そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第18章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第18章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

18

 海部雅美は受話器を取ろうともがきながら、口もきけずに怒りと不信のこもった眼で私を凝視していた。
「もしも」と、私は口早やに言った。「いいですか。もしも、彼からの電話ではなくて、私がさっきかかって来るかも知れないと注意したような電話だったら──」私は一秒で考え、一秒で決断した。「私が彼のふりをして電話に出ます。いいですね?」
 彼女が抗議しようとしたので、私は押さえていた彼女の手を放した。彼女は反射的に受話器を取り、「もしもし」と言った。
「ええ、海部雅美はわたしですけど……」相手の声に耳を傾けていた彼女の顔に、次第に失望の色が広がっていった。彼女は受話器を塞いで、私に言った。「「そこに、佐伯直樹氏の〝協力者〟と言える人物がいるなら、電話に出してくれ」って、言ってるわ」
 私が手を差し出すと、彼女は私のもくろみに手を貸すべきかどうか迷いながらも、受話器を渡した。
「替わった」と、私は電話の相手に言った。本来電話に出るべき男の声を真似るような芸当はできないので、ぼそぼそと喋った。「あんたは誰だ? 誰に電話をかけている?」
「お宅は本当に佐伯直樹氏の協力者かね?」と、落ち着いた男の声が訊いた。
 海部雅美は居間に入って明かりをつけ、近くのソファの肘掛けに腰をおろして、不安げな視線を私に向けた。
「そう言えないことはない」と、私は答えた。「しかし、誰に用なのかはっきり名指しすれば、人違いの心配もない」
「お宅は海部という名前じゃないのか。佐伯氏はあいにく自分の協力者としか教えてくれなかったのでね」
「佐伯直樹の協力者に、何の用だ?」
「申しわけないが、簡単なテストをさせてもらうよ。佐伯直樹氏の職業は? 以前の勤め先は? 住所は? 年齢は?」
「ルポ・ライター、〈朝日〉、中野、三十才。第五問を忘れている。現在の居所は? 木曜日以来、行方不明」
 男は笑った。「どうも、恐縮だね」
「今度はこっちの番だ」と、私は言った。「あんたの名は? 職業は? 住所は? 年齢は? そして、用件は?」
「佐伯氏の意見では、そんな質問は無用らしいがね。彼によれば、私たちは知り合いだそうで、今年の夏には一緒に〝ある事件〟に関係した間柄らしいからね。お互いに名前も知らないというのに」
「ある事件とは、どの事件のことだ?」
「それを、私に訊かれても困るんだ。その事件に私が関係していたというのは佐伯氏の勝手な憶測で、それが誤解だということはお宅が証明してくれるはずなんだがね。もっとも、お宅のほうは間違いなくその事件に関係しているとしての話だが」
 私は、電話応答サービスのオペレーター嬢が〝若くはなく、ある程度の年配で、自信たっぷりで、人にものを言いつけ慣れている感じ〟と形容した声のことを思い出した。そういえば、そう聞こえないこともない。
「用件をうかがおう」と、私は言った。
「まず、私とお宅が今夜初めて接触したのであることを説明して、佐伯氏の誤解を解くこと。それから、夏の事件の全貌を背後関係に至るまで、きちんと証拠だてて話してくれること。そうすれば、佐伯氏が現在置かれている状況から解放されるために尽力できるかも知れないし、その話の内容次第ではそれ相当の報酬を用意する。あまり桁外れの要求をされても応じかねるがね」
「佐伯さんの身柄を拘束しているのは、あんたなのか」
 私の言葉を聞いて、海部雅美の表情が硬くなるのが分かった。
「そうは言わなかったはずだよ」と、電話の男は言った。人をインチキしたような気にさせる、無邪気な口振りだった。
「彼を解放する手立てを知っている、ということだな?」
「そういう表現なら、イエスと答えて構わないようだね」
「報酬はいくらだと言った?」
「まだ、言ってないよ。お宅の話次第だが、もし当方の期待する条件を充たしているような情報であれば、支払可能な金額は最高で一億──しかし、お宅の話に価値を認めなければ、いくらでも値切られることになるよ。最低額は断わるまでもないだろう?」
「結構な話だが……これ以上は電話で片づけられるような話とは思えないな」
「賛成だね。まず、お宅と私、二人だけで会う。どこか適当な人ごみの中がいいね。なにしろ、お宅の手許には物騒な代物があるはずだから、人のいないような暗い路地で会うのはごめんこうむりたい。ところで、その代物は手許にあるんだろうね? それは何よりも大事な証拠物件だから、当然一億の報酬の中に含まれるよ」
「心配ご無用。それで、いつ、どこへ行けばいい?」
「明日──いや、もう今日だな。今日の午後一時、新宿駅南口、改札の外」
「あんたをどうして見分ける?」
