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三浦基「日本現代演劇の変」――戯曲「山山」に寄せて(悲劇喜劇7月号より)

悲劇喜劇7月号の掲載戯曲は、松原俊太郎「山山」。6/6にKAAT神奈川芸術劇場で初日を迎えます(KAAT×地点)。このたび悲劇喜劇7月号では、戯曲「山山」に寄せて、演出家・三浦基、作家・宮沢章夫のエッセイを掲載。松原俊太郎が書いた破格の戯曲「山山」にかける三浦の熱が伝わる寄稿「日本現代演劇の変」を特別に公開します。

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日本現代演劇の変 三浦基(演出家)

「メドヴェージェンコとマーシャは雨が降ったら傘をさすんだ。ニーナとトレープレフは絶対にささない」
 これは、ロシアで私が不意に口にした冗談である。サンクトペテルブルグにあるボリショイドラマ劇場で、私は演出家養成のためのマスタークラスで授業を任されていた。使用テキストはチェーホフの『かもめ』。先の冗談は、演出家の卵たちの心を掴んだらしく、ではアルカージナとトリゴーリンはどうでしょうかね、ドールンはもちろん雨が降っていなくとも傘を持ちますね、ヤーコフは雨の日にはさぼって外にすら出ないだろう、などと大いに盛り上がっている。日本人の演出家からまさかチェーホフを教わるとは想像もしなかっただろうが、さして違和感もないらしく、彼ら彼女らは貪欲に質問してくるのだった。近代から地続きの演劇大国では、チェーホフはロシアだけのものではなく世界のものだということが常識なのかもしれない。
 ちなみに、誰もがチェーホフ戯曲の名台詞をことごとく覚えている。演出家志望だが演技のレベルは日本とは比較にならなかった。めちゃくちゃうまいのだからびっくりさせられる。「誰もが」というのは、学生だけの話ではなく観客もそうなのだから嘘みたいな国である。まさかこの国の人々は演技しかしていないのではないか、全員、チェーホフの登場人物なのではないか、などと妄想してしまう。が、もちろんこれには理由があって、実は幼い頃から学校の授業で暗唱させられるのである。誰だってメドヴェージェンコを、誰だってマーシャを、誰だってニーナを、誰だってトレープレフを覚えなければならない。それはすなわち、私がメドヴェージェンコで、私がマーシャで、私がニーナで、私がトレープレフだということだ。こうしてリアリズムが形成されてゆくと言えば大袈裟かもしれないが、演技が身近にある国では、〈わたし〉なりの役作りが許される土壌があり、それは百年かけて風土となり、今日でもリアリズムの亡霊は健在なのである。
 そんなロシアで冒頭の発言は何を意味したのか。例えば、マーシャが口にする「わたし、不仕合わせな女ですもの」の「わたし」と、ニーナが口にする「わたしはかもめ」の「わたし」と、同じものであるわけがないと言ったのである。雨が降れば傘をさすのが普通だとして、ではそうではない「わたし」とは誰なのか。「ニーナ」であることは間違いないのだが、果たしてその「ニーナ」は〈わたし〉自身の中から生まれるのだろうか、と問うたのである。それは〈わたし〉に対する過信なのではないか。リアリズムは一歩間違うとすぐこの罠にはまるではないか。日常の中の「あるある」探し。〈わたし〉にだってできる感情移入。自己陶酔型のナイーブな演技はやめましょう。とりあえず雨でも何でも降らせて確かめてみましょう。これが演出の第一歩。ところでマーシャが傘もささずにずぶ濡れるなんてことがあり得るだろうか。あいつは普通に傘をさすに違いない。つまりどこにでもいる〈わたし〉たちだ。ニーナは明らかに〈わたし〉ではないはずだ。ニーナ自身かもめだと言っているからには鳥なのではないか。たしかに鳥は傘をささないが……。冗談はさておき、それでは一体、ニーナとは何者なのか。トレープレフとは何者なのか。ラストシーンに自殺する男のことを、まともに〈わたし〉から発想するのは危険なのではないか。まさか自殺自体冗談なのか……。
 このように、〈役〉と〈わたし〉の関係、その距離をきちんと整理して考えなければならないとき、その人物が傘をさすのかささないのかということは真剣な問題となる。なぜ、人は傘をさすのか、ではなく、ささないのか、と考えることは、世界と私の問題だからである。雨が降っていても、私=世界ならば、雨は単なる私に付属する一要素でしかない。私にとって雨なんか関係ないと言えるのは、例えばハムレットだった。生きるべきか死ぬべきか、それを問題にできるのは、王子という特権階級に生まれついた人物だからである。もちろん彼にとって雨だろうが晴れだろうが関係ない。だって私=世界なのだから。そのような「私」は、近代に入って小さくなった。シェイクスピアのような古典と決別する意志を持ってチェーホフは戯曲を書いたわけだから、雨を気にしながらも、それでもやはり傘をささないヒーロー、ヒロインはどこのどいつなのかを考え抜かなければならなかった。メドヴェージェンコとマーシャを演ずるように、ニーナとトレープレフを安易に〈わたし〉に引き寄せることはできないのであり、ここに安易な感情移入とは違う、もっと恐ろしい観客の視線が行き交う演劇が登場する。それを便宜上、近代と区別するために現代演劇と呼んでいるわけだ。

