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「なぜ、私や私の愛する人を苦しめる病気を治す薬がないのか?」『新薬の狩人たち』冒頭公開③


ドナルド・R・キルシュ&オギ・オーガス『新薬の狩人たち――成功率0.1%の探求』が早川書房より発売しました。創薬研究の第一線で35年にわたり活躍する著者が、先人たちの挑戦の歴史をつづる注目の科学ノンフィクションです。

翻訳は、企業で医薬品の研究開発に携わった経歴を持つ寺町朋子さん。巻末解説は、同じくかつて製薬企業に勤め、現在はサイエンスライターとして活躍する佐藤健太郎さん(『炭素文明論』『医薬品クライシス』『世界史を変えた薬』)に執筆いただきました。最強の布陣で贈る本作より、冒頭の「イントロダクション」を全文公開します(全3回)。今回はいよいよラストの3回目。

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『新薬の狩人たち』[イントロダクション] バベルの図書館を探索する
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化合物ライブラリーを系統的に探索するプロセスは、「スクリーニング」と呼ばれる。先史時代のスクリーニング手法は、ふと見つけた未知の果実をなんでももぎ取って、鼻で吸ったり体に塗りつけたり飲みこんだりすることだった。そうやって祖先たちが、自然界で目に入るものを手当たり次第に試しながら計り知れないほどの長い年月が流れたのち、1847年になって、ある程度科学的なスクリーニング法を用いた初めての薬が発見された。当時、医師たちは手術用麻酔薬としてエーテルを用いていたが、その経験から、エーテルに似た別の化合物でもっとよいものがあるかもしれないと考えるようになった。エーテルには明らかな欠点がいくつかあった。たとえば、患者の肺を刺激したし、爆発しやすいという困った性質もあった。それで医師たちには、こうした問題のない新しい麻酔薬には大きな臨床的価値があるだろうとわかっていたのだ。

エーテルは揮発しやすい有機液体だったので、スコットランドのジェームズ・ヤング・シンプソンという医師が二人の同僚とともに、手に入る揮発性の有機液体を一つ残らず試してみることにした。彼らのスクリーニングプロセスは単純だった。試験したい液体の瓶の蓋を開け、立ち昇る蒸気を吸いこんだのだ。それで何事もなければ、彼らはそのサンプルを「無効」と分類した。一方、気がついたら床に転がっていた場合には、「有効」と分類した。

いうまでもなく、このスクリーニング手順は、現在なら実験室の安全基準を絶対に満たさない。たとえばベンゼンは、当時は広く入手できた揮発性の有機液体だったので、シンプソンのスクリーニング化合物に入っていたのはほぼ確かだ。しかし、ベンゼンには発ガン性があることが今では知られており、その蒸気を吸いこむと、卵巣や精巣に長期的な損傷が生じる恐れがある。

ということで、シンプソンたちのスクリーニング法は無謀なものではあったが、1847年11月4日、彼らはクロロホルムを試した。三人の男性はクロロホルムを吸いこむと、快活で上機嫌になり、そのあと床に崩れ落ちて気を失った。数時間後に目覚めたとき、シンプソンは有効なサンプルを特定できたことがわかった。

シンプソンはこの発見を確かめたいと思い、姪のピートリー嬢に、目の前でクロロホルムを吸ってほしいとしつこく頼んだ。そのとおりにした少女は失神した。彼女がふたたび目を覚ましたのは幸いだ。なぜなら、クロロホルムは心臓血管系を強く抑制し、手術用麻酔薬として用いると死亡事故が高確率で発生することが今ではわかっているからだ。こうした数々の危険はあったが、シンプソンは居間で次から次へと化学物質を吸いこむことによって、19世紀のブロックバスターの一つを発見した。こうした薬の発見話が、今日に繰り返されることはありそうにもない。いや、それはどうだろうか。1980年代、私はフォルクスワーゲンのマイクロバスの後部で新薬を見つけようとした。

私がめくるめく幻覚の世界にトリップするような実験にふけっていたにちがいないとあなたが思っているならば──結局、ほかにどんな理由でライムグリーンのVWバスの後部にこもって未知の薬を楽しむというのか?──はずれだ。私がドラッグハンターとして初めて給料をもらった仕事の一つが、抗菌薬(抗生物質)発見グループで働くことだった。新しい抗菌薬を探索する一般的な方法は、土壌に生息する微生物をスクリーニングすることだ。私はいつも、薬という成果につながるもの──ひいては商業的な成果につながるもの──が潜んでいそうな見慣れない土壌に目を光らせていた。文字どおり掘り出し物を探していたのだ。

ある週末、私は自発的にデルマーバ半島へと出向いた。半島のチェサピーク湾側から土壌サンプルを得てスクリーニングするためだ。このときは、自分たちの「モバイル実験室」に乗っていった──例のマイクロバスで、流しとブンゼンバーナーが備えつけてあった。私のグループは少し前に「モノバクタム系」といわれる新しい種類の抗菌薬を発見していたので、モバイル実験室に「モノバクバン」というあだ名をつけていた。

