【朝日・毎日・日経新聞で続々書評】「なじみすぎ」は失敗の元? プロジェクトを寝かせるべき科学的理由(『ヒットの設計図』試し読み)
以前、こちら↓の記事に大きな反響を頂きました。
わざと「質を下げた」企業広告に、あなたは騙されていませんか? 『サピエンス全史』著者絶賛の『知ってるつもり』試し読み
多くの人は「説明嫌い」で、『サピエンス全史』『ホモ・デウス』のユヴァル・ノア・ハラリがコメントしているように「著者らが正しければ、有権者や消費者により良い情報を与えることは無意味に等しい」。
デレク・トンプソン『ヒットの設計図――ポケモンGOからトランプ現象まで』では、こうした「説明嫌い」の理由が心理学の側面から明らかにされています。超面白いです。
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イデオロギーは脳に「焼きつく」
数年前、私はある話を──本当の話だといいのだが──21世紀フォックスに勤める友人から聞いた。
1990年代末、世界最大のテレビメーカーがフォックス・ニュース・チャンネルに、複数の熱心な視聴者から奇妙な苦情が来ているという話を伝えた。保守的なニュースを1日中見ている年配の視聴者たちが言うには、フォックス・ニュースのロゴが、画面に焼きついたのだそうだ。チャンネルを変えても、そのロゴは、亡霊のように画面の下の角に浮かんでいるのだという。現在では、フォックス・ニュースのロゴは、スクリーンの下の角をゆっくりと動いていて、テレビの画素に焦げつかないようになっている。
実をいうと、私たちの多くが、イデオロギーの「焼きつき」におかされている。ストーリーやメディアから取り込んだ偏見が、脳に刻印されてしまうのである。リベラル派たちは、左寄りのウェブサイトの中に、殻を作って閉じこもる。情報をツイッターから得ている人たちは、自分のもともとの意見にぴったり合う情報で、ニュースストリームを作ることができる。フェイスブック、パンドラ、ネットフリックスなどのメディアは、一定の方法で情報処理を行なうので、自分や仲間の好みに合った選択による世界が創り上げられる。「流暢性(分かりやすさ)」と「なじみ感」を求める傾向は自然なものとはいえ、多くの危険な偏見を取り込むことにもなる。
報道の力は、重要な問題を人々に知らせ、それに関する判断を提供することだけではない。そもそも、どの問題が報道するに値するかを決定する時点から、報道の力が行使されている。またどのニュースを重点的に報道するかによっても、受け取られ方が変わってくる。たとえ虚偽のニュースでも、いったんなじみ感ができてしまうと、その根拠の薄さがその後たびたび報道されても、いつまでも厳然たる事実だと思われてしまう。
作り話を見抜く研究がある。年配の人たちと若い人たちを含む実験参加者に、たとえば「サメの軟骨は関節炎に効く」(ウソ)など、怪しげな説をいくつか読んでもらう 。直後には、ほとんどの参加者たちはそれが作り話であると正しく見抜く。しかし何日か後、もう1度同じテーマを持ち出すと、年配の参加者の方は、「サメの軟骨は、本当に関節炎に効く!」と答える人の割合がぐっと高くなる。
「繰り返し」の強い力が働いて、サメの軟骨と関節炎の関係に、「なじみ感」が生まれたのである。年齢の高い参加者は、顕在記憶が衰えているので、なじみ感(正しいように感じる)と、事実(正しい)が区別しにくい。
これからわかることは、メディアが不正確な情報を否定しようとすると、意図に反して、一部の人たちにそれを事実として広めてしまうことになりかねないということだ。ケーブルテレビで、何かの問題に関して、異なる意見を持つ2人の参加者に討論させるという昔ながらの番組がある。こういうアプローチは一見客観性があるように見えるが、問題をよけいに分かりづらくしてしまいかねない。「進化」のようにすでに結論が出ている問題に関してディベートを開催すると、聞いている人たちは、正しくない方の論理にも──たとえ間違いが指摘されたとしても──繰り返し触れることになる。何かの言葉や考え方は、単に繰り返されるだけで、たとえ嘘だとはっきり言われていても、それが長期にわたると多くの人を混乱させかねない。「なじみ感」と「事実」は、容易に混同されるからである。
