そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第19章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第19章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

19

 翌朝、事務所のデスクでひげを剃りながら朝刊に眼を通していると、電話のベルが鳴った。腕時計の針は八時半をさしていた。電話応答サービスに伝言を残していた佐伯直樹の代理と称する男からの電話にしては、少し早過ぎる。私は電気カミソリのスイッチを切って、受話器を取った。
「おまえか」いきなり、錦織警部の不機嫌な声が聞こえた。
「やけに早いな」と、私はあごの下の剃り残しのひげを撫でながら言った。
「あの伝言は何だ?」と、彼が腹立たしげに訊いた。
「交通係に格下げされたらどうする」と、私は言った。「あれは車の登録ナンバーだ」
 錦織は語気を強めて繰り返した。「あれは何だ?」
「昨日の夜、おれの事務所に忍び込んだ者がいる。そいつの車のナンバーだ」
「泥棒か。何を盗まれたんだ?」
「いや、盗まれたものはない。橋爪に出くわして窓から逃走したんだ。ナンバーはすでに照会済みのはずだ。車の所有者の名前を教えてくれ」
「おまえは一体どういう神経をしてるんだ? たとえ親友に頼まれたとしても、おれは職権濫用をするつもりなどない。まして、おまえなんかのためにどうしてそんな真似をしなきゃならんのだ?」
「あんたに親友だって。世の中にそれくらい想像しにくいものはないな。陸運事務所へ行って、書類に書き込み、手数料を払えば、あんたの手を借りることもない」
「だったら、そうしろ」
「時間が惜しいんだ。少しばかり協力してもらいたいね」
「お断わりだ。おまえの事務所に入るような間抜けな野郎は、ほうっておいてもいずれ捕まる。おまえの事務所には、盗んで得になるようなものは何もあるまい」
「橋爪と発想がまったく同じだよ。警察と暴力団が同類だと思われるのも、むべなるかなだな。野郎と言ったが、あの車の所有者は男なのか」
「うるさい。泥棒なら近くの交番に届けろ」
「そして、佐伯直樹の行方についての手掛りも、交番の巡査に譲るのか」
「何だと?」と、錦織は声を荒らげた。「まだ、そんな仕事を続けているのか。おまえはおれの言ったことを忘れたのか」
「昨夜ベッドに入るまでは憶えていたがね。陽は沈み、陽はまた昇る」
「フン、中野署の連中に公務執行妨害で逮捕させたっていいんだぜ」
「そういえば、あの事件のことはなぜ新聞に出ないんだ? あの死体の身許には何か不都合でもあるのか」
「探偵、おまえは何を知っている?」錦織の声がにわかに鋭くなった。「この車の持ち主と、佐伯直樹の失踪とどういう関係があるんだ?」
「それは言えない。午後こっちの用がすみ次第、署へ出向く。その車の持ち主を二人で仲良く訪ねるというのはどうだ?」
 錦織は考えてから答えた。「面白くもおかしくもない提案だが、暇つぶしに付き合ってやろう。おれは三時頃までは歌舞伎町の傷害事件の検証で手が放せない」
「三時過ぎに、連絡する」と、私は言った。
 錦織は自分のデスクにつながる直通電話の番号を教えてから、言った。「沢崎、はっきり言っておくぞ。おれにだって親友の二人や三人はいるんだ」
「親友は、二人や三人などという数え方はしない」
「黙れ! おまえという奴は虫が好かん」電話はいきなり切れた。
 私は電気カミソリのスイッチを入れて、ひげを剃り終えた。それから、再び受話器を取って仰木弁護士のダイヤルをまわした。
「こちらは仰木法律事務所です」と、女の事務員が応えた。
「仰木弁護士を。こちらは渡辺探偵事務所の沢崎です」
「そのままでお待ち下さい」電話を切り換える音がした。
「やァ、探偵さんか」仰木の明けっぴろげな声が聞こえた。
「電話を待っていたんだ。どうかね、その後の調査は? 佐伯君のことを訊ねて来た例の男は見つかったかね」
「いや。だが、あの男の名前は判ったようだ」
「ほう、何というんだ?」
「カイフマサミ。たぶん、間違いないだろう。この名前に心当たりはないか」