「そうだね……雨が降っていなければコウモリ傘、雨が降っていればチェックのハンチングが目印だ。いずれにしても、ハンチングをかぶってコウモリ傘を持って行くんだがね。それに、口ひげを生やした小太りの五十男で分かるかね?」
「少し目立ち過ぎじゃないか。禿げ頭でもなければハンチングは遠慮してくれ」
 男は悲しげに言った。「帽子が趣味なんだがね。もっと地味なものをかぶるから勘弁してもらえないだろうか」
「勝手にしてくれ」と、私は苦笑しながら言った。
「ありがたい。で、お宅の目印は?」
「必要ないね。こっちがあんたを見つける」
「いささか不公平だが、まァ、いいだろう。それから、例の代物は絶対所持してこないこと。私はああいうものには近づくのも嫌でね。ただし、その物騒なものから発射した銃弾を一発だけ見せてもらえると非常にありがたいんだが」
「一向に構わん」
「ところで、海部氏でないとすれば、お宅の名前は?」
「佐伯直樹氏の〝協力者〟」
「そうだろうと思ったよ。では、今日の午後に」男が電話を切ったので、私も受話器を置いた。
 私は居間に入って、海部雅美に電話の内容を話した。電話の相手の応対をそのままに取れば、海部と名乗った男とは面識がなく、私が別人であることも気づかず、彼が記憶を失っていることも知らないことになる。それをどこまで信用していいのか判らなかった。電話の男は〝夏のある事件〟がどういうものか知っているようだが、誰がそれに関係しているかは知らないような態度を取った。いずれにしても、佐伯直樹は記憶喪失の男と電話の男を結ぶ線上に、〝夏のある事件〟を置いて調査をすすめ、その途上で身柄を拘束されることになったのではないだろうか……。
 海部雅美は、私の話が半分しか耳に入らないようだった。彼が拳銃を持ち出したというショックからまだ立ち直っていなかった。
 私は時間をかけて、このアパートがいかに危険であるかを、彼女に説明しなければならなかった。電話の男は〝夏のある事件〟の鍵を握っているらしい佐伯直樹の〝協力者〟と拳銃を、今日の午後一時まで待たなくとも、このアパートで押さえられると考える可能性があった。このアパートを突きとめるのはさほど困難なことではないのだ。私は、彼女に今夜だけはこのアパートを離れているべきであると言った。彼女は簡単には応じようとしなかった。彼からの電話がいつかかってくるか分からないのに、ここを離れるわけにはいかないと言うのだ。しかし、万一彼女自身が人質として使われるようなことになれば、彼が窮地に陥ることになるのだと説いて、ようやく彼女を納得させた。
 彼女は同業の女友達に電話をかけて、一晩泊めてもらうことにした。アタッシュ・ケースと札束は、彼が帰宅したときに必要とするかも知れないので、元の場所に戻した。都民銀行の封筒に入ったお金は、彼が預けたのだから自分が返してもらうわけにはいかないと彼女が言い張るので、私は自分のポケットに戻した。これ以上、時間をかけてはいられなかったのだ。彼女は彼への伝言を残し、身支度をして、私と一緒にアパートを出た。
 環八通りを走るブルーバードの中で、私は彼女に一つだけ質問した。「彼は拳銃の種類か名前を言いませんでしたか」
「確か〝ルガー〟だと言ってたわ。何か番号が付いていたような気がするけど……」
「〝ルガーP08〟ですか」
「ええ、たぶんそうよ。それの、銃身を長くした型だと言っていたと思うわ。拳銃から何か手掛りが得られるかも知れないので、一時は詳しく調べようとしていたの」
 約二十分後に、私は海部雅美を高井戸東の女友達のアパートに送り届けた。井ノ頭通りから方南町経由で、三時半過ぎに西新宿の事務所に帰り着いた。車庫付きの家などには住めないので、ブルーバードを事務所の駐車場に戻さなければならなかった。
 この時間はすでにこの界隈でさえ寝静まっていて、動くものは自分の両足だけ、聞こえるものは自分の足音だけだった。私は事務所のビルの階段を昇りかけて、郵便受けの扉の下から小さな白いものがはみだしてるのに気がついた。扉を開けると、ハネの折り方に特徴のある例の紙ヒコーキが入っていた。それをコートのポケットに突っ込んで、私は再び重い足を階段に運んだ。
 事務所の中は何の異常もなかった。窓から飛び降りようとする女も、カラオケの伴奏で歌っているヤクザも、右手を隠した記憶喪失者もいなかった。私はデスクに腰をおろして電話応答サービスのダイヤルをまわした。深夜から早朝まで勤務している男のアルバイト学生が、寝ぼけた声で電話が一件だけ入っていると答えた。
「○時ちょうどに、サエキナオキ様の代理という方から〝明朝九時に事務所に電話をする〟、以上です」
 私は疲れていたし、このアルバイト学生からは何も訊き出せそうになかったので、礼を言って電話を切った。コートのポケットから紙ヒコーキを出すと、折り目を元に戻して広げた。〈マンハッタン・トランスファー〉なるグループのコンサートのチラシの余白に、元パートナーの伝言があった。

