タフな女性刑事の正攻法の犯罪小説『ダラスの赤い髪』(キャスリーン・ケント)試し読み
7月20日の朝日新聞「杉江松恋が薦める文庫この新刊!」にて杉江さんに「正攻法の犯罪小説で、警察と麻薬組織の闘いが描かれる。捜査の失敗から銃撃戦が始まる序盤から物語は転がり続け、読者の心を高揚させるだろう」と紹介された『ダラスの赤い髪』の冒頭をお届けします。
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『ダラスの赤い髪』キャスリーン・ケント/府川由美恵訳/ハヤカワ文庫
1
ブルックリン グリーンポイント
ノーマン・アヴェニューとジュエル・ストリートの交差点の角
2000年10月23日 月曜日
廊下に尻をつき、頭をドア枠に押しつけ、両手でつかんだ拳銃とひざを胸骨に引き寄せながら、部屋のレイアウトを思いだそうとする――2段ベッドが3組、血だらけのシーツに横たわる死体が4体。3発撃たれた私の相棒は、いちばん近くの2段ベッドの脇に倒れ、ぴくりとも動かない。そしてこの部屋のどこかに、泣き叫ぶ赤ん坊を片手で抱き、もう一方の手にセミオートマティックの拳銃を持った、頭のいかれた男がいる。最後に戸口からなかをのぞいたとき、男の撃った弾が向かいの壁に穴をあけた。そのあと男は、赤ん坊を撃って自分も死ぬ、と息巻いた。
私が警官になってから、まだ5カ月と1週間と9時間半だ。
もとはと言えば、ここへ来たのは赤ん坊の泣き声のせいだ。ノーマン・アヴェニューにある3階建ての集合住宅の管理人が、最上階の部屋のひとつから4発の銃声が聞こえたと通報してきた。年長で経験豊かなブルックリンの警官のテッド・オハンロンと、その相棒である私は、そのときほんの何分かで急行できる場所にいた。
2階に続く階段は狭く、あたりを近所の住人たちがうろついていて、その多くはでっぷりとしたウェストの女か小さな子どもで、怖がっているというよりは興味津々の顔だった。廊下から退散して自分の部屋に戻るようテッドが彼らに言い、私たちは警察支給の拳銃に手をかけ、慎重に3階へとのぼっていった。
踊り場に来るとすぐ、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。健康的でしっかりした泣き声で、誰かに抱っこされている感じではなかった。管理人が言うには、銃声がした部屋の向かいは空き部屋で、まずいタイミングで住人が飛びだしてくることはなさそうだった。
目指す部屋に近づいていくと、ドアが少しあいているのが見えた。私たちは拳銃を抜き、テッドが呼びかけた。「ニューヨーク市警だ。誰かいるのか? みんな無事か?」
テッドが先に立ってゆっくりとドアに近づき、左の手のひらでドアを押しあけた。
「うわっ」とテッド。
テッドの真後ろにいた私は、テッドよりも10センチ以上背が高い――180センチあって、同じチームのたいていの男よりも高い――だからなかの様子は見えた。真新しい、ほとんど面白味のないリビングルームの3面の壁際に、ひと組ずつ2段ベッドが置いてある。上段のベッド脇の壁と、灰色のリノリウムの床に、オレンジのスプレーで〝高みへ(アップリフテッド)〟という言葉が書かれていた。ベッドの支柱には、羽のある人間の線画が、子どものいたずら描きのように雑に描いてあった。奥のキッチンの窓から淡い陽射しがこぼれ、部屋にあるものをすべてぼんやりと不明瞭に見せる。赤ん坊の泣き叫ぶ声以外は、なんの動きも、なんの音もなかった。
手前のふた組の2段ベッドに、頭を撃たれた女性がふたり、若い男性がふたり横たわり、全員同じダークブルーのスウェットスーツを着て、両腕を胸の前にきっちりと組んでいる。もうひとつの2段ベッドの下段には、もっと大柄な誰かがいるようだが、血まみれの毛布ですっぽりと覆われている。その隣で赤ん坊が、顔を真っ赤にして大声で泣いていた。
テッドは私に戸口にとどまるよう合図し、応援と医療チームを要請するよう指示した。それから赤ん坊に注意を向けた。テッドは1月の雪嵐のなか、野良犬を救うため、ニュートン・クリークの冷水に飛びこんだこともある男だ。
そのとき私は、管理人が聞いた銃声の数が5発ではなく4発だったことを思いだした。そうテッドに警告しようとしたとき、毛布をかぶっていた大柄な人間が飛び起き、テッドの胴に正面から拳銃を向け、3発撃った。
私はとっさに床に伏せ、相手が私の方向に撃ってきたときは、すでに安全な廊下へ這いだしていた。こっちに向かってくるかと思ったが、男は半狂乱になって部屋を歩きまわり、何者かが乗り移って熱に浮かされたテレビ宣教師のようになって、激しく不可解な言葉を怒鳴っていた――「バラ・ウーナ・ベレシュ・ペカ、ベレシュ・オンタバ・ウーナ」――旋律のない、いらついたハミングが撒き散らされているかのようだった。
2、3カ月のあいだ街をパトロールし、駐車違反の切符を切り、近所の果物売りの露店からオレンジをくすねた若い子を追っかけただけの私には、なんの心の準備もなかった。応援はこちらに向かっているはずだが、ちっとも来る様子はない。
ベニー、と頭でつぶやく。私、どうすればいい?