「いや、ないな。残念だが、佐伯君の交友関係はほとんど知らないと言っていいんだ」
「弁護士が二人もそろっていて、雇い主の大事な一人娘の亭主の交友関係もご存知ないとは、職務怠慢もいいところだな」
「一言もないね。彼が新聞社を辞めたとき、そういう調査の必要を更科氏に進言したんだがね、きっぱり断わられた」
「それでもなお調査するのが、有能な弁護士じゃないのか」
「その通り。しかしな、おれはあの夫婦には好感をもっていたし、佐伯君は信用のできる人間だと考えていたんだよ」
「弁護士が誰かを信用するという話は初耳だな」
「あんたはおれのことを買いかぶっているよ」と言って、彼は笑った。
 私は話題を変えた。「あんたなら知っているだろう。佐伯氏のマンションの件は、なぜ新聞に出ないのだ?」
「実はそのことなんだ。おれは昨夜あれから、更科・神谷両家の名前が表に出ることを極力押さえるために奔走していた。ところが、その必要はまったくなかったのさ。警察のほうがもっと大きな問題で頭を抱えているらしい」
「それは、どういうことだ?」
「あの死体が所持していた警察手帳は正真正銘の本物で、伊原勇吉という刑事も確かに八王子署にいた。ただし、半年前から肝臓の病気で休職中になっており、実は入院先のベッドで今にも死にかけている。たぶん、死にかけているほうが本物で、死んでしまったのは偽者だと思うが、警察としても軽率には断定できないでいるんだ。どちらの伊原も訊問に答えられるような状態ではないので、調査は一向に進まない。いずれにしても、二つの伊原勇吉名義の警察手帳が存在することは確かで、鑑定によればどちらも偽造とはいえないそうだ。そこが、警察としては頭の痛いところで、身分証明書および警察手帳の管理上の不始末ということになれば大問題だし、下手をすると全警察官の信用問題にもなりかねない。その辺の調査がはっきりするまでは、この事件は公開されない」
「そういうことか……で、佐伯氏のことはどうなる?」
「事件のほうは非公開だが、彼と彼の車は昨夜のうちに手配された。つまり、形式上はわれわれのほうからの保護願いを受けて、ということだが……名緒子さんの前では言いにくいが、佐伯君の身に危険が及ぶ可能性も否定できない。だから、おれの独断で手続きをしたが、間違った処置ではないはずだ」
「そうだな。しかし、彼女は見かけと違って意外にしっかりしている。余計な隠しだては無用だと思うね」
「そうかも知れん。小さい頃から知っていると、つい子供扱いをしてしまうようだな」仰木は話を元に戻した。「それで、あんたはカイフという男を捜し出すつもりか」
「昨夜、都内に住む五人のカイフマサミという男に当たってみたが、思わしい結果は得られなかった」
 私が仰木弁護士に伝えている調査状況は、必ずしも嘘ではなかったが故意に遅らせたものだった。最新の調査結果はまず依頼人にこそ伝えるべきである。それに、昨夜私の事務所に何者かが侵入した時点で、私がこの件に関わっていることを知っていた数少ない人間のなかに、この弁護士も含まれていた。
 私は近めに釣り球を投げた。「それより、佐伯氏に私を紹介した人間を突きとめるつもりだ。その線から、佐伯氏の足取りが掴めるかも知れない」
「彼は電話帳か何かであんたの事務所を見つけたわけじゃないのか。彼にあんたを紹介した者がいるのか」彼の口振りには強い関心が感じられた。彼の質問が電話線の途中で宙ぶらりんになった。
「突きとめられそうかね、その人物を」と、仰木は重ねて訊いた。
「およその見当はついているが、まだ確証がない。はっきりしたら連絡する」
「そうか……おれは〈東神〉の用事で神谷会長に呼ばれているので、夕方までは戻らない。何か進展があったら、夜にでも連絡してもらおう」弁護士は電話を切った。
 私は、事務所へ来る途中で買ってきたあんパンと牛乳で、手早く朝飯をすませた。和洋折衷にろくなものはないがあんパンだけは例外だというのが、元パートナーの渡辺の持論だった。まだ、そういうものが彼の喉を通っていた頃の話だ。
 九時を過ぎても、佐伯直樹の代理と称する男からの電話はかかって来なかった。私は『布石の心得』を手に取って、昨夜の続きを読みはじめた。第二章は石の形に関する六つの心得からなっている。〝棋理〟というのは、とかく人生や仕事に関する示唆に富むもので、思考はともすれば消息を絶っている二人の男に傾きがちだった。大竹九段の論旨に気持を集中して、どうにか第二章を読み終えたときは九時四十分をまわっていた。
