量子重力理論や幻覚剤が入り乱れながら展開される、"小説を書けない小説家"の物語──円城塔さんによる『レッド・アロー』解説全文
解説
円城 塔(作家)
著者のウィリアム・ブルワーはウエストバージニア州生まれ。
2016年にデビュー詩集となる『I Know Your Kind』でナショナル・ポエトリー・シリーズを受賞。本書は受賞後第一作の長篇小説となる。
主人公は、書くつもりでもなかった短篇小説集が売れてしまったために、新作長篇の契約を結ぶことになってしまった作家である。作家という自覚はあまりなく、自己認識としては(売れない)画家である。
人づきあいに深刻な悩みを抱えている。
新作の作業が進まず悩む主人公のもとへと転がり込んでくるゴーストライターの仕事。とある著名な物理学者の自伝を書くというその仕事は奇妙に主人公になじむのだが、物理学者からの連絡はあるところで途絶えてしまう──といった流れの中で、量子重力理論や幻覚剤が入り乱れながらお話は展開していく。
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作品の構成は重層的で、ページを開くとまず「←」が現れる。
これは主人公の乗る列車を示すものでもあるし、時間の流れを示してもいる。主人公の乗る列車はイタリアを南北につなぐフレッチャロッサ(レッド・アロー/赤い矢)。
物理学者であれば、矢と聞けば「時間の矢」の話を思い出すだろうし、「赤」といえば赤方偏移を思い浮かべる。過去に向かう矢の登場かと身構えることになる。主人公が向かっているのが、「量子重力理論」を専門とする物理学者のところであるとなるとなおさらだ。
時間の矢とは、方向を持ち、流れる時間の比喩である。重力理論によれば、重力はその矢の進路を「曲げる」ことが可能であって、なんなら輪を描かせることもできる。
量子重力理論の頭についた、「量子」論は、ミクロな現象を確率として扱う理論であって、しかしそこではどうもマクロな現象とは異なることが起こっているようでもあり、決定論的にひとすじに進んでいくはずの世界が可能性をぶちまけられたように見えたりもする。
現代に至るも「重力理論」と「量子論」の統合は果たされておらず、ミクロとマクロの間での奇妙な分裂状態が続いているのだが、主人公が訪ねようとしているのはその理論の第一人者であるらしい。
そこに架空の化学物質がかかわっていき──というSFとして読むこともできる。
主人公は、ウエストバージニア州で生まれ育った。
豊かな自然に恵まれたこの州について多くを語れる人は少ない。ピッツバーグの名前が思い浮かぶかも知れないが、それはお隣のペンシルベニア州である。
石炭鉱業で繁栄したが、現在は苦境に追い込まれている。
2014年には、州を流れるエルク川に、石炭の洗浄に使われていた「4‐メチルシクロヘキサンメタノール」が流出するという事故が起きたりもしたが、大きな注目を集めるということもなかった。
主人公はその子供時代の1996年、モノンガヒーラ(これもウエストバージニアを流れる川)で「ヘキサシクラノール9」の化学物質流出事故に遭遇する。
主人公は、2作目の小説として、この流出事故を題材とした「偉大なるウエストバージニアの小説」を書こうと試みるのだが、うまくいかない。
小説を書けない小説家の層が物語へ重なっていく。
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といったあたりから本書をめぐる不穏さは急速に強まっていき、主人公は自殺性うつ病を患っている。この描写は作者が実際に体感を記したかのように真に迫っているので、向かないと判断した方は手に取ることをおすすめしない。
作者が主人公に、化学物質の流出事故をモチーフとする小説を書かせよう(なんだかややこしいが)とした一因には、近年の北米大陸における薬物に対する態度の変化が影響しているはずである。娯楽用大麻の解禁が話題となることが多いが、鎮痛剤であるオピオイドの過剰摂取による死亡が急増しており、ウエストバージニア州が死亡率でトップに上がる事態ともなった。『I Know Your Kind』はまた、オピオイド禍をモチーフの一つにしている。
本書に出てくる固有名詞はほとんどがそのまま実在しており、調べていくと自伝的要素が強まっていく。そうしてみると、作者は「他人の自伝を書く作家」の姿を自伝として描いているということになりそうであり、作者は自分の知っていることしか書けないが、それをどう乗り越えていくかという種類の創作論などを読み出すことも可能になってくる。
そんな固有名詞たちの中からまずとりあげるべきはマイケル・ポーランの『幻覚剤は役に立つのか』(宮﨑真紀訳、亜紀書房、2020)、(原題は、How to Change Your Mind: What the New Science of Psychedelics Teaches Us About Consciousness, Dying, Addiction, Depression, and Transcendence / 心を変える方法:幻覚剤の新しい科学が意識、臨死体験、依存症、うつ病、超越について語ること)であるはずであり、これは(現在では法的に規制されているLSD等の)幻覚剤の医学的応用についてのノンフィクションであり、量子重力理論と並び本書のもう一つの柱をなしている。
作者自身は、うつ病の治療として幻覚剤を利用したセラピーを受けたことをInstagramで公表しており、そのつなぎ手は2020年のノーベル文学賞受賞者のルイーズ・グリュックであったのだという。
そういう意味では本書は(連邦法および州法の枠内でも違法であると思われる)幻覚剤を利用したセラピーの体験記という風に読むこともできるわけなのだが、そのあたりをどう受け止めるかは、作中でも語られているとおり(そしてマイケル・ポーランがその著書で強調を続けるように)、慎重な判断が必要となるだろう。
虚構の程度を探る意味で続けると、本書に登場する「ノーベル賞受賞も間近とされる著名物理学者」のモデルは、日本でも『すごい物理学講義』(竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出書房新社、2019)や『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版、2019)で知られるカルロ・ロヴェッリである。ロヴェッリの提唱するループ量子重力理論はいわゆる超弦理論とは別方向の「もうひとつの統一理論候補」であり、スピンで測ることができるような、つながりとしての空間の幾何学自体を対象としており、原子自身の幾何学に注目する超弦理論とは対照的である。本書の中で言及される「図」と思われるものを『時間は存在しない』の中に実際にみつけることもできる。
であるならば、もしかしてこの物理学者を巡るエピソードや、主人公とのやりとりも「現実」のものなのかと考えたくもなるのだが、さすがにそのあたりは(全てが創作ではあるとはいえ)創作らしい。LITERARY HUBに掲載されているアンディ・キーファーによるインタビュー記事によれば、版元であるクノップ社はロヴェッリに校正刷を送ったが好意的な返事が戻ってきた由。
本書は好意的に迎えられ、2023年のカリフォルニア・ブック・アワード(カリフォルニア在住の作家の作品に与えられる)で銀賞を受賞。『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』(円城塔訳、早川書房、2014)のチャールズ・ユウ、『ニックス』(佐々田雅子訳、早川書房、2019)のネイサン・ヒルなども賛辞を贈っている。むべなるかな、という顔ぶれではある。
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様々な読みを可能とする本書であるが、幻覚剤の歴史にあまり詳しくない方は、とりあえずそのまま本書を読んでみることをおすすめする。それから『幻覚剤は役に立つのか』などの書物にあたってから読み返したなら、読後感はジャンルを左右するほど異なるものになるはずだ。そこでは、『幻覚剤は役に立つのか』という書物があたかも幻覚剤のように働いて読後感/世界観を変化させることになる。
しかし改めて考えるなら、読書というのは本来、そうした世界観の変化を引き起こす(危険な)行為だったはずであり、薬の効きすぎには警告をしておくべきであるかもしれない。
2023年12月
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