ウマは恥じらい、イヌはしょんぼり上目遣いする? 驚き&あるある満載の『動物たちの内なる生活』(早川書房)特別抜粋2
ドイツで27万部のベストセラー『動物たちの内なる生活』の特別抜粋記事第2弾。(第1弾は、こちら。「動物は互いをどう呼び合っている? 人が付けた名前への反応は?」)
今回は、著者が飼っている2頭のウマの話から。本書の訳者・本田雅也さんによると、ドイツの小学生・中学生の女の子の憧れの動物ナンバーワンは、ウマなのだそうです。しかも、そうした少女向けのウマ雑誌がいくつもあり、なかはウマグラビアやウママンガ、ウマグッズが満載なのだとか。
そんなドイツでは身近なウマの意外な姿から、イヌを飼っている人なら「あるある」の”イヌ目遣い”まで、動物たちのさまざまな表情をご紹介します。
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『動物たちの内なる生活 森林管理官が聴いた野生の声』
ペーター・ヴォールレーベン/本田雅也訳 早川書房
「恥じらいと後悔」
ウマを飼うつもりなどぜんぜんなかったのだ。私にはちょっと大きすぎるし危なすぎるし、乗馬にだって興味はなかった。少なくとも、2頭のウマを買ったあの日までは。妻のミリアムはウマとの暮らしをずっと夢見ており、私たちの住む営林署官舎の近くには借りられる放牧場がたっぷりあった。数キロ先に住むウマの飼い主が自分のウマを売りたがっていると聞いて、これはついにその時がやってきたと思われた。クォーターホース種のツィピィは6歳になったばかりのメスで、調教済み。そのともだちで4歳のアパルーサ種のメス、ブリジは背中に病気があると診断され、人を乗せられないという。2頭というのがなによりよかった。群棲動物のウマは一頭で飼うべきではないのだから。そして2頭のうち人を乗せられるのは1頭だけというのも、私にとっては問題なし。それなら乗馬で馬脚をあらわさずにすませられる。
だが、話は違った方向に進むことになった。わが家が世話になっている獣医に2頭を診てもらったところ、ブリジに悪いところはないという結論になったのだ。そうとなれば、彼女にも人を乗せる訓練を施さない理由はない。そういうわけで私は、乗馬の先生の指導のもと、ブリジとともに乗馬を習いはじめたのである。乗馬は日々の世話以上にウマと私との関係を緊密なものにしてくれたから、私が抱いていた不安はすっかり吹き飛んでしまった。危険とか大きすぎどころか、ウマという動物がいかに繊細で、どんなささいな指示にもどれほどしっかり反応するか、学ぶことになった。妻や私が心ここにあらずだったりイライラしていたりすると、ウマたちは命令を聞かなかったり、エサやりのときに傍若無人に割り込んできたりする。乗馬のときのふるまいも、まったく同じである。私たちの体の緊張状態を感じて、指示(たとえば進みたい方向への少しの体重移動など)をまともに聞くべきかどうか判断しているようなのだ。逆に私たちのほうも、しだいにツィピィやブリジの出すサインを正確に読みとることができるようになったのだった。
このウマたちが公平さにかんしてきわだった感覚の持ち主であることを、さまざまなシチュエーションで知ることになった。それがなにより露わとなり容易に実感できるのは、エサやりのときである。ツィピィが23歳になり、牧草をうまく消化することができなくなった。このまま放置していたらしだいに痩せ衰えていくだろうからと、昼ご飯として穀類から作られた濃厚飼料を食べている。それを横から見ているだけの3歳若いブリジは、ツンとした感じになる。足を踏みならし、耳をうしろに伏せる(用心しつつ威嚇するときのしぐさ)。つまり、腹を立てるのだ。それで私たちはブリジにひと握りの濃厚飼料を、長い線を描くように草の上に蒔いてやる。彼女がそのひと握りを草のなかからほじくりだすのと、年長の同僚が飼料桶からたくさん食べるのとは、同じくらいの時間がかかる。これで、ブリジにとって世界の秩序はふたたび正常に戻るのである。
同様のことは、トレーニング中にも見られる。狭い馬場で運動するウマたちはあきらかに楽しそうだが、運動すること自体がうれしいのではないようなのだ。彼女たちは広い放牧場を一年中走り回っているのだから、運動はじゅうぶん足りている。楽しくうれしいのは、さまざまな動きを訓練する自分を私たちに見てもらうこと、うまくできたときに褒められ撫でてもらえること、なのである。
ウマといっしょに過ごすことで得られる感動は、まだまだある。ウマは羞恥心を感じることができるのだ。それも、私たちと似たようなシチュエーションで。ランクが下位のブリジは、20歳になるというのに、くだらぬことばかり考えている若造のようなふるまいをすることがある。こちらへ来いと指示してもすぐには来ないで放牧場をもう一周ギャロップしてきたり、「よし!」と合図がないのにエサを食べようとしたり。それで、ふたたび行儀がよくなるまで、たとえばエサを前にして少し待たせたりして罰を与えて、叱ることになる。ふつうは叱責を従容と受け入れるブリジだけれど、年上のツィピィが見ているときは、バツが悪そうに顔をそむけ、とつぜんあくびをしはじめる。きまり悪いようすなのが、見ていてはっきりわかる。あるいは、こう言ってもいいだろう。ブリジは恥ずかしがっているのだ!