おじのベニーは、勲章をもらったこともある殺人課の刑事で、私の師であり父親がわりでもあり、ブルックリンのストリートであらゆることを見てきた人だが、私の知るかぎり、赤ん坊を抱っこしたまま銃撃してくるカルト信者殺人鬼の対処法については、何も教えてくれなかった。
それでも、私の頭のなかにはベニーの声が聞こえてきた。ベティ、頭のいかれたやつの無秩序にも、それなりのパターンがあるんだよ。そのパターンを破れ。じゃましてやれ。
濃い霧のような恐怖の向こうから、ベニーの知恵がよみがえってくる。
男はまた呪文みたいな言葉を唱えだす。「高みへの準備を、高みへの準備を……」声がヒステリックな金切り声になっていく。「天使が告げている、高みへの準備をせよ……」
この部屋にある手がかりすべてについて考えてみる。落書き、壁の〝高みへ〟の文字、被害者の服装。被害者はスウェットスーツ姿だが、拳銃を持った男が着ているのは、ニューヨーク・メッツのレプリカユニフォームだ。
私はめいっぱいの大声で叫ぶ。「ヤンキースなんてくそくらえよ」
男のシューズのキュッ、キュッ、という足音がやむ。
「そうよ」私はわめく。「聞こえたわよね。ヤンキースなんてくそくらえよ」
赤ん坊の甲高い泣き声が響くなかでも、男が私の言葉を聞き、次の言葉に耳をそばだてるのがわかる。
「あのクレメンスって野郎さ」私は言う。「あいつがやったこと、なんなわけ? マイク・ピアッツァにバットを投げるなんてさ。3カ月前、あいつがマイクに投げたビーンボール見た?」
できるかぎり侮蔑と怒りをすべての言葉に滲ませ、神でもなんでもいい、全能なる何かがこの全米注目のサブウェイシリーズを見ていて、それが頭のおかしい男の気をそらす力になってくれることを祈った。サイレンの音がノーマン・アヴェニューに近づいてくる。四分以内には応援の警官が来てくれるだろうが、1分でも遅いかもしれない。
「あれはひどかった」ペットを亡くした子どものような、悲しげな口調で男が言う。
「でしょ?」私は言う。「ねえ、昨日のゲームは全部見た?」
男は赤ん坊を抱きなおし、さっきまで赤ん坊を撃ちそうだったのが嘘のように、優しくシッとなだめる。「ああ」と男。「クレメンスの野郎、何かペナルティを受けるべきだ」
「えっ、何?」私は訊き返す。「赤ちゃんの泣き声でよく聞こえないんだけど」
私はドア枠にもたれながらそっと立ち上がり、震える手を鎮めようと深呼吸する。サイレンの音が大きくなってくる。つんざくような音が暴力沙汰の引き金にならないか、不安を覚える。
男がわめく。「クレメンスにはペナルティを科すべきだ! あいつは危険だ!」
「悪党よ!」私も同意し、そしておだやかに続ける。「メッツがあの試合に負けたのは痛かったわ。このままじゃ負け犬にされちゃう」
「ああ?」男が訊き返す。「なんだって?」
「ねえ」私はドア枠にぎゅっと頬を押しつける。「あの試合のこと、もっとあなたと話したいんだけど。実を言うと、赤ちゃんの泣き声で、声がよく聞こえないの。赤ちゃんをちょっとだけおろして、それから話さない?」
男はまたあやういハミングを始める。アパートメントの玄関のほうからは、応援部隊と医療チームが到着する物音が聞こえてくる。
「ねえったら」私は説得にかかる。「ちょっとでいいの。ああ、その泣き声、頭痛がしてきそう。あなた、メッツの選手と会ったことある?」
長い間のあと、男は言った。「ピアッツァと握手したことがある」
「嘘でしょ」私は目をつむる。「マイクと握手したの?」
人の声が階段をのぼってくる。手汗がひどくて拳銃を落としそうだ。
「オーケイ」男の声が単調になり、野球への情熱がすっかり消える。「赤ん坊をおろそう。疲れたらしい。まずちょっと眠らせないとな」
私は部屋のなかを見る。むきだしの床に置かれて身をよじる赤ん坊の上に、男が身を屈めている。銃口が赤ん坊に向いている。
男は言う。「それからゆっくりメッツの話をし――」
私は6発発砲し、弾は男の身体の1カ所に集中的に当たる。男は2段ベッドのひとつにたたきつけられ、両脚を広げて尻もちをつく。2、3度ぴくぴくっと痙攣し、それから前のめりに倒れこむ。
