オランダの農家育ちの作家が、ブッカー国際賞を最年少受賞。マリーケ・ルカス・ライネフェルトってどんな人?
その年の優れた翻訳(英訳)小説に贈られる英国の文学賞、ブッカー国際賞。その2020年の受賞作『不快な夕闇』(オランダ語題:De avond is ongemak/英題:The Discomfort of Evening)がついに日本でも刊行となります。
『不快な夕闇』は、オランダで詩人としても活躍するマリーケ・ルカス・ライネフェルトの長篇小説デビュー作で、オランダでは28万部を突破するベストセラーに。ブッカー国際賞を史上最年少の29歳で受賞したことでも世界の注目が集まりました。
注目を集める著者のライネフェルトは、いったいどんな人物なのでしょうか。本書巻末に収録されている、訳者の國森由美子さんのあとがきです。
訳者あとがき──國森由美子
本作『不快な夕闇』(原題:De avond is ongemak)の著者、マリーケ・ルカス・ライネフェルト(Marieke Lucas Rijneveld)は、 1991年、オランダ南部の北ブラバント州ニウエンダイクという小さな村に生まれ、ユトレヒト大学に入学するまでを同地で過ごした。今年(2023年)で32歳になる。
大学で国語教師になるためのコースを一年履修した後、アムステルダムの作家養成学校に通った。生家は酪農ではなかったが農家であり、また、小説に描かれているほど厳格ではなかったにしても、改革派プロテスタントの家庭だった。3歳の時、当時12歳だった兄を交通事故で失くしている。
小学生時代、J・K・ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』に夢中になった。両親が同書を読むことを──邪悪な書物だと──いわば禁じており、図書館で借りた本を一冊まるごとキーボードで打ちこんでコンピューターに保存したほどだった。2015年のデビュー詩集『仔牛の羊膜(原題Kalfsvlies)』は詩集としては異例にも版を重ね、翌年には、国内の新人詩人に授与される著名な賞を受賞する。当時は、本名のマリーケ・ライネフェルトと名乗っていた。
2018年に上梓した本作は初の小説で、マリーケ・ルカス・ライネフェルトとしても初の著作である。詩集が先になったのは計画していたのではなく、本作も同時に執筆していた。以後、これまでに『幻想夢(原題Fantoommerrie)』(詩集、2019)、『僕の愛しいお気に入り(原題Mijn lieve gunsteling)』(小説、2020、ちなみに、この二作目の小説には段落がない!)、『クミンを割く者たち(原題Komijnsplitsers)』(詩集、2022)、『温かな砦(原題Het warmtefort)』(エッセイ、2022)と、奇しくも韻文・散文作品を交互に上梓している。
ルカスというのは、小学生のころ、男の子になりたいと思っていた作家の空想上の男友達の名である。中学に入ると変わり者扱いされて多少いじめにあい、高校を卒業するまでは「ロングヘアでいかにも女の子っぽい服を着て」過ごしていた。20代前半に、作家はあらためて自己と向き合うようになった。しばらくはノンバイナリーを自認していたが、そのうちマリーケでもルカスでもありたい自己に気づき、自分の分身的なルカスを加えたペンネームを用いることにした。2022年には、男性(he/him)として生きる道を選択したと公表している。
(著者インスタグラムより)
本作の主人公の名であるヤス(オランダ語ではJas)は、ジャケット(あるいはコート)という意味であり、ヤスのジャケットは物語の中で重要な役割を果たしている。
小説には、長男の死を発端として、残された家族が各々その喪失と向き合うさまが描かれているが、常に鬱々としているわけではなく、軽妙なユーモアも散見される。また、粗野で非道な次兄のオブとは異なり、楽観的な妹のハンナは仄(ほの)かな希望のような存在である。2001年にオランダ全土で猛威を奮った口蹄疫も登場するが、これがとくに酪農家にとって悪夢のような出来事だったのは紛れもない事実で、当時10歳だった作家の生家付近でも同じ状況だったことは想像に難くない。牛を愛する作家は、2016年ごろには酪農家でアルバイトをしており、そこでの主な作業は牛糞の始末だった。当時のある詩関連のイベントで、作家は「とてもインスピレーションの湧く仕事だ」と冗談まじりに話している。ちなみに、18歳以降、牛肉は口にしていない(が、魚は食べる)そうである。