私たち人間が同じ状況になった場合のことを考えてみて気づくのは、恥ずかしさというのはたいてい第三者の存在が前提となっていることだ。その人がいることで、事態ははじめて気まずいものとなる。ウマの場合もそれと変わるところはない。思うに、羞恥という感情は社会性を持つ動物の多くに見られるのではないだろうか。その背景となるものは残念ながら動物ではまだ研究されていないのだが、人間の場合ならわかっているし、羞恥心がなぜ存在するのかについてイメージを与えてくれもする。ある人物が社会的規範に抵触する行動をし、顔を赤らめ下を向くということは、つまり屈服のシグナルなのだ。集団のほかのメンバーはそこに苦悩を見てふつうは同情心を覚え、過ちを犯した人間に許しを与えることになる。けっきょくのところ羞恥とはある種の自己処罰の、そして許しのメカニズムなのである。動物にもそういうものがあるというと、たいていは否定される。羞恥心を感じるためには、自分の行動やそれが他者に与える影響を考えることができなければならないからだ。このテーマにかんする最新の研究には残念ながら詳しくないが、羞恥と近い関係にある感情にかんしてなら、それに相当するものが存在する。後悔である。
間違った決定を下してしまったと、私たちひとりひとりが人生で何度後悔するのだろう? 後悔とは通常、同じ過ちをふたたび繰り返してしまうことから守る感情である。それは非常に有効な感情だ。無駄なエネルギーを節約し、危険な、あるいは無意味な行動をなんども繰り返さぬようにしてくれるから。そしてそれほど有効なものならば、そのような感情を動物の世界にも探してみようと思うのは、自然なことだろう。ミネアポリスにあるミネソタ大学の研究者たちは、ラットを観察してみた。彼らはラットのために特別な「レストラン街」を作った。円形の広場に4つの入り口があり、それぞれの先にエサ場がある。どれかひとつにラットが入ると音が鳴るのだが、音が高ければ高いほど、食べものが得られるまで待つ時間が長い。さて、そこでラットに起こったことは、人間の場合と同じだったのだ。辛抱の糸が切れたラットは、となりの入り口ならもっと早く食べものにありつけるかもと希望を抱いて、別の部屋に移る。しかしそこで鳴った音がさっきより高ければ、待ち時間もさっきより長いとわかる。するとそのラットは先ほどいた部屋のほうに名残惜しそうな視線を向け、こんどは部屋を移らずに、食べものをもっと長く待とうとしたのである。同様の反応は、私たちにもある。たとえば、スーパーマーケットのレジで並んでいた列を変え、それが間違った選択だったと気づいたときなど。さらにラットの脳の活動パターンを調べてみると、私たちがその状況を頭のなかでもう一度再現したときと同じものが確認された。後悔と失望とは本質的に異なる。後者は期待していたものが得られなかったときに生じるが、後悔はそれにくわえて、さらによい選択肢がありうると気づいたときに発動するのである。まさにそれがラットであきらかに起こっていると、ミネソタ大のアダム・P・スタイナーとデイビッド・レディッシュは結論づけたのだ。
ラットがこの種の感情を露わにしたのだったら、イヌにそういう感情の動きがあるかどうか詳しく探ってみようと思うのは、もっとずっと自然なことではないだろうか? イヌが間違った行動を後悔し、残念な気持ちになることは、イヌの飼い主だったらほぼ全員の認めるところだろう。叱られたときに見せるあの特徴的な、同情を誘う「イヌ顔」のことである。わが家にいたミュンスターレンダー犬マクシも、なにか間違ったことをしてしまって私に怒られているときは事態をちゃんとわかっていた。そのとき彼女はバツが悪そうにしながら、ああなんて気まずいんだろう、許してください、とでもいうふうに、斜めの上目遣いに私を見上げるのだった。まさにこの行動が、研究者によって実験台に載せられた。テキサスA&M大学のボニー・ビーヴァーの結論はこうだ。イヌの見せるあの典型的な視線は後天的に身につけるものであり、叱られている場面で飼い主が期待するものをイヌは学んでいる。つまり、イヌは自分の抱く心のやましさにではなく、叱られていることに反応しているのだ、と。ニューヨークにあるバーナード・カレッジのアレクサンドラ・ホロウィッツも同じ結果を得ている。ホロウィッツは14人の飼い主に依頼し、ごちそうの入った皿を置いた部屋に、皿には手をつけないように、と厳しく言い聞かせたうえで、自
