知ってるつもり帯付

わざと「質を下げた」企業広告に、あなたは騙されていませんか? 『サピエンス全史』著者絶賛の『知ってるつもり』試し読み②

発売直後から話題沸騰の知ってるつもり——無知の科学(スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバック、土方奈美訳)。世界的ベストセラー『サピエンス全史』著者のユヴァル・ノア・ハラリは、本書について次のように書いています(ニューヨーク・タイムズ書評)。

「著者らが正しければ、有権者や消費者により良い情報を与えることは無意味に等しい」

一体どういうことなのでしょう? ハラリも特筆した衝撃の事実を、『知ってるつもり』本文より抜粋公開します。

どんな製品を買うときでも、消費者は細部に関心を払おうとしない。バンドエイドを買いに行ったところ、店頭の商品がすばらしい新機能をうたっていたとしよう。

「パッドの気泡が傷を早く治す」

このバンドエイドを割高でも買おうと思うだろうか。思う人もいるかもしれないが、こんな疑問を抱くのではないか。「どんな仕組みなのか」と。もう少し説明を追加すれば、新機能の価値を信じて余分なお金を支払うかもしれない。フタを開けてみると、誰もが多少の説明を歓迎することがわかった。当初の宣伝文に次の説明を加えると、バンドエイドを買いたいと思う人が増えた。

「気泡によって傷周辺の空気の循環が良くなり、細菌が死滅するため、傷が早く治る」

なぜ気泡があるかを説明してもらうことで、消費者は因果を理解した気になる。だがこの説明は、かなり皮相的だ。気泡によってなぜ空気の循環が良くなるのか、なぜ空気循環によって細菌が死ぬかはわからない。しかしこうした詳細な質問の回答は求めない人がほとんどだ。われわれはさらに詳細な説明を追加してみた。

「気泡でパッドが押し上げられて傷とのあいだに隙間ができ、空気が循環する。空気中の酸素が多くの細菌の代謝プロセスを妨げ、細菌が死ぬため、傷は早く治る」

すると、製品に対するほとんどの人の評価はむしろ悪化した。因果的説明が多すぎると、消費者はそっぽを向くのだ。

たいていの人は、意思決定をするときには「説明嫌い」になる。まるで童話『三匹の熊』のヒロイン、ゴルディロックス〔訳注:熱すぎず冷たすぎない、ちょうど良い温かさのスープを選んだ〕のようだ。説明は簡単すぎても、くどすぎてもいけない。ちょうどぴったりがいい。もちろん、あなたの周りにも例外的な人は何人かいるだろう。選択をする前には、詳細な部分まですべて知っておこうとする。入手できる資料はすべて何日もかけて読み込み、新たなテクノロジーのプラス面とマイナス面を調べる。

しかし大多数の人は説明嫌いだ。三つ目の説明を聞くまでもなく満足してしまう。説明が詳しすぎると、製品が複雑なモノに思えるだけだ。バンドエイドの性能を評価するのに、細菌の代謝プロセスが関係あるということを、誰が知っていただろうか。そもそもそんなことに誰が興味があるというのか。

商業市場は、説明嫌いの人々は詳細な情報を嫌うという性質を巧みに利用している。たいていの広告は、できるだけ曖昧な宣伝文句を使う。消費者が共感しそうな人物(どこにでもいそうな建設作業員)や、マネしたいと思うような人物(セクシーな目つきの色男)を広告の目玉にして、虚偽の説明を避けつつ製品の利点を曖昧な言葉で表現する。

ある抗うつ薬のテレビコマーシャルは、治療上のメリットを5秒で説明した後、55秒かけて副作用のリスクを説明し、その間どこにでもいそうな少女が光を見て、小さなことに喜びを見いだす映像を流していた。別の抗うつ薬は「効果があるかもしれない」とだけ言った後、45秒かけて副作用のリスクを説明した。そこでも映像には人生を取り戻す女性の姿が描かれたが、このときはモデルとして中年の女性が使われた。こうしたコマーシャルも、単にセクシーな若者たちが楽しい時間を過ごす映像を流すだけのビールのコマーシャルよりは情報量が多いかもしれない。

