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想い人が3000年経っても現れないので、待ちくたびれて「山」になってしまった女の話──劉震雲『一日三秋』より(水野衛子訳)

中国文学界でもっとも栄誉がある賞の一つ、茅盾文学賞を受賞した中国のベストセラー作家、劉震雲さんの最新作『一日三秋』が水野衛子さんの翻訳で刊行となりました。中国のレビューサイト豆瓣では、「2021年度中国文学小説ランキング」で余華に次いで第2位を獲得し、すでに10以上の言語で翻訳されています。

そんな注目の本作は、劉さんの出身地である河南省延津を舞台に、そこで生きる人の「ユーモア」の由縁に焦点を当てた作品です。作家のいしいしんじさんも「想像を絶するおもしろさ」と絶賛! 物語で描かれる“人生の滑稽さ”に笑い、いつしか涙してしまう、傑作長篇です。

今回は、延津に言い伝えのあるとされる仙女「花二娘」についてが語られる冒頭第一部を公開します。

装画/南伸坊 装幀/佐藤亜沙美


第一部 花二娘かじじょう


花二娘かじじょうは笑い話を聞くのが好きな人だ。
「花二娘はどこから来たんだね」と人が聞くと、花二娘は言う。
望郎山ぼうろうざんよ」
「何しに来た?」と聞くと、花二娘は言う。
「笑い話を探しに」
「眉の上に霜がついているよ」と言うと、「望郎山には積雪があるから」と答える。花二娘は腕に籠を下げていて、籠の中にはランタンのような真っ赤な柿が入っている。

花二娘が笑い話を探すのは昼ではなく、夜だ。

花二娘は延津の人ではない。はるばる遠くから延津にやってきて、延津の渡しで人を待っている。その人は花二郎かじろうという。だが、三千年以上も待っているのに花二郎はやって来ない。花二娘は会う人ごとに言う。
「約束したのよ」
花二郎は心変わりしたのか、三千年来、戦乱や天災が絶えないので道中で死んだのか。花二娘は渡しで立ちくたびれ、川べりに座って脚を洗いながら言った。
「水よ、あんたはやっぱり約束を守るわ。来ると言ったら、毎日時間通りに来るもの」
水が言う。「二娘、あんたが昨日会ったのは俺たちじゃない。俺たちは今日ここに来たばかりだ」
花二娘はため息をついて言う。「川は変わらなくてよかったわ。でないと行くところがなくなるもの」
水が言う。「二娘、水が違うなら川も違うんだよ」
雁の群れが空を飛んできたので、花二娘は言う。「雁よ、やっぱりあなたたちは時間を守るわ。去年いなくなり、今年また時間通りに帰ってきたのね」
雁が言う。「二娘、わしらは去年の群れじゃない。去年の群れはとっくに南方で死んだよ」
宋代の宗の時代まで待つと、数羽の鶴が飛んできて、さらには数羽のキンケイが飛んできたので、花二娘は人を待つことが笑い話になったと知り、その日の夜、突然山になった。その山が望郎山と呼ばれるようになった。

後に人々は知った。花二娘はもともと人ではなく石だったから山に変わったのだと。石は石のような心を持つのに、花二娘の心は水のように柔らかかった。柔らかな心が花二娘のあだとなった。宋代から今まで、また千年が過ぎた。だが、三千年以上も思いつめ、義憤にかられ、花二娘は不老不死となり、永遠の若さを手に入れた。三千年以上の時が過ぎたのに今も十七、八歳のみずみずしい美しさを保っていた。

こう言う人もいる。花二娘は待っても待っても愛しい人が来ないので泣き死んで、生き返ると涙を流さなくなり、人の夢に現れて笑い話を聞きたがるようになったのだ、と。

世の中の人すべてが笑い話ができるわけではない。花二娘が夢に現れて笑い話を求められ、話が面白くなくて花二娘を笑わせられないと、花二娘は怒らずに言う。
「私をおぶって胡辣湯フーラータンを飲みに連れてって」
だが、誰が山をおぶえるだろう。花二娘をおぶった途端、花二娘に圧し潰されて死んでしまう。あるいは笑い話に圧し潰されて死んでしまう。笑い話で花二娘を楽しませると、花二娘は籠から柿を一つ取り出して食べさせてくれる。

なかには遊び人で笑い話も上手く、花二娘を大笑いさせる者もいる。笑って柿を食べ、二人がそれで別れれば良いのだが、花二娘は笑うと顔に紅を差したようになり、たちまち普段よりさらに魅力的になる。夢の中なので男も普段より大胆になり、花二娘にちょっかいを出して彼女といいことをしたくなる。石とそんなことをすること自体がそもそも笑い話なので、花二娘はまた笑い、楽しくなって男に承知する。二人が着ている物を脱ぎ、身体が触れ合った途端、その気持ち良さはこの世のなにものとも比べものにならず、男はたちまち固くなってしまう。翌朝、家の者は男が真っ裸で床に突っ伏し、息絶えて死んでいるのを発見する。身体をどけるとシーツに精子の痕がある。病院で検査をすると死因はシーツの精子の痕とは関係なく、心筋梗塞だと言われる。もちろん、延津で心筋梗塞で死んだ者のすべてが花二娘と関係があったわけではない。本当にただの心筋梗塞で死んだ者もいる。