分の飼いイヌを残してきてもらった。その結果は──何匹かは言いつけを守ったのにもかかわらず、叱られるやいなや、ほぼすべてのイヌがあの「イヌ目遣い」をしたのである。しかしそれでもなお、イヌがたんに申し訳なさを装っているだけだとは、必ずしも言い切れない。𠮟責が行為の直後になされればイヌはその反応と自分の行動とを結びつけるし、その視線はほんとうに、私たちが彼らにもあると思っている後悔の念をあらわしているのかもしれない。
もう一度、公平を求める感覚に戻ろう。それは動物界でウマだけにあるわけではない。社会性を持つ集団のなかで生きていれば、おのずと公平さが求められる。ドゥーデン辞典では、「公平」とは社会の各構成員が等しくその権利を認められるべきであること、と定義されている。それが欠ければただちに怒りが生じ、怒りが持続的に引き起こされれば、暴力の原因となる。人間の共同体ではすべての者の機会を法が守る、とされている。だが日常における相互のやりとりでは、たとえば間違った行為には羞恥が、正しい行動には幸福感が生じるという形で、法よりも感情のほうがずっと強力に作用する。そうだとすれば、家のなか、自分の家族のあいだでだって、公平性は同じ機能を持っているとは言えないか?
わが家のウマたちが羞恥心を持っている、つまり公正さの感覚を備えていることは、すでに報告したとおりである。それは科学的な正確さと手順を遵守したうえでの観察ではもちろんない。だが、イヌにおいてはそういう観察がなされているのだ。ウィーン大学のフリーデリーケ・ランゲ率いる研究チームは、おたがい顔なじみである2匹の犬をならんで座らせた。2匹は簡単な命令、つまり「お手!」をするよう求められる。続いて報酬が与えられるが、それにはいくつかバリエーションがある。ソーセージのときと、パンのときと、なにもなし、のときと。両方のイヌに同じゲームの規則が適用されているかぎりは、2匹のあいだに問題は起こらず、どちらも行儀よく協力してくれた。次に、妬みを生じさせるために報酬の扱いをひどく不公平にしてみる。2匹がお手をして、報酬が与えられるのはどちらか1匹だけ。極端な場合には一方がソーセージ、もう一方はちゃんとお手をしても、なにももらえない。となりのイヌに不公平な形で与えられるエサが、いぶかしげな視線を受ける。自分よりおいしそうな食べものをもらっているもう片方が指示された動作をしたかどうかにかかわりなく、不当な扱いを受けたほうのイヌはいつの時点かで我慢の限界に達し、それ以降は協力を拒んだ。それにたいしイヌが1匹だけで、自分とほかのイヌとを比べることができない場合は「報酬なし」のパターンも受け入れられ、協力も続けてもらえた。そのような嫉妬心と(不)公平感は、これまでサルでも観察されている。
ワタリガラスもまた、公平不公平にたいする強い感受性を持っている。そのことは、共同作業と道具の使用にかんする実験で確かめられた。格子のうしろにチーズをふた切れ載せた板を置く。その板には穴のあいたネジが左右に2本固定され、穴には糸が通してある。その糸の両端は格子を抜けて2羽のカラスそれぞれの足下まで来ている。2羽のカラスが同時にかつ慎重に糸のそれぞれの端を引っ張れば、糸が抜けることなく2羽はごちそうを届くところまで引き寄せることができる。そのことを賢い動物であるカラスは即座に理解するが、パートナー同士が仲の良い場合には、この実験はとりわけうまく運ぶ。だがこの綱引き作業をした別のペアでは、首尾良くチーズを引き寄せたあと、1羽がふた切れとも食べてしまうことがあった。働いてもなにも得られなかったカラスはそのことを覚えていて、それ以降そのいやしい仲間とは、ともに作業しようとしなかった。エゴイストは鳥の世界でも好かれない、ということなのだった。
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著者/ペーター・ヴォールレーベン
© Tobias Wohlleben
1964年、ドイツのボンに生まれる。子どもの頃から自然に興味を持ち、大学で林業を専攻する。卒業後、20年以上ラインラント=プファルツ州営林署で働いたのち、フリーランスで森林の管理を始める。2015年に出版した『樹木たちの知られざる生活』(早川書房刊)は全世界で100万部を超えるベストセラーとなった。2016年発表の本書もドイツで27万部を突破し、28カ国で順次刊行されている。
著者の代表作『樹木たちの知られざる生活』の抜粋記事は、「人間の知らないところで、樹木たちは会話をしている? でも、どうやって?」より。