割は?
「けど、いきなり自分で試すのは怖いから……」
「……要するに、俺を実験台にしたんだな」
「……ごめんなさい」
 しおらしく謝る女の子。かわいい顔をして恐ろしいことをする。それだけ両親の離婚がショックだったのかもしれない。離婚した後でも両親が仲のいい俺には、その気持ちは分からないけど。
 だからと言って、このまま許してやろうとも思えない。
「よし。じゃあ今からもう一回、今度はお前があの箱に入れ」
「え?」
「当たり前だろ? お前はそのために俺を実験台にしたんだから。それに俺はちゃんと並行世界に行って帰ってきた。だったらお前もきっと上手くいく」
「……でも……」
 女の子は躊躇ちゅうちょするが、俺は何も本当に仕返しの意味だけでこんなことを言ってるんじゃない。確かに利用されて実験台にされたのかもしれないけど、それでも俺はその結果に感謝していた。俺はユノにもう一度会えて、大事なことを知ったんだから。
 だからこれは、半分くらいは恩返しのつもりだ。並行世界へ行くことで、きっと何か得るものがあるはずだと思う。
 まだ決心がつかない様子の女の子に、最後の一押しをする。
「仲のいい両親に会いたいんだろ? 俺は、ユノに会えた」
 ユノに会いたいんでしょ? そう言ってこの子は俺を箱に入れた。だからこの言葉には逆らえないはずだ。
「もう一度ユノに会えて、よかったと思う」
 だめ押しの一言。しばらく悩んだ後、その子はついに首を縦に振った。
「分かった。行く」
「よし」
 そうと決まれば善は急げだ。女の子の案内で再び箱のある部屋へ行き、機械のだいたいどのあたりを触っていたのかを聞いて(適当に触っていたとしか分からなかったけど)、女の子を箱の中に入れた。
「並行世界に行きたいって念じてろよ。俺も一応そうしてたから」
「うん。分かった」
 素直に返事をして、女の子は祈るように手を組んで目を閉じた。
 俺はガラスの蓋を閉じて機械へ向かう。もちろん何がどうなっているのかさっぱり分からない。とにかくあの時の女の子と同じように、動かせそうな所をがちゃがちゃといじってみる。しかししばらくそれを続けても何の反応もないので、箱に近づいて中の女の子に声をかけてみた。
「おーい。どうだ? 何か、」
 言葉の続きが、途切れる。
 目をこする。
 気のせいだろうか?
 箱の中に横たわる女の子の体が、何か、ぶれているような──
「こーら。何をしてるかな君は」
 突然後ろから聞こえてきた声に、驚いて振り向いた。
「あ……所長さん」
「勝手に入っちゃ駄目でしょ。あ、うちの子まで。こら、出てきなさい」
 近づいてくる所長さんの顔はそれほど怒っているようにも見えないけど、本当のところはどうか分からない。
 所長さんが箱を開けると女の子が起き上がって、気まずそうに顔を伏せた。その体はもうぶれて見えない。所長さんも何も言わないし、気のせいだったんだろうか?
「あんたたち、ここで何してたの」
「……並行世界に、行きたくて」
 女の子はお母さんの言葉に素直に答える。ちなみに俺がすでに一度この箱を使って並行世界に行っていることは誰にも言ってない。俺たちだけの秘密だ。
「馬鹿ね。これはまだ完成してないんだから行けるわけないでしょ。そもそも電源も入ってないのに」
「え?」
 俺と女の子は顔を見合わせる。
 完成してない? 電源も入ってない?
「あ、あの……」
「好奇心が強いのはさすが私の娘ってところか。君のほうも、お父さん譲りかな?」
 俺の言葉を聞いていないのか、所長さんは独り言のように喋り続ける。
「そこは親のせいかもしれないな。でも、怒るとこは怒らないとね。それが大人の仕事だから。じゃあとりあえず、二人とも正座」
「え?」
「正座」
「はい」
 ……そして俺と女の子は硬い床に正座させられ、やたらと理屈っぽい説教を小一時間も聞かされる羽目になったのだった。

やっと説教から解放された俺たちは、保育室に戻ってお互い親の仕事が終わるのを待っている。他に子供はいない。気まずい空気だ。
 何をするでもなくただ隣に座っている女の子に、不機嫌さを隠さず話しかける。
「怒られたじゃんか」
「そっちが無理矢理、箱に入らせたから」
 女の子は女の子で不機嫌そうだ。やっぱりただ大人しいだけの子じゃないらしい。しかしさすがに、その言い分には納得がいかなかった。
「元はといえばお前が悪いんだろ?」
 元はといえばこいつが俺を箱に入れたのがそもそもの原因だ。ついついきつい口調になって女の子を睨みつけてしまう。
 けど、その子の顔を見て、すぐに後悔した。
 女の子は、唇をみながら、目に涙を浮かべていた。
「あ……」
 女の子を泣かせてしまった。これは男として最もやってはいけないことだ。冷静になればそんなにきつく言わなくてもよかった。確かに最初に俺を箱に入れたのはこの子だけど、それがたとえ実験だったとしても、そのおかげで俺はユノに会えたんだから。
 どうしよう、なんて言って謝ろう。
 俺が言葉を探していると、女の子がこっちを睨み返してきて、言った。
「私、『お前』じゃない」
 それを聞いて、やっと気づいた。
 そう言えば俺たちは、お互いの名前も知らなかったんだ。
 最初に父さんが言っていたことを思い出す。そうだ、せっかくだから──
「……ごめん。俺、日高ひだかこよみ
 自己紹介をした。
 せっかくだから友達になっておけ。父さんはそう言った。
 まずはここからだ。俺が手を差し出すと、女の子は目を丸くした。
 そして、すぐに嬉しそうに笑って。
「私、しおり佐藤さとうしおり
 そうして俺たちは、握手をした。

それは、決してしてはいけない握手だった。

―――――――

明日は、8月に刊行されたばかりの長篇スピンオフ『僕が君の名前を呼ぶから』の冒頭を公開します。別の並行世界を生きたもうひとりの栞の物語、どうぞお楽しみに!

『君を愛したひとりの僕へ』
乙野四方字カバーイラスト:shimano/カバーデザイン:楠目智宏(arcoinc)
682円(税込) ハヤカワ文庫JA

人々が少しだけ違う並行世界間で日常的に揺れ動いていることが実証された世界―― 両親の離婚を経て父親と暮らす日高暦(ひだか・こよみ)は、父の勤務する虚質科学研究たがいにほのかな恋心を抱くふたりだったが、親同士の再婚話がすべてを一変させた。 もう結ばれないと思い込み暦と栞は、兄妹にならない世界に跳ぼうとするが…… 彼女がいない世界に意味はなかった。

みんなにも読んでほしいですか?

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