30社以上に出版を断られた作品がブッカー賞受賞!?  100万部突破の話題作『シャギー・ベイン』の訳者あとがき。
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30社以上に出版を断られた作品がブッカー賞受賞!?  100万部突破の話題作『シャギー・ベイン』の訳者あとがき。

Hayakawa Books & Magazines(β)

 早川書房では、イギリスで最も権威のある文学賞の一つであるブッカー賞をデビュー作にして受賞した『シャギー・ベイン』を4月20日に刊行します。本書はブッカー賞受賞に加え、全米図書賞の最終候補作になり、2021年の全英図書賞の年間最優秀作品賞も受賞。原書は英語圏のみで既に100万部を売り上げ、英米の文学界で高い評価を得ている注目作です。

実は本作は、30社以上の出版社に断られた末に、ようやく一社との契約にこぎつけ、そのままブッカー賞を受賞するという異例のストーリーを持ちます。一体どのような物語で、著者はどのような人物なのか──訳者の黒原敏行さんによるあとがきです。 
※このあとがきでは、物語の展開に触れています。

『シャギー・ベイン』(ダグラス・スチュアート/黒原敏行 訳)
カバー写真ⒸJez Coulson
カバーデザイン 早川書房デザイン室

 ●あらすじ
1980年代、英国グラスゴー。
“男らしさ"を求める時代に馴染めない少年シャギーにとって、
自分を認めてくれる母アグネスの存在は彼の全てだった。

アグネスは、エリザベス・テイラー似の美女。
誇り高く、いつも周囲を魅了していた。
貧しさが国全体を覆っていくなか、彼女は家族をまとめようと必死だった。しかし、浮気性の夫がアグネスを捨ててから、彼女は酒に溺れていき、
唯一の収入である給付金さえも酒代に費やしてしまう。
共に住む姉兄は、母を見限って家を離れていくが、
まだ幼いシャギーはひとり必死にアグネスに寄り添い──。

けっして生きる誇りを忘れなかった母子の絆を描く自伝的巨篇。

訳者あとがき


 本書はスコットランド出身でアメリカ在住の作家ダグラス・スチュアート(Douglas Stuart, 1976~)の長篇小説Shuggie Bain(2020)の全訳である。本作は長篇デビュー作ながら、英語圏で最も権威ある文学賞の一つ、ブッカー賞(2020年度)を獲得するという快挙を成し遂げた(ちなみに2021年度までの受賞者52人のうちデビュー作で受賞したのは6人)。本作はまた全英図書賞の年間最優秀作品賞を受賞し、全米図書賞の最終候補にも選ばれるなど高い評価を受けている。

 描かれるのはシングルマザー、アグネス・ベインと、幼い末の息子シャギーの物語である。
 舞台はイギリス、スコットランドの最大の都市グラスゴーの貧困地区。時代は1981年から92年までで、主人公であるシャギー少年の5歳から17歳までの日々が語られる。

 アグネスは往年の大女優エリザベス・テイラーに似ている美人で、幼いころから港湾労働者の父親に溺愛され、年頃になると顔パスで入れるダンスホールに友達の集団を引き連れて通うなどして派手に遊び、男たちにちやほやされた。やがて堅実な男と結婚し、2人の子供をもうけたが、その生活に退屈し、野性的な雰囲気をもつタクシー運転手シャグ・ベインと駆け落ちして再婚する。

 こうして生まれたのがシャギーだが、このシャグという男は、容貌は冴えないのにひどく傲慢で、女癖が悪いうえに粗暴。アグネスはシャグの浮気と暴力に耐えかねて離婚し、鬱屈からアルコール依存症の泥沼にはまりこんでいく。

 公営の低所得者向け高層アパートメントや閉鎖された炭鉱の町での母子の暮らしは悲惨だ。異父姉兄(きょうだい)のキャサリンとリークは自力で脱出を図れるようになるが、幼いシャギーは逃げることができない。自己破壊衝動を抱えた母親から目が離せず、ろくに学校に通うこともできない。シャギーは昨今日本でも支援の必要性が叫ばれるようになっている”ヤングケアラー”なのだ。

 物語の時間はサッチャー政権時代(1979年~90年)とほぼ重なっている。周知のとおり、サッチャーは第二次世界大戦後の福祉国家イギリスが陥った英国病を克服するため新自由主義へと舵を切り、国営企業を民営化し、福祉給付を削減して、その結果、失業者を増大させ、貧富の差を拡大させた。グラスゴーは造船、石炭、製鉄などの重工業で繁栄した都市だったが、この80年代に工場や炭鉱がつぎつぎに閉鎖され、失業率が26パーセントに達した。本作に出てくるピットヘッドは架空の炭鉱で、1982年にはすでに閉鎖されており、町の男たちはほとんどが失業者という設定だが、1984年から85年にかけては、多数の炭鉱閉鎖に抗議して全国炭鉱労働組合が全英でストライキを実施し、敗北するということが起きている。本作の主人公の一家や周囲の人々の悲惨、絶望、無気力、堕落にはこの時代背景がある。