 私は電話がかかってこない理由をあれこれ考えてみた。あるいは、最初から電話をかけるつもりはなくて、この時間に私が事務所にいるようにすることが目的だったのかも知れない。私はデスクを離れて、窓のブラインドの隙間から下の駐車場や通りをうかがった。いつもと変わらぬくすんだ街の景色は、ここからわずか数百メートルのところに日本で一番高い地価をつけられた土地があるとは信じられないという、いつもと変わらぬ感慨を呼び起こした。この事務所の窓を見張っているような人影も車も見当たらなかった。
 やっと、電話のベルが鳴った。私はデスクに戻って、受話器を取った。
「もしもし……沢崎さんですか」佐伯名緒子の声だった。少し平静を欠いているように聞こえた。彼女との約束の十時には、まだ少し時間があった。
「どうしましたか」と、私は訊いた。
「京王線の新宿駅に着いて、公衆電話からかけているのですが……久我山を出たときから、男の人がずっとあとを尾けて来るようなんです。このまま、沢崎さんの事務所へ行っていいのかどうか分からなくて──」
「男は二人ですか」
「ええ、そうですわ」
「たぶん、中野署の刑事たちでしょう。構いませんから、そのまま護衛付きで──」私は少し考えた。私の身許を彼らに知られるのは少し先に延ばしたほうがよさそうだ。
「失礼。予定を変更しましょう。西口の地下から高層ビルのほうへ行く途中に〈ハリー・ライム〉という喫茶店があるのをご存知ですか」
「ええ、知ってますわ。出版社の仕事で何度か行ったことがありますから」
「では、そこで待っていて下さい。遅くとも三十分以内に行きます。刑事たちのことは気にする必要はありません」
「分かりました」と、彼女は言って、電話を切った。
 私はコートを肩に掛けて、事務所をあとにした。ビルの出入口に立って周囲を見まわしたが、気になるような人影や車はなかった。空は一面の薄曇りで陽は射していなかったが、昨日よりも少し気温は上がっていた。予報では、今日は降らないと言っている。車を二、三台やりすごして、私は通りを渡った。向かいの薬局で、いつものタバコを二箱買った。毛をむしられた鳥を連想させる七十過ぎの店主が、お釣りを渡しながら言った。「仕方がなかったんだよ。あいつらに脅されて、むりやり承知させられたんだ。でも、たとえ渡辺さんを見かけても、あいつらに知らせるつもりはなかったんだよ」
「あんたの眼のことで、連中は暴力を振るわなかったかね」
「いや、そんなことはないが……あのヤクザ、一万円札をたった一枚だけよこして、あんたのビルの入口がよく見えるように眼鏡を買えって言ったよ。畜生、この年になるまで眼鏡なんかの世話になったことはないのに」
「橋爪らしいな。いまどき一万円で眼鏡が買えるのか」
「冗談じゃないよ。片方のレンズだって買えやしないよ」
 私は上衣のポケットを探って、彼の手に福沢諭吉を一枚握らせた。「片方の眼は、私のために使ってくれ」
「そうしよう」と、彼はしたり顔で言った。
 私は買ったタバコのセロファンを剥ぎ取り、一本くわえて火をつけた。小滝橋通りに出て新宿駅まで徒歩で十二、三分かかった。青梅街道の大ガード前の信号を渡るときに、紺のスェードのジャンパーに黒のスラックスの男が私を尾けているのに気づいた。三十代半ばのスマートな身体つきの男で、短く刈った頭にレイ・バンのサングラスがよく似合っていた。尾行のための必需品だとでも言うようにスポーツ新聞を小脇にはさんでいた。尾行術の前提は、相手が尾行されることを知らないということである。相手がその気で周囲に注意を払っていれば、まずどんなテクニックを使っても通用しないのだ。私は男を従えたまま、小田急ハルクの地下入口を降りて、新宿駅の西口広場──昭和四十四年以降は〝通路〟だそうだ──を横切って、ハリー・ライムへ向かった。依頼人には二人の刑事のお供があるのに、こちらは私一人ではいささか淋しいというものだ。

次章へつづく

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