スキンケアも説明嫌いの希望に沿うことで成り立っている業界の顕著な例だ。美容会社はほとんど医学的根拠がないにもかかわらず「DNAを修復する」「20歳若く見せる」などとうたったちっぽけなクリームの瓶にとんでもない値段をつけ、大儲けしている。なぜそんなことができるのか。エセ科学的な専門用語を使い、エビデンスらしきものを示すというのがその手口だ。産業そのものがエセ科学に立脚している。「肌科学クリニック」などともっともらしい名称をつけて、高度な画像装置や「肌質分析ソフトウエア」のような一見すばらしいテクノロジーを採用しているが、そこには医学的価値のあるエビデンスは一つもない。すべてスキンクリームを売るための仕掛けである。

●情報量を増やすことは解決策にならない

消費者が浅薄であることへの標準的な対応は、教育を通じて無知を解消しようとすることだ。そこには知るべきことを教えれば、消費者は賢明な判断を下すようになるという期待がある。

消費者が金融についてより良い意思決定をできるようにするという試みは、幾度も繰り返されてきた。家を買う、退職後のために貯蓄をする、大学の学費を支払うといったお金に絡む判断は、人生における意思決定のなかでも特に重要な部類に入るからだ。これほど豊かな社会において、これほど多くの人が破産すれすれの生活を送っているというのは衝撃的である。アメリカの家計の資金的な危うさを示す、恐ろしい統計がある。30日以内に2000ドルを用立てられる自信がある、と答えたのは全世帯の25%にすぎなかった。突然の事故、病気になったら、あるいは世帯主が解雇されたらどうするのか。ぞっとするような統計はもう一つある。まもなく退職期を迎えるアメリカの世帯は平均して、3年分の生活費しか貯蓄していない。明らかに十分とは言えないだろう。

こうした問題を解決するため、世界中の政府や団体が金融教育プログラムに数十億ドルを注ぎ込んできた。しかし成果はあがっていない。2014年の時点で、金融教育が好ましい金融行動を助長するのにどれだけの効果があるかを調べた研究は少なくとも201件あった。好ましい金融行動とは、たとえば退職後に備えて貯蓄する、万一に備えた資金を貯めておく、個人の信用度を高めるために小切手の不渡りを出さない、クレジットカードの支払い遅延をしないといったことだ。こうした教育プログラムの効果はほぼゼロだった。多少効果が見られた場合でも、教育を受けて数カ月以内に消えてしまった。

われわれが思うに、こうした試みが失敗した原因は、意思決定を個人の問題ととらえたことにある。意思決定をするのは個人だ、だから賢い決定を下すには個人を教育する必要がある。誤った判断をした場合、その責任は個人にある、と。

しかし、この考え方は誤っている。個人は独力で意思決定をするのではない。選択肢を考え、提示し、アドバイスを与えるのは他者である。しかも私たちは他人の意思決定をマネすることもある(たとえば株式投資のカリスマ、ウォーレン・バフェットが特定の銘柄を買うと、多くの投資家が追随する)。意思決定は、共同体という視点でとらえるべきだ。意思決定に必要な知識は、個人の頭のなかだけでなく、知識のコミュニティに存在している部分が大きい。

誤解を招くような主張や質の低い説明は、知識のコミュニティのおかげで成り立っているところもある。それが通用するのは、私たちが他者に思考を任せる傾向があるからだ。コミュニティの存在を意識するだけで、自分は理解している、少なくとも意思決定をするだけの知識はあるという気になる。

その結果、一見まともそうな、しかし製品がどのように効果を発揮するかという具体的な説明のない広告を素直に受け入れる。「自然派」「有機」といった言葉は、類似製品と比べて特に自然でも有機でもない製品に使われると、消費者に誤解を与える。同じように「グルテンフリー」の食品をもてはやす風潮が広まるなか、もともとグルテンを含んでいなかった食品にも「グルテンフリー」というラベルが付けられるようになった。ダイエット用サプリが「プロバイオティック」であるとなぜ良いのか、知っている人はどれだけいるだろう。

人々が物事を深く理解しないまま、意思決定することを防ぐ手立てはなさそうだ。たとえきわめて重大な結果をもたらすような決定でも、それは変わらない。ではどうすれば、より賢明な選択ができるようになるだろうか。

(『知ってるつもり』より抜粋)

*試し読み記事、第1弾はこちら!
無知な人ほど過激な意見をふりかざす? 『サピエンス全史』著者絶賛の『知ってるつもり』試し読み

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