私は男の向かいで脚ががくがくしてきて、身体を支えきれなくなり、床に崩れる。男のメッツのユニフォームが、胸から流れるどす黒い血に染まっていく。息をしていないかもしれないテッドの顔を見るのが怖い。泣きわめく赤ん坊を力の入らない腕で抱いたら落としそうで、抱き上げる度胸も出てこない。
廊下に押し寄せた応援部隊の警官が、拳銃を抜きながら部屋に突入し、なかの信じがたい惨状に悪態をつく。
首にニキビのある若い警官が私に小声で言う。「こいつはすげえ。リジック、いったい何をやったんだ?」
その後、医療チームが私を囲み、立ち上がらせて廊下へ連れだす。テッドも担架に乗せられ――奇跡的に一命は取りとめていた――下で待つ救急車に運ばれる。誰かが赤ん坊を抱き上げると、ありがたいことに赤ん坊も泣きやむ。
私は上級の警官にその場で話を訊かれ、メッツ対ヤンキースの話はすぐさま廊下に伝わる。私がアパートメントを出るよりも早く、表にいる警官にまで話が届く。
歩道のそばで待っていた2台めの救急車のなかで、私がふたたび医療チームの診察を受けていると、騒動を見逃してうらやましげな警官たちがやってきて、また尋問を受ける。
医者がテッドのために手を尽くしてくれるはずだ、と救急隊員たちが私に請け合う。テッドは搬送中に意識を取り戻し、妻に会いたいと言ったという。
部長刑事のスタネックがやってきて、恥ずかしくなるぐらい心配げな顔で私を見おろす。「どうやら」スタネックは私の顔の前で指を振ってみせる。「きみはずいぶんとヤンキースの名を汚してくれたようだな。それだけでも給与なしの謹慎処分にすべきところだ」
スタネックはテッドが搬送された病院へ送ろうと言ってくれた。私は喜んで申し出を受ける。
誰かが携帯電話を貸してくれたので、私は94分署に勤務するおじのベニーに電話をかける。
「かわいそうな男だ」何が起きたかを私が話したあと、ベニーは撃ち殺された男について感想を述べる。「自分で作った底なし沼の深淵に、自分ではまっちまったんだな」そのあと少し間を置いて、ベニーは私の息づかいに耳をすませる。「大丈夫か?」
「うん」そう答えたものの、自分でもあまり自信がない。
「カルトってのはそういうものさ」ベニーが言う。「ドブを掘るだけじゃなく、そのなかに横たわって、自分から泥をかぶって、世界はなんて暗い場所になっちまったんだと泣き叫ぶものなのさ」
電話の向こうで、誰かがベニーを呼ぶ声が聞こえてくる。
「すまん」ベニーが言う。「もう切らないと。おまえに必要なのは、美味いメシと、熱い風呂と、2、3杯のジェムソン(アイリッシュウィスキーの銘柄)じゃないかな」
私は微笑み、その意見に賛同する。
「ひとつ訊くが、ブルックリン以外の場所に行きたい気持ちはあるか? 正直に言ってみろ」
私は、ううん、ここ以外にいたい場所なんてない、とベニーに告げる。「ヤンキースもワールドシリーズをリードしてるしね。クレメンスは悪党かもしれないけど、愛すべきわれらが悪党よ」
ベニーはうれしそうに笑う。「それともうひとつ、ベティ」とベニー。「必要なときはいつでも電話してこい。おれはここにいるからな」
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『ダラスの赤い髪』はハヤカワ・ミステリ文庫より発売中です。
■本書の紹介記事
あらすじ
訳者あとがき
■著者紹介
キャスリーン・ケント
テキサス州ダラス在住の作家。これまでにThe Heretic's Daughterなど3作の長篇小説を発表し、優れた歴史小説に与えられる文学賞を受賞。2017年に発表した本書は好評を博し、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞最優秀長篇賞にノミネートされた。《ニューヨーク・タイムズ》による「優れた新刊 犯罪小説部門(2017年3月)」の1冊に選出。
■訳者略歴
府川由美恵(ふかわ・ゆみえ)
明星大学通信教育部卒、英米文学翻訳家。訳書『タンジェリン』マンガン、『サンクトペテルブルクから来た指揮者』グレーべ&エングストレーム、『黙示』ロッツ(以上早川書房刊)他多数。