 さて、今ちょうど、松原俊太郎『山山』の稽古をしているのだが、この作家の台詞をどのように舞台にのせるのかという、まさに〈わたし〉たちの演技が問われている。この難題、あえて大袈裟に言えば近代以降の小さな〈わたし〉たちが一体、何者として現代を引き受けるのか、あるいは引き受けないでよいのかという判断をいちいち下さないといけないところまで、日本の現代演劇は追い込まれてきたことを、この若い日本人の戯曲を読んで感じている。ロシアの事情とも違って、そもそも日本は、近代リアリズム演劇を輸入し模倣するところから始めたのだから、すでに勝負はついていたと言わざるを得ない。結局、覚えなければならない台詞を持たなかったのだから〈わたし〉なりの役作りなんて百年早い。果たして、我々に覚えなければならない台詞ができる日がやってくるのだろうか。現代の日本人が日本語で書いた戯曲がすなわち日本の現代演劇なのかと言えば、もちろんそうは問屋が卸さない。似非近代劇に留まっていることがほとんどだろう。あやふやな〈わたし〉による役づくりで解決できる範囲の物語である。そのやり方では、もはや今日の世界をリアルに知覚することが難しくなっていることを、それこそますます小さくなった〈わたし〉たちは感じている。
 演劇はいつの時代でもどこの場所でも、世界を感じたいという人々の欲求が肥大化したときに頭角を表してきた。私が松原戯曲を黙読した時に感じる「変」さとは、とても小さな〈わたし〉たちの集合体が、似非近代劇的な個人的〈わたし〉に徹底的に抵抗している様子にある。日本人は大抵黙っているから何を考えているのかわかりづらいが、実はこんな入り組んだことを言語化できないからこそ黙っているのかしら、なんてことすら思わせる。演劇を知らない門外漢であるこの作家は、まさに演劇を知らない日本人の台詞を書いている。それらが近代劇とは異なっているのは確かだが、でもヘタしたら似非現代なのかもしれぬ、と不安に襲われたりもする。私にとって松原戯曲はこうした不安の中に、無茶を覚悟した上に、やはりまだ期待を抱くことができる未知なるテキストである。それは、私が演劇人である前に日本人だということを強く意識せざるを得ないものでもある。

 わたしが走るとき、わたしは風景の線になります。わたしが山山を登るとき、わたしは山山になります。わたしがあなたの声を聴くとき、わたしは耳になります。外からやってくるものがある限り、わたしには続々とわたしになるものがやってきて、わたしは決して終わらないのです。

 いずれどのわたしも動かなくなって、外からやってくるものを感覚できなくなり、わたしは終わる。

 わたしが終わると仮定すれば、その先には何もない。

 そう、何もない。これが、ヒトがよく言う、無というやつだ。

 わたしは無を知らない。だから、わたしが終わりになる必要もないということだ。わたしは終わると仮定しない。どこにでも連れていくがいい。
(『山山』一一〇頁)