ニューヨーク大学スターン・スクール・オブ・ビジネスのマーケティング学教授、アダム・オルターは、「対象に注がれる意識を、特定の情報を選択して買うための予算と考えると分かりやすいでしょう」と言う。「『流暢性』があるということは、情報がわずかのコストで手に入ることを意味します。すでに似た形で入ってきているので、なじみがあるからです。一方で『非流暢性』を持つ情報は、入手に大きなコストがかかるのです。コンセプトを理解するのにかなりの努力を要したり、名前が聞いたことのないものだったり、またそのために発音しにくかったりするからでしょう」
「流暢性」にマイナス面があるというなら、果たしてその反対の「非流暢性」にはプラス面があるのだろうか。オルターによれば、それはあるらしい。彼の研究の1つにこんなものがある。たとえば「モーゼは、それぞれの種類の動物を何匹ずつ箱舟にのせましたか?」というようなシンプルな質問を、読みやすいフォントで印刷して、回答者に示して答えてもらった。すると、多くの回答者が「2匹」と答えた。ところがこの同じ質問を、読みにくいフォントで印刷して別の回答者たちに示したところ、「箱舟を作ったのはノアで、モーゼではない」と答える人の割合が、読みやすいフォントの時よりも35パーセント増えた。フォントが読みづらかったために、読み方がより注意深くなったのである。
オルターはこの発見をさらに、いくつかのシンプルだが間違えやすい質問で試してみた。皆さんもやってみてはどうだろう。
「野球のボールとバットが、両方で1ドル10セントします。バットはボールよりも100セント高いです。バットはいくらですか?」
これは小学校でやる算数の問題である。しかしこの文章は、早とちりを誘導するように作られている。バットが1ドルで、ボールが10セントだと答えがちだ。だが1ドルと10セントの差は90セントで、100セントではない。正解は、バットが1ドル5セント、ボールが5セントである。オルターはこの問題も、読みにくいフォントで印刷されていた場合に正答率が高くなることを確認した。
単に何度も目にふれることによって生じる「接触効果」は、心理学の歴史の中でもっとも数多く再現された発見だが、「非流暢性」の効果は、まだあまり理解されていない。しかし、オルターの研究は、読みにくいフォントが読者に、ちょうどいい量の集中と思考を促し、質問の罠に気づかせることを示している。「非流暢性」が、かすかなアラームを鳴らし、のんびり自動的に情報処理をしている脳に、もっとしっかり注意を払うように促すのである。
「流暢性」には、メーカーにとっても消費者にとっても、マイナス面がある。創造に関わる人たちがあまりに自分のプロジェクトになじんでしまうと、作品を評価する能力が損なわれる。私のような物書きにとっては、それが意味するところは明白だ。自身の文章にあまりになじんでしまうと、その質に関して厳密な判断が不可能になる。いったん仕事からしばらく離れ、その後新しい視点で読み直してみると、ようやく正しく評価できる。
だが「流暢性」の誘惑がもっとも強く働く対象は、視聴者や読者である。韻をふんだ格言は人を惹きつけるし、倒置反復法は実に魅力的に感じられる。自分が正しいと思っている考え方を掘り下げている論説を読むのはたいそう気分がいい。世の中に関する自分の意見を裏づけてくれる優れたストーリーがあれば、人に話したくなる。これらはみな同じ根をもつ反応である。つまり人は誰でも、入ってくる情報を易々とスムーズに処理したいと思っているのだ。だが、物語と科学を見分けるのは、私たち消費者や視聴者の責任だ。優れたストーリーは人を誘惑するからこそ、特に疑ってかからなければならない。
(『ヒットの設計図』「第5章 ヒットのダークサイド」より)
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