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【創作論】文体の翻訳。僕が愛するチャック・パラニュークのスタイルとリズム(深見真)

『ファイト・クラブ』などの傑作で知られるアメリカの小説家、チャック・パラニューク18年ぶりの新刊邦訳『インヴェンション・オブ・サウンド』が1月24日に発売されます。それを記念して、SFマガジン2023年2月号に掲載の深見真さんによる作家・創作エッセイをウェブ公開! 小説の秘訣を文体と翻訳から考察する名文、創作に関心のあるすべての方にお薦めです。

『インヴェンション・オブ・サウンド』
1月24日(火)発売

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 チャック・パラニュークの文体が好きだ。

 文体とは、文章の連なりが生み出す作家の個性であり、文章そのもののスタイルのことだ。僕は個人的に文体こそが小説の命だと思っている。文体がちぐはぐな長篇を読むと、バラバラ死体を見ているような気分になる。どんなに陳腐に思える筋立てでも、文体さえ自分の好みだったなら最後まで読み進めることができる。優れた文体、というものは実は存在しない。文体の好悪は生理的感覚や読者個々人の言語感覚によるものが大きく、「これ」といった明確な優劣の基準は存在しない。娯楽性・大衆性を重視した作品にはそれに相応しい文体があり、テーマ性や社会性を重視した作品も同様だ。バルガス゠リョサはこんなことを書いている。

 文体というのは小説形式の唯一とは言えないまでも、本質的な要素です。(中略)というのも、小説家が物語を書いて成功するかどうかは、書かれたものを通してフィクションが生命を得、創造者(作者)と真の現実から解放されて、一個の独立した現実として立ち現れてくるかどうかに関わっているからです(1)。 

『若い小説家に宛てた手紙』木村榮一訳(新潮社)

 文体がフィクションに命を与える。文体がもうひとつの現実を生み出す。文体の魅力とはなんだ? 作家によって異なる文体が、異なる官能性、音楽性、叙情性、身体性、身体性の延長としての暴力性を生み出す。文体には固有のリズム感や焦点距離があり、それが読者と噛み合ったとき唯一無二の読書体験となる。もう一度書く。文体に優劣はない。リーダビリティや娯楽性に差がつくことはあっても、優劣はない。文体にあるのは個性だ。作家がいて、読者がいる。両方に個性がある。あとは相性だ。読書家のためのマッチングアプリがあるとすれば、それは「文体重視」に設定しておくべきだ。

 作家は、デビューし、自分の本を世に出したときには自分の文体をつかんでいるのが理想的だ。しかしそれは理想にすぎない。デビュー作の時点で自分の文体をものにしていて、そのままベストセラー作家の道を歩む──理想的ではあっても、少ないケースと言っていいだろう。大半の作家は、デビューしたあとも自分の文体を理解していない。自分に相応しい文体があるのかどうかすらわかっていない。僕もそう。文体のことで真剣に悩みだしたのはデビューしてから五年は経過した頃だったはず。

 作品は「文体」「テーマ」「物語」「キャラクター」の四つで構成されている。作品のジャンルによってどの要素を重視するかが変わる。四つの要素で構成されているが、テーマが希薄でも物語は成立する。文体が整っていなくても物語は成立する。しかし時を超えて読み継がれるような傑作なら四つの要素がすべてそろっている。四つの要素がそろっていても、対象となる読者層を見誤ると誰も読まない本が出来上がる。

 問題は文体だ。難しい言い回し──硬い文体を体得してしまったら、テーマやキャラクターが軽い小説は扱えなくなる。柔かい文体は、対象となる読者層さえ間違えなければ高いポピュラリティーを獲得するチャンスがある。自分の文体、進みたい道、そして読ませたい相手、この三つがかっちり噛み合った作家は幸福だ。放っておいても上手くいく。ただ、読者も変わっていく。