大胆な者のなかには笑い話で花二娘を笑わせてから、こう言う者もいる。「花二娘、人に笑い話をさせてばかりでなく、あんたも笑い話をしてくれよ」
花二娘は今笑ったばかりで気分がいいので言う。「いいわよ」そして話す。
「私は最近、里の名前を変えたの。宋代からずっと望郎山だから、そろそろ名を変えようと思って」
「なんと変えたんだい?」と聞くと、花二娘は言う。
「一字変えただけよ。望を忘に変えたの。石のように三千年以上も望み続ければ、男のことなんか忘れてしまうから」
聞いた者が言う。
「花二娘、それは違うな。人を忘れたと言う者に限って、心の中では思い続けているものだ」
花二娘が言う。
「そんなの、おかしいわよ」
相手は笑う。それからは花二娘の方から聞くようになった。
「笑い話をしてくれたから、今度は私がしてあげましょうか?」
みんなは花二娘が望と忘の話をすると知っているので言う。
「二娘、遠慮しておくよ」

長々と話をしなくても、たったひと言で花二娘を笑わせられる者もいて、花二娘は大喜びで「才能ね」と言う。そして柿を二つくれ、その家族全員が三年間は笑い話をするのを免れる。もちろん、三千年間でそんな才能のある者は多くはなかった。

こう言う者もいた。
「花二娘、世界は広いんだ。延津にばかりいないで、よそに行ったらいい」花二娘は言った。
「今さら遅いわ。もちろん世界は広いし、私も出かけたい。山に変わる前なら延津を離れられたけど、山になってしまったから、望郎山だろうと忘郎山だろうと、山を揺るがすのも山を移すのも難しくて、こうしてここにいるしかないのよ。私が延津に居座って動かないんじゃないの。延津に縛りつけられているのよ。今となっては、延津に留まり、延津の外の世界を望むか、延津に留まり、延津の外の世界を忘れるしかないんだわ」

命の危険があるので、延津の人はみんな笑い話をいくつか用意し、寝る前に何度か黙って復唱して不測に備える。これが延津人のユーモアの由来である。夜でさえユーモラスなのだから、まして昼間はというものだ。なかにはずぼらな者もいて笑い話を用意せず、延津には五十万人もいるのだから、そうそう自分に番が回ってくるはずがないと考える者もいる。人が多いと油断する。まさにそれゆえに花二娘が夢に突然来臨すると、そういう者はあっという間に命を失う羽目になる。粗忽そこつな自分が悪い。

ほっと息をつける時もあり、祝日は花二娘もすべての延津人に休みをくれる。端午節、中秋節、春節は延津人は笑い話をしなくていい。延津人は祝日は厳粛な顔をして通りを歩いている。出会ってもジロリと相手をねめつけるのは悪意があるからではなく、逆に親しみの表現なのである。冷徹さが親しみで、厳粛さがリラックスなのは、ここに由来がある。

まさに去年の冬、作者は延津に里帰りして夢で花二娘と遭遇し、花二娘は作者にも笑い話を迫った。作者は何の準備もしていなかったので慌てた。そこで焦って言った。
「延津を離れると、人がよく笑い話を真に受ける。これも笑い話になるかな?」
「例えば?」
「誰かが水の中に月があると言うと、人が必死で月をさらおうと…」
花二娘がさえぎった。
「よくある話だわ。猿が月をさらう、でしょ」
そうして怖い顔をして「私をごまかそうとするのは自分をごまかすことよ」と言った。
作者は急いで弁解した。
「笑い話はありふれているが、続けて相手が言ったんだ。いまだにさらう者がいるのか?とね。おかしいだろ」
花二娘は今度は笑って、作者は難を逃れた。延津以外では笑い話を真に受けるおかげで命拾いしたと感謝した。続いて花二娘は作者に、「笑い話をしてあげましょうか」と言った。花二娘の笑い話というのは望と忘の言い古された話と聞いていたので、「遠慮しておくよ。それには及ばない」と断った。不可解なのは、他人の笑い話が上手いと花二娘は柿を一つくれるのに、私が笑い話を終えても花二娘は柿をくれなかった。もしかすると私の笑い話はぎりぎり合格で山を背負わされずに済んだのかも知れないと思うと冷や汗が出た。そこで作った詩がこれである。

 夢にぼんやりと花二娘に会う
 朝になり渇して胡辣湯を飲む
 一日三秋、日の短きを苦しむ
 涙が襟を濡らし、ふたつながら相忘れる


ⒸLiu Zhenyun/🄫Eiko Mizuno
***
続きは本書でお楽しみください。
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▽人類にうがたれた穴を埋める、笑いと夢──作家いしいしんじが語る、中国文芸『一日三秋』の大いなる魅力


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