 清和会のやつらが出入りするのを見た。まだ迷惑をかけているかと思うと、本当に申しわけない。しかし、元気な姿で事務所から出てきたのを見たときは、ほっとしたよ。
 こんなものを書くのも危ないのは解っているが、どうしても知らせたいことがあったので。
 八時過ぎに、事務所の窓から飛び降りて逃げた黒いジャンパーの女が、十分ぐらいたって引き返して来ると、通りの反対側に駐車してあった白い車に乗って走り去った。その車のナンバーは──練馬59ぬ9375。
 今夜はあまり飲んでいないし、眼はまだ達者だから間違いないはずだ。余計なことかも知れないが、とりあえず一報する。では、また。
W  

 私は受話器を取って、新宿署のダイヤルをまわした。
「はい、こちらは新宿署です」腹が立つくらい元気な声が、バテ気味の五感に響いた。私は捜査課の錦織警部を出してくれるように頼んだ。
「ちょっとお待ち下さい。えー、錦織警部は勤務明けで、現在署にはおりませんが」明日結婚するとでもいうように、明るく溌溂とした口調だった。明日離婚が成立するのかも知れない。
「では、捜査課の当直の人を」
「はい。そのままで、お待ち下さい。すぐお呼びします」
 私は待っているあいだにタバコに火をつけた。舌が痺れてしまって、馬の糞に火をつけても違いが分からなかった。
「捜査課です」今度は、ベテランの刑事らしいそっけない声だった。
「錦織警部に伝言をお願いします」
「錦織警部に。お名前は?」
「沢崎」
「沢崎さんですね。伝言をどうぞ」
「練馬59ぬ9375」
「……9375ですね。はい?」
 私は電話を切った。車のナンバーを手帳に書き写し、コンサートのチラシに紙マッチで火をつけて灰になるのを待った。それから、事務所の明かりを消し、ドアに鍵をかけ、廊下の奥の共同物置へ行った。半年分溜めている新聞の束の中から、七月中旬の数日分の新聞を抜き出して、ビルをあとにした。
 私は小滝橋通りまで歩いて、タクシーを拾い、四時ちょうどに自分のアパートに帰った。都知事選の狙撃事件の記事にざっと眼を通してから、ベッドにもぐり込んだ。長く果てしない夢を見たが、今度の事件に関係のあるものは誰ひとり、何ひとつ登場しなかった。

次章へつづく

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