 読書体験は幼児の頃の絵本から始まって、児童文学、小説、専門書と年齢によって変化していく。読書をしているとき、脳には信じられないほどの負荷がかかっているはずだ(このことについて掘り下げていくと脳科学的な話になっていくだろう。チャック・パラニュークとは関係がないから掘り下げない)。読書には五感すべてを使う。いわゆる「処理が重い」作業だ。その処理を少しでも軽くするために、読者は自分にあった文体を探す。

 僕はチャック・パラニュークの文体が好きだ。影響を受けた。当たり前のことだが、自分のフェイバリットである『ファイト・クラブ』はもともと英語で書かれた小説だ。だから英語版でも読んだ。翻訳された日本版と、文体を比較したかった。 

Chloe climbs hand-over-hand up the curdled lining of her own throat.
Death to commence in three, in two.
Moonlight shines in through the open mouth.
Prepare for the last breath, now.
Evacuate.
Now.
Soul clear of body.
Now.
Death commences.
Now.
Oh,this should be so sweet, the remembered warm jumble of Chloe still in my arms and Chloe dead some-where.

Chuck Palahniuk “Fight Club”

  僕は英語が苦手だ。それでも、読めばチャック・パラニュークの文体が五感で理解できる。短く引用しただけでも、圧倒的なリズム感が伝わってくる。そして彼の文体は、彼の抱く冷徹な世界観に相応しいものとなっている。Now の一単語がリズム感を生み、また作中における死生観を調整している。この文体から、「どこか突き放したような感じ」あるいは「主人公の主観なのに、どこか他人事のような感じ」を受けたとしたら、それは正しい感覚だと思う。それこそが文体のスタイルだ。

 文体固有のリズム感は、既存の音楽にたとえることができる。文体には時代性があり、音楽とその時代性を共有している。古典文学はやはりクラシック音楽のリズム感で進む文体が多いし(もちろん例外はある。これは大雑把なたとえ話だ)、グローバル化が進んだ現代は音楽も文体も多様になった。ナイジェリアの最新音楽が、配信サービスで簡単に聴くことができる時代。海外のバーチャルアイドルが日本のシティポップを熱唱する時代。ヒップホップのリズムを感じる日本の文学もあれば、日本のアニメソングを聴きながら執筆したとしか思えない北米の小説もある。

 チャック・パラニュークのリズム感を既存の音楽ジャンルにたとえるなら? それは読んだ人が決めることだ。ただ、映画版のサウンドトラックはびっくりするほど「解釈一致」だった。

 彼の文体で奏でれば、どんな激しさも孤独を含み、静寂も激しさを内包する。

 同じ場所を翻訳版と比較する。

 クロエは体液が張りついて凝固した自分の喉をよじ登る。
 死のプロセス開始まで残り三秒、二秒。
 開いた口から月光が射す。
 最後の息に備えよ──
 脱出。
 実行。
 魂、脱出。
 実行。
 死のプロセス、発動。
 完了。
 そうだ、その知らせは甘く響いていいはずだ、クロエの温もりの記憶はぼくの腕にいまも残り、クロエ本体はどこかで死んでいる。

『ファイト・クラブ〔新版〕』池田真紀子訳(ハヤカワ文庫NV)

  とても美しい翻訳だ。原語版のリズム感が再現されている。"Prepare for the last breath, now.”は、now の語感がまだ次の文章に続く余韻を醸し出す。だから「最後の息に備えよ──」で、句読点も使わない。英語が苦手な海外小説好きの読者として、改めて翻訳者という存在と仕事に感謝するしかない。丁寧な仕事によって、僕は日本語でチャック・パラニュークの文体を楽しめる。

 さっき引用したのは新版だ。旧版も見てみたい。 

 クロエは体液が凝固した自分の喉をよじ登る。
 死の発動まで残り三秒、二秒。
 開いた口から月光が射す。
 最後の呼吸に備えてください。
 大便、排出。
 実行。
 魂、脱出。
 実行。
 死、発動。
 実行。
 そうだ、その知らせは甘く響いていいはずだ、クロエの寄せ集めの温もりはぼくの腕にいまだ残り、クロエはどこかで死んでいる。