 この小説にはスコットランドの特異性もしっかりと描かれている。イングランドの英語とはかなり違う方言がそのまま再現されている。また驚かされるのはカトリックとプロテスタントの反目の凄まじさだ。カトリックはおもにアイルランドからの移民で、より勤勉だという自負のあるプロテスタントのスコットランド人から侮られている。これは北アイルランド紛争における対立構造と同じで、80年代にはあの紛争がまだ血腥く続いていた。

 もう一つ、この小説の重要な背景に、労働者階級における男性優位主義的な気風とそこから来る女性蔑視(ミソジニー)と同性愛者差別がある。主人公のシャギーは、まだ同性愛者の明確な自覚こそ持たないものの、自分が”男らしさ”に馴染めそうにないことに気づきはじめている。そしてそのことでいじめられるが、この点に関しては、兄や母親でさえ矯正しようとしてくるので、まったく孤立無援なのだ。

 作者のスチュアートは、この作品は労働者階級の声、スコットランド人の声、女性と子供の声、同性愛者の声という、少数派の人々の”多様な声”を響かせることができているのではないかとの自負を語っている。

 というふうに、さまざまな社会的背景からの読み解きが可能な小説だが、それ以上に重要なのは、本作がきわめて私的な物語だということである。作者はこの小説を、”回想録ではないけれど、自分自身の人生に非常に近いところから引き出された”小説であるとしている。つまりは自伝的小説ということだが、もう一つ別の見方をするなら、母親の伝記を書いたのだと言えるかもしれない。

 少年時代の作者は学校のノートに母親の伝記を書くという遊びをし、そこに母親を巻きこんだという。母親はけっこう面白がって、いっしょにストーリーを考えた。少年はこの遊びで母親の注意を惹き、母親が酒や男や自傷行為に走るのを食い止めようとしたのだ。その伝記がこの小説の原型だと言えるだろう。作者は、”わたしにとって『シャギー・ベイン』は愛の物語である。アルコール依存症のこと以前に愛について語っているのだ”とも言っている。

 本書で母親のことをひたすら思いつづけ気遣いつづけるシャギーは実にけなげだが、シャギーがそのように母親を慕うのは、アグネスという女性の持つ魅力によるとも言える。アグネスの行状は愚かしいことが多く、人間失格の烙印を押されかねないが、ぎりぎりのところで、母親失格にはなっていない、”毒親”ではない、そんなふうに思えるのである。アグネスの、どんな境遇にあろうとも美しく身を飾るのは悪いことではないという考え方は、世間的には非常識な身勝手であっても、シャギーには尊い一点なのだ。

 この小説には黒と灰色と白の貧寒として憂鬱な無彩色の世界がひろがっているが、ときおり、ぽつり、ぽつりと、鮮やかな色彩が出現する。アグネスの口紅やマニキュアやドレス、水溜まりに浮いた虹色の油、虹色のポニーなどだ。それらがシャギーだけでなく、われわれ読者にとっても救いになる。”虹色”は”多様性(ダイバーシティー)”のシンボルだが、そこにはあざといシンボリズムを超えた感覚的な喜びがある。

 作者は16歳でシャギーと同じような母親との辛い離別を経験したあと、しばらくは兄と同居し、17歳で下宿屋での一人暮らしを始め、グラスゴー市内の大学でテキスタイル・デザインを学んだ。そして24歳でニューヨークに渡り、ニットウェア・デザイナーとして、カルヴァン・クライン、ラルフ・ローレン、ギャップ、バナナ・リパブリックなどで活躍。ニットウェアを専門にしたのは母親から編み物を教わったことが関係しているとのことだ。

 そして30代に入ってから、母親と自分の物語を書きはじめた。本が一冊もない家に育ち、大学で文学を学んだこともなかったが、”どうしてもこの物語を自分の中から取り出す必要があった”。

ダグラス・スチュアート
ⒸClive Smith

 ファッション業界での忙しい仕事の間隙を縫って執筆を続け、10年がかりで書きあげた。売り込みをして、32社から断わられた末に、ようやくアメリカの独立系出版社のグローブ・アトランティックとの契約にこぎつけて、2020年2月11日に刊行され、その直後にイギリスのピカドール社からも出版された。出版が決まったとき、スチュアートは執筆中の唯一の読者だった恋人(男性)と結婚した(ニューヨーク州では2011年に同性婚が合法化)。

 長篇第二作は一作目が完成したときただちに執筆が開始された。それがYoung Mungoで、この4月に刊行される。グラスゴーの下層社会で、片やカトリック、片やプロテスタントのギャング・グループに属する二人のゲイの若者の恋愛物語で、”現代スコットランドのゲイ版『ロミオとジュリエット』あるいは『ウエスト・サイド・ストーリー』”だという。現在は第3作を執筆中で、旺盛な創作力を見せている。今後も注目していきたい作家だ。

●訳者略歴

黒原敏行(くろはら・としゆき)
1957年生,東京大学法学部卒,英米文学翻訳家 訳書『ブラッド・メリディアン』マッカーシー,『サトリ』ウィンズロウ,『エンジェルメイカー』ハーカウェイ,『怒りの葡萄〔新訳版〕』スタインベック,『ナイルに死す〔新訳版〕』クリスティー,『蠅の王〔新訳版〕』ゴールディング(以上早川書房刊)他多数

●著者から日本の読者へのメッセージ

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