本作には聖書関連の事柄も頻出する。両親が敬虔な改革派プロテスタントで、教会に通うヤスの身のまわりには、常に聖書の言葉がある。ヤスは、兄のマティースが死んだのも、両親がもう〈交尾〉しなくなったのも自分のせい、その罰があたかも聖書の〈十の災い〉であるかのように天から降りかかるものだと思いこむ。物語を読み進むにつれ、聖なるものであるはずの言葉の数々はしだいにヤスを追いつめ、まるで呪縛となっていくかのようにも感じられる。自己を外界から守ってくれるジャケットを無理やり脱がされそうになったヤスは、〈十の災い〉の最後に残った〈暗闇〉というメッセージを感じ取り、物語は終幕へと向かう。
ライネフェルトは、本作のエピグラフの詩の作者であるヤン・ヴォルカース(Jan Wolkers 1925~2007)に心酔しており、ヴォルカースの作品から小説の書き方のすべてを学んだと言っている。かつてオランダ文学の四大作家の一人と称されたヤン・ヴォルカースも、ライネフェルトと同じく改革派プロテスタントの家庭に育ち、実父との関係や当時の保守的なオランダ社会と葛藤した作家である。そして長兄を病気で失っている。ヴォルカースの型破りな小説『危険な果実(原題Turks fruit)』(1969)は世界的にヒットし、オランダ人監督であるポール・バーホーヴェンにより1973年に映画化もされた(邦題『危険な愛』)。ヴォルカースはまた、自然や動物を愛した作家でもある。本作の執筆中、ライネフェルトは仕事場の机の目の前の壁に自分のヒーローであるヴォルカースのポスター、その横に、友人からの大切なアドバイス“冷徹に(書く)”を紙に大きく書いて貼りつけ、励みにしていた。
2020年に、本作の英訳者とともにブッカー国際賞を受賞したライネフェルトは、初のオランダ人作家として、しかも、初の小説にしていきなり同賞に輝くという快挙を成し遂げたばかりでなく、同賞の歴代受賞者としても最年少という記録を打ち立てた。自身の大好きなロアルド・ダールや『ハリー・ポッター』を生んだ英国で認められたことは、ライネフェルトにとって大きな喜びだったにちがいない。
これを契機に、ライネフェルトは国内でも一気に脚光を浴びるようになった。まさに、〈オランダ文学界の若き巨星あらわる〉といった扱いだった。2022年のオランダ全国読書週間には、著名な作家が手がける書き下ろし作品の執筆者に選ばれ、その年のテーマ〈初恋/ファーストラブ〉をエッセイ(前出の『温かな砦』)に仕立てた。
2023年1月現在、作家は三作目となる小説『シギF.の悲しみ(原題Het verdriet van Sigi F.)』を準備中である。『不快な夕闇』邦訳刊行にあたり、文学に関連する質問を二問だけさせてもらった。以下がそのやり取りである。
Q・1 あなたの小説がこのたび日本で翻訳されることについて、どんな気持ちでしょうか?
自分の本が世界中で翻訳されるということが、いまだに現実とは思えないでいます。そこに日本が加わるというのは、とても誇らしく名誉なことです。日本の読者が『不快な夕闇』をどのように思うのかに、大変興味があります。それは、内容がいかにもオランダらしく、わたしたちの文化が日本とかなり違うからでもあります。でも、逆を言えば、その違いこそが文学を重要なもの、希望を与えるものにしているのだと思います。なぜなら、わたしたちはそこからどんなにたくさんのことを学ぶことができるかしれないからです。ですから、主人公のヤスの思いが日本の読者の心にも響くことをとくに願っています。
Q・2 日本の作家の作品を読んだことはありますか?
偶然にもいま、大江健三郎の『セヴンティーン/性的人間』というタイトルの本を読んでいるところです。しばらく前、新聞で書評を読んで関心を持ちました。まだ読み始めたばかりですが、すでにすばらしい作品だと思っています。ある少年が自分の性的な特質を発見するという物語ですが、いまの自分が本当の自分ではないと感じ続けていると、人は時に道を踏みはずしてしまうものだという物語でもあります。
同書の刊行当時の大騒動については知っています。ですから、いま現在こそ、この本を読むことあるいは再読することが大切なのだと考えます。ここに書かれている多くの事柄がいまもなお当てはまるからです。そして、文学に境界があってはならないし、文学を追放してはなりません。想像する力はわたしたち人間の持つ自由の一部なのですから。
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(『不快な夕闇』に巻末に収録されている訳者あとがきを一部編集して掲載しています)
マリーケ・ルカス・ライネフェルトの『不快な夕闇』は2月21日発売!
どうぞお楽しみに。