『ファイト・クラブ』池田真紀子訳(ハヤカワ文庫NV)

  比較する。印象が異なる。Evacuate には、「撤退・排泄」などの意味がある。どちらを選ぶのか? 作者はどちらの意味で使ったのか? 旧版では「大便、排出」と翻訳され、新版では「脱出」と翻訳された。どちらもいい。が、新版で採用された「脱出」のほうがいい。本篇の内容を考えると少し下品な単語のほうが相応しい気もするが、このシーンは違う。「月光」「最後の呼吸」といった単語の切ない響きが、このくだりの雰囲気を決めてしまった。

 他にも異なる箇所はある。「クロエの温もり」か、「クロエの寄せ集めの温もり」か。「クロエ本体はどこかで死んでいる」か、「クロエはどこかで死んでいる」か。翻訳者は選択を迫られる。そしてこれは個人的な印象だが、新版のほうがよりチャック・パラニューク文体の再現度が高い。冷たく、リズム感があり、それでいて生理的な質感にあふれた文体だ。文章の美しさのために「寄せ集め」という言葉を削ったかわりに、「クロエ本体」という言葉を足して本来のドライさを維持した。こうしてみると翻訳という作業は、爆弾解除と化学の実験を足したように繊細だ。

 チャック・パラニュークは孤独な人間を描くのが上手い。社会と折り合いをつけられない人間を描くのが上手い。今まで、物語の中心になるのは、様々な理由で社会から疎外された人間たちが多かった。それはドロップアウトであったり自己破壊であったり逃避行であったりする。孤独、疎外、破壊──。こういったチャック・パラニュークの世界観を描写するには、それに相応しい文体が必要になる。難解な言い回しが続くような文体は合わない。微に入り細を穿つ粘着質な文体は合わない。チャック・パラニュークの文体には冷たさと生理的な質感が必要なのだ。

 冷たさ、リズム感、生理的な質感。チャック・パラニュークの文体は、絶妙なバランス感覚のもとに成り立っている。文体は「距離感」をコントロールすることができる。文体が読者を共犯者に仕立て上げることもある。もちろん傍観者にすることも。この距離感は、作家と読者だけのものではない。作家・読者・劇中の登場人物たち──三者間に、小説によって適切な距離感が存在する。適切な距離感。「この主人公を読者に気に入ってほしい」「この主人公は読者にとって愉快なやつではないだろうが、何をするのか見届けてほしい」「読者に登場人物の苦しみを味わってほしいが、読むのをやめるほど苦しんでほしくはない」「読者に悲しんでほしいが、読むのをやめるほど悲しんでほしくはない」「作家の個人的な体験をアレンジして書くが、それが本当にあったことだと読者に気づかれたくない」「まったく架空の出来事を書くが、読者には本当にあったことだと思ってほしい」──こういった距離感を保つために、作家にはバランス感覚が欠かせない。

 僕はいつも「小説を書くという行為」への距離に悩んでいる。僕は小説を憎みながら愛している。おこがましい言い方をするが、チャック・パラニュークもそうだと嬉しい。よく言うだろう。逆もまた真なり、だ。憎しみも愛も、それに相応しい文体にのせて奏でれば作品に仕上がる。

  このエッセイのために『ファイト・クラブ』の原語版と翻訳版を比較し、「海外の小説を、とても良い翻訳で読む」ことの贅沢さを実感した。この贅沢さは守るべきものであり、もっと多くの人が享受したほうがいいと思うが余計なお世話かもしれない。チャック・パラニュークの新刊『インヴェンション・オブ・サウンド』を読むのが楽しみだ。チャック・パラニュークの文章が、文体が、中毒患者みたいに楽しみだ。

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2月3日には、パラニューク作品の翻訳家・池田真紀子さんと柳下毅一郎さんのオンライントークイベントも開催予定。書籍代だけでも視聴できるお得なチケットを以下で販売中です。

SFマガジン2023年2月号


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