 誰が誰に対して言っている言葉なのか、一見わかりづらいのは、〈わたし〉がどの〈わたし〉を引き寄せても役に立たないということを、どの〈わたし〉をも安易に引き寄せてしまう〈わたし〉と争っているからだ。立場を決めないとモノが言えないのが普通だとしたら、その立場が、自らの中で流転してしまう。立場を決めたそばからそれが無効になる。相対主義の権化となった日本人が登場人物たちだ。私たちはそれが日本語で書かれているから、だから直接的だと思いがちだが、どうもそうではない。つまり、声を通して上演されることを前提とするものが戯曲だとして、この作家の言葉は決して生(なま)ではなく、まるで日本語に翻訳された別の日本語のようにまとわりついてくる。これが第二の「変」であろう。
 なぜ、地点が松原戯曲を上演するのかと問われれば、この「変」が、必ずしも作家個人のクセや嗜好に由来するからではなく、実は、小さな〈わたし〉たちの内部で既に逆転現象が起きていて、それを無視することができないかもしれないという気がするからだ。〈わたし〉たちの限界近く、すれすれの世界を見ておきたいという極めて真面目な気分なのだろう。もちろんその世界とは、日本である。さらに言えば震災後の日本である。別の言い方をすれば、今日も顔を合わせる家族である。
 おはようと挨拶を言わない私たちがいる。言わなくともそこは通じ合っていると思っているから毎日、省略する。しかし、何と通じていることだろう。誰と通じ合っているのだろう。明日の天気のことを口にする私たちは、大自然と通じているのだろうか。自然こそが、神に替わる絶対だということをこの国の人たちはよく知っている。だから今日も天気予報だけは信じたい。しかし、理不尽な出来事を前に私たちがそれを受け入れ難いと思ったとき、天気を信じていても太刀打ちできない。そろそろ〈わたし〉は目の前の〈あなた〉を相手にしなければならない。その〈あなた〉に〈わたし〉の愛は通じない。恥ずかしい。なぜならば愛は神あっての問題だから、今は関係ない。さぁどうする。口を開け。もちろん天気以外の方法で愛を語れ。ちなみに家族で政治の話は禁物。誰が決めた? 日本人。現代の日本人たちよ、演技を身につけよう。
 家族の前で演技をしようと思ったら、通訳が必要になるかもしれない。私たちは日本語による日本語の翻訳劇を演じるという、「変」な経験をしようとしている。
 もう雨は降っている。傘を持たずに外に出よう。うぬぼれることもなく。ずぶ濡れになることもなく。これは難題である。

悲劇喜劇7月号より

★松原俊太郎「山山」冒頭はこちら

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三浦基(みうら・もとい)劇団「地点」代表、演出家。京都造形芸術大学客員教授。1973年生まれ。桐朋学園芸術短期大学演劇科・専攻科卒業。1996年、青年団(平田オリザ主宰)入団、演出部所属。1999年より2年間、文化庁派遣芸術家在外研修員としてパリに滞在。2005年に京都へ活動の拠点を移し、2013年にアトリエ「アンダースロー」をオープン。著書に『おもしろければOKか? 現代演劇考』(五柳書院)。2017年読売演劇大賞選考委員特別賞受賞。

[今後の予定]KAAT×地点『山山』6月6日~16日=KAAT神奈川芸術劇場中スタジオ/作=松原俊太郎/演出=三浦基/出演=安部聡子、石田大、小河原康二、窪田史恵、小林洋平、田中祐気、麻上しおり〈お問い合わせ〉0570-015-415

[今後の予定]地点『忘れる日本人』6月21日~24日=KAAT神奈川芸術劇場中スタジオ/7月13日~15日=愛知県芸術劇場小ホール/7月18日~21日=ロームシアター京都ノースホール/作=松原俊太郎/演出=三浦基/出演=安部聡子、石田大、小河原康二、窪田史恵、小林洋平、田中祐気、麻上しおり〈お問い合わせ〉075-888-5343


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