私は、「ビーチでの日光浴」という餌をぶら下げてなんとか妻を誘い出したが、それから妻をモノバクバンの運転要員にして田舎の海岸線に連なる急カーブを回らせた。私は後部にもぐりこんで、ときおり唐突に車を停めてくれと命じ、車を飛び出していっては泥を袋に詰めてきた。そして、車を走らせたり、湿っぽくて悪臭を放つチェサピーク湾の土をすくったりしていないときは、土壌サンプルを薄めてシャーレに塗りつけていた。妻はおかんむりだった。その週末は、二人のどちらにとってもさんざんなものになった。というのは、月曜日に研究室に戻ってから採取サンプルを試験してみると、ことごとく無効だったからだ。妻からは、もし結婚に「無効」のレッテルを貼りたくなければ、次に車で遠出するときには、日光浴がもっとできなくてはならないしスクリーニングは絶対にごめんだと申し渡された。

さて、私がドラッグハンターだということを知った人は、たいてい、以下にあげる三つの質問の少なくとも一つを私に投げかける──それらは、それなりに根拠のある皮肉を込めて表現されることが多い。

なぜ、私の薬はこんなに高いのか?
なぜ、私の薬にはこんなに不快な副作用があるのか?
なぜ、私や私の愛する人を苦しめる病気を治す薬がないのか?

本書を執筆した理由の一つは、これらの疑問に答えるためだ。そしてじつのところ、これら三つすべての答えは、新薬探索が──少なくともこれまでは──気が滅入るほど困難だという事実に結びついている。なぜ困難なのかといえば、現代の新薬開発方法はどれも、なんらかの重大な岐路において試行錯誤のスクリーニングに頼っているからだ。その点は、ネアンデルタール人が荒野を歩き回っていたころとなんら変わっていない。人間の生物学的仕組みに関する現在の知識はまだ不十分であり、私たちが心身のためになる分子を切に求めても、私たちを論理的に導いてくれる理論や原理は得られていない。

だが、本書の執筆に取りかかってみると、人間の健康や科学の限界、勇気や創造性や直観的なリスクテイクの大切さに関して、ぜひお伝えしたいと思えるより深い教訓がいろいろあることに気づいた。以下の章では、新薬を求めて私たち人間が乗り出した大胆な旅を石器時代の祖先たちから今日の巨大製薬企業までたどり、ほぼ広大無辺な化学ライブラリーのどこかに隠されたわかりにくい手がかりを人類が追い求めてきた旅路を年代順に見ていこう。本書の執筆では、科学者でない方にもわかりやすいように平易な言葉で書こうと努め、より専門的な情報は巻末の注にまとめた。そちらには、本文の全般的な流れには収まりきらない興味深い詳細やエピソードも載せている。本書では、直観やイノベーション、粘り強さ、そして驚くべき運のよさによって各自の『弁明の書』へと導かれた非凡な人びとの物語を伝えることで、新薬探索の壮大な冒険を綴っていく。また物語の折々で、私たちの将来的な幸福に生かせそうな教訓を見つけようと思う。歴史上で大成功したドラッグハンターたちが、世界を変える薬を見出せた要因はなんだったのか? そして、なによりも必要とされている薬を見出す確率を上げるために、個人として、あるいは社会として私たちにできることはあるだろうか?

こうした遠大な目標のほか、私が本書に対して、より個人的で控えめな使命を抱いていることも打ち明けておく。腰を据えて本書を執筆する気になったのは、そもそもそれがきっかけだった。すなわち、プロのドラッグハンターの実態について、ありのままを伝えたいということだ。

(『新薬の狩人たち』「イントロダクション」了)

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続きは書籍版でお楽しみください!

[著者紹介]
ドナルド・R・キルシュ(Donald R. Kirsch)
35年以上の経歴をもつ新薬研究者(ドラッグハンター)。ラトガース大学で生化学の学士号を、プリンストン大学で生物学の修士号と博士号を取得。スクイブ社(現ブリストル・マイヤーズ・スクイブ)、アメリカン・サイアナミッド社、ワイス社(ともに現ファイザー)、カンブリア・ファーマシューティカルズ社で抗感染症薬や抗真菌薬、抗ガン剤の開発や機能ゲノミクス研究に携わる。これまでに医薬品関連の特許を24件取得、50本を超える論文を執筆している。現在はバイオ/製薬業界コンサルタントとして活躍するほか、ハーバード大学エクステンション・スクールで新薬探索の講義を担当する。

オギ・オーガス(Ogi Ogas)
サイエンスライター。《ウォール・ストリート・ジャーナル》紙や《ボストン・グローブ》紙、《ワイアード》誌などに寄稿。著書に『性欲の科学』(サイ・ガダムとの共著)など。

[訳者略歴]
寺町朋子(てらまち・ともこ)
翻訳家。京都大学薬学部卒業。企業で医薬品の研究開発に携わり、科学書出版社勤務を経て現在にいたる。訳書にハート『ドラッグと分断社会アメリカ』、ホルト『世界はなぜ「ある」のか?』(以上早川書房刊)、シルバータウン『なぜ老いるのか、なぜ死ぬのか、進化論でわかる』ほか多数。

(書影はAmazonにリンクしています)

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